君を忘れたくないから
「また、お会いしましたね」
夕暮れの橋の上、キャンバスを抱えてそこから去ろうとした僕は、澄んだ声に引き止められた。
「え…」
記憶の断片を引き戻そうとしても、そこだけが何故か鍵をかけられてしまったようにどうしても彼女の事を思い出すことが出来なくなっている。
「お久しぶりです。もちろん、覚えてませんよね?」
彼女からすれば赤の他人だという僕に意味のわからない言動。
『覚えていない』という前提で話しかけるとはどういう事かさっぱり分からない。
「分からなくても、大丈夫…」
…彼女の真っ白な手が、ゆっくりとこちらに伸ばされる。
彼女の触れた所から、じんわりとあたたかなものが体を巡り、僕の記憶の扉を開いた。
「お久しぶりです。もちろん、覚えてますよね?」
僕と彼女の記憶が、一気に流れこんでくる。いつかの日の記憶の欠片。
『なんで行くんだよ!!』
『しょうがないじゃない。お父さんの都合なの。』
『嫌だ。信じないからな!』
『信じてほしかったけど、いいわ。もともとそんなあっさりいくとは思っていなかったから。』
『本当、に、行っちゃうんだね?』
『ごめんね。でも絶対に、いつか会いに行くから。』
『僕、だけはずっと、忘れないから…』
『!!』
『え…?』
『駄目よ。忘れて。あなたが私の事を思い出してずるずる引きずって人生を終えるなんて私は嫌よ』
『え、いや、でも…』
『忘れて!!!』
…大好きな君の言葉だったから。
大好きな君の最後の言葉だったから。
僕は君との思い出を深い深い記憶の海の中に沈めた。
僕の中から「君」という存在はいなくなって、僕は何かが欠けている平凡な毎日を、ただただ淡々と過ごしてきた。
どこか懐かしい、この橋からの景色を描きながら…