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「失礼ですが。」
「何をして、おいでですか。」
警官が後ろに二人、立っている。そのうちのひとり、若い方が話しかけてきた。
後ろにいるのは知っていた。あえて、無視していたのだ。このラッコゲイザーの背後を容易くとれると思わない事だな。死ぬぞ。
「何って、お前。」
「これが八百屋で大根値切っているようにでも見えるか?」
声は、震えない。舞台俳優のようにはっきりと、よく通る真っ直ぐな声。だが、自分の言った台詞が可笑しくて、台詞の途中で思わず噴き出してしまう。
まだまだだな。あの人のようには、かっこよくやれない。
若い警官はムッとした顔をしている。からかわれたと思ったのだろう。実際、からかっているのだから、仕方ない。誰だって、からかわれれば腹が立つ。
「仕事、ですよ。他に何がありますかねえ。」
彼の気持ちを汲んで、少し丁寧に答えてやった。初対面の相手に対する態度としては、いささか無礼であったことは認めねばなるまい。しかし。君の質問が愚問であることがそれでなにか変わるわけではない。
出歩く人も少ない新年の夜半過ぎ。年季の入った作業着姿の男がひとり、ニッパーでパチンパチンと川辺の金網に穴を空けている。誰がどう見ても、一生懸命真面目に仕事をしている以外の姿には見えないと思うのだが。
若い警官は判断を仰ぐように、年配の方の警官をちらりと見る。
目の前の男があまりに堂々と仕事を続けているものだから、止めてよいものなのかどうか。迷いが生まれてしまったのだ。
自分の判断に自信と責任を持って行動しないから、そういう情けないことになる。自省すべきだな。
年配の警官が目で行け、と促し、若い警官が近づいてくる。
「あの。なんの、お仕事を―。」
聞かれたからには、答えなくてはなるまい。彼らにもわかりやすいように、はっきりと。
そうだ。挨拶もまだだったな。
目を閉じた。踵を揃えて。胸を張り、顎を引き、息を吸って、止める。それらが同時進行し、一瞬にして、理想的なフォームが完成する。一拍の後、右手を水平に上げる。
「ラッコゲイザー。」
瞬間。衝撃波が舞い、若い警官が吹き飛ばされ、尻餅をつく。
驚きはなかった。今の自分になら、このくらいは出来て当然。むしろ、出来る方が自然にさえ思える。
若い警官は目を白黒させ、信じられないようなモノを見るような目でこちらを見上げている。
自分がまさか、日常の職務中に「本物」に出くわすなんて、考えたことすらなかったのだろう。今だって、いつもの業務をいつもと同じようにこなすことしか頭になかったはずだ。
だから、遅れをとる。想定し得る最悪の事態は想定し得る最悪のタイミングで必ず発生する。リスクマネジメントの基本中の基本だと、研修でいつも教えていたはずなのだがな。
「お前!?」
後ろで呆けたように突っ立っていた年配の警官が、我に返ってまじまじとこちらの顔を見つめている。
なんだ。ファンか。このラッコゲイザーも売れたものだな。サインは後だぞ、仕事中なんだから。
立ち上がり、腰に手をやった若い警官を年配の警官が無言で制する。
良い判断だ。もし抜いていたら、引き金をひくより速く二撃目のラッコゲイザーが飛ぶところだった。
さっきのはただの挨拶だ。わざと当てなかった。本気なら警官二人くらい、いつでも薙ぎ倒せる。
年配の警官が、遠巻きに身構えつつ無線で応援を要請している。
いいぞ、呼ぶがいい。自分に誇りを持たぬ者など、何人こようがこのラッコゲイザーの敵ではない。わからせてやる。
ふと、風向きが変わったのを感じ、空を見上げる。東京があっち。だから、海はその先、か。
どうやら、始まったな。
奴等がガラス1枚の壁を越えて、こちら側にやってくる。
「ラッコゲイザー」と名乗るテロリストの手引きにより、突如ラッコが日本への侵略を開始したのはまさにその日、正月二日の夜のことだった。
北海道と四国は瞬く間に制圧され、全国の海岸線では自衛隊の必死の水際作戦が続く。
河川を遡上してきたラッコが隅田川を埋めつくし、一斉に高速横回転を開始。巻き起こった水飛沫が霧となり、浅草界隈を包んだ。
渋谷、スクランブル交差点。アスファルトを泳いで集まってきたラッコたちが揃って貝を割り始め、カンカンキンコンとやかましく音を立てる。興味本位で近づいた新年会帰りの若者たちは残らず頭をカチ割られ、パねえ、まじパねえと声を上げながら一人、また一人と血の海に沈んでいった。
新宿上空にはどこからともなく背泳ぎで流れてきたラッコたちが浮かび、その数、数百か、数千か、はたまた、数万。降下した落コ傘部隊によって都庁第二庁舎が占拠され、現在、突入した機動隊殷たちと激しい銃撃戦を繰り広げている。
さあ、これから、真の戦いが始まる。
ここから作り上げる、新しい世界だ。
赤く光る回転灯が周囲を囲んだ。
ラッコゲイザー/完