一人と一匹
ベッド脇、サイドテーブルの上の燭台の炎が揺れる。
室内にあふれる生暖かい空気と粘着質のある水音。
ベッドの上で、女が情事に耽っていた。
ベッドに横たわる少年は、女の腰の動きなどまるで関係ないようで、表情一つ変えず、燭台の明かりで手紙を読んでいる。
――もう一度、新月の彼に会えると思っていたのに、今日、いやもう昨日か、クレモネスに到着したのは満月のほうか。
新月の彼はとてもよかった。
とても純粋だ。まるで純度の高い四度の水のよう。
人類が進化の過程で身につけた倫理という無駄なデコレーションの施されていない、本来あるべきヒトの魂を持った少年。
だけど、満月のほうは論文を読む限り無駄ばかり。
ただ太陽の光を反射しているだけに過ぎない衛星のくせに目立ちたがり。
新月も満月も元は同じなのに、輝いてるってだけで満月が信仰されるなんて、ホント、ヒトってバカだ。
「はぁ、もういいよ」
少年の言葉に、女の腰が止まる。同時に、その顔が恐怖に歪んでいく。
「きょ、今日は、調子が」
「黙れ。そんなこと言って、いつも同じじゃないか。君もただのパーツだ」
「そんなことは――」
少年はサイドテーブルから小さなガラス瓶を手に取ると、蓋を開け、容赦なく女の顔にかける。
同時に、自分は脚を素早く引き、ベッドから抜け出す。
途端に、女の悲鳴が上がる。
ガラス瓶に入れていたのは硫酸。
「そういう顔が流行りなのは知ってるけどさ、流行りの顔してればいい男が寄ってくるとでも思った? そんなわけないじゃん。そういう流行りに敏感な女は尻が軽いって、ただの男の判断材料にしかすぎない。君だって、別に恋人が欲しいとか、結婚したいとかそういうわけじゃないんでしょ? ただ一時、性的に満たされたいだけ。うん、そういう野性的なところは嫌いじゃないよ。だけど、こっちにも選ぶ権利があるんだよね」
喋りながら、ガウンに腕を通す。
床に届きそうなほどに伸ばされた白髪は、いたるところにマロンブラウンの毛が混じっている。
億劫そうに、ガウンの背から引き出した長い髪は好き勝手に波打っている。
毛並だけ見ているとまるで長毛の猫のようだ。
痛みに慣れて来たのか、女が少年に飛びかかる。
「失望なんて言わないよ、君にはなんの希望も抱いてなかったからね」
女の耳めがけて回し蹴りをする。
女はあっけなく飛び、テーブルの脇に頭を叩きつける。
「ただのヒトの分際が、満足に相手を喜ばせることもできずに勝手にムキにならないでよね」
少年はソファに座り、ちょうど足元にあった女の頭を蹴り上げ、指を鳴らす。
部屋の外に控えていた体格のいい使用人が、気を失った女を軽々と持ち上げて部屋から退出する。
代わりに、別の使用人が二人入ってきて、片方は硫酸や体液で汚れた布団を取り換えていく。もう片方は、少年の足に着いた血を丁寧に拭い取っていく。
その作業は、マカロンを一つ食べている間に終わった。
「ヴェヒター、おいで」
闇に向かって呼びかけると、灰色の大きな塊が起き上がる。
伸び上がれば少年と変わらないくらいの大きさの灰色の狼だ。
本来、狼は犬のように人間には従わないが、彼に対しては違う。
少年の呼びかけに答え、彼の足もとまで行くと、何の指示も出さなくてもその足元に座る。
手を差し伸べれば、額を摺り寄せ、ソファに飛び乗り、少年の頬をペロリと舐める。
「ごめんね、香水臭いだろ。今風呂を用意してもいいけど、面倒くさいや」
そう言って、大きな体に顔を埋める。
「はーあ、最近何もかもが暇で面白くないんだ。鬱? そんなんじゃない。本を読んでも目が滑るし、女に抱かれても男に抱かれても気持ち良くないし。薬なんて本末転倒だし、なんかないかなあ」
ヴェヒターは主人の頭に鼻先を埋め、毛を舐める。
そんな彼の身体を、少年は抱きしめながら、ゆっくりと撫でる。
「久々に狩りにでも行こうか? ナイフだけ持って。君だってこんな檻の中よりも生きにくい場所じゃ息が詰まるだろ?」
狼の身体の暖かさに、徐々に瞼が降りてくる。
「もう、何もかも捨てて、山に戻る? だったらボクもついていこうかな。当主とか、面倒くさくてたまらないよ」
そう、トリスメギストスの当主である少年はヴェヒターに愚痴をこぼしながら、温もりに抱かれ、抱きしめながら本来の眠りに落ちていった。