sect.5
前の時は、アルパカだった。
日々の生活にストレスが溜まり、耐えきれなくなると、毎回妙なことがしたくなる。
この夏は、ラッコに会いに行く。
決めてからは、速かった。
すぐに数少ない女友達にメールを飛ばし、ラッコを見に行きたくなったから一緒に行かないかと誘う。断られる。だが、それはそれで良い。
また妥協するのか、と自嘲してしまうが、今重要なのはむしろラッコだ。好きな女の子とのバカンスは今回はあくまで、付いていれば嬉しいオプションでしかない。
寝ても覚めても、ラッコのことばかり考えている、これは恋か。実際、今大好きなあの子に「私とラッコとどっちが大事なの!?」と聞かれたら、間違えて「ラッコ」と即答してしまいかねない。そのくらい、焦がれている。
暇さえあれば携帯を開き、ラッコの画像や動画を眺めてため息をつく。ラッコと打ち込んで検索し、手当たり次第に情報を集める。
ほう。ラッコは、大人になっても家族や友人と一緒に生活するのか。
ほう。ラッコは、
流されてはぐれないよう、親子で手を繋いで眠るのか。
あいつらは意外に頭が良くて、水族館なんかでも退屈すると、ラッコ同士の言葉でおしゃべりを始めるらしい。
超高速で横回転するのは、遊んでいるのではなくて、水に長時間浮くために毛皮に空気を取り込んでいるらしい。
貝ばかりでなく、イカを好んで喰うらしい。
貝を割る石にはこだわりがあり、自分のお気に入りの石以外は使いたがらないらしい。
暇がなくても仕事中でも、頭の中はもはや8割方ラッコである。
ラッコを見に行きたい。
ただの思いつきであったが、夏休みに楽しみな予定が控えている。それだけのことで、人はかくも前向きに、幸せな気分になれるのか。
子どものように指折り数えて、ああしよう、こうだったらいいな、と計画を立てる。女の子となら奮発して南の島だが、お一人様だから池袋で十分かな。
池袋はいつ以来だろう。屋根のペンギンというのは見たことないはずだから、かなり久しぶりということになるのかな。
携帯には、既に「サンシャイン水族館」のパンフレットがダウンロードされている。それを元に、しっかり下調べを行う。
ラッコがいるのは、屋上庭園か。カワウソも一緒だな。どうせなら、カワウソ握手会も参加しようかな。
戦に勝つには、まず人の理を堅め、地の理を得ること。そうして初めて、天の理を得ることができる。
備えあれば、嬉しいな。どんな場合でも、万全な計画なんていうものはない。
想定し得る最悪の事態というものは、必ず最悪のタイミングで発生するのだ。
最悪の場合に備えて策を練り、100個用意したうちの3個でも使えれば上等。それが、リスクマネジメントというものだ。
ラッコに恋こがれ、夏休みを待ちわびた2週間はこの上なく充実していた。
今なら、出会ったすべての人を許せる気がする。
やりたいことがあるということは、世界で一番幸せなことです。
福沢諭吉という偉い方はそんなことを言ってはいないが、この一年間、こんなに楽しい気分になったことはなかった。
そしていよいよ夏休みへのカウントダウンが始まり、そろそろ電車の時間、水族館の開園時間、ラッコのお食事タイムなどから逆算した具体的なスケジュールを組もうと考え始めた時、その記事を見つけた。
いつも通り、「ラッコ 水族館」と携帯で検索をしていた。最終確認のつもりだった。
ふと、下の方にある記事のタイトルが目につく。「ラッコ」が日本からいなくなる!?水族館ニュース。嫌な予感がした。そして、こういう時の嫌な予感というものは、ほぼ100%の確率で的中する。
ラッコは、かつてのラッコブームの折りには全国の水族館で飼育されておりましたが、本来気難しく、ストレスに弱く、とても飼育の難しい生き物であり。
ブームが去ってからは費用のかかることもあり、ラッコの展示は減少の一途をたどっております。
◎は、現在ラッコの飼育を行っている水族館。
○は、かつてラッコの飼育を行っていた水族館。
×は、ラッコの展示を行っていない水族館です。
(情報は随時更新しております。)
なんだ。なんなんだ、これは。
嫌だ。認めない。認めたくないぞ。
今年の夏はラッコを見に行くんだ、決めたんだ。ずっと楽しみにしていた。
心臓が早鐘を打ち、息が荒くなる。
池袋は。池袋はどうなんだ。パンフレットには、ラッコエリアがあったぞ。
震える指で画面をスクロールする。
北から順に北海道。
残念ながら、北海道で飼育されているラッコは現在、0頭となってしまいました。
ウソだ。北海道は、ラッコの本場じゃないか。あんなにたくさんいたラッコ、どこにいったんだ。
東北を過ぎて、関東。
関東では現在、大洗水族館のみ、ラッコを飼育しております。
ウソをつくな。だって。書いてあるんだ、パンフレットに。携帯に、ダウンロードしてある。
いるはずなんだ、池袋に。
池袋。池袋。池袋はどうなんだ。
池袋サンシャイン水族館…○
池袋サンシャイン水族館では開業以来、長らくラッコの展示を行っておりましたが、今年の2月をもって展示は終了しております。
終了。して。おります。
終わった。夏は、終わってしまった。まだ、夏休みも始まっていないのに。
誰が悪いんだ。あれか。小さい頃、弟をいじめたからか。ゲームボーイを貸してあげなかった。それとも。また、柳川係長か。柳川このやろう。いや、柳川係長は関係ない。では、ジョバンニか。ジョバンニのお父さんが、ラッコを獲りすぎたから。いなくなってしまったんだ。日本から。
いや、まだ、終わっていない。大洗があるじゃないか。大洗。どこだ。聞いたことがあるぞ。
大洗。茨城県か。茨城県。海があるんだったか。電車、三時間かかる。鹿島神宮の、さらに先。鹿島神宮。前に仕事で行った、山の上に病院があって。患者が逃げないよう、金網がしてあって。SuicaもPASMOも使えなかった、駅員さんに言うと携帯式の端末でピッてやってくれて。何もないところ。あそこより、さらに、先。
頭のなかで、跡かたなく崩れ落ちた計画が、必死に組み直しを試みられている。
現実的には、可能だろう。なんせ1週間の間、他に予定は一切ない。
だが、どうやらもうダメだ。既にやる気をなくしてしまった。
計画を立てて動くタイプの人間は、多少、計画に変更が生じたとしてもさほど動揺しない。計画にない予想外の事態は必ず何かしか起こりうるもの。予想外は常に、予想済みである。
しかしまずいのは、計画自体がキレイさっぱりなかったことになって、ゴメリンコ!というパターンである。
手足をもがれたようなものだ、反撃さえ、ままならない。煮るなり焼くなり、好きにしろ。
期待が大きかっただけに、失ったショックは絶大だった。絶望、と言っても過言ではない。早起きしてラッコのランチタイムに間に合うよう、電車に乗ればいいじゃないか。わかってはいるが、とてもそんなふうに前向きにはなれない。
嫌でも、アルパカの時を思い出す。最悪の事態が想定し得る最悪のタイミングで発生した。
それに立ち向かえる若さは、既に失ってしまっている。
また、負けるのか。いや、もう、負けたのか。
違う。とっくの昔から、既に負け犬だ。
戦いが始まる前から、とっくに負け犬だったのだ。
夏が来る。望む者にも、望まない者にも平等に。
それによって特別な恩恵に預かることのない者にも、掴もうとしてまた取り落とした者にも、夏は来る。
何一つ楽しい計画も、やりたいこともないまま、アパートの部屋で独り。
伏して眠り続けるだけの、夏が来る。
今年の夏休みは金曜日に始まり、土日を挟んで水曜日に終わる。
1日め、金曜日は、とりあえず寝た。精神的なダメージから立ち上がれず、起きることすらままならない。
食事さえとらずにひたすら眠り続ける。目覚めて、また眠る。
2日め、土曜日。前日に寝すぎたため、血圧が下がり過ぎて、頭が冴えない。寝すぎてもはや眠くもならないのだが、ぼんやりして頭が働かないため、寝る。
さすがに腹が減ったが、冷蔵庫に菓子パンがあったのでそれで済まし、水を飲んで寝る。
トイレに起きて、また眠る。
3日め、日曜日。明日からは早朝の配送のアルバイトがあるため、完全な休日となるのは本日が最後である。
大洗まで遠出をするなら、今日がラスト・チャンス。タイムリミットは14時といったところだが、目覚めた時点で既に11時。
体の重さになんとか抗おうと試みるものの、腹が減りすぎて力が入らない。起きよう、起きなくてはと思ううちに、あっさりタイムリミットを過ぎる。ガッデム。
持ち上げた頭が力なく枕に落ち、そのままその日は起き上がることがなかった。
4日め、月曜日。世間様ではまだ盆休みも半ばだが、年中無休の配送社会はそうも行かない。血圧は底を割り、まったくやる気も起きないが、仕事ではしかたない。いつもより長めのシャワーで3日分の汚れを洗い落とす。
気づけばかなり、臭くなっていた。清潔さを取り戻し、ようやく頭が回ってくる。
腹が減りすぎて気持ちが悪い。イライラが身体に溢れている。
変なつつきかたをすれば、間違いなく大爆発だろう。
皆の衆。誰も近づくな。触るな。今は、危険なんだ。
パートのオバサンたちが怖がっている。仕方ない、今の自分の精神は飢えた野の獣。もしくは、冬眠明けのクマ。
下手に撫でようと手を出せば、ガブッとやってしまう状態だ、せめて、わかりやすい態度でまわりに伝えるしか被害を減らす方法はない。
5日め、火曜日。早朝のバイトから帰ってくると、さすがに眠い。前日にあれだけ寝ていても、早起きすれば眠くなるのだ。
目覚めれば、夜の8時。ガッデム。
腹が減ったので寝癖だらけの頭でサンダルをつっかけ、ラーメンを食いに行く。夏休み中初めての自発的な外出であり、積極的な食事である。体が微妙に臭い。寝ると臭くなるのか、寝床が腐っているのか。はたまた、腐っているのは自分自身か。
灯りに曳かれ、その足でフラフラと居酒屋の二階の良からぬ店へ入る。金がなくなった財布の軽さと自分の堪え性のなさに自己嫌悪に陥る。
6日め、水曜日。昼夜逆転どころか、昼夜関係なく眠り続ける生活も、今日で終わりにしなくてはならない。早めに生活のリズムを取り戻さなくては。焦っている、このままでは本当に、何もせずに夏が終わる。それでいいのか。
よくはないのだが、眠い。何かしなくてはならないと考えると、途端に何もやりたくなくなる。
夏が終わる。始まる前からとっくに終わっていた、夏がようやく終わる。長すぎた。待ちわびた。明日からはやっと仕事が始まる。行きたくねえ。やりたくねえ。微睡みながら時は過ぎ、夏が終わる。
独りで住むアパートの部屋は世界と隔絶された特殊空間。光速で進む宇宙船のように、ここにはここだけの時が流れる。
コールドスリープされたままの、銀河の旅。日本を離れたというあいつらも、無限の星屑の中で浮かんでいるのだろうか。
自分の存在に迷うとき、自分の価値に悩むとき。
人はラッコを見上げることすら遂に叶わず、ラッコゲイザー。