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悪の理由

「アウグストさん」


 呼びかけると、彼は水色の瞳で応えてくる。


「あ、いえ……」

「言いたいことがあるのなら言え」

「本当は先生に聞かなければならないことだと思うんですけど、人体実験って、何が悪いんです?」


 隣で、イリスが息を飲むのがわかった。


 アウグストの表情は変わらない。


「お前は、そのことについてベルンに質問したことはあるか?」

「いいえ、先生からは学術的なこととか、理論しかまだ教わっていません。……すみません、さっきの話で、ちょっと気になったんで」

「そうだな、……お前は人体実験についてどう思う?」


 アウグストはベルンシュタインとは違い、先に問う者の意見を聞いてくる。不慣れだけど、話しやすい。


「いけないことだと思いますが、それは『人体実験』が持つイメージが先行しているせいだと思うんです。たとえば、僕たちが生きている今には倫理が存在します。それは、昔はなかった概念だったと思います。死者を(とむら)うためにと遺体を食す民族が普通に存在します。だけど、その行為は倫理を手にした現在の我々にしてみれば野蛮、非倫理的だという言葉が用いられます」


「人体実験は倫理的にはタブーである。非人道的な行為であると。では、そういったイメージはどこでついたと思う?」


「人類が積み上げてきた歴史の中で、徐々についていったんだと思います。人体を知ろうと二百年前の学者が遺体の解剖や、生きた人間を使って実験を行いました。ですが、当時は世紀の大発見だと、その実験を行った人はもてはやされたといいます。ですが、今そんなことを行えば殺人罪で捕まると思います」

「そうだな」


 アウグストは、手持無沙汰なのか、左の中指にはめたアルケミー・ツールを撫でる。「時代によって変化する価値観というものだ。だから、その歴史に当てはめた価値観を取り払ってしまえば人体実験というものは悪ではなくなる。だが、歴史的価値観を取り除いても、現代では人体実験は――それこそ人それぞれになるが、悪という者が多数を占めるだろうな」


「なぜですか?」


「人間は知恵を得て、道具の使い方を覚え、同種族の胎内まで知ることができるようになった。これを進化というが、人間が進化によって得たものは技術だけではない」

「感情的なもの、とかですか?」

「それこそが価値観だ。コミュニティを形成することによって、そこにおける価値観に人間は縛られる。それを壊して外して好き勝手をすれば、非人道的な人間と呼ばれるようになる」


「でもそれは、認知する人間がいてこそのことですよね?」


「そうだ。だとしても、進化していくうちに、人は魂に防衛機能を備えるようになった。それはコミュニティにおけるそれと違って、人によって異なる」

「周りの価値観と自信が持つ価値観が、人体実験を『悪』と位置付けているということですか?」

「そういうことだ」

「じゃあ、アウグストさんは人体実験を悪いことだと思っていますか?」


「ルビン」


 さすがに行き過ぎた質問だとイリスが口を挟むが、アウグストは特に気にする様子もない。


「私は、悪いどうこう以前に、人間などどうでもいいと思っているから、人体実験に対して善悪の価値観を持ち合わせていない。不老長寿の研究をする者は、自分がそうなりたいか、身内にその術を施したいからだ。だが、私はそんなものを求めていない。私が手の施しようもない病に侵されたとしても、たぶん黙って死を受け入れる。それこそ、煙草で肺がやられるとかな」


 そう言って、自嘲(じちょう)気味に笑ってみせる。「だがな、大義名分とまでは言わないが、何事においても意味はなくてはならない。自分のため、誰かのため、将来のため。それは原動力となる。誰かのためだなんだといっても結局は己のためだ。していることに対して責任が持てない者や、していることの意味を見いだせない者ほど凶行に走りやすい。そういう者は、心、もしくは魂がかけた状態だから、一般的な価値観で図ることはできない」

「では、そういう人たちが人体実験をした場合は?」

「本人たちは否定したとしても、ただの殺戮(さつりく)にすぎない。意味なんてない。意味なく殺されること以上の冒涜(ぼうとく)はないだろう。人間には、生まれた理由と死ぬ理由が必要だ」


 アウグストは瞳だけで笑ってみせる。


「生まれた理由、死ぬ理由、どちらか一つがあればいい。それだけあれば、人は生きていける」


 それはまるで、自分に言い聞かせているようでもあり、僕以外の誰かに伝えているようでもあり、なぜだか悲しい言葉に聞こえた。


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