ヘテロクロミア・アンドロギュノス
まるで小人になった気分だった。
日の没した後の王城の中は、いたるところに設置された燭台の明かりで、暖かい光で満たされていた。
途方もなく広くて長い、そして高い天井の廊下を歩いていると、蝋燭を手にした上質な黒のワンピースドレスに白いエプロンをつけた女性たちと何度もすれ違った。
王宮では一日に何本の蝋燭を消費するのだろう?
彼女たちは蝋がなくなって火の消えた燭台を見つけては、新しく蝋燭を刺し、火を灯す。
その作業は一晩中続くという。
背筋に太い針金でも入っているのでは? と思うほど、背筋がまっすぐな執事を先頭に、王城の廊下を進む。
王城内部に、王の寝室がいくつもあるのだという。
それぞれ、用途が違うらしく、日によって寝室を変えるらしいが、ここ数週間はずっと同じ寝室で、床に臥せっているという。
一つの扉の前で執事が立ち止まり、ノックする。
扉が内側から薄く開き、装飾の少ないドレスに身を包んだ妙齢の女性が顔を覗かせ、執事と何か言葉のやりとりをすると、一度扉が閉まる。
執事の男が「しばしお待ちを」と一礼するのに対し、思わず自分も頭を下げてしまう。クリストスは慣れているようで、黙って立ったままだ。
少しの間、沈黙が訪れる。
懐中時計を盗み見ると、夜の七時を回ったところ、食事中だったのではないだろうか?
軽く鼻を動かすが、夕餉の香りはしてこない。
ここに至るまで、城の中はとにかく静かだった。
使用人たち以外は誰もいないのではないかと思えるほどだった。
再び扉が内側から開かれる。
今度は大きく開かれ、僕らは室内に招かれる。
執事も、中にいた女性も入れ違いのように、部屋を出ていく。
室内も廊下と同じく、オレンジ色の光で満たされているが、どこか寒々しい。暖炉に細い薪がくべられている。気温が低いのではない。雰囲気が冷たいのだ。
高い天蓋付のベッド。濃いグリーンのカーテンが今は開かれている。
入口付近からそこに横たわる人物の姿は見えない。
先にクリストスが進み出て、毛の長い、アラベスク模様の絨毯の上に膝をつく。自分もそれに倣い、膝をつき、頭を垂れる。
「陛下、クリストス・フラメルにございます。お加減はいかがでしょうか?」
「……フラメルよ、我が子の様子はどうだ?」
まるで亡霊のような声。
実際に聞いたことはないけれど、墓場の土の底から響いてくるような、そんな声だった。
やっぱり聞いたことはないけど。
「これから診察いたします」
「フラメル、もう春だ」
「今日は、とてもよい天気でございましたね」
俯いたまま、クリストスは答える。
「春は良い季節だ。我が子に早く見せてやりたい。そうだ、雪の中で育ち、溶けるのと共に顔をだすフキノトウのように目覚めてはくれぬか、春の訪れを歌うナイチンゲールのように……、そう、余の命を譲っても構わぬ」
「陛下」
クリストスは立ち上がり、クレモネス王――フィルラデウス三世の元へ歩み寄る。
「殿下が目覚めた時、父王がいないのでは悲しみます。ましてや、己のために命を賭したと知れば思い悩みましょう。ですから、陛下も日々健やかでなければなりませんぞ」
「しかしもう二年だ、聖者の予言を聞いてから。あれが生まれてから十五年、いつかいつかと余は待ち望んできたのだ。それとも、あれに見切りをつけて他に子を作ろうとしたのが悪かったのか?」
「そんなことはございません。兄弟がいるということは良いことです。陛下、本日は客人を連れてきておるのです」
「客だと? 余は誰かに会っている余裕などない」
「ホーエンハイム、本家の者ですぞ?」
「本家とな?」
本家って、そんなにすごいのかー、と他人事のように二人の会話に耳を傾けていた。
「ルビン君」
顔を上げると、クリストスが手招いている。
立ち上がり、恐る恐る歩み寄り、クリストスの横から天蓋のカーテンの中を覗き込む。
長い白髪の、痩せた男が横たわっていた。
年のころはクリストスより少し若い程度だろう。
話で、皇太子が十五歳と聞いていたので、もっと若い姿を想像していた。
元は綺麗に切りそろえられていたであろう口髭が動く。
「ふふ」と笑いが漏れる。
「クリストス、これは何かの冗談かな? それとも余は夢を見ているのか? こんな小娘がホーエンハイムとな? ああ、それとも我が子の嫁を連れてきたのか?」
力なく笑うので、何も言い返せないし、どんな顔をしていいのかもわからず、俯いてしまう。
「陛下、この子は誓約の新月、達人にございます。そして男児にございますよ」
「ほう、男とな」
目を細め、もっとよく見ようと体を持ち上げようとするので、クリストスと立ち位置を交換する。
「もっとよく顔を見せよ」
震える指先が頬に触れる。その冷たさに、思わず肩を震わせる。
「本当に男なのか? そして美しいヘテロクロミアだ。余がもう十若ければ娶っていた」
「陛下、でも男ですぞ?」
「いいや」
首を振り、まっすぐルビンの瞳を見つめる。「アンドロギュノス、人類における全能なる者。男であり、女であり、人であり、神である」
長い指が、名残惜しそうに髪を滑り落ちる。
「誓約の新月か、良い名をもらったな。余の息子を頼む」
「……わかりました」
僕らには父はいない。
父替わりなのは先生だけど、先生は先生に過ぎない。
クリストスのことは祖父のように思っている。
だけど、僕らは父親を知らない。
父親とはどんなものかを知らない。
だけど、父の愛を見ることはできた。
僕に与えられたものではなかったけれども。
続いて、皇太子の部屋へ。
先ほどの執事が案内しようとするのを、クリストスは丁重に断り、広い廊下を二人で並んで歩いた。
「他に、なにか伝えておきたいことでもあるんですか?」
先に、僕から話を切り出す。
「なーに、これからは世間話じゃ。王宮に住む者は誰でも知ってるし、知らされる話だ」
僕はここに住むわけではないんですけど。
「先ほど、二十九人の妃がおるといったな」
「ええ」
「そのうち、子は何人生まれたと思う」
「二十九人ですよね? 五十人くらい生まれたとか?」
「はっはっは」
クリストスは声を上げて笑う。「ルビン君、帰ったら子作りの勉強をしなさい」
なんでですか!?
「いや、子供を残せない君には酷な話じゃな。前言撤回じゃ。正解は十三人じゃ」
「二十九人も奥さんがいてですか?」
「そうじゃ。いや、子が授からんから妃を増やしたといってもいいかもしれんな」
「女性たちはすべて、クリストス先生が検査したんですよね?」
「そうじゃ、異常は特に認められんかった」
「じゃあ、男性の方に問題が?」
ここはさすがに言葉を濁さざるを得ない。
「いの一番に検査したのが陛下じゃよ。じゃがやっぱり、異常はなかったんじゃ」
「それって、賢者の出生率の減少と関係してるんじゃないんですか?」
「さすがベルンシュタインの弟子じゃのう」
言いながら、髭をなでる。「陛下の子供が、陛下のように素質だけの賢者ではなく、炉心を持った完璧な賢者であるようにと、妃を選定するにあたって、ワシらも尽力したんじゃよ。そこで家系図をさかのぼってみたんじゃが、ローゼンクロイツ、フラメル、トリスメギストスの御三家に加え、ホーエンハイムの血が入った初代フィルラデウス以降、賢者の出生率が急激に激減しておるんじゃよ」
「全能の賢帝ですね」
アウグストとの話で出てきた。
「そうじゃ、この出生率の減少は御三家とホーエンハイムの血が混じり、全能の賢帝を生み出したことで、グレート・ワークが完遂したともとることができたんじゃがな、ならば賢者は次の段階に進めるはずなんじゃ」
「大いなる御業には果てがない、何代か前のフラメルの言葉ですね」
「そう、じゃから出生率の減少を食い止めることこそが次なる大いなる御業とも考えたんじゃが、賢者を生むこと――これでは、スタート地点に逆戻りしてると思わんかね?」
「確かに。今度は人の手で賢者を生み出せってことともとらえることができますが」
「とりあえず、ワシは王家の家系図や自分の家のもの、とにかく多くの賢者の家系図に目を通したんじゃよ」
想像しただけでもため息が出そうになる。
家系図は人の手で書かれたものがほとんどだから、下手なものはどこまでも下手くそで読み難かっただろうに。過去の文献を読んでいるとたまに遭遇する。
家系図を残す文化は珍しいのだが、賢者の場合、血統を大事にしているので、膨大な資料が手に入ったのだろう。
「御三家に関しては初代から家系図が残っておった。初めのうちはよその血をあまり入れようとせず、近親相姦が目立った。どの家もそろいもそろって。それがな、近親相姦で血は濃くなるはずなのに、やはり、徐々に賢者の出生率が減少していったんじゃよ。じゃから、一度血が途絶えたり、養子を迎えたり、最後には過去の研究を受け継ぐ『一派』へと鞍替えしていった」
「うちの先生みたいに、女も子供も嫌いだって理由で産まなかったってわけではないんですね」
「そうじゃな、そういう者がおっても、兄弟や従兄弟が家督を継いだりして血をつないでおった。じゃから、王家に起きていることは、過去に御三家で起きたことと同じだと考えたんじゃよ。ベルンシュタインに出生率の低下について相談したらまあ、辛酸を舐めさせられたわ」
そう言ってクリストスは笑うが、ルビンは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
なぜ自分の師のことでこんなにも苦い思いをしなければならないのか。
「時にルビン君、なぜ賢者の出生率が低くなったのかわかるかね?」
「え、クリストス先生みたいに家系図とかそういう参考資料なしでその問題を解けっていうんですか?」
「ベルンシュタインは何も見ずに滔々(とうとう)と述べたよ。やつは、本当に研究などする必要がない位置にまで到達してるのかもしれんなあ」
「資料は必要ない……」
腕を組みながら考えてみる。
そもそも遺伝に関しては表面をさらっただけで、詳しく勉強したことがなかった。
先生だって遺伝関係の本を読んでいただろうか? いや、持っていただろうか?
「わからんかね?」
クリストスはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「降参です」
そもそも、妊娠に関する知識に乏しいのだ。それで、先生と同じような解にたどり着けるとは思えない。
「妊娠の前の段階として受精がある。ホムンクルス製造は、受精卵を造ることから始まる。その時、化学反応が生じるのじゃが、――ルビン君、水に水を加えて、化学反応は起きるかね?」
「え」
なぞなぞ? そんなわけないか。「同じ液体を入れるのだから、化学反応なんて起きないですよ。まあ、温めればお湯になります。それぞれのイオンに働きかけることで分解も可能ですが、化学反応は起きません」
「ベルンシュタインはな、それこそが、賢者の出生率減少の正体だと」
「化学反応が起きない、という点ですか?」
「そうじゃ。異なる遺伝子を受け入れることで、卵子は受精卵にいたる。だが、自分と似た遺伝子の場合、卵子はこれを拒むそうじゃ。拒むというか、無視するんじゃな。それがなぜかまでは現段階、答えは出ておらんが――たとえば、パーティなんかに行ってルビン君、そこでザフィーア君に会って、ダンスに誘うかな?」
「なんでせっかくのパーティで兄さんと踊らなきゃならないんですか」
そもそもダンスなんてできないけど。
だけど、クリストスの例えは面白い。
遺伝子という名の誰かは家族ではない、親戚でもない、今まで見たことも出会ったこともないパートナーを求めている。なるほど。
クリストスは続ける。
「王室はすべての賢者の大家、すべての遺伝子のデータを持った血を生み出した。だから、どんな精子も卵子も、別人の遺伝子だとしてもそれに気づかず、受精できないらしい」
「だとしたら、もう王室は――」
はっとし、声をひそめていう。「子孫を残せないってことになりませんか?」
「子孫自体は残せる。血を薄めることになるが、賢者ではない普通の人間であれば受精はする。現に、生まれた十三人の母親は賢者ではなかったり、昔は賢者の家系ではあったが、すでに途絶えた家の娘が子を産んだよ」
「その十三人の中で賢者だったのは?」
「素質のあるものは三人、炉心を持つ者は二人。二人の内の一人は一番末の王女だ。ベルンシュタインの話を聞き、王をなだめて、賢者から遠く離れた家系の妃との間に子をもうけさせた。それが、賢者だった」
「そして、二人の内の一人は――」
白い扉の前でクリストスは足をとめる。
「ずっと眠ったままじゃ」




