旅立つということ。
精霊の守護する森の中に、そのわりとオープンなエルフ族の里はある。
エルフ族の族長の娘、ヘリアントゥス・アンヌウスは最近結婚をしたばかりだった。お相手は、旅の行商人で珍しい黒髪の青年ミドリ・エンドワース。旅の中で、エルフ族の里へ立ち寄った際に一目惚れし、そのまま結婚へと至ったとか・・・至ったとか。
エルフ族の里の端っこには新しく家が建てられた。庭付きの平屋、そこが彼女達の住まいとなった。精霊王から祝福の証として貰った林檎の苗木は、ようやく庭の土に馴染んだようだった。これからスクスクと成長をしてくれれば、そう遠くない未来林檎の実を付けてくれることだろう。
「ヘリアン、荷物は持った?」
「えぇ、バッチリよ。」
「次に戻ってくるのは一月ほど経ってからになるからね。もう一度、確認してくるといいよ。」
「もう何度確認したと思ってるの?」
アンヌウス夫妻は絶賛、新婚旅行の為の荷造りの真っ最中だった。エルフ族の族長の娘、つまりゆくゆくは族長になる事が確定しているヘリアンの立場もあり、此度の婚姻では、ミドリがエンドワースの姓を捨てることになった。
そして、そんな2人はミドリの在籍していたグルーセル商会の人々の提案で、王都とその周辺の観光地を観て回る新婚旅行に行く事になったのだった。
長らく滞在した商会の人達がエルフ族の里を出るのと同時に里を離れ、途中までは旅路を共にする予定だ。商会はそのまま南下し、遥か南の海側まで3ヶ月ほどの日程をこなすとか。途中砂ばかりの大地や、雨の振り続ける森林や、底のない沼がある洞窟を抜けたりすると聞いて、へリアンはむしろ南下したがったが全員にすごい勢いで拒否されて諦めたのだった。
そうして、その日の陽がちょうど真上くらいまで上った頃に、一行は<エルフ族の隠れ里>を後にした。
しばらくクネクネとした道なりに精霊の守護する森を北へ歩くと、やがて木々に囲まれていた視界が開ける。目の前には河を越えるために掛けられた橋があり、その先は疎らな樹と緩やかな曲線を描く丘、色とりどりの花を咲かせる草原地帯。
ヘリアンにとって、初めて自分の足で踏み出す外界だった。
これまでに何度か、アルセアの背に乗って空から見下ろした事はあっても、自らの足でこの里を、森を出た事のなかったヘリアンにとって、それはとても大きな出来事だった。
列を組んだ商隊は次々に橋を渡り、右手へと道なりに曲がっていく。森に沿って南下すると分かれ道があり、そこから左手に東へと進むと王都がある。頭で理解はしていても、なんだか不思議な気分だった。
「どうしたの?いくよ?」
少し前で馬の背に乗ったミドリがこちらを振り返る。曖昧な笑顔で相槌をうち、自分の馬に前進するように脚で合図を出す。
グラリと身体が馬の歩に合わせて揺れる。その感覚にふと不安になり後ろを振り返ると、そこには彼女がいた。
そこで初めて、精霊や竜の庇護下を離れるということの意味を知った。もうここから先は彼女も精霊も護ってはくれないのだ。あらゆる危機を降りかかる前に退け、隠し慈しんではくれないのだと。
森と外界の境。橋のギリギリで彼女は静かにこちらを見つめていた。
何も言わずに出てきた。彼女と話をすると、きっと少しの間離れる事すら出来なくなってしまうと思ったから。
受けた合図のままに、ゆっくりとけれども着実に進んでいく馬の背でヘリアンはその庇護者に何かを言おうとする。けれども何を言えばいいのかわからず、俯き、前方に身体を向け、これ以上彼女の姿が視界に入らないようにした。
葵色の竜は、何を言うでもなく、ただ静かに、旅立つ愛し子を見つめ、姿が見えなくなってしばらくした頃、静かに微笑んだ。




