雨上がりの子猫は愛おしげに微笑んで
1年前、寝ようと思い布団に入って目を瞑った時、ふと思い浮かんだイメージがありました。目を瞑ってる時に見たのか、夢の中で見たのかは定かではありませんが、凄く印象に残っていました。
そのイメージにストーリー性を持たせていき、今回短編小説にして投稿しました。
僕は我を忘れて必死で街中を走り回った。
今までにない事態に僕は焦っていた。
心の底から嫌な予感がふつふつと湧き出してくるが、淡い期待でそれらを押し殺し平静を保とうとする。
家々の間の細い隙間を逐一覗き込み、茂みの中も入念に探して周った。
しかし、何処にも彼女の姿は見当たらない。
たかが一秒の時間の流れさえ今はとてつもなく重くのしかかり、不安、焦り、恐怖が僕の心臓を握り潰さんとばかりに痛めつける。
空には暗雲が立ち込めてきている。
気が付けば雨も降り出してきて。
どれだけ走り回っていたことか。
草を掻き分けて、
ようやく彼女に会えるという期待に胸を膨らませ、
無我夢中に走り抜けたその先には、
彼女の姿があった。横たわる彼女の姿が。
僕はいつも一人だ。
誰にも見向きもされず、誰にも優しくされず、誰にも愛されることなくまた今日という空白のページを捲るような無意味な日々を過ごしている。
巨大な爬虫類の皮膚のようにごつごつしたアスファルトを見つめながらただただ歩く日々。
特に宛がある訳でもない。でも、じっとしていてもいつか干からびて死んでしまうだけ。
僕は今日も一人だ。
もう何日も食事を摂っていない、空腹のあまり意識が朦朧とし目眩さえ感じるが、それでも今日も歩き続ける。
生きていても意味がない。でも死にたくない。死ぬは怖い……。
例え生きていることに意味が見出せなくとも、死の近づきをこの身に感じると生に縋りつきたくなる。
それが生き物としての本能。
死が怖くないものなんて居ない。
僕はずっと一人だ。
今日は雨が酷い。ついこないだまで肌を突き刺すような鋭い日の光を放り込んできた太陽は、ここ最近は元気が無くなってきたようだ。
空から落ちてきた雨粒が肌に当たると、ひんやりと地肌に触れて僕はブルっと体を震わせる。その身震いは僕に、また嫌いな季節が到来する予感を与えていた。
僕は雨が嫌いだ。
ただでさえ一人ぼっちのこの身をより一層孤独感が苛む。でも、皮肉なことに雨の日は僕にとっては都合が良かった。雨が降ると外を歩く人の数が減るからだ。
ポツポツとすれ違うビニール傘を差す人達には見向きもせず、それとは逆方向に僕は歩を進め、細い路地裏へと入る。
すると、建物の裏口の戸が開き一人の男が片手で雨を嫌いつつ、大きな袋を青いバケツの中に放り込んだ。戸の中からは僕の胃袋をギュッと締め付けるような匂いがして、無意識の内に僕は男の持つ袋を凝視していた。
男はバケツの蓋を乱暴に閉めると、また戸の中へと消えていった。
その男の気配が無くなったことを確認すると、青いバケツのもとへと歩み寄る。
乱暴に蓋をされたバケツは半開きで、その隙間から中を覗き込むと中には飲食店から出た食材の切れ端、それと残飯がぎっしりと詰まっていた。気がつけば僕は我を忘れて無我夢中にそれを貪った。
また今日も雨か。
僕はまた一人で歩いていた。
今日はいつもとは違う道を歩いてみる。たまには見知らぬ場所へ行ってみるのも良い気分転換になるし、人気が少ない場所であれば尚良し。
河から河川敷を挟んだ住宅街の小道を歩く。
いくつかアパートらしき建物が見当たるがその殆どが一戸建てで、それになかなか年季の入った物ばかりで人気の無い家もちらほら。となると当然道を歩く人の数も少なくなってくる。
なかなか良い散歩スポットを見つけたかもしれないと思いつつ、僕は徐々に狭くなってきた道からより狭い道を選び歩を進める。
しばらく進むと僕は袋小路に入り込んだ。
こっちは行き止まりかな。
小道を曲がった行く先、狭いスペースを高いブロック塀が塞ぎ、その前にはゴミ袋が積まれていた。
空腹を満たせるようなものが入っている気配は無く、ブロック塀からは雨粒の滴る木が顔を覗き、その先は建物の壁が聳えている。
僕は来た道を戻り他の道を探そうした。
――
僕は振り返る。雨音に混じり何かが聞こえてきたそんな気がしたからだ。
ただのゴミ置き場であるその場所をしばらく見つめるが、穴の空いた開きっぱなしのビニール傘に当たった雨がポツポツと音を立ていることと、廃材になったのであろうトタン板が風に当たりギィギィと鳴いていること以外は特に変わった物は無い。
きっと気のせいだ。
僕はそう思い、また前を向くと袋小路を出た道をどららへ進もうかと吟味する。
――ミー
僕はその僅かな音、鳴き声のようなものを確かに鼓膜に捉えると、さっと振り返りゴミ袋の方へと歩み寄った。
今のはもう聞き間違いではない。確かに聴こえた。物音とかでは無く誰かが呼ぶような……声?こんなゴミ置き場に?子どもが隠れられるような場所は無いが、小さい動物などであれば或いは……。
僕は左右を見渡し、ゴミ袋を一つ一つ確認する。もしも得体の知れない物が飛び出してきたらどうしよう……。
好奇心と、それに勝るとも劣らない恐怖心が自分の中で拮抗し、もう一歩近づく勇気がなかなか出ずに首をぐっと伸ばしその声の主を探す。
――ニャー
聴こえた。あそこからだ。
ゴミ袋が重なり影になっている、壁沿いの狭いスペース。僕は少しばかり躊躇い、重い一歩を大きく踏み出すとそっとそこを覗き込んだ。
……猫だ。
「ニャー」
とことことそこから小さな猫が顔を出した。どうやらゴミと壁の隙間を利用して雨宿りをしていたらしい。
猫は思いの他可愛らしいものが出てきたなと安堵に緩む僕の顔を見上げると、またニャーと鳴いて鼻をクンクンさせながら歩み寄ってくる。
白、黒、茶色の三色で短毛、右顔は茶色の割合が多く、反対は黒の割合が多い。口元は白い毛が覆っており、体は茶色と黒の縞模様になっている。これは三毛猫の中でも縞三毛と呼ばれるものだ。
猫は小刻みに体を震わせていて、どうにも様子がおかしい。
ゴミ置き場の隙間というのは雨宿りにしては心許なく、空から降る雨を凌ぎきることはできない。何処から来たのか、いつから此処にいたのか、体は雨に濡れ、毛が倒れてより一層その痩せた姿を際立たせている。
そこで僕はふと気づいた。猫の右脚、膝関節の外側からやや下辺り。
あ、怪我してるんだ……。
猫は怪我をしていた。
足回りは毛が白く、その痛々しい傷が僕の目はしっかりと捉えていた。歩行に大きく影響を及ぼしている程では無いものの僅かに跛をひく姿はいたたまれない。
猫は僕に特別警戒心を抱いている様子は無く、足元へと寄ってくると今一度クンクンと匂いを嗅ぎ、そっと体を寄せては僕を見上げでニャーと鳴いた。
「お前何処から来たんだ?」
「ニャー」
「お前も一人なのか?」
「ニャー」
「お腹空いてるのか?」
「ニャー」
そっと頭に手を伸ばし、優しく撫でてやる。
その温もりを確かめるように、その温かさを噛み締めるように、猫はグルグルと喉を鳴らした。
「今日は天気が良い」
僕は今日も一人で歩く。アスファルトのその先にゆらゆらと踊る栗色の葉を見据え、いつもよりも背筋を伸ばして。
この町を流れる大きな河から河川敷を挟んだ住宅街の小道に差し掛かり、道沿いに真直ぐ。
突き当たりを右へ、その先二つ目の家を越え左へ曲がり、少し歩いてまた右へ。
向かいに聳える家々の間の細いスペースを通り抜け、左を覗いたところには誰にも使われていない藪に囲まれた小さな小さな空き地がある。
そして、ここが僕らの秘密基地だ。
空き地の角にはゴミ置き場に捨ててあった布とダンボールから作られた小屋を設け、猫はその中で豆になって寛いでいる。人でいう正座に近い、後脚を畳み前脚を胸元に仕舞って座っている香箱座りが豆のように見えるから、そう呼んでいる。
猫は脚に怪我をしているからしばらくはこうして落ち着いた場所で安静にするのがいい。
「今日は大漁だぞ~」
「ニャ~」
僕は手に持つボロボロの袋から半分中身の詰まった缶詰と、食べかけのコンビニ弁当、黒く焦げた一匹の魚を取り出すと、弁当のパックの上に盛り付ける。
見た目はあまりよろしくないし、捨てられた物を拾ってきたので味も保証できない。そして何よりこの黒焦げの魚は見た目が強烈。所々垣間見える焼き魚本来の姿から見るに、これは恐らく秋刀魚だと思う。
だがしかし文句は言ってられない。
いくつかの食材が詰まった弁当に、焦げているとはいえ焼き魚を丸々一匹手に入れることができたのは十分な収穫だ。
僕はそのオリジナル黒焦げ秋刀魚弁当を全て猫の前に差し出す。猫は首を伸ばしクンクンと鼻を震わせると、黒焦げの魚を見て怪訝な面持ちでそれを伺う。
流石にこのままでは食べられないよな。
僕は魚に手を伸ばすと表面を覆う焦げを可能な限り削ぎ落とし、食べれそうな部分を小分けしては弁当パックの惣菜スペースへと改めて盛り付け始める。
マグロの解体ショーばりのその光景を猫は目を丸くしてまじまじと見つめ、黒い塊だっだ物がだんだんと食欲を唆る物へと変わっていくのに興味深々な様子だ。
「はい、これなら美味しく食べられるぞ」
猫はまたそれに顔を寄せクンクンと鼻を上下させると、先程とは違う食欲に満ちた表情で徐にパクパクと頬張った。とても、とても満足気な表情で。
僕はそれが本当に嬉しくて、しばらくその姿を見守った。
自然と頬が緩みながらもその様子を伺っていると、猫はふっと顔を上げた。
「どうした?美味しくなかったか?」
猫は一度こちらの顔を見上げるとその小さな頭で弁当パックを一生懸命に押し、まだ半分残っている食事を僕に差し出した。
「これ、僕にくれるの?」
「ニャー」
確かに僕もすごくお腹が空いていたが、それを悟られないようお腹が鳴るのをぐっと堪えていた。
でも、この子はそんな僕の痩せ我慢を知ってか知らずか、わざわざ僕を気遣って食事を分け与えてくれた。
まだ大人になりきっていないこの子からしたら、これだけの食事では空腹は到底満たされていないはずなのに。
なんて優しくて、なんて温かいんだろう。
あぁ、これが与えられる優しさなのか。これが嬉しいってことなんだ。
僕は今までずっと一人だった。ずっと、ずっと……。誰かに優しくされたことなんて一度も無かったし、されたいとすら思いもしなかった。
他人から与えられるものはいつも軽蔑と偏見の眼差しでしかなく、時には暴力を与えられることもあった。心も体も傷ついて、満身創痍だった僕の前に唯一光を与えてくれるものが居るのだとしたら、それはこの子なんだ。
初めて感じることのできたその温もりを抱いて、僕はそう思った。
それからの僕らは日々の時間を共に過ごした。
猫の怪我が治るまでは僕が食料を調達し、秘密基地へと持ち帰り一緒に食事を摂る。
僕と猫は少しずつお互いのことを知り、お互いの心を開いていった。この子は女の子で、か弱いながらもこの広大な世界で一人健気に生きてきたんだ。
僕は彼女の過去について深く詮索するつもりはないし、それは彼女も同じ。今この時、笑顔で向かい合えるそんな日々がずっと続いてくれるだけで僕の心は満たされた。
今日は彼女に何をプレゼントしようか。
ある日は壊れかけのおもちゃ。
ある日は汚れたぬいぐるみ。
ある日は公園に落ちていたボール。
ある日はボロボロの絵本。
毎日違うものを僕が持ち帰ると、彼女はそれはもう大層喜んだ。
大して遊び道具にもならなさそうな物でも、僕の持って帰ってきた物を見るや否や真ん丸な目でそれを見つめては、早く頂戴と言わんばかりに前のめりになって首を伸ばしてくる。
気がつけばこの秘密基地も囁かな賑わいを見せていた。
拾ってきた物が雨に濡れないようにダンボールも新調して、小屋の両隣に設置した。
彼女はそれらに囲まれながらコレクションルームさながらの満足感に浸り、両脚を放り出してぐでっと横になって寛いでいる。とても気持ちが良さそうだ。
ふと視線を足元に向けると、怪我も順調に回復しているようで一安心。これなら近々一緒に散歩にも行けそうだし、今のうちに近くで綺麗な散歩スポットでも探しておかないとな。
僕は彼女の頭に手を伸ばし、そっと優しく撫でてやった。
今日は一人で河川敷を歩いてみることにした。
普段は鉄くずやゴミの匂いで混沌とした街中の隅っこばかりを選り好んで歩いていたが、せっかく二人きりで散歩をするならば誰にも邪魔されずに落ち着いて歩けるところがいい。
できれば頬を撫でる風が気持ちよくて、彼女が喜びそうな綺麗な花なんかが咲いてたら尚良し。
僕は秘密基地のある場所からあまり離れすぎない程度の距離で彼女との最適な散歩スポットを探した。
河川敷を道なりにしばらく歩き続けていると、ふと前方の道沿いに綺麗な色のしたものがゆらゆらと揺れているのが見て取れた。
僕はそれが気になって、惹きつけられるように駆け足でそのもとへと向かう。
すごいきれい……。
そこで僕が目にしたものは、辺り一面に咲き誇る色とりどりの花々の姿だった。それは河川敷の散歩道を挟んで、更に奥へと誘うかのように道沿いに連なっている。
僕はしばらくの間その光景に見蕩れていた。
それは眼前に広がる景色がただ綺麗だったからという訳では無い。今まで周りに目を向けることを避けて足元ばかりを見て歩いていたが、一度顔を上げて辺りを見渡してみればこの世界ではこんなにも美しく、心に響くものに巡り会えるということを初めて知ったからだ。
今まで歩いてきた道だって、まだまだ僕のしらない景色が広がっているのかもしれない。そう考えると、不思議と胸がざわついて奇妙な高揚感がピリリと僕の体を揺さぶった。
風に靡いて互いに身を寄せ合う花を見渡しながら歩を進める。それらの色は赤、白、ピンク、黄色など様々で、それぞれ違った表情を浮かべて僕を歓迎してくれているように思えた。
これらが何の花なのかまでは僕には分からない。ただ、そんな中でふと一輪の花が目に留まった。
それは周りに並ぶ花よりも背丈は低いが、その可憐さと相反してシャンと背筋を伸ばす姿に強さを感じさせる、優しい表情を浮かべた黒色の花だった。
僕はその花と、秘密基地で僕の帰りを待つ彼女の姿を重ねる。
きっとこの花は彼女に似合うはずだ。
そう思いその花を一輪摘むと、ほのかに届いたチョコレートの香りが僕の鼻を擽った。
今まで様々なプレゼントを彼女の待つ秘密基地へと届けてきた。だが、今回選んだこの一輪の黒い花は今までには感じたことのない忙しない胸の高鳴りを僕に与えていた。
これを彼女はまた喜んでくれるだろうか、ダンボール箱で作られたコレクションルームへと加えてくれるだろうか、そんな一物の不安と期待による昂りなのだろうとその時の僕は思っていた。
凛とした面持ちのその花が、どこか悲しい表情を浮かべてこちらを見つめていたことに僕は気づかず、
彼女の待つ秘密基地への帰路に就いた。
河川敷を挟んだ住宅街の小道に差し掛かり、道沿いに真直ぐ。
何度も何度も通った道。この花を彼女に手渡し、明日河川敷へ、この花を摘んだ場所へと一緒に行く約束をしよう。
突き当たりを右へ、その先二つ目の家を越え左へ。
一歩、また一歩と彼女のもとへ近づいていると思うと、胸の高鳴りが増していく。
少し歩いてまた右へ。
一秒でも早く彼女の喜ぶ顔が見たい。気が付けば僕は小走りで道を進んだ。一輪の花を大事に抱えて。
向かいに聳える家々の間の細いスペースを通り抜け、左を覗いたところには誰にも使われていない藪に囲まれた小さな小さな空き地がある。
そして、そこに彼女の姿は無かった。
僕は我を忘れて必死で街中を走り回った。
彼女があの場を離れたことなんて一度も無かったのに、いつも僕の帰りを待っていてくれたのに、秘密基地の何処にも彼女の姿は見当たらなかったからだ。
今までにない事態に僕は焦っていた。誰かに見つかって連れて行かれたのか、他の動物に襲われて逃げ出した、或いはもう既に……。
心の底から嫌な予感がふつふつと湧き出してくるが、彼女も元々はこの街で暮らしていたのであれば以前の住処に行っているだけかもしれない、空腹のあまり自分の足で食べ物を探しに行っただけかもしれない、そんな淡い期待でそれらを押し殺し平静を保とうとする。
家々の間の細い隙間を逐一覗き込み、茂みの中も入念に探して周り、彼女との出会いの場であるゴミ置き場にも行った。しかし、何処にも彼女の姿は見当たらない。
たかが一秒の時間の流れさえ今はとてつもなく重くのしかかり、不安、焦り、恐怖が僕の心臓を握り潰さんとばかりに痛めつける。
まさか、河川敷の方に行ったんじゃ……。
動揺のあまりに頭がぼーっとしていて考えが回らなかったが、河川敷からの帰り道の途中でも彼女の姿は見当たらず、これだけ街中を探しても見つからない。
であれば、帰り道ですれ違ったのかもしれない。足を止めずにそのまま住宅街を駆け抜けて河川敷へと向かった。
空には暗雲が立ち込めてきている。そんなことはどうでも良かった。
気が付けば雨も降り出してきて。それでも一心不乱に彼女を探した。
どれだけ走り回っていたことか。知らない間に体中が擦り傷だらけになっていた。
会いたい。顔が見たい。抱きしめたい。ただ彼女のことだけを想って河川敷を走り回った。
今までに感じたことの無い焦燥感と動悸に気が動転していて、油断をしたら意識が薄ら薄らと遠のいていってしまいそうになるのを感じる。
しかしそれでも、わずかに脳裏に響いた彼女の声を僕が聞き逃すことは無かった。
っ……!
途端、僕は足を止めると耳を立ててその声のする方に意識を向ける。
一見すれば辺りには先程降り出した雨粒の音しか聞こえないが、僕には確かに聴こえた。ここから真直ぐ、あの背の高い草むらの向こう側から。彼女の呼ぶ声が。
……。……。……!
また聴こえた、あっちだ!
僕は駆け出した。
茂みの中を突き進み、確かに届いた彼女の声を頼りに、一目散にその声のもとへ。
草を掻き分けて、ようやく彼女に会えるという期待に胸を膨らませ、無我夢中に走り抜けたその先には、
彼女の姿があった。横たわる彼女の姿が。
え……?
それと、その周りを囲むようにして立っている三人の少年らの姿。
その光景を見るだけでは彼らが何をしているのかは分からない。彼女がどうして横たわって動かないのかも分からない。
一つ分かることがあるとすれば、少年らは笑っている。そしてそれが僕にはとてつもなく恐ろしいものに見えたことは間違いなかった。
次の瞬間、僕は目を疑った。少年の中の一人が、彼女を蹴った。とてつもなく恐ろしい、不気味な笑みを浮かべて。
え、なんで?
彼女を蹴った?
どうして?
あまりに不可解な出来事に思考が停止し立ち止まって呆然としていると、次第に息が荒くなり、鼓動が乱れ、じっとりとした嫌な汗が全身を這うように伝わり始める。
ふと一人の少年が僕の存在に気づいてこちらを見た。
すると、一人、また一人と続いてこちらを見る。三人は僕の方を指差すと揃ってケタケタと笑い出して、何か言葉を投げ付けるように口をパクパクとさせた。
だが今の僕には何も聞こえない。乱れる呼吸と理解が出来ない状況にぼーっとする意識の中。脳裏に甲高く響く耳鳴りがこの場全ての音を掻き消している。
僕がこの場に立ち尽くしているのをいいことに少年らはまた僕に何か一言を投げかけると、その内の一人が彼女の前でしゃがみ込んだ。
何をするんだ……。
少年は横たわる彼女の首根っこへと手を伸ばす。
やだ……やめろ……。
他の少年らはそれをケタケタと笑い見下ろす。
やめろ……やめてくれ……!
伸ばした手が彼女の首を掴み、持ち上げようと腕に力を込めたその時。
――たすけて……。
僕は少年の腕に噛み付いた。考えるよりも先に体が動き、ただ彼女を救うために。
少年は突然の出来事に驚いてバランスを崩すと、一歩二歩と仰け反り僕を跳ね除けようと腕を振り回す。僕は我を忘れて懇親の力でその腕に食らいついた。
彼女を笑った。彼女を傷付けた。彼女を奪った。彼女を……。
少年の腕に食らいついた顎にじりじりと力を込める度、心の奥底から濁流のように激情の波が押し寄せて僕の頭の中を埋め尽くす。
腕に噛み付かれた少年は激痛のあまりかその場に留まらずのたうち回り、僕を振り解こうと必死になって腕を降り続ける。
周りの二人は困惑し、暴れる少年を抑えきれずにおどおどと見守ることしか出来ていなかった。
僕は激情の渦に飲み込まれもはや何も考えることが出来なかったが、それでも少年の腕を離そうとだけはしなかった。
しかし、少年は噛み付かれている右腕とは逆の手で僕の頭を掴むと、腕を大きく振り下ろすと同時に僕を強引に引き剥がした。
僕はとてつもない衝撃と共に地面に叩きつけられ、少年らと彼女を隔てるように地面に横たわる。
倒れちゃいけない……。僕が彼女を守らないと……。僕が……。
横たわる体を必死に持ち上げて立ち上がろうとするが、節々に力が入らずバランスを崩す。
感情の昂るあまりか痛みを感じることは無かったが、地面に叩きつけられた衝撃に体が悲鳴を上げているようだ。それでも何とかふらふらと立ち上がると、突き刺すような目つきで少年らを睨みつけた。
しがみつく僕を引き剥がした少年は血の滴る腕を抑えながらも恐ろしい化物でも見たかのような目で僕を見て、周りの二人は血相を変えてその少年のもとへと駆け寄る。
今のは不意を突けたから一矢報いることができたものの、もしも3人に囲まれてしまったら成す術がない。そしてもはや、先程の衝撃で負傷した体を引き摺ってまで彼女を守ることはもうできない。
もう諦めてくれ……。こんなことは……。もうやめてくれ……。
ふらつく体を抑えて、肩を上下させながら僕はそう願う。そう願いながらも、少年らからは決して目を逸らさなかった。
すると、少年らは踵を返して僕の前から走り去って行った。
その後ろ姿が見えなくなるまで気を緩めることなく彼女を背にして立ち続け、そして少年らの姿が見えなくなった途端、ふっと緊張の糸が切れて僕はその場に倒れ込んだ。
歪む視界の中、ぐったりとする彼女の姿が目に写り、雨に濡れて弱々しく横たわる彼女のもとへと僕は体を引き摺る。
早く、せめて雨の当たらない所に連れていってあげなくちゃ……。
彼女の頭に手を添えて、雨音に負けないように声を上げて呼び掛ける。
「もう大丈夫だよ。あの子達はもういないから」
……。
彼女からの返事は無い。
強さの増してきた雨音のせいで聞こえなかったのか、僕はもう一度呼び掛ける。
「随分と探したんだ。さぁ、一緒に帰ろう」
……。
それでも彼女からの返事はない。
降り募る雨が無情にも僕の体温を奪い始め、まるで想像もしたくない事実を受け止めろと言わんばかりに、騒がしい雨音が僕と彼女の距離を遠ざけていく。
「……」
……。
彼女に添えた手が震え始め、徐々にこの状態が何を意味するのかを悟り始める。それでも信じられない。信じられるはずがない。
つい昨日まであんなに元気にしていたのに。
僕の持ってきた食事をあんなにも美味しそうに頬張っていたのに。
僕からのプレゼントをあんなにも喜んでくれていたのに。
嫌だ嫌だ嫌だ。彼女を失いたくない。もう一人になりたくない。
「お願いだから目を開けて。僕を一人にしないで。お願いだから……」
降り注ぐ雨粒と共に頬を伝う、雨よりも少し暖かい雫が彼女の小さな額に落ちた。
その時、彼女の耳が僅かに動いた。
そして、ゆっくりと目を開ける。
周りの音も何もかもが意識から消えてなくなり、彼女だけが僕の世界に浮かび上がる。
彼女は細い前脚で上体を力いっぱい持ち上げ僕に顔を近づけると、僕の頬に伝う雫を優しく舐めた。
その瞳に焼き付けるかのように僕を見つめ、僅かに開いた瞼をゆっくりと閉じ、彼女はその場に力なく横たわった。
降り頻る雨の下、僕の腕の中で、彼女が目を開けることはもう無かった。
僕はまた一人で歩く。
あれからどれほどの時間が経っただろうか。僕はまた彼女の眠る場所、色とりどりの花々が立ち並ぶ散歩道へと足を運んでいた。道からやや逸れた茂みの奥、人目のつかない落ち着いた場所に僕は彼女を埋めてあげた。
辺りは綺麗な花に囲まれ、河のせせらぎが心を落ち着かせる。彼女はここで眠っている。
永遠に眠ったまま、もう僕に笑顔を向けることも無く、この花道を一緒に歩くことも叶わずに。
僕は彼女との出会いの場であるゴミ置き場へと向かった。
ゴミ山の前で立ち止まり、あの日のことを思い出すと僕は一歩踏み出してゴミと壁の隙間を覗き込む。
あの日の記憶が蘇り、一瞬そこに彼女の姿が浮かんだ気がした。でも、もう彼女は此処には居ない。
次に、僕と彼女が共に時間を過ごした秘密基地へと向かう。
彼女との思い出の場所で、彼女の面影を少しでも感じていたかった。
何かの間違いで彼女が僕の前にひょっこりと顔を出すんじゃないかと、そんな儚い希望を胸の何処かに抱きながら。それでももう、彼女は何処にも居なかった。
もう何日も何日も何度も何度も同じところをぐるぐると回っている。
彼女との出会いの場であるゴミ置き場。
彼女と時間を過ごした秘密基地。
彼女の眠る河川敷の花道。
もう誰も居ないしばらく放置されていた秘密基地は、雨に濡れたダンボールが縒れてボロボロになり、中に入っていたガラクタは汚れて散らばっている。
その光景をしばらくの間見つめると、僕はその場に俯いた。
彼女との出会いは僕に両手では抱えきれないほどの温もりを与え、彼女との別れは僕から全てを奪い去った。何かを得るのが初めてならば、また失うのも初めて。大事なものを失うことがこんなにも辛いことだなんて知らなかった。
ぐっと瞼を閉じて目の奥が熱くなるのを堪えると、秘密基地に背を向けて路地への出口へと向かった。
太陽の日差しがわずかに差し込む家々の細い隙間をとぼとぼと俯きながら歩く。
その時、何かが日差しを遮り僕に影を落とした。
ふっと顔を上げ、細道の奥、路地の方へと目を向ける。僕は壁で狭まった視界の隅に、路地を横切る人影を捉えた。逆光の中に浮かび上がる風に靡いたワンピースの裾が僕の視線を惹きつけて、視界から消えていったその後を追うように小走りで路地に出た。
細道を出てその人影が向かった先へ振り向くと、少し歩いた先で立ち止まる少女の姿があった。白いワンピースに身を包み、風に揺れる黒いショートヘアに季節外れの麦わら帽子を被っている。
その少女は僕に気づいたのか、ゆっくりと振り向くと僕を見つめ、また僕も彼女を見つめた。
「あなたは誰?」
気づけば僕は突拍子もないことを聞いていた。
僕は何を言っているんだ?今までの僕なら赤の他人に話し掛けるなど有り得ない。ましてやたまたま前を通りすがっただけの人を呼び止めるような真似までして。
「……」
少女は僕の問いに応えようとしてか、一瞬口を開こうとするが思いとどまるようにそっと閉じると、僕を見て何か思う事でもあるかのようにその美しい顔立ちに儚げな微笑を浮かべ、また僕を優しく見つめる。
傾きだした陽が僕と少女の影を伸ばし、家屋の隙間を渡る涼風が草花を揺らす。そんな世界でまるで二人だけの時間が止まったかのような錯覚に陥った。
すると突然、彼女が走り出した。黒い髪と、白いワンピースを靡かせて。
僕ははっとして脚を一歩踏み出す。何故だろう、考えるよりも先に体が動いて、気が付けば僕は少女の後を追っていた。
見失わないようにただ走った。曲がり角を曲がった少女の後を追い僕もその道を曲がると、まるで僕に「付いて来て」とでも言うように少女は少し先で後ろを振り返る。
そして僕の姿を見つけると、また走り出す。
少女の走り行く道を僕はよく知っている。
何度も何度も足を運んだ、河川敷への道のり。その後ろ姿をこの目に映し続け、その後を追ってしばらく走り続けると少女は徐に立ち止まった。
あの雨の降る日に出会った、彼女の眠る場所の前で。
「綺麗だね」
そこに立てられた枝の墓標の前で少女は屈むと、僕の供えた一輪の黒い花を見つめてそう囁いた。
優しげに、でもどこか遠くを見るかのように儚げな笑みを浮かべてそれを見つめる少女のそばへと、僕は歩み寄る。
どうしてこの場所が分かったのか、何故僕はここにいるのか。何かに思いを馳せるような少女の横顔を見ると、そんな疑問は何処かへと消えていった。
「それはね、そこに眠る子猫にあげたものなんだ。きっと似合うと思ってさ。彼女は喜んでくれたかな」
僕もその花を見つめ、彼女の姿を思い出してそう呟く。
「うん、すごく嬉しいよ」
少女は応えるように囁いた。まるでそれが自分のことであるかのように、まるでその花が自分のために供えられたものであるかのように。そしてひと呼吸置いて少女は腰を上げると、僕の方を向いて満面の笑みでこう言った。
「だって、あなたがくれたプレゼントだもの」
「え?」
言っている言葉の意味が理解できずに口を開いたままでいる僕をよそに、少女は続ける。
「私ね、あなたに伝えそびれたことがるの。私の名前はリア」
「リア……?」
「あの日あなたは一人の私を見つけてくれて、孤独の中から救い出してくれた。すごくすごく優しくしてくれた。毎日私にご飯を持ってきてくれて、毎日私の怪我を気遣ってくれて、毎日私にプレゼントをくれて、それが本当に、本当に嬉しかったんだよ。私、幸せだった」
「何を……え……?」
目の前に居るリアと名乗る少女が語るのは、それは知る由もない僕と彼女だけの掛け替えのない想い出の数々。
「私の願いを一つだけ、聞いてもらってもいいかな?」
そう言うと少女は両手を腰の後ろに回し、頬を赤らめて僕から少しばかり顔を背けると視線だけをそっと向ける。
「……リアって呼んで……」
少女は僕の瞳をじっと見つめた。それはまるで彼女に見つめられているようで、僕の次の言葉を待ち望むように。
僕はまだ戸惑いを隠せないでいた。突然目の前でそんなことを言われてもどうすればいいのか分からない。
なんとか頭の中で今の状況を整理しようとふと視線を少女の足元へと向けると、少女の体が足先の方から徐々に薄くなっていっているのが見えた。
それを見た途端、心の中の迷いが消え何かを悟ったように口を開いた。
まさか本当に。
「リア……」
「……うん」
彼女、いや。
「リア、なの……?」
「……うん、そうだよ」
本当に、本当に、
「会いたかったよ、リア」
「うん、私もだよ」
その少女リアは、姿は違えども確かに彼女だった。
リアの笑顔から僕の心に響くこの温もりは、確かに彼女に与えられたものだ。
リアは僕の言葉を一瞬も聞き逃すまいと、頬を赤らませながら瞳を閉じて僕の声へと耳を傾ける。
「リア」
「なに?」
「リアをもっと早く見つけてあげられなくてごめん」
「ううん。私嬉しかった」
「リアをもっといろんなところに連れて行ってあげられなくてごめん」
「ううん。私あの場所が好きだった」
「リアにもっとまともなご飯を食べさせてあげられなくてごめん」
「そんなことないよ。とっても美味しかった。でもあの真っ黒なお魚は少しびっくりしたかな」
「リア……」
「うん」
リアの姿がゆっくりと空気に溶け込んでいくように薄くなっていく。
それはこの時間の終わりが近づいていることを告げているようだった。リアに伝えたいこと、伝えなければならないことはまだまだたくさんある。しかし、刻一刻と迫る最期の時を思うと次の一言がなかなかでずに僕は口篭った。
リアは俯く僕の顔を覗き込むと、また優しく微笑んで僕に言った。
「最後にもう一つ、あなたに伝えたいことがあるの。とっても大事なことを」
僕はゆっくりと顔を上げリアを瞳に映す。リアは、あの日彼女が僕に見せてくれたようなとても温かくて、とても優しくて、とても愛おしげな笑顔を浮かべながら最後の言葉を紡いだ。
「ありがと」
リアの体が足元から光の粒となって空へと昇り始める。それを見ると、目の奥がじわっと熱くなって僕は思いの丈を叫んだ。
「リアと出会えて嬉しかった!」
リアは閉じかけた瞼を開いてはっとして顔を上げる。
「僕は今までずっと一人だった。すごく寂しかった。すごく辛かった。生きていたって何も楽しくなくて、死んでしまいたいって思ったこともたくさんある。でもリアと出会ってから毎日が本当に楽しくて、帰ったらリアがいると思えば辛かったことも全部忘れることができて、こんなこと生まれて初めてだった!生きてて良かったって心の底から思えた!」
僕の言葉を噛み締めるようにリアは頷く。
「リアと一緒に行きたいところがたくさんあるんだ!この花道だってリアと一緒に歩きたいと思って見つけたんだよ。もっと美味しいものを食べさせてあげたい。もっとたくさん一緒の時間を過ごしたい。だから……」
目頭から溢れそうになるものをぐっと堪えながら、リアの瞳をしっかりと見つめ直す。
「リア……待って、嫌だ行かないでリア……!また僕を一人にしないで……お願いだから……リア……」
――ごめんね。でも、ずっと見守ってるから。
「リア!」
僕は駆け出し手を伸ばす。
そして僅かに残るリアの姿が光となって完全に消え去ろうとした時、優しい微笑みを浮かべるリアの最後の姿をこの目に焼き付けた。その頬を流れる一粒の涙と共に。
伸ばした手が空を切って指の間を光の粒が流れていった。
勢い余ってそのまま前のめりになると、足を躓かせて地面へと転がる。
握り締めた掌をゆっくりと開くと、そこには一粒の光が柔らかく瞬いていた。
「行かないで……ずっと一緒に居れる思ってたのに、もう一人は嫌だよ……寂しいよ……リア……」
僕は掌の中の光を握り締めて胸に抱え込んで蹲ると、心に押し込めていた思いを吐き出した。
「リア、大好きだよ……」
僕は泣いた。
長い間心の中にずっと押し込んできた感情諸共全て吐き出して、
文字通り心の底から泣いた。
僕はいつも一人だ。
誰にも見向きもされず、誰にも優しくされず、誰にも愛されることなくまた今日という空白のページを捲るような無意味な日々を過ごしている。
巨大な爬虫類の皮膚のようにごつごつしたアスファルトを見つめながらただただ歩く日々。
生きる希望だったものを失い、心の中に閉じ込めていた感情を全て吐き出して、必死で今の自分を保っていた仮面ももう無い。
僕は今日も一人だ。
もう何日も食事を摂っていない、空腹のあまり意識が朦朧とし目眩さえ感じるが、それでも今日も歩き続ける。
もはや生きていても意味がない。いっそのこと死んでしまった方が楽になれるかもしれない。今の僕はまるで魂を抜かれたかのようにげっそりとした虚ろな表情を浮かべていた。
僕はずっと一人だ。
今日は雨が酷い。何度も何度も通った住宅街のこの道を、僕は今日も歩いている。下を向きながら歩いていると、道路にできた水溜りに自分の姿が映った。
なんて酷い顔をしているんだろう。今まで僕はずっとこんな顔をして歩いていたのだろうか。
いや、きっとこうなってしまったのはリアを失ってからだ。
リアは僕に生きる理由を与えてくれた。そして僕はその生きる理由を失った。
残されたものはもう何もなく、文字通り僕の人生は空っぽになってしまい、もう生きていく理由も完全に見失ってしまった。
もうしばらく何も食事を摂っていないせいで体は衰弱しきって、無気力なままに俯きながらとぼとぼと歩く。
そのせいで気づくのが遅れてしまった。
普段は人通りが少なく、車もめったに通らないはずのこの道路で、背後から迫るトラックの存在に。
雨が降っていて視界が悪いこともあり、トラックの運転手は僕の存在には気づいていないようでスピードを落とさずに突っ込んでくる。
急いでこの場から離れる気力はもう無い。いっそのことこのまま車に轢かれてしまった方が楽になるのかもしれない。そうすればリアにまた会えるのかもしれない。
きっとこれは僕に与えられた最後の選択だ。
もうこの世界に居ることにも疲れてしまった。
だからもういいんだ。
僕は首をぐったりと垂らして力無く俯き、終わりの迫るこの世界に別れを告げるように瞼をゆっくりと閉じた。その瞼が閉じきる直前、ヘッドライトの光が僕の目に突き刺さり、彼女の姿が脳裏をかすめた。
死を覚悟したその刹那、背後から何かに押された。
僕は突然の出来事に前のめりになって、バランスを崩しつつも顔を後方に向ける。
そこには、純白の光彩を浴びているかのように白いワンピースを纏う少女が立っていた。
いや、違う。
僕の目にははっきりとあの日々を共に過ごした彼女、子猫の姿が映し出されていた。
気づけばもう雨もあがって雲間から日が差し込み始めている。
走馬灯を見るかのようにゆっくりと流れる時間の中、僕の足元から上がる水しぶきが空から降りた光を包み込んできらきらと揺らめく。
その一粒一粒が彼女を映し出し、僕の脳裏に焼き付けた。上体が宙に浮き、徐々に彼女から遠ざかる時間の中、僕は今にも消えそうな光に縋るように手を伸ばした。
君は本当に優しいんだね。
こんなにボロボロになってしまった僕をわざわざ助けに来てくれたんだね。
君を助けてあげられなくてごめん。
もう命を投げ出そうとなんかしないよ。
君に救ってもらった命をもう無駄にはしない。
ありがとう。
彼女の姿が光の中に溶け込むように薄くなっていく中、僕は今一度心の中で彼女への感謝の気持ちを伝えた。
――私も大好きだよ。
彼女を包み込む光は宙に浮く雫の中で幾重にも瞬き、
雨上がりの子猫は愛おしげに微笑んで、
まるで今見たことが夢だったかのように光の中へと還っていった。
彼女のもとには一輪の黒い花が残されていた。
僕はそれを掬い上げると、そっと胸に抱いて彼女の分まで生きると心に誓った。
その花からはほのかにチョコレートの香りがした。
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晴れた天気の光の反射が、液体のように、みずみずしい閑寂の空気を室内に湛えている。
カーテンの隙間からあまく光が差し込んで、明るい陽がゆらゆらと、窓辺に座る女性の膝の上に落ちた。
そこには、白と黒の毛並みに身を包んだ猫の姿。猫は香箱座りになってぐっすりと眠っている様子だった。
その女性はそんな猫の頭をゆっくりと優しく撫でてやると、猫は夢の中で何かを思い出しているかのように、ポツリと一粒の涙を流した。
僕は猫を飼っています。
うちの猫もよく香箱座りをしてぐーすか眠っているのですが、たまにむにゃむにゃ寝言のようなことを言いだすんですよね。
それをうちの親が見て、「野良猫だった頃の夢見とるんだわぁ」って言っていたのを思い出し、
猫にも想い出がいろいろあるんだろうな~と思って書きました。
猫だって昔を思い出して感傷に浸ることくらいあるのさ!窓辺で外を眺めてる時なんかね。
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