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玉の緒よ  作者: 池田瑛
10/13

10 和洋折衷の不思議

 月曜日の部活動の時間。今日も俺は、百人一首の歌を詠んでいた。

 真剣な表情で取り札を眺める伊集院静。その表情に俺の心は、池に映った月のようになっている。そしてその池に石を投げ込み、池面(いけも)を揺らすのもまた、伊集院静だ。


「『い〜』」


 パシッ

 

 伊集院静が取り札を取るのは早い。上の句全部詠む意味が無いのではないかと思うほどだ。俺が、『い』しか言ってないのに、その手が動く。それに、あまりに手さばきが速すぎて、取り札が部屋の隅までくるくると回転しながら畳の上を滑っていく。勢い有り過ぎだろ……。


「『今来むといひしばかりに長月の』って、ちょっとタイム。今、俺、『い』しか言ってないのに分かったの?」

 

 伊集院静は予知能力者か。


「はい。百人一首では、『い』で始まる歌は、三首ありますが、すでに、他の二枚は取りましたので、『い』から始まるのは、この『有明の月を待ち出でつるかな 』しか残っていないのです。先ほど、佐藤様が、『いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな 』と『今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな 』はお詠みになったので、消去法と言いますか、それで『い』だけ聞けば分かるのです。もし、この三枚がどれも詠まれていない状況なら、『いに』まで聞くか、もしくは『いまこ』もしくは『いまは』まで聞かなければ判断ができませんが……」


 いや、何でも無いように説明しているけれど、百人一首を暗記しているだけでも凄いのに、どの歌が詠まれたかも記憶し、そして取り札の場所も記憶しているってことだ。

 

 記憶力が凄い……。今の俺には絶対出来ないだろう。今の俺は、とてつもなく眠いのだ。


 土日、あまり眠ることができなかった。枕の高さが変ってもなかなか眠れないのに、枕も、ベッドも、寝る家も変わってしまった。

 

 それは土曜日の朝の事だった。寝ていたら、インターホンが鳴り、そしてやって来たのは運送業者。ドカドカと俺のアパートの荷物を梱包していく。荷物と言っても、本と衣服くらいだ。白物家電などは、持っていく気がないらしい。洗濯機、ベッド、電子レンジ。どんどん廃棄されてしまう。


「冷蔵庫の中の物も処分して良いでしょうか?」と尋ねられる。


 開けてないビール缶を一つ取り出し、俺はそれを飲む。冷凍庫に去年の夏から入れっぱなしにしていたガリ○リ君は、諦めよう。

 うん、寝起きにビールを飲んでも、あんまり目は覚めない。朝はやはりコーヒーが一番か、と俺はテキパキと働く運送業者を眺めながら、なぜかそんなことを考えた。


 伊集院龍三が手配したという運送業者だ。もともと荷物が少なかったし、運送業者の手際が良いので、一時間足らずで梱包と荷物の運びだしが終わった。そしてそのまま引越し先へと俺の体も移動。


 場所は赤坂。そして、伊集院家の隣の家。お隣さんになりました。

 引越し業者が荷解きまで全てやってくれるというらしい。俺は、本の並べ方に一家言あるのだが、それはおいおい自分で並べ直しをしようと思う。そう考えると、引越しに自分が出来ることは何もなく、俺は高い塀に囲まれた敷地の中にある日本庭園を散歩する。いや、敷地に庭園があるって、意味不明だ。

 庭園には池があり、黄金色の鯉や、白に紅のブチのある太った錦鯉が泳いでいる。

 あ、これ、手を叩いたらやってくるのかな? 


 ポンポン、と俺は両手を叩く。


 池を自由気ままに泳いでいた鯉が、俺が立っている岩の方へと方向を変えて泳いでくる。


 さすがに躾されているなぁ。いや、犬じゃあるまいし、これはしつけなのか? 餌が欲しいだけなのか? って、俺、餌持ってないや……。って、俺、こんな場所で何をやっているのだ? 俺の人生はどうなってしまうのだろう……。


 ・


 ・


 まぁ、そんな感じで、伊集院家の隣に引っ越しをし、眠れなかった。いや、普通なら眠れないと思う。いきなり名前も知らない女性と婚約者になり、ワンルームマンションから高級住宅街のそのまた高級な家に住むようになる。俺を取り巻く環境が変わっただけではない。俺の心にずっと波紋が広がっている。広がり続けている。そして、俺はその波紋の名前を知っている……。


「そろそろ、部活の活動時間は終わりだな。今日はこれくらいにしようか」


「ありがとうございました」と、すっと畳の上で伊集院静が礼をする。先ほどまで、取り札を部屋の方々にまき散らすじゃじゃ馬のようであったのに、礼をする姿は大和撫子そのものだ。


「それじゃあ、気を付けてね」


「あ、あの佐藤様……大変言いにくいことではあるのですが……」


 畳に立った俺と、そして正座したままの姿で俺を見上げる伊集院静。


「どうかしたの?」


「父が、婚約をしたのだから親に登下校を頼るのを辞めなさいと、私を叱りまして……。本日より迎えが来ないことになりました」


 あ、あぁ。國與女大学の正門前には、ロータリーと駐車場があり車の乗り降りが可能なのだ。昔は、馬車での送り迎えが当たり前で、その伝統を引き継いでか、車で送り迎えをしている学生が多い。長年警備員をしているおじさんの話だと、昔は送り迎えは、黒塗りのセンチュリーを使うというのが、國與女大学の伝統であったらしい。ただ、そのおじさんの話だと、ここ二十年でベンツやBMW、レクサスなどの車も使われ始め、古き良き伝統が崩れ始めたと嘆いていた。國與女大学の伝統も、変化の波に常にさらされているということなのだろう。


「そうなんだ……」


「恥ずかしながら、電車などの交通手段を使うという知識はあるのですが、その……所詮は知識であって、実際に出来るかは別問題でございます」


 上から見下ろす方になってしまっているためか、何となく伊集院静に上目使いをされているようなシチュエーションとなってしまっている。上目使いに男が弱いと言うのは、千年前から変わらないのかも知れない。


「送っていこうか?」

 家も、お隣さんになったし……。伊集院龍三め、狙ったな?


「感謝致します」


「じゃあ、帰ろうか?」


「えっと……。着替えをしなければなりませんので……」


「ん? あっ、じゃあ、囲碁部の部室で待っているから」


「お手数をお掛けして申し訳ありません」


 ・


 ・


 囲碁部で待ちながら、着替えってなんだ? と考える。そういえば、伊集院静と婚約者になったきっかけも、着替え中の場面に遭遇してしまったからだ。でも、なぜ着替える?


「お待たせしました」


 えっと……。

 後ろで結んでいた長い髪をほどき、春らしい白を基調とした長裾のワンピース姿。化粧も少し変えたのであろうか。


 いや、伊集院静で間違いないのだが……。


「洋服は似合いませんでしょうか……」


「あ、いや。似合っている」

 むしろこっちの方が好みだ……とは言わない。いや、言えないけれど。


「良かったです」と伊集院静は安心したように笑顔になる。その笑顔は、ワンピースに刺繍されている花柄と良く合った笑顔だ。桜は散れど、まだ春は続いているようだ。


「着物をいつも着ていると思ってた……」


「あの、着物は部活動の時だけで、普段は洋服を着る様にしております。他の方も、そうされていますので……」


 考えてみればそうか。確かに授業風景で、和服で授業を受けている生徒を見かけた記憶がない。だが、文化部棟ですれ違う学生は大体着物だ。なるほど、洋服と和服の棲み分けがされていたのであろう。

 昔ふっと文化部棟を歩いていて、成人式のように夜会巻きであったり、複雑に編み込んだ髪型の学生がいないなぁと疑問に思ったことがあったのだが、授業時間中は洋服で、部活動時間中が和服なので、時間が掛かるような髪型はみなしていなかったということなのだろう。和洋折衷。國與女大学の学生が編み出した工夫というわけだ。


 それに……着物姿の伊集院静では気付かなかったが、洋服姿の伊集院静とは、何処かで何度かあったことがある気がする……。


「伊集院さんは、俺の講義を履修していたことってある?」


「いえ、ございませんが? 何かございましたか?」


「いや、なんでもない。では、帰ろうか」


 俺の気のせいか……。まぁ、俺も男だ。こんな目の覚めるような美人と会っていたら、忘れるはずなんてないじゃないか。

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