ようこそ、イノセントコスモスへ
誰もいなくなった。
そう認識できるのは、私が一人、ここにいるから。
工房地下二階、炉心に向かってイリスはゆっくりと足を進める。
ミヒャエル・ローゼンクロイツという絶好の素材を手に入れた地下一階のプールから、激しい化学反応を現す光がここまで降ってくる。
だから、その姿をすぐに認識することができた。
イリスは歩みを止めない。
悪事はいつかばれる。これからという時にかぎって。
良いことなんて、これっぽっちも騒ぎ立てられないのに。
あの人に似た、レモンクリームのような、月のような色の長い髪。
襟だけが白い、黒いワンピースを着ている。パニエを下にはいているのか、スカート部分がたっぷり膨らんでいる。
他に装飾品のたぐいは見受けられない。
ワンピースにはおっているコートは彼が着ていたものと同じデザイン。
左手にはエメラルドの石がはまった杖。
違うところと言えば、目の色だ。
ルビンは左目がエメラルド色だったのに対して、彼は右目がエメラルドだ。
ルビンの双子の兄。
彼はコートの裾を両手で摘まんで軽く腰を下ろし、頭をたれる。
「初めまして、僕はザフィーア・ノイモント・ホーエンハイム・ノイモンタイト」
イリスは足を止める。
ザフィーアの表情は変わらない。というか、そもそも表情がない。まるで人形、いえ、人形の方がまだ可愛げがある。まるで彫刻。
発せられる声はルビンと聞き間違えてしまいそうだが、やはり感情的な起伏が感じられない。
「私のことは、自己紹介しなくてもすべて知ってるんでしょ?」
「ああ、階段に細工して、兄さんを上のプールに落としたことも知ってる」
「兄さん? あなたがルビンの兄じゃないの?」
「ルビンから聞いてないのか?」
ザフィーアは姿勢を元に戻す。「僕らは結合双生児として生まれた。結合していた部分は頭部。だから、たぶん同時に生まれた。『兄さん』って呼ぶのは、まだつながっていた頃の名残りだ」
奇形は睾丸だけだと思っていた。
ベルンシュタイン・ホーエンハイムが手術した。なるほど、彼が手ずからメスを握ったのは優秀な炉心を持っているからというのもあっただろう。
それ以前に一卵性双生児で両方が炉心持ちというイレギュラーだったからだろう。
「じゃあ、そうやって髪を伸ばしているのは手術の跡を残すため?」
ザフィーアは首を横に振る。
「ベルンの手術で跡が残るなんてほぼない」
「ずいぶんと師を慕っているようね」
「君はどうなんだ? アウグスト・ホーエンハイムを慕ってはいないのか?」
その質問に、少しだけ、心が動いた。
――女性だからといって特別視はしない。
確かに特別視なんてなかった。だからといって軽視もしなかった。
他の弟子と同等に扱ってくれた。
その厳しさが、優しさだと今ならわかる。
優しくしてもらった。出し惜しみすることなく、様々な理論を語ってくれた。
「慕っているわ。私の師だもの。今私がこうしてこの場に立っているのは彼のおかげ」
「そして、IO計画を考え、燃料に人の身体を使った。もう十年以上すれば、人体に変わる燃料が新たに見つかる可能性があっただろうに」
「十年なんて待っていられない」
十年なんてあっという間かもしれない。でも、その前にこの国が腐り果ててしまう。
「そこをどいてくれる? これから炉心を発動させる」
「見せかけの発動状態は人体を液体に変える臨界を起こさせるため。そして、人体の液状化を維持するため。そして、当主級の炉心を手に入れて本起動、か」
「わかってるなら早くそこをどいて」
「その前に一つ聞いてもいいか?」
「何?」
「なぜ君は、命をかけてまでこの装置を動かしたいんだい?」
呆れるより、笑いがこみあげてくる。
天才は、すべてお見通しというわけだ。
ザフィーアは続けて言う。「炉心、見せてもらったけど、余分なスペースが多い。そして地下三階部分の抽出装置は見せかけで、本当は抽出が目的じゃない、そんなふうに予想したんだけど、あってる?」
「もう、聞くまでもないんじゃない? あなたの想像の通り。あなたはここで話しを長引かせて、私を足止めしたいんじゃないの?」
「……そうだね、早くしないと兄さんがここに来てしまう。だけど、その前に君の願いを僕は叶えたいと思う」
願い――それは炉心を完全に発動させること。スイッチは私の死。
てっきり、止めるのかと思っていた。
「願いなんて、そんな純粋なものじゃない。これは野望よ」
「そうやって自分を悪者にして、死ぬための理由を溜め込んできた」
「ええ、出資と人体を集めるためにミヒャエルにも抱かれた」
「やっぱりわからない。なぜ君がそんなにも必死になるのか。何が君をそんなにも突き動かしているのかが」
ザフィーア、いえルビンも。
この双子たちは今後、誰かを好きになることがあるのだろうか? 好きになったとして、その恋は実るのだろうか? 子供を残せない身体で。見た目は女性なのに、裸になれば男。でも男として欠けているものが多すぎる。
でも、二人なら乗り越えられると思う。少なくとも、私のように一人じゃないのだから。
「あなただって、誰かに恋をしたら、その時は理解できると思う」
ゆっくりと炉心に向かって歩く。
「こんなことをして、君の想いが彼に伝わると思えない」
「伝わらなくていいの」
これは私の勝手な片思いだから。
ただ愛しているという想いがあればいい。
二人の間に花が咲かなくてもいい。
彼が愛するものを私も愛したい。
そして、隣に座って、一緒に見つめていたい。
ずっと、ずっと、いつまでも。
「それだけでよかったはずなのに、私が思っているだけでよかったのに。女はね、強欲なのよ。好きな人が……愛する人が輝いてる姿が見たい。だけど、それはもう望めない。私、もう黒に近いの。勝手に燃えて、煤を散らして、周りまで真っ黒にしてしまいそうだから、だから――」
ふと、花の匂いが鼻をかすめた。
夏の庭。
夏の夜の香り。
ザフィーアが優しく、私を抱きしめていた。
それは数秒のことで、身体はすぐに離れる。
「少しだけ、わかった。誰かを愛することが、辛いことだって」
「……辛いことだけじゃないよ」
零れ落ちる涙を、ぎこちない笑顔で止める。「胸は苦しいかもしれない。でもそれは幸せなことだよ。幸せな痛み。だから――」
だから、愛を止めないで。
イリスは首からネックレスを外す。
アウグストからもらったアルケミー・ツール。
アデプトになった時、「これなら、ドレスにでも合わせられる」と渡してくれた。
もう、私はドレスなんて着れないから。
「あなたにあげる」
ザフィーアの手を取り、掌にペンダントを乗せる。
彼は、固く握りしめ、胸に当てる。
そして、「さようなら」と呟く。
私は、何も言わなかった。
ただ笑顔で、彼が空け渡した炉心前に立つ。
ゆっくりと炉心の扉を開ける。
シュラウドで青白い感覚球が舞っている。いつかみた、夜光虫のように。
中に入り、扉をしっかり閉め、深呼吸を繰り返す。
炉心の中で、まるで胎児に戻ったかのように膝を抱え、うずくまる。
覚悟は決めていたはずなのに、途端に恐怖が襲ってくる。
何人もの命を奪っておいて、今更怖くなるなんて馬鹿みたい。
天井のコックをひねれば、地下一階部分のプールの液体が流れ込んでくる。
足が、顎が震える。
怖くて仕方がない。
臨界を続ける液体に浸った足元から徐々に分解されていく。
痛みはない。
ただ怖くてたまらない。
自分で決めたことなのに、死ぬのが怖い。
――怖い、怖いよ、ギルバート。
肩を両手で抱きしめても全身の震えは止まらない。
早く死にたい。
早く死んでよ。
死はすぐそこにあるのに、こんなにも遠い。
早く来てよ!
――馬鹿だなあ。
ふと、聞き覚えのある声に顔を上げる。
液体が流れ込む音で声なんて聞こえないはずなのに。
刹那、私の身体は宙を舞う。
光の中にいた。
立っているけど、浮いているような、不思議な感じ。
「本当はこんなこと、だめなんだぜ」
聞き覚えのある声に、首を動かすと、横にルビンが立っていた。いえ、ザフィーア? ちがう、二人にとてもよく似ているけど、この子は女の子。それに、両目がエメラルド色だ。
真っ白なワンピースの胸元に小さなふくらみがある。
「弟たちが世話になったみたいで。といっても、俺は妹なんだけどな。二人が、母親の中でくっついて、そこから生まれたもう一つの魂だから」
「あなたたちって、」
恐怖もすべて吹き飛んで、思わず吹き出してしまう。「本当におもしろいわね」
彼女が私の手を優しく握っていてくれていた。
「俺はスマラクト。お前のことは知ってる。ずっと弟たちの目と杖から君を見ていた」
「あのエメラルドは、あなたなの?」
「正確にはただの入れ物でしかない。俺は最初から身体を持たない魂。いつかはミクロコスモスに行けるんじゃないかって、マクロコスモスの果てまで行って、カオスにも触れたけど、弾かれた。分解されず、ずっとこの世界に漂っている。少しだけ話がしたいから、強引だけど、お前の魂を引きはがしてマクロコスモスの果てまで連れてきた。魂の分解まではまだ時間があるから」
スマラクトに手を引かれてマクロコスモスを飛んだ。いろんな国や海や空、宇宙まで見ることができた。
――ここが、全ての生命が生まれる世界。
彼――いや、彼女に手を引かれて降り立ったのは、夜の草原だ。
今夜のように、満月が煌々(こうこう)と輝いている。
「はっきり言うとさ、俺は純粋にお前に対して怒りを覚えている」
「……ルビンを燃料にしたから?」
「あれは予定調和。実のところ、お前の動きは把握していたし、怪しみながらも一人で行動したルビンの自業自得。俺が言いたいのはそういうことじゃないよ」
そう言って、まっすぐイリスを見つめる。
「お前がやろうとしていることはエクリプセゼーレ――転生の対価。遠い昔、禁忌とされた技。その意味をちゃんと理解してんのか?」
「……魂が輪廻の輪から外れる。生まれ変わることができない」
「そうだ。肉体が朽ちる時、魂はミクロコスモスから抜け落ちて、マクロコスモスをさまよい、その果てにミクロコスモスとの境界のカオスに到達する。そこで新しく生まれ変わる。その輪から外れる。ヒトひとり分の魂が消失したところでこの世界の秩序は崩壊しない。だけど、勝手に希望を捨てるやつは嫌いだ」
「希望?」
「また生まれるっていう希望」
スマラクトは草原を歩く。「生まれると希望は道義だ。命に限った話じゃない。どんな道具でも、生まれる時、希望が込められる。その希望を捨てる価値があるのか?」
彼は振り返り、問う。
もう炉心に入って、身体も分解され始めている私に対して。
消えてなくなるだけの私を叱りつける。
少し、嬉しい。
視界の端、懐かしい光を見た。
二人で見た、夜光虫。
綺麗な水と土がないと生きられない。
言葉の代わりに光って愛を伝える。
ひと夏の幻想。
瞬いて、夜光虫は死ぬ。
でも、育つ場所があればまた輝ける。命をつないで、永遠に。
「価値はある。絶対に」
もう一度、あの風景が見たい。
いろんな人に見てもらいたい。
その時、私はあなたの隣にいられないことが辛いけれど。
この体も徐々に薄れていく。
夜光虫の飛ぶ方へ向かって進む。
もう足はない。
でもちゃんと進むことができた。
「『もう一度生まれる』という希望を、私はこの国のために使うの。あなたたちのような悲劇で親が悲しまなくていいように。親を早くに病気で失わなくていいように。国から求められたわけじゃない。私が勝手にやったこと。二百人以上殺したんだもの。立派な殺戮者。だから、こんな魂は生まれ変わらなくていいんだよ」
夜光虫が光を点滅させている。
一緒に空中でダンスしてくれる相手を探しているんだ。
「私は、私の愛した人のため、私が愛した景色のためにこの命を使う」
振り返って、スマラクトに伝える。
「誰かのために死ねるのは人間だけ。私はとても幸せだよ」
もう、首しか残っていない。
彼女は優しい笑みを浮かべて手を振ってくれた。
私にはもう手がないから、笑顔で答える。
私は生まれ変わらなくていいの。私のすべてを使って、この国を生まれ変わらせる。
まるでおとぎ話。何も知らない子供の無垢な夢。
女は欲張りだから、好きな人と一緒にいられるだけで満足できなくなる時がくる。
そしたらきっとあの人を傷つけるようなことをしたり、言ってしまったりしちゃうから、これでいいの。
「王族だから」といって、何一つ望まなかった彼に無理やり押し付ける私のエゴ。
彼は自然を冒した賢者を憎んでいた。必死に隠そうとしてたけど、わかるよ。だって私、賢者だから。
だから、賢者はこんな奇蹟も起こせるんだよって。――せめて、たくさんの人命を犠牲にしなくても奇蹟を起こせるような魔法使いになりたかったな。
どこへでも行けるのに、どこにも行けないスマラクト。
あなたにも、希望がありますように。




