そして来たる琥珀
王宮からクリストスの屋敷へ。
兄さんにうまくいったのかどうかと聞くと、それは後のお楽しみとかはぐらかされたが、そんなことを言うくらいなのだから、たぶん、皇太子の魂を見つけ出し、自分の身体に戻るようにという説得は上手くいったのだろう。
あとは、目覚めてからになるが、そこらへんはクリストスやミヒャエル・ローゼンクロイツなど、王宮近くに住む錬金術師たちがなんとかしてくれるだろう。
用意された客室。
コートを脱ぎ、やっぱり美味しい夜食をいただき、やっと一段落つけた。
朝にアウグストの屋敷を出て、ずいぶんと長い一日になったと思う。
お腹は満たされ、体は程よい疲労で、ベッドに倒れ込むと眠気が襲ってくる。
このまま眠ってしまいたい。
歯磨きとか、着替えとか、すごく面倒くさい。
しばらく陽の匂いのする布団に顔を埋めていると、ふと、部屋の外に人の気配を感じた。
クリストスの屋敷も、廊下に絨毯が敷かれているため、足音は聞こえない。
懐中時計を取り出してみると、夜の九時。
それほど遅い時間ではないが、誰だろう?
ドアの下の隙間から廊下に灯された蝋燭の光が入ってくる。
こちらからドアを開けるべきか、ベッドに横になったまま考えていると、シュッという音と共に、扉の前の人物が走り去っていく。
音の正体は――
ベッドから体を引きはがし、扉に向かう。
扉の下に、簡素な紙が一枚。
書かれた文字を見て、思わずため息がもれる。
どうやらまだ眠れないらしい。
ルビンは用意された馬車に乗り込み、再びIO炉心のあるローゼンクロイツの工房にやって来た。
馬車から降り、ランタンに明かりを灯す。
ちょうど満月の夜で、炉心までの道は明るく照らされている。
部屋の扉にさし込まれた手紙の送り主はイリスだった。
――炉心に関してもう少し詳しい意見を聞きたい。
なぜこんな夜に? とは思った。
別に、理論立てとか、どこにミスがあるのかなどは炉心を前にしなくても話はできる。それに、なぜ今でなければならないのだろう?
ここに来るための馬車は用意されていて、さすがに眠いからといって断ることはできなかった。
ただ、一人でここに訪れることに関しての不安は多少なりともあった。
手紙の文字は午前にアウグストの馬車に乗っている時に見たものだった。だから、手紙を書いたのは彼女で間違いない。
ならば、彼女も馬車に乗っているのか?
いや、用意された馬車には誰も乗っていなかった。
ルビンだけを乗せて、馬車は走り出す。心なしか、日中よりも速かった気がした。
手紙を書いたのはイリス。
部屋に届けたのは他の誰か? それとも、手紙だけ残してさっさと彼女は移動してしまったか。
だけど、ルビンは途中でクリストスと共に王宮へ。イリスたちとは別行動を取っていた。その時に、用件が何時ころに済むなんて伝えていなかったから、イリスは誰かに手紙を託した。もしかしたら、そのままこの工房近くに残っていた可能性もある。
いつ来るともわからない相手をずっと待たせている可能性を考えると、手紙を無視することはできなかった。
午前中にここを訪れた時と同じ道をたどり、無機質な箱の前へ。
もちろん、扉は開いていた。
夜なのだから、昼間でも明るく感じた臨界光がもっと明るく感じるかと思えば、そんなことはなかった。
地下へとつながる階段からはなんの光も見えない。
一度臨界を停止したのだろう。
全面的に構造を見直すため?
それにしてもだ。
階段を慎重に下りながら考える。
始めにこの炉心を見た時、質問するのを忘れていたのだが、地下一階のプールに入れられ、臨界光を発していたものの正体はなんだったのだろう?
インテリジェンス・オブジェクト。
言いかえれば知能を備え、錬成まで行えるレベルのアルケミー・ツール。その材料となれば、ただの鉄や水銀なはずはない。
一階のプールの基本材質をメリクリウスに錬成し、最終的にインテリジェンス・オブジェクトに再構成する。
メリクリウス自体が知能材料に近い。水銀に似ているが、錬金術師の意思の反映力はメルクリウスのほうが格段に上だ。水銀以上の流動性を持たせることも、カーボン並みの強度を与えることも可能だ。
メルクリウスはアデプトで金属錬成に長けた者ならばそこら辺の小石や砂からも生成可能だ。だが、力の弱い錬金術師の場合、このような炉心の力にたよるか、アルケミー・ツールの補助がなければ生み出すことはできない。
さらに言えば複雑な構造物を原料としなければならず、その最たるものと言えば――
刹那。
身体が浮遊するような感覚と同時に一気に悪寒が全身を支配する。
手をかけていた手すりが簡単に外れたのだ。
手すりに対して体重をかけていたので、当然、体は手すりの消えたほうへと傾く。
杖を握りしめ、纏っていたコートを命綱に変換しようとした。
しかし、それよりも落下速度の方が速かった。
身体は簡単にプールに水没した。
――あちゃー。
知らない言葉が杖から聞こえてきた。正しくは脳内に直接響く声。
なにそれ? なんていう意味?
――目も当てられないって時に使う悲鳴みたいなもんだな。
そっちに行った方がいい?
闇の中、ずっと身をひそめていて目は暗さに慣れている。
――なんとかなるだろ。それよりもちゃんと見張ってろよ。
黙って頷く。
ようやく春らしくなってきたといっても、夜は寒い。
そんな中、プールに落ちるとかご愁傷様。
プールに落ちた――いや、その液体に触れた瞬間に、その正体がなんであるかルビンはすぐに理解した。
理解させようと、液体の方から主張が脳内へ、液体に触れている皮膚の隙間から全身に流れ込む。
苦しみ。
痛み。
悲しみ。
ありとあらゆる負の感情が全身をなぶる。
ルビンは必死に手足を動かして負の感情から逃れようとするが、苦悶がつかんで離さない。
持ち手の意志とは関係なく、ルビンの杖の石が発光する。
それは臨界光よりも強く凛々しく、すべての邪念を一時的にルビンの身体から引き返す。
同時に、液体の外、プールの縁で共鳴し合うように赤い光が瞬いた。
銀のなめらかなロープがルビンの身体に巻き付き、プールから一気に引き上げる。
突然与えられた酸素に咳が出る。
嘆きの中にいたのは何分だった? いや、何時間だった?
受け止めきれるはずもない数多の声に対し、ひきつけを起こし、身体を黙らせようとするが、意に反して手足が鉄の床を叩く。
だが、それは一発頬を叩かれただけで治まる。
しかし、次は胃の内容物がせり上がってきて、ルビンはその場に四つん這いになって、胃酸で口が苦くなるまでその場に吐いた。
「ったく、まだまだ若いな」
頭上で声がする。
耳になじんだ声。
声の主はルビンの背に軽く手を当てる。
光は一瞬で、ルビンの身体にこびりついていた液体は男の手の中に集まり、凝固して、拳より大きい程度の球体となる。
その球体をまじまじと見つめながら、男は眉をひそめる。「ホント、正気の沙汰とは思えんな」
つぶやいた後、球体をプールに投じる。
球体はプールに水没し、再び液体へと転じる。
プールが、淡く光り出す。
再び臨界が始まったのだ。
「せ、んせい?」
杖を使って立ち上がろうとするが、いまだ眩暈は収まらず、その場に崩れ落ちる。
臨界の光で男の光が露わになる。
血よりも濃い真紅の髪を伸びる任せた長髪。
黒縁の眼鏡の下には、その名前の通りの琥珀色の瞳。
――ベルンシュタイン・モルゲンロート・ホーエンハイム・アポステルモルゲン。
ホーエンハイム本家の当主にして、ルビン達の師。
「この程度で腰が抜けたか?」
「あの……本気で死ぬと思いました」
「そう言えるってことはだいぶ落ち着いてきたってことだ」
徐々に輝度を増していく臨界光に目を向けつつ、ベルンシュタインは腕組みをし、軽くため息をつく。
「なるほど、胸糞悪い話だが、お前を溶かして原材料にするつもりだったらしいな」
「冗談じゃないですよ」
呟く声は全く笑っていない。「誰がそんなことを」
「簡単に俺に答えを求めるな。大体、検討はついてるんじゃないか?」
「まあ、……そうですね」
クレモネスに来てからであったうちの誰かだということはわかる。
だけど、こんな裏切りは初めてで、信じたくなかった。
「こんな中途半端な炉心に用はない。さっさと、最後のピースをはめに行くか」
ベルンシュタインはルビンに白い手袋のはまった手を差し出す。
見れば、いつもは放り投げている黒コートを身につけている。
胸には、ホーエンハイム本家の、鍵と片翼の紋章。
どうやら、それなりの立場の人間に会いに行くということは察することができた。




