1 百人一首部の扉の向こう
入学式の余熱はすっかりと冷め、そして桜は散った。
入部希望者は今日も来なかったな、と碁盤の上に並べ終わった棋譜を崩しながら俺はため息を吐いた。新入生を勧誘するビラや看板を一切作っていないし、囲碁部が存在しているということを知っている新入生が一人いるかどうかも怪しい。
それに、この國與女大学囲碁部は、部員がいない。顧問の俺がいるだけだ。
なぜ、部員がいないのに顧問がいるかというと、大学の伝統だからとしか答えようがない。
黒船が来航し、西洋文明を目の当たりにしたこの大学の創始者は、女性が世に出て活躍するべきという思想を根底とし、大学を創設した。そして、当時、男性の遊技であった囲碁も、女性が打てるべきであるという思想の下に、この囲碁部も創設されたのである。大学の創設=囲碁部の創設であり、大学側としてはその囲碁部の廃止を決定することができない。良くも悪くも、伝統に重きを置いている大学であるのだ。
しかし……。明治維新から時は流れ、東京でのオリンピックが二度開催された後、囲碁を打とうという女性……いや、男女含めての人間が、中々現れないのは事実だった。
2016年、人工知能の囲碁ソフトが韓国の一流棋士に勝利し、今や人間はAIで囲碁に勝つことができない時代となった。コンピューターに人間では勝てないという事実が積み重なっていくと、囲碁をはじめようとする人も減るらしい。囲碁部の部員数も、2016年以降、激減してしまった。
だが、伝統に重きを置く大学側は、女流棋士を輩出したこともある、古き良き時代の囲碁部を廃止することなどできない。そして、部活には顧問が必要なわけで、部員がいないにも関わらず俺がいるというわけだ。
まぁ、俺としても、自分の専門分野の研究がすぐれているからこの大学の准教授になれたというよりは、囲碁部の顧問ができる人材がいなかったから、この俺に白羽の矢が立ったというわけだ。だってそうじゃ無いか。夏目漱石の研究をしている人間なんてありふれている。夏目漱石に関する論文を書いている人なんて、夏目漱石の作品の数より多いのが実情だ。
そんな中、博士課程を修了して直ぐに准教授などという美味しい地位に就けたのは、囲碁でプロとは言わないまでも、打てたからに他ならない。パットしない博士論文を書いた俺が、トントン拍子でこの大学の准教授になれたのも、まぁ、そのお陰だ。長く顧問を務めていた教授が退任し、そして伝統ある囲碁部の顧問がいなくなるということで、俺が大学に採用されたというわけだ。
まぁ、理由はどうあれ、安定した職を手に入れた俺としては、幸運だったという他はない。履歴書の空欄を埋めれるのであれば、マイナーであろうと何であろうと埋めれるだけ埋めた方が良いのであろう。
さて、見回りするかな、と碁石をしまい終えた俺は囲碁部の部室から出る。一応、良家のお嬢様が男性と部室という名の個室に男女二人でいる状況に警戒しないように、部室の扉は広く開けておいたのだが、意味がなかったようだ。まぁ、囲碁部に今時興味のあるお嬢様などいない。
そして俺は、別に大学公認の部活動の顧問には給料の他に手当が出るから、律儀に新入生の入部を待っていたというわけではない。顧問としての肩書きを持っているだけで手当は自動的に俺の給料口座に振り込まれる。
今日は、國與女大学の文化部棟の見回りをするためだ。午後九時に、この文化部棟は施錠される。今は、その三十分前の八時半だ。文化部棟の見回りが必要なのだ。そして、学生が残っていたら、早々に帰宅するように指導しなければならない。
大学の准教授が見回りをしていると馬鹿にしてはいけない。当直というのも古き良き時代の文化だ。まぁ、キャンパスの前には警備員が常におり、キャンパスに入るには学生証に内蔵されたICチップが必要であるから、不審者が入り込む余地などはほとんどない。良家のお嬢様が通う大学であるから、その辺りのセキュリティーに抜かりはない。ただ、伝統との兼ね合いなのだ。
文化部棟のセキュリティーチェックのシステム画面を見ながら、俺をため息を吐く。
ICチップをかざしてこの文化部棟に入った学生の数と、出た数が合わない。もし、この人数が一致していたら、わざわざ見回りをする必要などはない。だが、今日は入った学生の数と出た学生の数が一致しない。理論上では、一人、まだこの文化部棟から出ていないということになる。
だが、実際はすでにこの文化部棟は、俺以外の人間はいないはずだ。だってそうじゃないか。たまたま文化部棟から出る時に、前の人がICチップをかざし、自動ドアが開いた。そしたら、自分の学生証を使わずそのまま出てしまう。ポーチや財布などから、自分の学生証を出すのを怠慢してしまう学生は多い。良家のお嬢様だって、急いでいればそんな粗相をしてしまうのだ。
トントン 「入るぞ—」
将棋部の部室、だれも居ない
トントン 「入るぞ—」
茶道部の部室、誰も居ない
時刻は八時五十分。そんな時間にこの文化部棟にいる学生がいるはずなどない。
トントン 「入るぞ—」
すでに、返事を待っていないで部室の扉を開けているが、気にする必要は無い。だって誰もいないのだから。
トン 「入るぞ—」
華道部、誰もいない。
トン 「入るぞ—」
あ?
なぜ、自分の目の前に、着替えをしている女性が……。
「あっ」
目が合ってしまった。
俺は、さっと部室の扉を閉めた。そして、その部室の名前を見る。
『百人一首部』
和服を着ていながらブラジャーを着けるとは……なんて考えはさておき、「おい、そろそろ施錠の時刻だ。早く帰宅するように」と俺は扉の外から言って、そして、逃げた。
訴えられたら負けだろ? こりゃ……。