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玉の緒よ  作者: 池田瑛
3/13

3 百人一首部の部室でお茶を啜る

 伊集院龍三氏が返ってから、嵐のように忙しかった。伊集院龍三氏自体が嵐なのだが、どうやら台風の目に入っただけで、嵐は去っていなかった。

 忙しい理由は、研究室の引っ越しだ。俺は准教授から教授へと昇格してしまった。昇格は紙一枚を大学から貰う。給料のベース、そして使える研究費の上限が上がるのは嬉しいことだが、自分の研究が認められてというよりは、伊集院龍三氏が何かをしたのだろう。時期が不自然過ぎる。4月も中頃を過ぎたこの時期の昇格。そういう人事が仮にあったとしても、年度末にはその人事が発表されていてしかるべきだ。


 まぁ、そんなことよりも、研究に使う本の移動が大変だ。准教授用の部屋から教授室まで、俺は台車を推しながら何往復もしていた。本って結構重い。肩が痛くなってきた。日頃の運動不足のせいもあるかもしれない。

 教授室になって、本棚の数が増えたのは嬉しいが、もっと嬉しいことが実はある。それが、俺が今、休憩しながら飲んでいる珈琲だ。教授室のある階に用意されたカフェスペース。教授は、珈琲が無料なのだ。しかも、こだわりの珈琲で、香り豊かだ。

 美味しい珈琲が飲める。これは、國與女大学の優れた伝統だ。


 珈琲の香り漂う教授室。そこで哲学的な考察を行っている教授たち。そして、その教授たちは、自転車に乗って大学へとやって来る。

 そのような教授たちの姿を見て、日本に流入してくる西欧文明の姿を目の当たりにし、知的好奇心を刺激される國與女大学の学生たち。

 教授たちは、いわば、時代の最先端を行くファッション・リーダーであったのだ——


 ——百年以上前の話だけど……。


 当時は珍しく、びっくりするくらい高級品である自転車。そして、まだ珍しかった珈琲。ハイカラということであろうか。

 

 まぁ、時代は流れても、珈琲を無料で飲めるという伝統が維持され、そして俺はその珈琲を飲みながら休憩をしているというわけだ。

 

 さてと、と俺は重い腰を上げた。とりあえず、教授室の本棚整理は後にして、今日のうちに本の移動は済ませておきたい。あまりダラダラやると、周一コマ持っている自分の授業の準備に支障が出てしまう。


 ・


 大学の授業が終わった。夕方六時からが文化部の活動時間だ。

 俺は、棋譜を片手に囲碁部の部室へと行く。新入生が訪ねてくる様子はない。学生が入りやすいように扉は開けているのだが、『新入部員歓迎』くらいの張り紙を出す営業努力は必要だろうか? いや、だがそれは顧問の職分を越えている。


 それに、どうも先ほどから集中できない。

 伊集院龍三氏の娘。百人一首部に所属しているのであろう。だが、俺は名前も知らない。俺の授業を履修している学生の名簿を見たが、『伊集院』という苗字の学生はいなかった。もちろん、全校生徒の名簿などを見れば分かるのだろうが、そんな個人情報の塊のような名簿に、一介の准教授、教授がアクセスできるほど、この学校のセキュリティーは甘くはない。


 碁盤に集中できない。


 俺は、結婚をしたのか? 昨日の女学生の夫になったのか?


 あり得ないだろ……。百年前なら、周りから祝福されたかも知れないが、当時と今は状況が違う。教授と女学生が愛を暖めて目出度くゴールインする事例よりも、教授がセクハラで訴えられて職を失う事例の方が圧倒的に多いのが現代だ。


「謝罪はしておくべきだろうな……」


 囲碁部の部室から出て、文化棟の廊下を歩く。茶道部の部員だろうか。華道部の学生だろうか。数人の学生が振り袖を着て、ビラを抱えて出て行く。下校していく新入生にビラを配るのであろう。


 うん。囲碁部の顧問が……。それに、学生ではありえない男が、部活勧誘のビラを配っていたら怪しいよな。やはり、勧誘行為は辞めておこう。


 百人一首部の部室の前。深呼吸を一度してから、扉をノックする。昨日の過ちは繰り返さない。


「どうぞお入りになってください」


 よし、と俺は扉を開けて百人一首部の部室の中へと入る。部室の基本構造は囲碁部の部室と変わらない。床の間。まぁ、囲碁を打つのも、茶道をするのも、華道をするのも、百人一首をするのも、畳の上だから、同じ構造であって然るべきであろう。


「あっ、佐藤様……」

 

 驚いた顔。あっ、新入部員が訪ねてきたと思っていたのか? って、百人一首部も新歓中だよな? 他の部活の部室と違って、何もアピールがなかったぞ? って、俺の名前、知ってるのか……。って、当たり前か……。あの伊集院龍三が飛んでくるだけの事態だもんな……。


 それにしても、他の部活は、『和極神髄 ——茶道部 新入生歓迎——』とか、『華人賛合 ——華道部 新入生歓迎——』とか、綺麗な色和紙で作られた張り紙などが扉の前に張ってあったが、百人一首部にはそんなの無かったぞ? 他の部員がいる様子もない……。


「お上がりになってください」


「あ、失礼します」


「お茶をお煎れ致します」


 シャカシャカシャカ


 俺は正座をして、お茶を立ててくれている様子を眺める。


 ここ、百人一首部だよな? なんか、お茶を入れるって、これ茶道してないか? 「釜」が百人一首部の部室にあるの、いろいろとおかしい気がするのだが。本格的過ぎるし……お懐紙も菓子切りも持って来てないぞ! というか、百人一首部で、お懐紙や菓子切りが必要になるとか、誰が想像できようか!


「お点前頂戴いたします」


 うん、旨い。珈琲ばかり飲んでると、たまにお茶も飲みたくなる……って和んでいる場合ではない。茶器を拝見したりはしないぞ! 思わず流れに乗ってしまったが、優雅にお茶飲んでる場合じゃ無い。


「昨日はすみませんでした。私の不注意です」


「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした」と、両手を八の字にして頭を下げる。やはり、伊集院は裏千家の礼法らしい……って、そんなことに突っ込んでいる場合じゃない!


「いやいや。頭を上げてください。それで、いろいろと伊集院家にはしきたりがあると聞いたのですが……」と俺は右手で頭の後ろを掻きながら言う。分けの分からない風習過ぎて、理解不能で、口に出すのが恥ずかしい。


「その件に関しまして、父が先走ったようで、大変申し訳ございませんでした。実は、その件で佐藤様にご相談したいことがございました。私の方から本来ならば伺わねばならぬ所を、ご足労頂き感謝いたします……」


 ……前置き、なげぇよ! 何言われるか不安になってきた……


「私はまだ、学生の身分であり、結婚をするにはまだ未熟な者です。それに、伊集院家のしきたりを佐藤様に押しつけてしまうのも如何なものかと私は考えております」


 お? 伊集院龍三よりも理解がある?


「それに、そのしきたりはいささか古風であるかとも私自身考えております」


 そうだよな。今の時代で、肌を見られたから結婚とか、いろいろおかしいだろ。良き伝統もあるが、やはり時代遅れになってしまう価値観というのもあるのだ。それに、肌を見られたから結婚というのなら、水泳の授業など、どうやっていたのか? 普通に水着になるわなぁ。

 それに、今の世の中、自由恋愛の時代だ。今時の学生が、しきたりに従って結婚とかありえん。


「ですので……まずは、婚約という形からはじめさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 うんうん。今の時代にそぐわないよな——って、婚約?


「婚約?」


「ご不満でしょうか? 」


 いや、なぜ婚約と結婚の二択なのだ? そこを二択にする意味あるのか?


「佐藤様が望まれるなら、私は構いません……」


 和服の懐から綺麗に四つ折りにされた紙を取り出す。そして、それを畳の上で広げていく。


 あ、その書式見たことある……。


わたくしが書くべき個所はすべて記入させていただきました」


 「伊集院 静」という名前なのか……。俺は、目の前に広げられた『婚姻届』を見ながら思う。


 なるほど、学生ということで結婚をするのにはまだ早いと思っているのが、伊集院静なのであろう。だが、俺が今すぐにでも結婚したいのであれば、それに応ずるという事なのだろう。

 できれば今すぐ結婚というのは避けたい……。結婚ではなくひとまず婚約という形に譲歩して欲しい。


 そういうこと? 


 俺は、婚姻届から、伊集院静へと目を移す。その表情は真剣そのものだ。

 なぜ、「まずはお友達からで〜。Li○eの交換をしましょう〜」という選択肢が自分の目の前に提示されていないのかが不思議でならない。結婚ではなく、婚約からお願いします……。

 いや、いろいろおかしいだろ……。


「如何でございましょう?」


 ……


「分かりました。婚約からということでお願いいたします……」


「我が儘をもうして申し訳ありません。感謝致します」


 うん、とりあえず、まずお互い自己紹介しなきゃな……。

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