sect.6
前の時は、アルパカだった。
今回は、ラッコである。
日々の生活にストレスが溜まり、耐えきれなくなると、毎回妙なことがしたくなる。
だが、今この時に関して言うなら、もはやなにもしたくない。
例えば、このまま時が止まって。自分が死んで、腐り果てて、風の前に塵となるまで。再び時が動き始めた時には、自分はこの世界のどこにもいない。
そんなことに、ならないだろうか。
もしくは、みんな死ね。死ね死ね死んじゃえ、ばーか。
みんなが死んだ静かな世界で、ラッコたちが地球人のお葬式をするのディエス、ラッコゲイザー。
つい破壊的な衝動にかられ、人類を全滅させた上に話を勝手に終わらせたくなってしまうが、残念ながら人類はそう簡単には滅びたりしない。時も止まらない。
このまま夜になり、朝が来て、仕事に行く。何事もない日常がまた始まり、またストレスを溜めながら真面目に働く。それが、死ぬまで続く。
よって、この話もまだ続くのである。
体が重い。もうずっと、血圧が下ったままだ。眠い。身体がもう、眠っている状態を通常の状態と認識しており、何か他のことをしようとしても自然とその状態なってしまうのだ。難しい言葉でいうと、ホメオタシススだか、ホモオシタオスだか、そういうあれだ。もっと勉強しておけばよかった。農学部卒なのに、いらぬ恥をかく。
肩と腰が痛い。寝たきりなので、血が巡っていないのだ。少し身体を動かした方がいい。たしか、脚が折れて立ち上げれなくなった馬は、そのまま座り続けていると地面に接している部分から徐々に腐り始めて死んでしまうのではなかったか。
身体を動かさないといけない。もう、既に腐り始めている気がするから。
眠い。体と意識がバラバラで、起きようと思っても命令が伝わらず、体が起きようとしてくれない。血が滞っているように、意識も身体のどこかで止まっているのだ。否。思考がまとまらない割に頭は意外とはっきりしていて、意識だけが宙にふわふわ浮いているイメージが近いか。
幽体離脱、臨死体験。これはこれで、面白いかもしれない。もういっそこのまま、明日の朝までいてもいいのではないだろうか。そして明日の朝には冷たくなっていて。ピクリとも動かない、ラッコが楽しくお葬式を、ラッコゲイザー。
思考がループしている。次々ととめどない思考が頭を駆け巡り、それぞれが解決しないうちに、勝手に終わってまたスタートに戻る。これを繰り返していれば、ひょっとして永遠に退屈しないで済むんじゃないか。ていうか、暑い。エアコン。リモコン。ボディコン。リモコン。リモコン、ない。エアコン。暑い。もうやだ。寝る。
思考と意識、肉体がバラバラのまま、結局は眠いという結論で一つにまとまる。
あるいはもはや冷たくなってしまったのか。ピクリとも動かない。ゆらゆらと、頭上で水面が揺れている。暗く、透明な水。綺麗なような、そうでもない、ような。
上から射しているのは、蛍光灯の人工的な光。部屋は暗く、はるか見上げる水面
だけが青く光っていて。
ガラスの立方体が顔のすぐ前にある。
部屋いっぱいにまでせり出し、今にも押し潰されそうな、重そうな水の圧迫感。
薄いガラス1枚で隔てられた、水中と空中の異なる世界。
コウ、コウ、と不思議な音が響く。近いような、遠いような。
スピーカーを通して聴こえているようでもあり、直接ガラスの中から聴こえているようでもある。不思議なエコーを発しながら、また、青く輝く水面が揺れる。
なんだろう、これは。
これは、そうだ。知っている。
あれだ。中学生だ。修学旅行。
バスを降りて、水族館で。
みんながお土産ショップにばかり行くから、嫌になって。班の人たちも、最初から別に仲良くなくて。
ただ、最後まで余るのが嫌だったから、入れてもらった。だから、嫌いだった。修学旅行。仲良くない人たちと一緒にあなきゃいけないのが、嫌で。
お土産ショップなんてすぐに飽きてしまう、大して欲しくなるようなモノなんて、ない。
せっかくの水族館なんだから、水族を見ればいいのに。サカナや、カメや、ペンギンを見ればいいのに。
あの人たちはイルカショーしか見ないから、嫌い。嫌い、嫌い、嫌い。
修学旅行の1日目。地方の、小さな水族館。観光地ではあるから、それなりに人は入っているのだろうがどことなくうらぶれた雰囲気
があり、施設のセンスも古くさく、子供騙し。
子供騙されることを何より嫌う中学生たちがそんなものを喜ぶはずもなく。土産物屋、フードコートに群がり、もう動かない。
時間まで楽しく談笑を続けるつもりらしい級友たちから離れ、さっそくの個人行動。本来はご法度のはずだが、時間前に戻りさえすれば問題はあるまい。
とにかく、好きでもない、面白くもない連中と一緒にいることに耐えられなくて。初日にして既に、嫌になっていた。
バスの中なら、まだ居場所はある。眠ったふりをして、無視していればいいのだ。
たが、グループ行動となるとそうもいかない。人間はイルカのように器用ではなく。歩きながらボクはいま寝ています!とは主張できないのだ。
ストレスが溜まり耐えきれなくなると、妙なことがしたくなるのはもうこの頃から。最初こそ楽しいフリートークの輪に入れず、一人
端っこに立っているのにも我慢していたが。
隙をみて離れ、展示の順路に入る。
人に気づかれずにいなくなることができるのは、七つの特技のひとつ。
水族館に来てまで普段、学校にいるのと相も変わらぬ行動をする彼らを冷笑してはいたが、かといってそこまで、サカナが見たかったわけではない。そもそも、
サカナにはそこまで興味はない。犬やネコの方が好きだ。
だが、人間を見ているよりははるかにマシだ。何故彼らは、サカナを見る場所に来てまでお互いのことばかりみているのか。理解できない。
一人になりたかった。なるべく、人のいなそうな場所を探した。
水槽の並ぶ中でなるべく立ち止まらず、歩き続けた。立ち止まって眺めているところを話しかけられたくなかったのだ。
すぐに、順路は終わってしまった。本来は、ひとつひとつ立ち止まって、説明書きを読みながら進むものなのだ。
順路に従い、建物から出る。
まだまだ、、時間はある。だが、もう一度入り口から建物に入り、彼らとともに行動するという選択肢は既にない。この先は駐車場、バスに戻って寝ていればいいだろうか。目的もなく、建物のまわりをうろつく。
水族館の奥、敷地の片隅に妙な建物をみつけた。岩をイメージしているのだろうか、安っぽい、プラスチックの造形。
扉のないゲートから、中の部屋が少し見えている。
中に入ってもいいものなのだろうか。
なんでもいい。ここなら、見つからない。一人でいられる。
安息の場所を求め、ふらふらとゲートをくぐる。
部屋の中は薄暗くて。立方体の、大きなガラスの水槽が部屋いっぱいに。入り口近くまで迫って。
他には、おざなりに置かれた鉄柵が、あっちにぽつん。こっちにぽつん。
部屋の中に完全に入ると、ガラス面と密着してしまうかのような、狭さ。
そんなギリギリまで近づいているのに、ガラス1枚先は重そうな、水の世界。こちらとはまるで違う、明るい―。
部屋の中で、そこだけが明るかった。見上げる頭上はるか、輝く蛍光灯の明かり。揺れる水面。そして。
ここが、なんの部屋なのか、ようやく理解できた。部屋の主が、バシャバシャ水音を立てながら、器用に両手を使ってもりもりとイカを食べている。
黒くて、白くて、キラキラの変な生き物。思ってたより、ずっとでかい。
のんきにプカプカ浮いてるイメージがあったんだが、違うんだな。まるで、落ち着きがない。イカを食べながらも、なんだかバシャバシャ、はしゃいでいる。
突然、ものすごいスピードでそのまま回り始めた。あんな動きをするなんて、聴いていない。あいつらがあんな速いなんて、知らない。
何故、イカを食べながら、回る。
その無駄に派手な動きの理由は、なんだ。
かとおもえば、いきなり、潜ってくる。
驚いた。頭上に見上げていたものが、いきなり目の前まで潜ってきたのだ。
潜って、すぐに、また戻る。
何がしたかったんだ。潜りたかっただけ、か。潜りたかっただけ、だな。
気まぐれだ。やりたいことだけをやり、やりたいことはすぐにやる。飽きたらしばらく浮かんでいるが、それもすぐ飽きてまた潜る。
コウ、コウ、と不思議な声が呼ぶ。微妙に遠く感じられて、最初はそれが水槽の中から聴こえている音だとわからなかった。
コンクリートとガラスの部屋で、反響しているのだ。
ガラス1枚を隔てた水の世界。こちらとはまるで、理の異なる世界に思えたそこが、実は音が聞こえるほど、近い。
ふと目をあげると、増えた。もう一匹いたのだ。
友人か。恋人か。兄弟か。こいつもまた、落ち着きがない。
交互交互に潜り、戻り、潜り、飽きてバシャバシャやりだし、一匹回り始めるともう一匹まで一緒になって回る。
コウ、コウ、と笑いあっている。
仲がいいんだな。たのしそうだ。
突然、パッと部屋が明るくなり、水槽の奥の扉、水槽の奥の方はコンクリートが打設されており、その壁際は上の方で直角に削られ、ちょうどプール・サイドのようになっているその扉が開いた。
3時。奴らのおやつの時間のようだ。
気づけばいつの間にか、まわりに2・3組の人々が来ている。おやつタイムを観にきたのだ。
それに気づかないほど夢中に見ていたのか。あるいは、気づかれずにいつの間にか集まっているのが彼らの七つの特技のひとつなのか。
扉から出て来た飼育員さんが貝を次々放り投げる。奴らが追いかけて潜る。
器用に両手を使って底から拾ってくると、お腹を向けて浮かび上がり、お待ちかね、カチカチ割り始めた。
歓声が上がる。声が漏れる、本当にやるんだあ。
まったく同じ感想を抱いたが、危険だ。
音は、聴こえる。聴かれているぞ。
気づいた。奴らはこっちを観ている。聴いている。こちらの反応を観て、行動をしているのだ。
さっきまではボケっと呆けて立ち尽くしている変な奴にいろいろやって反応を試していたが、すぐに飽きて勝手に遊んでいた。今は、「客」の喜ぶものを見せている。回る。ワッと歓声。潜る。ワッと歓声。叩く。ワッと歓声。
ガラスの向こうで、あいつらはこちらをコントロールしている。あんなとぼけた顔をして、案外侮れない連中だ。
いつまでも、見ていた。おやつタイムが終わり、奴らが水槽の底に沈んだ貝を、残らず拾って食い尽くした後も。観客がまた、ぽつり、ぽつりと去っていき、一人になった後も。
また、つまらない変な奴が一人で見ているだけになって、退屈したのだろう、奴らはまた好き勝手に遊んでいる。濡れた黒い毛皮に蛍光灯の青白い光が反射し、滑らかに光っている。美しい。
「失礼ですが。」
「何をして、おいでですか。」
どれだけそうしていたことだろう。我に返ったのは、後ろから突然声をかけられたからだ。
警備員。気づかれずに後ろに立てるなんて。七つの特技が。
警備員が近づいてくる。平日。制服姿の中学生。本来は、集団行動をしていなければおかしい存在。
それが一人で、人気のない薄暗い部屋にいる。不審だ。ルール違反を犯しているという、負い目が身体を硬直させて何もリアクションが取れない。
荒い息を立て震える横を警備員はまるで見えていないかのように通過し、部屋のさらに奥へと進む。
男が、いた。若く見えるが、実際には年のころ三十、といったところか。
汚い作業着に白いパーカーだけを羽織り、いかにも必要以上に作業員ですよと言わんばかりの風体。
ぷんと、汗の匂いがする。いつからそこにいたのか。気づかれずにいつに間にかそこに七つの特技。
「何って、お前。」
「これが鹿鳴館にダンスしに行く格好に見えるか?」
男は傲然と胸を張る。粋なセリフとともに、自分の戦闘服であろう作業員ルックを見せつけているかのように、誇らしげに。
警備員の足が止まる。怪訝な表情。どう対処するかの判断に迷っているようだ。
男が目を閉じる。軽く口元に笑みを浮かべると同時に、踵を合わせ腕を水平に振り上げた。
「ラッコゲイザー。」
怒鳴るわけでもなく、大きな声でもないが、はっきりした発音のよく通る声。演劇の、役者のような。
思わず身構えたのは、男のアクションで衝撃波が起こって吹き飛ばされるような気がしたから。
ラッコゲイザー、必殺技か何かの名前かと思ったのだ。
思わず伏せた顔を恐る恐る、ゆっくりと上げる。衝撃波は、襲ってこなかった。
時が、止まっていた。中学生の、修学旅行。そちらのカメラはここで時間が止まり。
今度は反対側の部屋の片隅にスポットライトが当たる。
暗闇の中に、簡素なデスクを挟んで。パイプ椅子に腰かけ向かい合う、ワイシャツ姿の男が二人。
「手に職、っていうんですか。」
ああ。やめろ。
「俺はこれをできるぞ!って、誰にも負けないと自慢できるような。そういう技術を持った職人になりたいな、と思いまして。」
やめろ。やめてくれ。こんなものを見せるな。
「実は、不器用、なんですけどね。言うほど力もないですし。でも、頑丈ですよ。休まないですし。任せてください。」
やめろ。ああ、知っている。これも知っている。
面接だ。会社の。嫌になって、船に乗って、逃げて、辞めた。
「そうですね、うちの会社。ご希望どうり、つくと思いますよ、手に、職。実際、未経験から始める方がほとんどですんで。」
頑張ってください、と言われて、採用されたんだ!と満面の笑みで顔を上げる。
「ありがとうございます!」立ち上がり、勢いよく頭を下げる。椅子が後ろに倒れ、苦笑される。
そうだ。本当は、職人になりたかった。おれはこれだけは譲らないぜ。そういう、誇れる何かを持った者になりたかった。
大学を卒業してから数年、就活もせずに学生の頃のバイトの延長で楽しくフリーター生活を送っていたが、年下の彼女ができて一念発起。求人情報誌で最初に開いたページに乗っていた会社に電話をかけて。
決断してからは、早かった。
これからの俺は違う。いつか子供ができたら、俺の父ちゃんは世界一の職人なんだぜと胸を張って言えるような、そんな、職人になるんだ。
そう決め込んで、まったくの未経験者のくせに大威張りで入った会社。線の細い、大卒の若くてヒマそうな奴が入ってきた、いいように使ってやれ、とでも思われたか。
5回も仕事をしないうちに、事務方へ。「こういう仕事も、後々の人生で必ず役に立つことになるスキルだから、身に着けて損はないよ」と説得され、まあこれも仕事、やってみるかと始めてから、石の上にも三年。ついに巡ってきたチャンスもなかったことにされ、ゴメリンコ!からさらに、二年。
「なんだ、まだ終わんねーのかよ、使えねー。やっとけっていったじゃん?現場ロクに出ずに内勤になった奴なんてやっぱこんなもんかな。要領が悪いんだよ。仕事の組み立てがわかっていないっていうかー」
こちらを見もせずにデブ課長が言っている。本当は、職人になりたかった。現場で働いて、自分にしかできない何かを身につけて。本当はずっと、我慢していた。毎日ネクタイを締めて満員電車に揺られて、パソコンの前で電話を取って、自分の、一番やりたくなかった仕事。仕事だから。我慢してやってきた。イスを握った。振り上げた。おい!支社長が叫ぶより速く、ぶん投げた。デブ課長には当たらなくて、経理のオバサンが悲鳴をあげて、怒鳴り散らしながらデブ課長の胸倉を。
息が詰まって跳ね起きる。状況が掴めない。
息が乱れている。バクバクなっているのは、心臓か。天井の上からダン!と床を踏み鳴らす音。うるせえぞ!と怒鳴り声。
なんだ?どうなってる。とりあえず、お前こそうるせえぞ。
キョロキョロとあたりを見回す。
真っ暗だ。電気。いや、いい、把握できた。ここはなめくじアパートの自分の部屋だ。
そして、自分は今死にかけていたわけではない。寝苦しかっただけだ。暑いのに、面倒くさがってエアコンをつけなかったから。
とりあえず、エアコン。リモコン。ボディコン。リモコン、ない。どっかいった。
携帯を開ける。深夜二時。状況から察するに、どうやら叫んだか。うるさかったですか。すいません。
久々に、うなされた。わかっている、仰向けで寝たからだ。うつぶせに寝ないと何故か息ができなくなって、尋常ではないうなされ方をしたあと、跳ね起きる。子供の頃からの、妙な体質。
とりあえず状況が把握できたのと、自分は今、生命の危機にあるわけではないこと。あと、寝坊して仕事に遅刻するわけではないことが一気に理解でき、安心したのか冷静になる。
頭が、冴えている。この一週間、ずっと重くて、はっきりしなかった。頭が軽い。なぜだろう、明鏡止水だ。
ふと、頬が濡れているのに気が付く。涙。泣いていたのか。
悔しかったのか。いや、悔しかったのだ、泣くほど。ずっと、取るに足らないことだと思い込むことで、忘れたふりをしていた。それを認めると負けのような気がして。
もう、自分には取り戻せないもの。永久に、奪われたもの。情熱。未来への希望。夢。
違う。捨てたんだ。飄々と、要領よく生きているような顔をして。
自分は、今まで何をしてきたんだ。こんなところで、何をしているんだ。
なりたい。何か、人に堂々と誇れるものを持った男に。俺は、これだけは負けられないんだ。そういう確かなものを持った、かっこいい男に。
あの男は、そういう男だった。誰恥じることなく、堂々と背筋を伸ばして。
ラッコゲイザー。なんだ。わからない。
でも、あんな風になりたい。なりたい、ラッコゲイザーに、なりたい。
いや、なってみせる。なるんだ、ラッコゲイザーと名乗ったあの男に。
深夜に一人、パンツ一枚の男が涙を流して、謎の決意。だが、頭はこの上なくクリアだ。
やるべきことはわかっている。まず、風呂に入る。体がくさい。
風呂から出たら、どっかに蹴り飛ばしたリモコンを拾ってきて、エアコンをつけて、服も着て、寝る。
深夜に水音を立てて申し訳ありませんねえ。壁の薄いなめくじアパートなんだから、我慢しろ。水に流せ。
シャワーの水とともに、憂、鬱が少しずつ流れていく。
頭上に降り続くシャワーの水流。その上から、白熱灯の光。
向こうでバシャバシャやってるお前ら、さあ、得意な技を見せてくれ。
自分の存在に悩むとき、自分の価値に迷うとき。人はただ一心に。
ラッコを見上げればよい、ラッコゲイザー。