12 あっ、ごめんまだ引越し蕎麦用意してなくて
「送っていただきありがとうございました」と伊集院静が礼を言う。刑務所か何かかと思うような高い塀。それに囲まれた伊集院家。門構えもは、旧加賀屋敷御守殿門、通称”赤門”と形は似ている。ただ、こっちは漆が塗られて黒曜石のように黒光りしている。
「いやいや。どうせ近くだし」って、土曜日からお隣さんですけどね。
「折角ですので、珈琲を飲まれていかれますか? 直ぐにご用意できますが」
「気を使わなくていいよ」
「そうですか。父も母も歓ぶと思うのですが……」
伊集院龍三が? いや、それは無いように思えるが……。携帯電話の自壊の件、あれは割と洒落になっていなかった気がする。
「いや、えっと……引越し蕎麦を持ってまた改めての方が良いと思う」
引越ししてすぐに配らないと、引越し蕎麦を配るタイミングって意外と失いやすい。後日配ろうなんて思っていても、今さら配っても? などと今さら感が出てしまう。今週の土曜日か日曜日には万難を排して引越し蕎麦を配る様にしなければと、俺は固く決意する。
「引越し蕎麦でございますか?」
「あれ? 知らなかった? 俺、あっちの家に引越ししたんだ」と言う。伊集院家の塀が続く先を俺は指差す。伊集院家の敷地がでか過ぎて、お隣同士というには少し日本語が変かも知れない。
皇居の外堀の道を挟んだすぐに住んでいるマンションの住民が、天皇家が道を挟んだお隣さんと思わない感覚と同じかも知れない。敷地が広すぎるのだ。引越し蕎麦なんて、そんな粗品、伊集院家は要らないだろう。
「お隣様でございましたか!」
「まぁ、そういうことになるかな」
「嬉しいです。我儘言ってもよろしいでしょうか?」
「ん?」
「あの……朝も一緒に大学までご一緒させていただけると嬉しいのですが」
「いいけど……って、その前に一つ聞いていい?」
やはり俺には聞かねばならないことがある。
「はい」
「俺が婚約者になったりして、それで良かったの? その……しきたり、とかに縛られる必要はないんじゃないかな?」
「私は佐藤様が私の婚約者となってくださって、心の底から嬉しいです」と伊集院静ははっきりと答えた。
彼女の何が、そうはっきりと断言させているのか俺には分からない。本当にそれでいいのだろうか。俺はこのまま、どんどん伊集院静を好きになってしまって良いのだろうか。時代遅れのしきたりに盲目していたと、伊集院静が気付いて、俺から離れてしまう日が来るのではないだろうか。
俺は、このまま、どんどん伊集院静を好きになってしまって良いのだろうか。
「佐藤様……。まだまだ、婚約者として未熟な私でございますが、何卒よろしくお願い致します」と伊集院静は礼をする。
「こちらこそ、未熟な婚約者だけど、よろしくお願いします。そうだ、伊集院静さん。明日からで良いのだけど……静って呼んでいいかな?」
「如何様にもお呼びください。ですが私といたしましては、『静』と呼ばれた方が、婚約者同士らしいと言いますか、佐藤様と私の距離が近いように感じられて、とても嬉しく思います」
「じゃあ、そう呼ぶようにする。じゃあ、俺のことは健一で」
「明日からでございますね? 少し恥ずかしいです……。ですが、明日、しっかりとお名前をお呼びできるように、本日しっかりと練習したいと思います」
「あぁ。俺も練習しておくよ」
「では、明日」
「朝、七時にここに迎えにくるよ」と言って立ち去ろうとした俺に、静が声を掛ける。
「あ、あと……本日、健……。佐藤様と手をおつなぎすることができて、とっても嬉しかったです」
「あぁ。俺も嬉しかった。じゃあ、お休み」
「お休みなさいませ」
「あ、そうだ。今日、俺が読めなかったあの山の名前、何だっけ?」
かなり難読の漢字があったのだ。地名はやはり難しい。
「筑波嶺でございます」
「そっか。筑波嶺か。難しいなぁ。『筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる』だったけ?」
「その通りでございます」と静は言った。
「そっか。その通りだったか」と俺は言って笑った。静も、本当にその通りでございますねと笑った。
俺達はきっとこれからも積もらせていくのだろう。




