眠れるマクロコスモスの皇太子
ミクロコスモスというのは、すなわち人体。
ヒトの内側に存在する宇宙。
その外側はマクロコスモス。すなわち世界。
ヒトの外側のありとあらゆるもの。
どんな生き物も、マクロコスモスから生まれ、ミクロコスモスとなる。そして死ぬと、ミクロコスモスは分解され、マクロコスモスへと溶けていく。そのサイクルを延々と繰り返している。
だが、いつかはこのサイクルにも終焉は訪れる。
世界は世界樹に成った果実の一つ。
いつかは朽ち落ち、運が良ければ種から新しい世界樹が生まれる。
世界も、世界の外側もすべてサイクルの一部。
季節が春夏秋冬と正しく並んで手をつなぎ、くるくる回っている。
だが、何事にもイレギュラーは存在する。
スマラクトにとって、それは他ならぬ賢者だと思っている。
体を失い、マクロコスモスの果てまで行けるようになるに比例し、探究心は増していった。
そして、世界の寿命を知った。
正確に決まっているものではないが、自分たちが今立っている世界ではなく、空の天体に手を伸ばすという行為が世界の寿命を縮めると知った。逆に、神秘を求めるほどその世界は長生きする。
神秘とは科学では証明できないもの、賢者たちがいくら頭をひねってもわからないこと、つまりは奇蹟。
奇蹟は世界の中心にある。
人体に置き換えれば簡単な話だ。
世界を人体とするならば、世界はミクロコスモスとなり、世界の外側はマクロコスモスとなる。
ミクロコスモスを知ることは己の病を知ることにつながり、早く治療すれば長生きできる可能性が生まれる。
たぶん、賢者は世界の寿命を縮める毒薬。
この世界の始まり。
五つの魂を持った巨人が死に、朽ちた肉体から生まれた五つの始祖。
その中に賢者の始祖もいたのだから、存在する意味はあるのだろう。
今は確かな存在理由がないだけ。
この世界のマクロコスモスの果て、隣の世界のマクロコスモスを観測することができれば知ることができるかもしれない。
でも、そこまでの体力はない。
肉体はなくとも、魂だってエネルギーを消費する。
スマラクトは彼を知っていた。
生まれる時にミクロコスモスから零れ落ちる者がたまにある。
そういう時、すぐにミクロコスモスに導くのだが、彼は、スマラクトがこの場にたどり着く前からそこにいた。
イノセントコスモスを見せてくれたのも彼だった。
ベッドに横になっていた肉体より、幾分健康そうに見える彼が、カオス線が見える草原に座っている。
いつもそこにいる。
じーっと、カオスを見つめている。
「なあ、今お前の肉体に会ってきた」
彼は振り返らない。
話を聞いているのはわかるので、話しを続ける。
「ミクロコスモスに戻ってきてほしいって。お前が動かないってんなら意地でも連れてこいって言われたんだけど」
スマラクトは彼の隣に座る。「お前、皇太子だったんだ。賢者の国のさ」
しばらくの間、二人して黙ってカオスを見ていた。
混沌と聞いて美しいと思う人間は少ないと思う。だが、日長、動いてるかどうかわからないマクロコスモスに浮かぶ天体を見ているより、たまにスパークしたり、音を発したり、割れたり、つながったり、動いているカオスを見ている方が楽しいし、綺麗だと思う。
「俺は……」
唐突に、皇太子が口を開く。
「俺は、産まれたくなかった」
「へー」
スマラクトは夕餉の味の感想を聞いているような軽い返事をする。
「父親のドロドロした感情が入ってくるんだ。母親の不安とかもさ」
「それで、一度は生まれて産声は上げたけど、このマクロコスモスに逃げて来たのか?」
皇太子は答えない。
でもたぶん当たっている。
「さっきさ、もしもの場合、お前の身体に入れって言われたんだ」
スマラクトは隣に座る皇太子に視線を移す。「お前はどうなんだ? 別のやつの魂が身体に入るとか、許せるのか?」
「君なら」
口元が笑う。
「構わないよ」
スマラクトは白い寝間着の胸倉をつかみ、そのまま地面に彼を押し付ける。
皇太子の表情は変わらない。
「ふざけんな! 誰が他人の身体なんているかよ! それともなにか? 肉体のない俺を憐れんでるのか!」
「君のほうが、賢者の王にふさわしいと思うから」
青い目がまっすぐ見つめてくる。
サファイヤに似ている深い青。
「ふさわしいかどうかなんて、なってみてからじゃねぇとわかんねぇだろ! なってもねぇのに、生まれてもねぇのに自分の可能性に怖気づいてるんじゃねぇよ! そんなに王になりたくないってんなら逃げりゃいいだろ、今じゃなく、生まれてからだ。よその国に逃げればいい。それでも、どこまでも城の連中が追いかけてくるってんなら、その時は死ね。生まれる前から死んでんじゃねぇよ!」
「俺、やっぱり今の状態って死んでるのかな?」
「ったりめぇだろうが。ここは本来魂がいるところじゃない。通過地点でしかない。お前は、ミクロコスモスって自分の身体に行くしかねぇんだよ」
「だったら君は?」
スマラクトは、その言葉を素直に受け止める。
「俺には肉体はない。だけど、弟たちがたまに身体を貸してくれる。あと、どうしようもない……、俺たちを救ったやつだけどさ、弟たちの側にいれるようにしてくれたから、そこで生きる」
「それなら、また会えるのか?」
「機会があれば会えるんじゃね? 俺たち、元々クレモネスに住んでるわけじゃないから。……でも、」
スマラクトは身体を起こす。「呼べば? もしくは俺たちのところに逃げてくればいいんじゃね?」
一陣の風が、スマラクトの長い髪を持ち上げるように吹いた。
カオスの地平線の向こう、イノセントの光が見える。
まるで薄明光線のようだ。
「あっちでも会えるから、お前はいい加減に目を覚ませ」
「待って」
身体を起こしながら、スマラクトに問う。「ずっと、君の名前を聞いてなかった」
そういえば、俺もこいつの名前知らなかったな。
「俺の名前はスマラクト・シュテルネンリヒト・ホーエンハイム・アルタルモント」
そう言って、手を差し出す。
「ずいぶんと長い名前なんだね」
「お前だって、生まれたらすげー長い名前つけられるんだぜ」
「そうなんだ」
呟きながら、スマラクトの手を取る。
「俺はエリオット。起きた時、そこに君はいる?」
スマラクトはうつむいて首を振る。
たぶん、目覚めるのに数日は有するはずだ。その前に、ルビンはクレモネスから離れている可能性が高い。
「最初は色々大変かもしれねぇけど、まあ、とにかくたくさん食べて、本もいっぱい読んで文字を覚えろ」
「なんで文字を?」
「手紙、俺が書いても読めなかったら意味ねぇだろ。まあ、夢くらいには行ってやれるかもしれないな」
「そっか」
エリオットの身体から生まれた、砂のような細かい光の粒が、カオスの境界線に向かってサラサラと流れる。
分解されているのだ。
生まれるために粒子となって、カオスの渦を抜けて、ミクロコスモスに還る。
エリオットが最後に、拳を突きだしてくる。
――男同士の挨拶。
そう言って教えたんだっけ。
スマラクトも笑顔で応え、薄れゆく拳に己のそれを当てる。
ほどなくして、完全にカオスへとエリオットは消えていった。
「またな」
きっとまた会うことになる。
スマラクトはその場に、仰向けに身を投げ出す。
この場所にいたのは、エリオットの方が先だった。
突然やってきたスマラクトを訝しむわけでもなく、すんなりと受け入れてくれた。
初めてできた友達だった。
ルビンより、ザフィーアより、二人より先に友達ができた。
それが誇らしかった。
「そろそろルビンに体を返してやらないとな」
ルビンを通さず、まっすぐ本来の居場所であるアルケミー・ツールのエメラルドに帰ることもできるが、勝手に帰るなと怒られるのだ。
一つの身体に二つも魂を入れて、とても疲れるはずなのに。
――俺に肉体なんていらない。だから、弟たちを助けてほしい。
兄弟が三人に分かれた時のことを思い出す。
後悔なんて一切ない。
これでいい。
魂だけならばどこにでも行ける。
エリオットがマクロコスモスに留まり続けた理由はわからなくもないが、あれではただの引きこもりだ。
引きこもるなら、もっと外の世界を見てからのほうがいい。
案外、綺麗なものが見れるかもしれないじゃないか。




