sect.4
前の時は、アルパカだった。
日々の生活にストレスが溜まり、耐えきれなくなると、毎回妙な事をしたくなる。
原発事故の記録について、ひたすら調べてみたりとか。
なんだろう、鬱な気分の時に限って、より鬱になるようなことをやってしまうのは。
原発事故の、悲惨な記録。自分には今のところただちに影響を及ぼさないレベルの出来事だが、放射能はこわいなあ、とか、うげ、とか言いながら、悲しい出来事の詳細な記録を1日中眺めている。
小人閑居をして不善を為すというが、まったくもって不全を時間の許す限り為し続けるタイプで。
休みの日に家にいると、本当にろくなことをしない。
携帯をいじって鬱になるような情報を1日見続けるだとか、それに飽きたら今度は携帯を見ながら別のモノをいじり出すとか。
外に出たら出たでやたらと金を使い、金がなくなってはまた鬱になる。つまるところ、休まない方が精神的にも金銭的にも良いのだ。
休みの日に遊びに行くような、親しい友人も、まして恋人も、いない。
犬でも飼っていればまた別なのだろうが、三十男の独り暮らしの身には、休みを頂いても正直、時間を持て余す。
心のどこかでは、早く仕事始まらないかなあ、と思っているのだ。
とりあえず、やるべきことがない。
それは世界で一番悲しいことだと、例によって福沢諭吉という偉い方がおっしゃっている。
結局、持て余した時間に、別の仕事を入れる。いつもと違う仕事をするのは気分転換にもなるし、体を動かしていれば多少なりともストレスは解消される。
働いていても疲れとストレスが溜まり、鬱になるのだが、金が入るだけまだマシである。
時給働きの契約社員にとっては、休みがあればあったで金銭的な打撃を受けるのだ。
日々の生活にストレスが溜まり、耐えきれなくなってアルパカだった、あの夏。牧場のおじさんに敗北し、それから二年、それでも、耐えた。
いや、ただ、惰性で仕事を続けていた。
会社のやり方は気に入らない。だが、仕事としてやっている以上、気に入らないことだって当然ある。責任ある社会人なのだから、そこは我慢しなくてはならない。
そんな殊勝な事を考えているふりをしながら二年が経ち、遂にはまた耐えきれなくなって突然船に乗ってしまって、それでも辞めさせてもらえず。既に辞めることは心に決めていながらだらだらと続けていた仕事についに終わりが来たのは、前から気に入らなかったデブ課長に怒りを爆発させたことが直接のきっかけだった。
あいつは前から嫌いだった。新人をイビり倒すことだけが趣味の、デブ課長。
デブだけでも気持ち悪いのに、無駄にさらさらヘアーでヘラヘラ笑って。
現場に出ていた3ヶ月の間にかわいい後輩の高田くんを散々いじめて、辞めさせてしまった。
そうやって新人が入る度にあいつが辞めさせるせいで、いつまで経っても雑用係をやらなければいけない。
こっちだって入社してそれなりの時間が過ぎ、長い名前のよくわからない役職がついたことで自分の仕事がどんどん増えている。押し付けられた他人の雑用をやっている暇などないのだ。そもそも、自分の仕事なのだから人を使わずに自分でやるべきなのではないのか。
動け、働け。だからお前は、太るんだ。
そのデブ課長のターゲットが事務方に戻ってからはこっちに向いた。高田くんが辞めてしまったので、他にいじめる相手がいなくなってしまったのだ。呼び戻されたのは雑用係が欲しかったのではなく、いじめても問題のない立場の弱い人間が欲しかったのではないか。
そんなくだらないことのために、せっかくイチから立ち上げてようやく安定した現場を、投げさせられたのか。柳川このやろう。あ、いや、柳川係長は関係ない。
さすがのデブ課長も、今度ばかりはいじめる相手が悪かった。
こちらは恨み骨髄、二年の間に膨れ上がったやる方ない憤懣を爆発させてもいい相手、爆発させてもいい機械を日々、眈々と狙っている人間なのだ。
二年も一緒にいて、それに気づかなかったのがデブ課長の敗因だ。いや、勝因か。
直接のきっかけはなんだったのか。
はっきりと思い出せないくらい些細なことだったはずだが、直後にデブ課長に向け、椅子が飛んだ。
投げた椅子こそ当たりはしなかったが、表出ろデブ!と怒鳴りながら胸ぐらを掴まれるまで、デブを動けなくさせる効果はあったようだ。それとも、デブだから動けなかったのか。
経理のオバサンが悲鳴を上げ、支社長の怒号が飛ぶ。
まだ目を白黒させているデブ課長を突飛ばし、辞めて欲しいんだろ?上等だ辞めてやるよと吐き捨てた後、1ヶ月以上にわたる無断欠勤。
さすがに今度は大丈夫だろうと時期を見て電話をし、狙い通り辞めさせてもらえることに成功してからは、職を転々として食い繋ぐ日々。
もともとがそれなりに出来がいい人間のため、どんな職についても、何をやっても、それなりに上手くやっていける。
だが、それゆえにしばらくすると興味をなくし、嫌になって辞めてしまう。
一度、「嫌になって辞める」ことを経験してからは、「仕事は気に入らないことがあれば辞めてもいいもの」という認識で行動するようになった。
風来坊気取りの自由を手に入れたかわりに永遠に失ったのは、自分はこれに打ち込んでいるんだと胸を張って言える仕事を持つという、プライド。
自分は嫌なことがあるとすぐ放り出す奴だ、心が弱い人間だ、能力はあるくせにすぐ出来るようになる簡単なレベルの仕事しかしようとしない。
そのくせ、まわりの人間のことはこんな簡単な仕事しかできないバカな連中だと見下しているのだ。
フラフラ生きてはいるが、根っこは優等生タイプの真面目人間。
無為に過ごしていく日々に、なにも起こらなくとも自分を責め続け、ストレスを溜め続ける。
そんなこんなで新しい仕事を始めては癇癪を起こして辞めることを繰り返し、気づけば、三十代も半ば。
もちろん非正規雇用ではあるが運よく大手の食品会社の製造工場に職をみつけたのが去年の夏。トラブルさえ起こらなければ一人で1日中黙々と作業を続けてさえいれば良い環境が向いていたのだろう、今度は案外長続きして、まもなく、一年。
また、夏が来た。
「夏休みはどっか行くの?」
恐れを知らずに話しかけてきたのは、偉い社員の方、有り体に言えば課長さんである。
この職場には工場長さんというもっと偉い方がいるはずだが、日常的に絡みがある人の中で一番偉いと思われるのが、この課長さんである。
そんな偉い方だから、誰に対しても気後れすることなくフランクに話しかけてくるのか。はたまた、偉い方なので、こちらが気難しいことで有名な、あまり話しかけない方が良い工員だと言うことを知らないのか。
話しかけられればお愛想程度に世間話には付き合うが、正直なところ、こうして休憩時間に話しかけられるのはあまり好きではない。
そもそも、本当なら昼休み以外の休憩時間はあまりいらないのだ。
それによって仕事が中断される方が嫌だし、こうして休憩している今だって、本当は早く戻って仕事の続きを始めたい。
だが、さすがは大手の企業さんである。法的なルール、労働基準の遵守にはとても厳しい。休憩をとるよう言われたら取らなくてはいけないし、休みだと言われれば休まなくてはいけない。
あくまでも我々労働者の権利を守るために会社がやってくださっていることであって、それを厳しいと表現するのはおかしいのだが、とにかく、厳しいのだ。
そんなわけなので、仕方なく10時と15時には休憩に来る。基本的に長居はせず、給水だけ済ませてさっさと戻ってしまうのだが、そこで課長さんに出くわした。
この課長さんは課長は課長でもどこぞのデブ課長とは異なり気さくな方で、苗字が郷里の県名と同じなので個人的に親近感を抱いてはいるのだが、いかんせん話が長い。一度捕まってしまうと、30分は解放してもらえず世間話に付き合わされてしまう。
あるいは、課長さんとしても話しやすい相手なのかも知れない。正社員の若い連中の前では厳しい顔をしていなくてはいけず、彼らからも厳しい課長さんとして、距離を置かれている。
多少偏屈だと聞いてはいても、バイトのオッサンの方が気を遣わず世間話にうちこめるのだろう。
「夏休みはどっか行くの?」
というのがこの日のお題であった。他の日には、最近のゲーム機の話だったり、野球や映画の話だったり。
そのテの話も、ある程度年のいっている相手の方が話やすいのだろう、よく狙われる。
夏休み、か。思えば、社会人になってからは、いつも盆正月は働き詰めで。
土日祝日盆暮れ正月が完全に休みになる仕事なんてのは、今回が初めてだ。
どうしたものだろうか。
土日ですら時間を持て余し、他の仕事を入れてしまっているのに、1週間も休みを頂いてしまっては、よほど気をつけていない限り確実に引きこもって、鬱になる。
また妙な事がやりたくなって、奇行に走った挙げ句、仕事を辞めてしまうかもしれない。
どっか行く予定も金も相手もいない者にとっては、長すぎる。煉獄の1週間だ。
望む、望まないに関わらず、夏は来る。
夏が来るからと言って何か、特別な恩恵に預かれるなどということの決してない人間にも、平等に夏は来るのだ。
夏が来る度に、それでも毎年、淡い期待を抱く。生き物はそもそも、夏に活動するように出来ているのだ。年甲斐もなく夏が来たからそわそわしだしたって、責められる謂れはない。
あの時の夏は、アルパカだった。
初めての夏休み、今年は何か、特別なことをするべきなのではないだろうか。
楽しい夏の思い出というやつを、何か作った方がよいのではないか。
いつも通り「はあ。」とか「まあ。」とか、テキトーに答えていれば良かったものを、ちゃんと考えて答えてしまったのは、心の奥にせっかくの夏休みをちゃんと楽しみたい、有意義な休暇にしたいという願望があったからだ。しかし、口から出てきた言葉は、思いつきとはいえあまりにも、予想外のものであった。
「ええ、ラッコでも、見に行こうかなと、思ってるんですが。」
「ラッコぉ!?」課長さんの声が、裏返る。よほど意外な回答だったのだろう。夏休みの予定を聞かれてラッコと答える三十男、まず他にはいまい。
前の時はアルパカだった。
今度は、ラッコなのか。
「いや。ラッコ、見てると面白いんですよ。潜ったり。あ、そうそう、あいつら、回るんですよ、すごい勢いで。本当、見てると飽きなくて。中学生の時かなあ、修学旅行で。1日見てたんですよね、ラッコ。」
いつになく饒舌に語る相手に、今日は課長さんの方が「はあ。」とか「まあ。」とか答えている。反応に困っているのだろう。
社会人は常日頃、ラッコの良さを考えて生きたりはしない。
「江ノ島?」と聞かれて、ふむ、と考える。
江ノ島も悪くはないが、どこだったか、南の島に水族園があるのではなかったか。熱い風を切って進むフェリーで島に渡る、島にはラッコが待っている。なんだこれ、すごく楽しそうな企画じゃないか。
「まあ最悪。池袋でも。ラッコさえ見られれば、いいんで。でも、この時期一人で水族館はさすがにさびしいから、ダメ元で女の子でも誘ってみますかね。」
なんだろう、ワクワクしてきてしまった。つい、聞かれていないことまで語ってしまう。
「サンシャインかあ。なんか、新しくなったんだって。屋根にペンギンが飛んでるそうじゃん。」
うむ、何でこの人はこんなに水族館に詳しいのだろう。
「俺、あれがいいなあ。カワウソ君がさ、こう、穴から手を出して握手してくるの。」
「カワウソなら、そこの用水路にもいますって。」
「いるけどさ、握手してくれないじゃん。」
「まあ、そうですね。」
話がどうも合わないと思ったら、課長さんはカワウソ派だったか。似たようなものだとは思うが、カワウソは背泳ぎしないし、貝を割らないぞ。
ラッコの良さを課長さんに理解して頂こうと思ってつい話込んでしまい、気づけば30分が経過。いかん、このままでは仕事に巻き返しの効かない遅れが出てしまう。
正社員のお兄ちゃんが書類を抱えてきた隙を見計らってそそくさと退室したが、心は既に夏の計画に囚われてしまった。
例によって妙なことをやりたくなってしまった、やはり、限界近くまでストレスを溜めてしまっていたのか。
半月の後、夏休みが始まる。
見上げているのは既に、8月の空。
前の時は、アルパカだった。
今度は浮かんでいるあいつらに、会いに行く。
自分の存在に迷うとき、自分の価値に悩むとき。
人はラッコを見上げる、ラッコゲイザー。