私だけの王子様のために
アカツメ草、カルミア、ゴデチア、ジギタリス、リアトリス、アリウム、サルビア、ルピナス、それにいろんな色のバラ。
離宮よりも全然小さな庭だが、植物の種類では負けていない。
もう少し庭が大きければ立派なバラ園を彼なら作れるはずなのに、とイリスは小さくため息をついた。
「大丈夫? 疲れているように見えるけど」
対面に腰かけるギルバートが心配そうに聞いてくる。
庭に設けられたテーブルと椅子。
日光を遮るための傘があるだけだ。
だが、より近くに植物たちを感じることができる。
「大丈夫です。ただ、これからのことを考えてちょっと」
笑顔で強がってみせるものの、実のところ課題が山積していた。
炉心用のパーツなど、小さい模型での実験が繰り返されている。
いざ、実寸大で造って上手くいきませんでした、ではいけないのだ。国民の税金で造るものなのだから、出費は最小限で済ませたい。金銭面ではローゼンクロイツ卿がかなりの部分で出資してくれているのだが。
「なんだか、大掛かりな装置を作っているみたいだけど?」
「だ、誰からそんなことを?」
「たまたま小耳に挟んだだけだよ、エリオットの様子を見に行った時かな」
――エリオット。
ギルバートとは腹違いの弟、正室の子、そして現皇太子。
ただ、エリオットは目覚めない。生まれてすぐ、産声を上げて以降、まるで魂が抜けてしまった人間のようになってしまった。
それでも、飲み食いはするので成長はする。
イリスは宮廷医師ではないので、噂でしか聞かないが、そんな子を皇帝は皇太子として認めている。
「……様子は、どうでしたか?」
「相変わらずだよ。でも、車椅子に乗せて一緒に王宮のバラ園を散歩したんだ。バラの香りに反応してくれるかなって思って」
反応しませんよ。
ギルバートからエリオット皇太子の話を聞くたびに、身体の内側にドロドロとした汚泥が湧き上がってくる。
「植物とか動物が好きな子だったらいいのに。でも、帝王学とかで植物の勉強とかはしてる暇はなさそうかな」
そう言って、まるで弟が普通に生きているかのように振る舞う。
「ギルバート皇子は、帝王学の勉強は?」
「私はしてないよ。皇帝にはならないから。ただ、軍略と政治については学んでる」
なんで、皇帝にはならないって、簡単に言うんですか?
「……なぜ、皇帝は賢者じゃなければならないんでしょう?」
「この国は賢始祖が作った国だから、しょうがないんじゃないかな」
呟いて、ギルバートは風に揺れる草花に目を移す――いや、イリスから目をそらす。
王位継承権やそれに近い話になるといつもそう。
関わりたくない話だってわかってる、だけど――
「矛盾していると思います。賢者は政治に参加してはいけないのに、皇帝は賢者じゃなきゃいけないって」
「矛盾しているかもしれないけど、国民はやはり強い王を求めているんじゃないかな? まだイースクリートとは冷戦中だし」
「また戦争が始まると思いますか?」
イリスの問いに対し、ギルバートは首を振る。「冷戦中とはいえ、食料の輸入で大臣たちの仲は良好だし、商家として個人的な付き合いを持っているところもあるという。このまま停戦条約から友好条約に持っていけそうな動きはある。だけど、やっぱり汚染水の問題かな」
錬金術から垂れ流される汚水がクレモネスとイースクリートの間に横たわる大河に流出していることがもう何年も前から問題視されているが、いまだに解決策を打ちだせてはいない。
工房から排出される汚水、汚染物質の量から課税率を引き上げたりと国内の取り締まりを強化しているものの、すでに汚染された水や土壌をどうにかしようという動きはない。
先に、川下に位置するリーフレアが除染に成功しそうだと、賢者間での噂で耳にしたことがある。
それにはどれくらいのお金が必要で、国はどれくらいのお金を出してくれるのだろうか?
「そんなふうに、国土や他の国にまで目を向けているのは、殿下だけですよ」
「いいや、そんなことはないよ。本当はもっと真面目に考えなければならないことがある」
「エリオット皇太子のことですか?」
「そう、弟のことで心労が祟ったのか、父上は――」
「いつ目覚めるかわからない皇太子にすがって、それで何かが変わるんですか!」
もうこれ以上、皇太子の話なんて聞きたくない。
私は純粋にあなたの話をしたい。あなたの話を聞きたい。
「君の言う通りだけど、エリオットは私の弟だ。無下にはできないよ」
「汚染された国土よりも、一人の皇太子の命が大事ですか?」
ギルバートはこたえない。
だが、目はまっすぐイリスを見つめている。
「王族も国土と一緒です! 賢者を生むことに執着して、見込みのある女性を凌辱して、そうして生まれた子供が皇帝だなんて、私は認めたくない!」
「イリス、」
テーブルに叩きつけた手を、ギルバートは優しく包み込む。
イリスの手は、錬成のために火傷を負ったり、傷跡が多い。
そんな手を、傷一つない、白い手が包み込む。
「君の言うことはもっともだ。真摯に受け止めるべき言葉だ。だけど、私は君の言葉に耳を傾けることはできても、はいそうですかと、すぐに聞き入れることはできない」
ギルバートの言葉に、イリスは目を見開く。
「どうして、ですか?」
「私は王族だよ。君が忌避する存在だ」
イリスは狼狽する。「でも、あなたは――」
「私だけが別格だと、なぜ言い切れるんだい? 私だって、父に言われて女性に乱暴を働くかもしれない。私が好きになっても、相手がその気持ちに応えてくれない可能性のほうが高い」
「陛下に好き勝手に、人生をいじられて、何とも思わないのですか!」
ギルバートは、その嘆きに対して、泣きそうな、それでも必死に涙をこらえるような笑みを浮かべる。
「それが、君と私との違いだよ。私は皇子だ。皇帝の子として、民のような一般的な幸福は望めない。私が今こうして、何もせずに生きていけるのは国民のおかげ。国民に生かされているからこそ、我々王族の幸福は国民に分け与えなければならない。決して、血税に酔い、私利私欲に溺れてはいけない。君とは生きている世界が違うんだ。君にこうして触れることも、話すこともできる。だけど、違うんだ。私には皇子としての責務がある。君にも、賢者としての責務がある、そうだろう?」
頷かなければならない。イリスは思った。
だけど動けない。
ただ、涙があふれて止まらない。
「だったら、あなたのお母様は、何のためにあなたを生んだんですか?」
「父と、エリオットを支えるためだよ」
「それならなぜ、あなたのお母様は自殺したんですか?」
「それは……、そうだね、私が賢者じゃなかったからだろうね。賢者だったら、こんな髪の色でも、皇帝になれたかもしれない」
「私は、皇帝ではなく、あなたに仕えます。皇帝の子だからではありません。純粋に、あなたという存在に従います」
イリスは立ち上がり、涙を乱暴に腕でぬぐう。
そうして現れた顔には涙の跡などまったくなく、凛々しい、賢者としての表情があった。
「今、インテリジェンス・オブジェクト計画というものを進めています。外付け炉心としてのオブジェクトを作成するための装置作りです。そのオブジェクトさえあれば、誰でも錬成術が可能となります」
「父はそのことを?」
「知っています。今後、王族に賢者が生まれる確率を算出し、そのデータと共に提案書を提示し、工房製作の許可をいただき、現在、炉心の設計中です」
微笑むこともなく、イリスは告げる。
「その炉心で、私があなたを皇帝にします」
*
アウグストは腹を立てていた。
皇帝を傀儡にしようとしているミヒャエルに対してではなく、己自身に対してだ。
弟子のイリスは、王宮に出入りする賢者の娘だった。
幼い頃、王宮でギルバート皇子に会ったのだという。
その後、アウグストの元へ弟子入りに来た。
始めは父親に教えてもらえと断ったのだが、彼女の父親は亜鉛中毒により、片目を失明しており、指導できる状態でなかった。
それにしても、なぜ女性嫌いで通っている私の元に? とアウグストは、弟子にしてからイリスに聞いたことがあった。
なんのことはない、実家から近かっただけだという。
イリスの母親は早くに他界しており、父親に対して、母親に代わって小言をいっていたのだろう。アウグストに対して強気なのはたぶんそのせいだ。
イリスの父親は、彼女がアデプトになる一年前に死んでしまった。
長年の研究のせいだろう。
近代、錬金研究における有害物質が多く判明し、注意していれば体内に取り込まないようにできるし、緑クラスより上の賢者であれば自身で有害物質の除去が可能だ。
そして、除去を専門に行う錬金術師もいる。
イリスの父親も除去処置を行っていたが、失明以前に内臓を先にやられていたのだろう。いっこうに良くはならず、最後は肺炎で亡くなった。
だが、さほど苦しまずに逝ったという。
ただ、やはり賢者を親に持つ者として、父親以上の位に到達したことは伝えたかったという。
修行に関しては、女だからといって特別扱いはしなかった。逆に、周りの男たちが彼女に対して遠慮していたように思う。
イリス自身もまた、女性として扱われることを嫌った。
着飾って街でも歩けば、容易に男から声をかけられただろうに、新しく買ってくる服は男物だったり、装飾のまったくないもの。
ただ、自分の部屋には花を飾ったり、手芸をしたりと、女性らしい一面もあった。
そんな表面的な部分しか見ていなかったのだ。
弟子たちについてはそうだ。基本的に深いところまで関わらない、知ろうとは思わない。
だが、イリスに関しては、今まさに後悔している。
なんとなく、ギルバート皇子に対しては、同門の弟子たちと接し方が違うとは思っていた。でもそれは、皇子に対する接し方で、「この子も他の若い娘のように皇子の前ではお澄ましするのだな」程度にとらえていた。
きっと、IO計画はギルバート皇子のためだったのだ。
ミヒャエルはすべての賢者のためなどとのたわっているが、イリスは違う。
純粋に、ギルバートのことを想って炉心を設計したのだ。
だとすれば、余計にミヒャエルにいいようにはさせられない。
「ミヒャエル、お前のいうことは正しい、だが間違いでもある。お前の言葉から私はそう判断した。この国には賢者の王が必要だ。私たち賢者のためにも、そうではない一般国民のためにもだ」
「本当に頑固だなあ。それとも、学習力のない馬鹿なのかな? 君は」
ミヒャエルのその言葉に、天井のフランツが反応する。
アウグストは、手を上げてそれを押し留める。
「ミヒャエル、お前は賢始祖の血をつなぐために今まで王族がどれだけ苦労してきたか理解していない」
「だからその苦労をなくしてやろうと言っているんだ。大丈夫、血はつながるよ。ただ賢者が生まれなくなるだけ」
「今まで皇帝が我々、外の賢者に対し、研究に対して口を出したことはあるか? 大いなる御業に参加したという記録はあるか?」
アウグストの言葉に、ミヒャエルは眉をひそめる。「あるわけないだろ、ここ最近、百年程度の」そこまで言って、はたと口を閉ざす。
「竜砲を生み出した、狂帝イブン十四世」
ミヒャエルもその存在を思い出したのだろう。
アウグストは続ける。「エリクシールを高エネルギーに変換し、それを大砲のようにして打ち出す。開発の際、他の賢者たちは協力しただけ。その理論構築も設計も、イブン十四世がたった一人で行った。そして、人類史において最悪の兵器は生まれた。賢者は、皇帝がその力を使おうとするときに正しいかどうかを判断し、見定めるセーフティーでなければならない。同じく賢者である皇帝に力を使わせない戒めだ。皇帝を傀儡とせずとも、我ら賢者は皇帝の力を封じる鍵だ。その役目はどんな権力にも勝る。ミヒャエル、お前の望む権力は見せかけだ。そんな愚昧なものを、賢者であるお前は求めるのか!」
アウグストの言葉に、ミヒャエルは顔を歪める。「だが、その抗力だって、皇帝が賢者であればこそ――」
「お前が皇帝の名を語り、その力を使おうというのならば、私は賢始祖に連なる者として、断罪する。一切の力の使用を封じる」
「貴様にそんな力があるものか!」
ミヒャエルは再びサーベルを抜いて、アウグストに斬りかかる。
とっさに、天井のフランツが左手からメルクリウスの糸を飛ばすが間に合わない。
「マキシマム!」
アウグストはミヒャエルに向かって左手の指輪を突きだす。
アルケミー・ツールを媒体とした炉心の最大出力。無限増殖。
ミヒャエルとアウグストの間にダイヤモンドの壁ができる。
ミヒャエルの斬撃は軽々と跳ね返される。
だが、その刃は砕けない。
アルケミー・ツールは生半可なことでは砕けない。
「わからない、理解できない! 不愉快だ! この私に理解できないということがなによりも不愉快でたまらない!」
ミヒャエルはその牙をむき、再びダイヤモンドの壁に斬りかかる。
「ただただ屋敷に籠っているだけの貴様が私より勝るだと? 私より物事を理解しているだと? ふざけるな! その『理解』を私によこせ!」
再度、振り上げる腕が、両の手首がサーベルを握りしめたまま、あっけなく鉄の床に落ちる。
ミヒャエルに痛みはなかった。
だが、腕を失い、あふれ出る血潮を見て、痛みに目覚める。
「フランツ」
振り返れば、プールの上に、天井から降りてきたフランツが立っていた。
ミヒャエルを襲ったのはメルクリウスによる攻撃。
音速を超える糸の摩擦力で切断され、神経も切られたことに気づかなかったのだろう。
両腕の痛みは増していく。
だが、今のミヒャエルにとって、痛みなど些末な問題。
痛覚を遮断すればいい。血管を塞いでしまえば出血は止まる。
一歩、一歩と、ゆっくりとフランツに近づく。
「フランツ、お前ならわかるだろ? 天体の名前をもらえなかった、君なら私の悔しい気持ちがわかるだろ?」
不気味な笑みに、フランツは眉をひそめて後ずさる。
「わからない」
年相応の、恐れをはらむ声。「ボクは、わからなくていい」
「だったら」
それはフランツにとって永遠の謎。
甘美な知恵の果実。
「愛を教えてあげるよ」
その言葉に、フランツの目は見開かれる。
「愛?」
誰も教えてくれなかった愛。
だから自分で探した愛。
まだ見つからない愛。
「教えて、くれるの?」
「ああ」
ミヒャエルは微笑む。
そして――
「オープン」
固体化が解けて、プールの中身が液体に戻っていく。
ミヒャエルはフランツをつかんで、そのまま液体に沈もうとした。
だが、目の前にあった体は簡単に連れ去られる。
フランツを、まるで奪い取るように抱きしめるアウグストと目が合った。
――そんなに大事なら、ずっと抱きしめていればよかったのに。
アウグストはフランツを抱きしめ、プールから脱出する。
そして、今度はミヒャエルを助けようと手を伸ばすが、彼は黙って首を振る。
臨界光の中で、彼の金色の髪が舞う。
「すべての賢者に、呪いあれ」
そんな非科学的な言葉を残し、ミヒャエルは完全に液状化したプールの中に没した。
臨界が始まっている以上、身体は分解され、すぐに液化して他の液体と遜色なく交わるだろう。
「愛……」
フランツの口から零れ落ちる。
彼は今まさに分解されているであろう、通常よりも強い光を放つプールに向かって手を伸ばす。
「愛が、愛が消えてしまう」
トリスメギストス当主としての威厳なんてない。ただの少年がそこにいた。
「愛が欲しい、教えてよ、ねえ」
なおも手を伸ばし、プールに近づこうとするフランツを、アウグストが後ろから抱きしめて止める。
「そこに愛なんてない」
アウグストの中で硬く凝固していた後悔もまた、溶けていく。液化していく。
「愛はここに、ある」
アウグストは息子に言い聞かせる。
愛はここにあるのだと。
ずっと思い続けていたのだと。




