親子
*
嫁などいらなかった。
家の仕事は家人がしてくれる。
自分は研究に夢中で、娶ったところで構っている暇はない。
言ったことは現実となった。
一度、結婚したのに二人で過ごす時間がこれっぽっちもないと怒られたことがあった。だが、それを改善しようとはしなかった。
二人で、何をすればいいかわからなかった。
妻が喜ぶようなものも、話しもわからなかった。
これじゃ、妻というより他人だ。
同じ家に住む人間が一人増えただけ。
書類の「妻」という空白が埋まっただけ。
だから、たった一晩で子供が授かったなんて、冗談かと思った。
その頃、妻は私に愛想を尽かし、よく夜会に顔を出したりしていたそうだったから、よそで子供を作って来たのかとも思った。
実際、そのように言う使用人も、弟子もいた。
だが、「子供が生まれる」というだけで、私の気持ちは少し変わった。たぶんだが。
誰の子であろうと構わないと思った。
妊娠初期、つわりがひどい妻のために、クリストスのところに話しを聞きに行った。
つわりが治まると、今度は逆にたくさん食べるようになって、妻は少し太った。
お腹も日々、大きくなって、直に張った腹を触らせてもらった。
手から、胎児までの距離はどれくらいあるのだろう。今はどれくらいの大きさなのだろうと想像をめぐらせた。
臨月、大きなお腹がはち切れるのではないかとハラハラした。
生まれる子供は基本的に三キロ程度だと聞き、お腹は重くないのかと尋ねたことがある。
ただ子供ができただけ、それだけで夫婦と呼べる関係になっていた。
だが、それは出産と同時に崩れ去った。
まるで私と妻をくっつけていた磁石が、出産と同時に、妻の腹から出て、どこかに去ってしまったようだった。
生まれたのは男の子だった。
赤ちゃん――本当に全身が赤かった。
最初のうちはどちら似だろうと妻と話した。それで、妻は不貞など働いていない。生まれてきたのが本当に私たちの子供だと理解した。
だが、三か月経ったころだろうか?
雇っていた乳母から、妻が子供を嫌っているような気がすると聞かされた。
それと、赤ん坊の髪の色がおかしかった。
まるで犬のように、まだらなのだ。
生まれてきたときは産毛だったので色がよくわからなかったし、蒙古斑も多くて気づかなかった。
言われて見てみると、白い色が多く、ところどころ茶色い毛が混ざっている。
私の髪は面白みもなにもない漆黒。対する妻が赤みがかった茶色なのだが、茶色い部分は妻の色に近い。だが、白はどこから来たのだろう?
五か月、半年、八か月……。
白い髪が目立つようになり、妻のヒステリーも酷くなっていった。
一時、私が帝都に出かけている間、布切りばさみを持ち出して、赤子の髪を強引に切ろうとしたのだという。
髪を切るくらいならと、私は妻を叱らなかった。
クリストスにも文でこのことを説明した。
返答は、奇形の一種かもしれない、と。
髪の色が違うことくらい別に構わない。私は安心した。だが、妻はそうではなかった。
茶色い毛の方が多ければ、そういう奇形だと言うこともできた。だが、白い毛が多く、不貞を働いたと勘違いされることを恐れたらしい。
それに、軽度とはいえ、奇形児を生んだことがショックだったらしい。
いまはまだわからないが、頭の髪の色がそうなのだから、知能障害を持っている可能性が高い。
妻はそんな不満をかき消すため、私に隠れて病院に通い、リラックスする薬をもらって飲んでいたらしいが、それでは足りないと、酒をあおるようになった。
私は特に気にしなかったが、乳母は酒臭い妻を嫌った。
数日後には一歳の誕生日という時、妻が家から消えた。
私と、もうすぐ一歳になるフランツを残して。
どこに行ったのかはすぐにわかった。よりにもよって、御三家のトリスメギストスのところだった。
よりによって、なぜトリスメギストスなんだ。
賢者の集まりにもまともに顔を出したことがなく、私とほとんど顔を合わせなかった。
妻が出ていったことはどうでもよかった。
ただ、母乳を欲しがって泣くフランツをどうにかしてやることだけ。フランツのことで頭がいっぱいだった。
乳母に言わせれば、あの頃の私は少々パニック状態だったという。
近くに同じく子供を産んで母乳が出るという夫人がいたので、なんとかフランツに分けてくれないかと頼んだ。
夫人は二つ返事で了承してくれた。
乳母にはずいぶんと助けられた。
当時、共同研究などもすべて断り、フランツにつきっきりだったが、何かあるたびにフランツは乳母を探すのだ。
正直、悲しかったし、悔しかった。
男ではだめなのだ。女性の柔らかい肌、膨らんだ胸が赤子にとって一番なのだ。
それでも、徐々に表情がわかるようになり、一緒に遊んでいて、笑ってくれると嬉しかった。一人で勝手気ままに遊んでいて転んで泣き出したときなど、酷い怪我をしたのではないかと焦ったりもしたが、元気に泣くことさえ愛おしかった。
固有名詞を発するようになってからは、弟子用に使っている小さな黒板で文字を教えた。図鑑も一緒に見た。
フランツは私と違って、植物よりも動物のほうが気になるようだった。
何か、室内で飼える動物を飼うのもいいかもしれない。
フランツが生まれて三年、賢者として大いなる御業から引退したのではないかと、他の賢者たちが噂していたらしいが、どうでもよかった。あとのことはフランツに任せる。私の元でなくとも、好きなところで勉強すればいい、研究すればいい、そう思っていた。
だが、奪われたことだけは、今でも許せない。
あれは略奪に等しい。
フランツと一緒にエアストパオムの本屋に行った時だ。
フランツは三歳の誕生日を迎え、売り物の本に悪さをしなくなっていたので、別々に店内をみてまわっていた。
突然、店内に短い悲鳴が響いた。
フランツの悲鳴だとすぐに気づかなかった。
口を塞がれていたが、必死に抵抗したのだろう、「パパ!」という助けを求める声を聞き、その姿を探した。
ドアベルが鳴る。
すぐさま店の出入り口に向かう。
フランツが馬車に押し込まれているところだった。
馬車は半分扉が開いた状態で走り出す。
逃げ遅れた男が右往左往しているところに蹴りをくらわせ、思いっきり拳を握り占めて顔面を殴った。
後にも先にも、人を殴ったのはその時だけだ。
左手の中指にはめたアルケミー・ツールを見せ、「簡単にお前を殺せるぞ」と脅し、誰に雇われたのかを吐かせた。
フランツを連れ去ったのはトリスメギストス、当時の当主だった。
妻だけでは飽き足らないのか?
すぐに馬車を呼んで、ゼクストパオムのトリスメギストスの館に向かったが、使用人しかいなかった。そのまま、トリスメギストスに関係する建物を探して回ったが、フランツは見つけられなかった。
賢者なら、炉心を持っているフランツに対して危害を加えることはない、屋敷に戻り、そう願い続けて二日後、トリスメギストスから荷物と手紙が届いた。
荷物は人骨だった。
最悪の想像をしてしまったが、よく見れば大人の骨だ。
そのまま、形のしっかりした骨を手に取り、確認していく。
――女性の骨。
そう気づくのと同時に、手紙の封を切る。
骨は妻の物だった。
病気にかかって死んだ。墓を作るのは面倒で骨だけ残してやってた。
かつての妻の骨と息子の物々交換だ。お前の息子は私が立派に育てる。心配するな。
手紙をめちゃくちゃに切り裂いて、その場にうずくまって吠えた。
涙など一滴も出なかった。
返してほしい。私の息子を返せ!
トリスメギストスの当主にしたいのならそれでも構わない。だが私の手で育てたいと、何度も屋敷に行ったがいつも門前払い。
悔しかった。
クリストスには諦めろと言われた。当時のトリスメギストス当主は皇帝にも逆らう、そういう男だと。
いくつもの涙を飲んだ。
フランツがトリスメギストスの当主として育てられるのならば、研究を続けていれば再び会える。
そうして、私は再び書斎に戻った。
数式と向かい合った。弟子の育成に励んだ。
そしてようやく、アデプトたちの命名会議で、フランツの名前を見つけた。
与えられたのはシュピーゲルヒンメル――空の鏡。
天体にいたれなかった。
研究内容に関して不備はない。だが、当時のトリスメギストスよろしく、誰かとの共同研究がない。
二人でもいい、他の誰かと一つでも研究を行っていれば。
だが、純粋に良い名だと思った。
再会は偶然だった。
数年前、ベルンシュタイン・ホーエンハイムになかば強引に夜会に連れていかれた。
そこで、茶色い髪の混じる純白の髪を見た。
それは後ろ姿だった。
まるで、毛の長い猫の背中を見ているようだった。
たくさんの大人の中、背の低い彼はすぐに人影に紛れて消えてしまいそうなのに、その長い純白の髪が人目を引いた。
色が目立つだけではない。内側から出るオーラが人々の目を引きつけている。
ふと、その顔が振り向く。
美しかった。
妻の面影があった。
大きな瞳は妻に似ていて、色は私と一緒だ。
自分と妻に似ている部分を探していると、彼は柔らかく微笑んで、そのままどこかに行っていまった。
それから、正式なトリスメギストス当主となったフランツの噂をいろいろ耳にしたが、やはり、色事を好み、男女問わず抱きもすれば、抱かれもすると。
覚えてないだろうが、母親に捨てられ、父親から助け出してもらえなかったのだ、そんなふうになってしても仕方がないと思った。
そして、こうして再会し、愛が欲しい、愛を知りたいという言葉に、心がズタズタに引き裂かれた。
なにが天体の名を与えたかっただ。
フランツが求めているのは人からの愛情だ。
ずっと愛していた。だけども伝わらなかった。
こんな愚かな父親を許してほしいとは思わない。
だが、求めてくれるなら、精一杯、愛を与えよう。




