sect.2
前の時は、アルパカだった。
そう。日々ストレスが溜まり、耐えきれなくなると、妙な事がしたくなる。
誰にも何も言わず、会社に行く格好のまま、何も持たずに突然船に乗って旅に出てしまうとか。
あれは大変なことになった。こちらはただ、五月の爽やかな陽射しを浴びて、きらめく海を見て、おいしいものを食べて、夜はよからぬところに行って。
一人旅を楽しんで「ああ面白かった。」と帰ってきただけなのだが、突然居なくなられた側はそれはそれは、大変どころではなく。
何らかの事件や事故に巻き込まれた可能性を疑い、警察にも相談。ポストに入っていた書き置きから察するに、近所の派出所の親切な前川巡査が、年単位で会っていない弟と二人でわざわざ様子を見に来てくれていたようである。
とにかく、お母さんが心配をしているから帰ってきたなら連絡をしてあげなさい、と書いてある。
後で聞いたところによると、もう1日帰って来るのが遅かったら、大家と警察の立ち会いのもと、アパートの部屋に突入。行方不明人として捜索が始まるところだったのだという。
そう。自分の中ではこの時まで、自分が突然音信不通の行方不明になることと、実家の母親に連絡が行くことが まったく繋がっていなかった。
ああ、行方不明になると家族が心配したり、警察を呼ばれて大事になったりするものなのか。
今思えば当たり前のことなのだが、その時はあまりの意外さに驚いてしまった。
なんとなく、自分にそこまでしてくれる人間など、一人もいないと思っていたのだ。
世の中は案外丸く出来ていて、そこからいなくなろうとしても、なかなかそうさせてくれない。
そうだろう。目の前自死しようとしている人間がいたら、理由の如何にか関わらず、とりあえずは止めるものだ。
目の前で自慰をしようとしているのとは、わけが違う。いや、できればそれも止めて欲しいが。
それは、人間として当然備わっている倫理観というやつだ。毎日のように何人も行方不明者が出ている現代社会においても、人が一人いなくなるというのは、なかなかに大事なのだ。
実際、さすがに悪いと思って会社に詫びの電話を入れたところ、とにかく明日からまた出勤しなさいという。てっきりクビになるものと思ったのだが。
日本には終身雇用という慣習があり、よほどの悪事を働かない限りは実際、そう簡単にはクビにはならないのだ。そして、辞めたくなっても辞めさせてもらえない。
しかし、間違って自分に向いていない仕事に就いてしまった場合はどうすればいいのだ?
自分には向いていない、自分には向いていないと思いながら、定年まで勤め続けるのか。
続けなければ向き不向きなんてわからないと、人は言う。
だが、不向きとわかった時には既に手遅れで、辞められなくなっているというのはシステム的に欠陥があるだろう。
五年、耐えた。
入社した際に本社の偉い方から「石の上にも三年と言いますが、向いていないともし感じても三年は我慢して勤めなさい」と言われたのが、五年前。
二年余分に勤め、義理は果たしたはずで、その二年の間にある日突然船に乗って旅に出てしまうくらい、既に何もかも嫌になっていて。
それでも、明日からまた出勤して、定年まで気まずい想いをしながら勤め続けるのだろうか。
あいつは突然船に乗って旅に出てしまうくらいこの仕事が嫌なんだ、そう思われながら、日々を過ごしていくのだろうか
。
絶対この会社、意地でも辞めてやる。そう決意したのは、まさしくこの時だ。
そしてそれ以降、恐ろしくて正社員として勤めたことはない。
そう、前の時は、アルパカだった。
あれは船で旅に出る二年前。入社三年目には明らかに向いていないデスクワークにすっかり嫌気が差し、そろそろ石から降りてもよいのではないかと考え始めた頃。
何かの間違いで、社運を賭けた一大プロジェクトが始まってしまったのだという。
原因は、ヒューマンエラー。
信じられない話だが、入札の金額を一桁間違え。
獲れるはずもなかった大規模開発プロジェクトを、ブッチギリ一位の安さで受注してしまったのだと言う。
帰ってきた営業の柳川係長は無言で腰を降ろし、頭を抱えた。「取れもしない入札言ってくるよ~。」と気さくに笑って出かけて行ったのだが。
事の重大さが伝わってくる。柳川このやろう。
嫌な、予感はした。たいていこういうろくでもない事態には、巻き込まれることになる。
その日から会社はまさしく社運を賭け、プロジェクトに臨むことになった。
もう、やるしかないのだ。相手はお上。間違えちゃいました!ゴメリンコ。と柳川係長が言って、なかったことにできる状況ではない。
日本には終身雇用という慣習があり、これだけのやらかしをしてもそう簡単に柳川係長はクビにならない。とにかく、柳川係長の指揮のもと全力を尽くすしかないのだ。
来月には現場が始まるというのに、現在の時点で準備の進行率は0%である。
なによりまず、人が足りない。
一桁少ない予算で人を使わなくてはならないのだ。赤字は避けようがないが、通常の賃金など支払えようはずもない。
そのテの話は、あっという間に拡がる。
いま人を集めてる来月からのあれ、なんか、給料安いらしいぜ。
人もいないから、休めないらしいし。
ただでさえ足りない。頭数が、ますます集まらなくなる。年季の長い、ウデのある人間ほど、集まらない。
朝から晩まで謝り、なだめすかし、「給料はちょっと安いけど安定しますよ、親方ヒノマルだから、当分なくならない仕事ですし」と頭を絞って考えたメリットを伝える。ウソをつく。
やるだけはやったが、所詮は焼け石にバーニングである。悪い噂はますます広まり、余計人が集まらなくなる。
仕方なく、新しく人を雇う。来月スタートの新規現場のスタッフ!として募集をかけ、ちょっとあれなアレでも最優先で採用。柳川係長の指示により、手と足生えてて日本語話せればOKだから!というレベルまでハードルが下がる。
しかし、相手はお上。人数を集めてテキトーに立たせておけばよいという現場では、ないのだ。
1ヶ月の間に、どうにか使えるレベルにまで教育しなくてはいけない。
そういった人間を使って、現場の運営をしなくてはいけない。
当然山のように入るであろうクレームに対処しなくてはいけない。
兵隊はもちろんだが、教育を行うものが、指揮を執れるものが。「お客さん」とある程度の話ができるものが、必要だ。
だが、年季の長い、ウデのたつ人間ほど集まらない。誰か、いないのか。暇そうな奴で。仕事できそうな奴。
お前だな。
そう言われてやっぱり?と思ったのは、もう九割方覚悟はしていたからだ。ここしばらく、もうプロジェクト関連の仕事しかしていない。深く関わりすぎた。
着なれない安スーツを着て毎日柳川係長について回り、誰がどうみても既に柳川チームである。
いや、自分は事務方なんだが。今度の現場のことだって、とりあえず人を集めなきゃいけないというのと、金と時間がまったく足りないということしか知らない。
そう言っても、聞き入れてもらえる状況ではない。この総動員体勢の中、事務方の人間とはいえ引っ張られることに例外はない。
まして、そこそこ頭が良くて仕事ができて、今回の件の経緯もある程度理解している。現場のスタッフとも、先方とも、話ができる。
さらに、無駄に現場関係の資格持ちである。条件としては満点に近い。逃れようがなかった。
めんどくせえ。とは思ったものの、そうは言っても、なんだかんだで入社以来初めて関わるビッグ・プロジェクトに心が踊っていた。
支社長に肩を叩かれ、お前にかかってるぞ、しっかり柳川を支えてやれな。と言われたのも大きい。
その気になった。
山のようなブ厚い資料を読み込み、現場スタッフや先方の顔と名前を頭に叩き込み。
空いた時間には現場周辺を歩き回って情報を集めた。戦に勝つには、まずは人の理を堅め、地の理を得ること。そうして初めて、天の理を得ることができる。
そもそも乗り気ではないが、やる以上には、勝つつもりで徹底的にやる。いつの間にか、柳川係長にアレはどうなんだ、
これはどうなんだと聞かれる側になっていた。柳川このやろう。
旅立つ朝には事務所の机を片付け、密かに作成しておいた「バカにもわかる引き継ぎマニュアル」を後輩の高田くんに渡した。
支社長からは事務方に帰ってきた時にはそれなりの立場を用意すると言われて送り出されたが、帰ってくるつもりはなかった。
このプロジェクトを死に場所と定め、自分の人生をかけて打ち込もう。何年かの後、プロジェクトが成果を上げたら。あれ、実は、まだ田んぼだったところから俺が始めたんだぜ!と、胸を張って威張ってやろう。
その時には、子供なんかもいるのかな。
おとうさんは、あのまちをつくったひとです。そんな風に、学校の作文で発表されて。誇りと憧れのこもった目で息子は見上げてくれるだろうか。まだ、結婚してないけどな。
先方の営業さんでボインのお姉ちゃんいたな。結婚してください。
そこまで決意を固めて、ついに現場がスタートしてから三ヶ月。
当初はまさに戦争状態で右も左も敵も味方もわからず、ひたすらてんやわんやで昼も夜もわからぬほどの混乱。
それがようやく落ち着き、順次、頭数も増えてなんとか休みも取れるようになった頃。
突然、事務方に呼び戻された。
後輩の高田くんが辞めてしまい、事務方の雑用をこなせる人間がいなくなってしまったのだという。悪いけど戻ってきて。
なんなんだ。これは、社運を賭けたプロジェクトじゃなかったのか。
自分にかかっているのでは、なかったのか。
自分がそれこそ必死で立ち上げて、ようやく日常的に運用できるようになったここにいるより、支社で雑用係をしている方が会社にとっては重要なのか。
初めて、支社長に逆らった。会社の指示には従うが、約束は守って頂く。それなりの立場を用意して迎えて頂きたい。
支社長もこちらの気持ちを汲んでくれたのだろう、さすがに「長」のつく役職ではないが、補佐代理筆頭心得見習いのよいなよくわからないポジションを与えてくれた。
給料の増えないまま仕事と責任が増え、高田くんの分まで皆の雑用をこなす。
支社長はウソはつかなかった。「それなりの立場」は用意してくれたのだ、まったく偽りなく、まさにその言葉通りに。
気に入らなかった。悔しかった。
今すぐ柳澤係長を殴って、会社を辞めてしまいたかった。いや、柳川係長は関係ないが、空気を読まずに残念、ゴメリンコ!と言われたので。
それでも辞めずに戻ったのは、必要とされていると思ったから。やっぱり、お前がいなきゃ支社の仕事が成り立たないんだ。頼むよ。
そう言われているのだと、思ったから。
再び始まるなんの面白みもない雑用の日々。しかし、心の中には、重い石が沈んでいる。大きく育つだけ育って、浮かび上がることなく沈んでしまった重い石だ。
どんなに真面目に頑張っても、目の前の自分の仕事に必死に打ち込もうとしても。決して削れることはなく、どんどん肥っていく、もう絶対に動かせない、重い石だ。
いつものなんの変わりもない日々を送るそれだけで、石が肥る。
その重さに耐えられなくなった、そう、その時が、アルパカだったのだ。
そこから二年、耐えた。
ある日偶然、あの現場の駅で降りた。
駅前は見違えるように綺麗になり、巨大なタワーが生えている。
田んぼばかりだったのに、二年でずいぶん進んだものだ。
あのままここに居れば、自分もあそこに浮かんでいたのかな。
五月の抜けるような青空に浮かぶタワーを、もう地の底に沈んでいるしかできない者が見上げている。
行こう。
自分はもう、あそこに浮かぶことはできないが、まだ、あいつらのように流れていくことは出来るはずだ。
少し向こうには、きらめく陽射しに川面が光り、船が泊まっている。
こんなに重くなった自分ですまないが、お前らと一緒に連れて行ってくれ。
流れて行きたいんだ、できれば海にまで行きたいな。
自分の存在に悩むとき、自分の価値に迷うとき。
人はラッコを見上げる、ラッコゲイザー。