8 おい、俺の娘を泣かせたな? と伊集院龍三が言った……
伊集院静から差し入れてもらったおにぎりを食べながら俺は今日も棋譜を並べる。昨日ならべたNHK杯の次の大会の棋譜だ。最近は本という形ではなくても、ネットでも棋譜を公開してくれているから、大変ありがたい。動画などでその対局を再現してくれるのもあるが、俺は自分で碁石を実際に並べないと雰囲気がでない。
電子書籍には慣れることができたのに、棋譜では慣れない。人間とは不思議なものだ、などと棋譜を並べながら考えているくらいだから、俺は囲碁に集中出来ていないということだ。
百人一首部は新入部員を獲得できたのか。
気になる。見学に一人でも来てくれたら良いのだがな……。
どうも居ても立ってもいられなくなった。百人一首部の部室。残念ながら、廊下からは和歌を詠む声などは聞こえてこない。会話をしているような声も聞こえては来ない。
コンコン
「どうぞお入りください」
部室にいたのは、伊集院静だけだった。新入部員、来てないのか……。
「あの……弁当箱返しにきた。美味しかったよ」
何と言って良いか分からず、その部屋を立ち去ろうとした俺に伊集院静が声を掛ける。
「佐藤様……。よろしければ、部活動の終了時刻まで、一緒にいていただけないでしょうか」
そして、キュッと唇を締める。そして、畳に敷かれている百人一首の札へと視線を移す。
俺も正座して、伊集院静の対面に座る。畳に並べてある百人一首を挟んで向かい合った形だ。
「見学、来るといいな」
「はい」
気休めの言葉しかかけることができない。そして、重い空気が床の間に漂っている。会話がなかなか続かない。
沈黙の中で、一時間が経過した。部活動の終了時刻だ。そのチャイムの音が無情に響く。部活動登録期間が終わってしまった。百人一首部、今年の新入部員数はゼロ。
部活動にも流行り廃りというものはあるものだ。囲碁を打つ学生が増えるのか、それは誰にも分からないし、百人一首を愛する学生が増えるかも知れない。どちらも、日本で古くから愛されてきた文化だ。消滅したりはしないだろう。
「見学希望、誰もいらっしゃいませんでしたね」とポツリと伊集院静が呟く。そして、畳の上に水滴が落ちる。伊集院静は泣いているのだ。悔しいのか、悲しいのか、残念なのか、それは良くわからない。
「私は部長失格でしょうか……」
百人一首部の部長だったのか……と思いつつも、部員が他にいないのであれば、部長ということなのだろう。
「そんなことはないと思う」
「来年、新入部員が入らねば、私の卒業と共に部員がいなくなってしまいます。百人一首部に在籍されていた諸先輩がたから受け継いだ伝統を私で途絶えさせてしまうこと。無念でなりません」
「来年は、新入部員が入るかも知れないじゃないか……」
「ですが……これから一年。私は、また、一人のでございましょうか。正直申し上げますと、私は部活動が楽しくありません。一人で、札を作る、和歌を書き写す、和歌への理解を深める。探究すべきことはありますが、一人ではいか様にもできませぬ」
百人一首部の部長。責任を感じて、ずっと部室に顔を出すようにしていたのか。百人一首部は、競技カルタをする部活であろう。それならば、一人では活動のしようがないではないか。競技は相手があってこそ成立する。俺が棋譜を並べるというようなこととも違う。部員が現在いないということは、去年からずっと一人で活動を続けていたのだろう。
律儀な気がするし、頑固な気もする。新入生歓迎のビラなどを配ったりしていないところを考えると、伊集院静は不器用なのかもしれない。
でも、問題なのはそこではない。婚約者?であることもこの際、関係がない。目の前で一人の女性が泣いている。それが問題なのだ。
「これ使って」
「ありがとうございます。洗ってお返し致します」と言って、伊集院静は涙を拭く。
教育者としての立場でいうなら、新入部員が入らず涙する。それも青春だと思う。運動部であれば、退会を優勝して終わらなければ、敗北によって引退が決まる。それで涙するのも青春だし、十歳も違わない俺が言うのもなんだが、振り返れば良い思い出となっているはずだ。でも、そんなことは、安すぎて言うことができない。いや、言ったらそれこそ教育者ではないかも知れない。
俺が出来ることは、泣き止むのを待っていることだろう。
・
・
俺が家に帰った時、インターホンが鳴った。宅配便だった。小包の中には、三つ折りにされた紙と、スマートフォンと、電子鍵。差出人は、伊集院龍三だった……。
三つ折りにされた紙は、登記簿謄本だった。何だろうと思ったら、「所有権に関する事項」という欄に俺の名前が書いてある。住所は赤坂……。
あ、伊集院龍三が言っていた。
『これで、一軒家でも買いなさい。そうだ、この物件なんてどうじゃ? 我が家の隣が丁度売りに出ているのじゃ』
まじか……。買った覚えないけど……。ってか、土地の代金も俺は一円も払ってないし。これ、法律的に問題あるんじゃね? それに、固定資産税とか幾らになるか知らないが、俺に払えるのであろうか……。八億円だったか、それの1.4パーセントを掛けても、一千万円を超える……。そんな税金払えないぞ……。
電子鍵は、この買った家の鍵ということだろうか……。
そして、嫌な予感というものは当たるから不思議だ。
小包に入っていた携帯電話が鳴る。それに、ダー○ベーダ—のテーマソングが着メロって、狙ってないか?
「はい……佐藤ですが……」
「おい、俺の娘を泣かせたな?」
間違い無く伊集院龍三の声だった。
「えっと……」
「まぁ良い。とりあえず、今週に引っ越しを終わらせておけ。土曜の十時に業者を手配しておいた。あと、家具類は備え付けてある。家具類は思い入れが特に無いなら捨てろ」
「えっと……?」
「あと、お前、貸金庫を契約していないのか? 土地の権利書とかどうするつもりだ?」
「どうするつもりとは?」
「おい、寝言は寝て言えよ? で、希望の暗証番号はあるか?」
「えっと、○×△■」
「自分の誕生日を暗証番号にしてどうする? 希望が無いなら、娘の誕生日にしておくぞ」
「娘さんの誕生日?」
「もしかして忘れたのか?」
「いえ……」
もとから知りませんと言ったら、俺は死ぬのだろうか……。
「以上だ」
ツゥー ツゥー ツゥー ツゥー
伊集院龍三は一方的に電話番号を切った。良く分からない。
そして、携帯電話が勝手にしゃべり出す。
「この携帯電話は、二十秒後に自壊します。破片が飛び散る恐れがあります。ご注意ください」
は? 使用後に自爆機能が付いている携帯電話? スパイ映画か?
「この携帯電話番号は、十八秒後に自壊します。破片が飛び散る恐れがあります。ご注意ください」
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「この携帯電話番号は、十秒後に自壊します。破片が飛び散る恐れがあります。ご注意ください」
だめだ。電源ボタン長押ししても、電源が落ちない……。悪い冗談だよな?
「この携帯電話番号は、八秒後に自壊します。破片が飛び散る恐れがあります。ご注意ください」
窓から外に投げるか? いや、危ないか……。
「この携帯電話番号は、六秒後に自壊します。破片が飛び散る恐れがあります。ご注意ください」
あ、昨日のお風呂のお湯、流してない。水に沈めれば……。
「この携帯電話番号は、二秒後に自壊します。破片が飛び散る恐れがあります。ご注意ください」
ポチャン。
ゴホォ……
浴槽から水柱が立つ。マジで自壊しやがった……。何処へ行った……俺の日常……。