2・解放の日
かくして君は、大地と共にあり、大地は君と共にあるという確かな信念をもち、その身を大地に投げ出し、母なる大地に五体投地する。君は大地のように、否それにもまして幾千倍も金剛不壊である。確かにあした大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を産み出すことであろう。それはいつの日にかということなのではなく、いま、今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回となく、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。なぜなら、永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるのだから。この永遠のいまという(人々が自らの行いのなかでめったに自覚することのない)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなのである。
エルヴィン・シュレディンガー / 『わが世界観』
昼下がりの散歩から帰った彼女を玄関で出迎えたのは、血の海に仰向けに倒れ、濁った瞳で天井を見つめるサーシャだった。
8歳になったばかりのサーシャは、蝶を素手で捕まえては、満面の笑みで家族に見せびらかすのが好きな、世界一愛らしい自慢の妹だった。しかしサーシャが女性ホルモンの影響で"正しくひねくれた"美しいティーンエイジャーに育つことも、採ってきた虫を家の中で解き放って家族を困らすことも、もう二度とない。
何者かが、サーシャの時を永遠に止めてしまった。
しばらくの間、玄関口で凍り付いて、変わり果てたサーシャを眺めていた。頭が真っ白になったまま、ただ眺める。瞳に映る映像に、認識が少しも追いつかない。
永遠にも思える数分が過ぎた後で、思い浮かべるだけでも強烈な吐き気を催すようなおぞましい予感が、不意に頭を掠めた。
顔を上げる。
家は静まり返っていて、何の音も聞こえてこない。
事実であってほしくないと思いながらも、確かめたいという衝動を抑えることはできない。口を手で押さえ、顔を背けながら、最愛の妹の横をゆっくりと迂回し、家の中へと歩を進める。
世界のどこよりも暖かく、安心できる場所だったはずの、我が家の中へ。
リビングに足を踏み入れ、それが目に入った瞬間、腰の力が抜けた。
もう立っていることもできなかった。
いつも優しく自分を包んでくれた母親は、カーペットにできた血溜まりにうつ伏せになっていた。首から上は握りつぶした柘榴のようになっていて、服装で辛うじて誰かわかるという有様だった。
すぐ傍では、父親がソファのいつもの位置に足を広げて座っている。しかし、首から上がない。着ているセーターの胸の部分は、首からの血で真っ赤に染まっている。
出血が止まっていないことから、死んで間もなくだということがわかった。彼女の脳が辺縁系の悲鳴を抑えてなんとかひねり出した、精一杯の冷静な判断がそれだった。
見ていることもできなくなり、手で顔を覆う。
無数の感情が、荒れ狂う海のうねりのように、浮かび上がっては消えていく。
どうしてこんなことが?
いったい誰が?
なんのために?
「ヘレン」
背後からの声に振り返ろうとした刹那、首筋に稲妻が走った。
全身の力が抜け、崩れ落ちる。
彼女の意識は静かに、ゆっくりと消えていった。
「人造人間?」
プレストンと名乗った胡散くさい男がその単語を口走った時、ピスは思わず聞き返していた。
「ええ、そうです。バイオロイド。生身の人間の可能性もまだ捨て切れませんが、それはないだろうというのが私たちの見解です」
「なるほどね」
ピスは大麻の煙草を床に投げ捨てて、ラウンドテーブルの上で足を組んだ。バード・ケイジは繁盛していて、終わらない夜と紫煙の中で、長すぎる人生の一部を磨耗してもいいと思っているろくでなしで溢れ返っている。
「そのネタはどこから?」
「一ヶ月前から、ミドルビーチにある地球国家連合発生学研究所が、急に有機化合物の搬入を始めたという情報を、ある筋から掴んだんです。すべて粉末ですが、いわゆる栄養素が大半を占めています」
「何かを飼い始めた可能性があるわけか」
「あそこは元々シミュレーション研究だけですからね。搬入量から計算したところ、栄養素はオリジナル一人分の生育にはやや量が足りず、且つ深刻な偏りがあります。他にカーボンナノチューブなどの搬入が増えていることから、消化器系と神経系を中心に、限定的にオリジナルを模倣したバイオロイドが一体、施設内に存在するという結論を出しました」
「たいへんに興味深い」ピスはわざとらしい口調で頷いた。
「私たちの依頼はシンプルです」
プレストンは机に身を乗り出した。顔には不気味な微笑をディスプレイさせている。
「ECEL内部を調べて、もしバイオロイドが実在したら、できるだけ無傷で私たちの前に連れてきてもらいたい」
「いなかったら?」
「前金だけですよ。手段は問いません。私たちの前に"ロリータ"を連れてきてもらえれば、いい値で買い取りますよ」
紳士気取りの顔を静かに見据える。この男は信用できないと、直観がずっと耳元で囁いていた。単なる直観ではない。ピスの線条体はMPAS――多目的予測分析システム――とシームレスに繋がっていて、統計的な根拠に裏打ちされたものだ。一人の人間が狭い世界で繰り返したランダムウォークに基づく偏ったデータではなく、もっと広く深いものに基づいている。とはいえ、人間は"まだ"神にはなれないから、どう言い換えたところでそれは偏見の別名でしかないのだが。
「わかった。やるよ」
「感謝します。何かありましたら呼んでください。ここで名前を呼んでいただければ、すぐにでも現れますよ」
プレストンは席を立って背筋を伸ばすと、ウェストコートの埃を払い、軽く会釈をして、幽霊のように消え去った。古きよき英国人を演じるのが好きらしい。
「胡散くさい男が嘘くさいネタを持ってくる」
離れてやり取りを眺めていたウィップが寄ってきて、ジョン・ブルのいた椅子に座った。
「だが、警察じゃなさそうだな」
「そういう臭いじゃない」
「金には困ってないんだろう。なんで受けた? ゲーム代わりの仕事か?」
「さぁね」ピスは肩をすくめて応じた。
「当ててやろうか。どうせラリった頭で決めたんだろ?」
「真面目くさった話を葉っぱも無しに聴くのがしんどいんだよ、最近は。そうじゃないか?」
「お前だけだろ、それは」ウィップが鼻で笑った。
「しかし、このご時世にお人形集めとはね。紳士のアバターを被ってるが、とんでもねえ変態だよ、あいつは」
ピスはウィップの言葉を聞き流して、眼前にプレストンが残していったデータを表示させた。所在地を示す数字に目をやると同時に、情報が頭に流れ込んでくる。ミドルビーチの南部にある、地球国家連合発生学研究所。通称「ECEL」。発生学の研究機関だとされているが、明らかにそれ以上のことをやっているという未確認の情報が5件、少なくとも数年前から囁かれている。軍と繋がりがあるのは殆ど公然の秘密となっているようだ。5秒が過ぎた頃には、ピスは職員全員の尻の毛の本数まで熟知していた。
セキュリティに関する情報は様々だった。施設の見取り図、"頭の薄い"職員のリストや、センサーの配置と死角。3時間、あるいは3日間で修復される、ささやかなネットワーク上の不具合。使えそうな不備・弱点を端から列挙しているだけだったが、変なプランを勝手に用意されるよりは、こちらのほうが良かった。素人の書いたシナリオに従っても、ろくなことにならない。
「手伝えよ。どうせ暇なんだろ」
「いいよ。"この身体"は暇だからな」ウィップがぶっきらぼうな口調で言った。
「しけたヤマだが、不法侵入をやるのは久しぶりだ。そんなに悪くはない」ピスはにやけ顔を隠そうともしない。
「大 物が獲れるかもしれないしな」
精神を外面化しようとする、抗うことのできない欲望を植えつけられた生命が産んだ夜景は、発火するニューロンのように、オレンジ色の輝きを走らせている。
カオスの縁に立ちながら、飽きもせずに構成要素を生み出し続けるその構造は、所々で渦を生じさせながら、未来へと流れる一本の大河として、永遠の今を奏でている。
彼は高いところが好きだった。動きながらにして止まっている究極の"美"が、確かに目で見えるからだ。
「――ピス」
自分を識別するための記号が頭に響き、無意識の海面に波を打った。
「あと1分30秒。おい、ピス。どこにいる?」
「お前の頭に小便をかけられる場所」
「聞こえてんじゃねえか。シナリオに変更なし。女は22階、お前のいる屋上から31メートル下。ビル全体の主電源が機能を停止するのは、少なくとも10分」
「わかってるよ」ピスは面倒くさそうに返した。
自分の手に視線を落とす。のっぺらぼうは人型の無人兵器だが、耳、鼻、目、口、体毛が一切ない、とても愛らしい外見をしていて、名前の由来ともなっている。四つん這いになって、トカゲのように壁や天井を素早く駆け回ることもでき、拳一発で生身の成人男性を殺せるほどの怪力を持つ。元素変換を行う万能生成装置「プリマ・マテリア」を内蔵しており、及第点以上の戦闘能力を持っている。
現実に"身体"を伴って降り立つのは随分久しぶりのことのように思えたが、物理法則に適応するように皮質下を再配線させるのに1分もかからなかったので、新鮮味はあまり感じず、少し損したような気分になった。"乗り移る"ことと"操作する"ことの間には――ボディスキーマの拡張に貪欲な脳の悪戯によって多少は縮められるとはいえ――天地ほどの隔たりがある。乗り移ろうと思ったのは単なる気まぐれだったが、早くも微かな後悔が無意識と意識の界面を漂っていた。肉体を捨てた人間の大半と同じように、ピスも物理現実のことがあまり好きではない。老い、病、死、重力その他の物理法則。紙細工のように脆い、たった一つの肉体に閉じ込められた精神――うんざりするような制約を挙げればキリがない。姿を現して最低限の説明責任すら果たそうとしない設計者――世間では神と呼ばれている――の宇宙よりも、自分たちの創造した宇宙のほうが良いと思うのは当然の帰結だ。
「60秒」
ウィップの声を合図に、"万華鏡"のスイッチを入れた。目に映る光景にひびが入って無数に分解され、果てしない奥行きを伴って、重なり合いながらその全てがこちらを向いている知覚の断片が、視界一杯、全方位に広がった。
堰を切って流れ込んできたのは、ECELの外壁に貼りついて、突入の瞬間を待っている数百の小型無人機の知覚と、既にピス達によって掌握されている所内のセンサー群の情報だった。これでも標準的な基準からいえばずっと少ない、制限された情報量だが、それでも機械化されていないヒトの脳では到底捌くことはできないレベルに達している。例えるなら、千人に囲まれて一斉に話しかけられるようなものだ。場合によっては、そこから千人全員に返事をすることもある。もちろん、一斉にだ。
ピスは軽い眩暈の後で、自分がこの建物そのものになったような錯覚を覚えたが、すぐに"自分"を取り戻した。いつだってそれは簡単な作業だが、なぜ簡単なのか、ピス自身にもよく分からない。
「30秒」
可視光ステルスをオンにして透明人間になり、屋上の縁から身を乗り出して、外壁に四つん這いの格好で張り付く。吸着力をコントロールしながら、そのままゆっくりと滑り落ちていった。外壁は最近には珍しく全面ガラスで、所内が見えたが、人影はなかった。職員が物理的に来ることは滅多にないことは既に知っている。無論、来ていたところですぐに眠ることになるのだが。
すぐに22階に達し、張り付いたまま中を見る。他の階同様に人影はなく、電気もついていない。家具一つ置いていない殺風景な部屋の中に、人間の身長ほどの大きさの箱が整然と並んでいる。
ピスは人差し指でガラスに大きな円を描き、そのまま描いた部分を押し出した。円状に切り抜かれたガラスが、音もなく室内に落ちる。
「3、2、1……」
ウィップがゼロを言うのとほぼ同時に、室内に降り立った。万華鏡の中で、全てが一斉に動き出す。何もかもがシナリオ通りに動けば、5分後にはバード・ケイジのカウンター席で酔い潰れることができるはずだ。この作戦よりも、酔い潰れることのほうがずっと難しいだろう。
中腰の姿勢のまま、薄暗がりの中を前進する。ウィップが統制しているハエ程のサイズのMAV達は、今やビル内全体に広がっていた。ピスは文字通りの意味でビル全体を隅々まで見たが、今のところ異常は見られない。ジョン・ブルが自分たちの所に転がり込んできてから今までの間に、データを基にECELを仮想空間上に再現して、何兆回も襲撃訓練をこなしたから、見ず知らずの場所に踏み込む時のような気分は全くなかった。実のところ、この程度の規模のゲームに二日も費やすのは、かけすぎなのではないかとピス自身思ったぐらいだった。
自分の家を歩くように次々に進み、フロアの中心部を目指す。ECELは仕組まれた停電の中で、静寂に包まれている。
程なくして、最後の廊下に差し掛かった。直線の廊下の行き止まりに扉が一つあり、下調べではそこがバイオロイドのいる部屋だった。MAVが侵入できなかったため、室内の様子がわからない。
扉はロックされていたが、数千度のプラズマの相手ではなかった。攻撃に備えて天井に張り付いてから、扉を蹴って勢いよく倒した。
そこはある種の保管庫のようだった。壁や天井は鈍く光を反射する銀色のタイルで覆われ、その表面をパイプが血管のように縦横無尽に駆け巡っている。壁には白い箱のようなもの――おそらく冷却装置だろう――が整然と並べられていて、湯気を部屋の中に吐き出している。部屋のちょうど中央を、金網でできた一本の通路が走っていて、通路の行き着く先に、人間が一人収まりそうな透明のカプセルが、床に対して45度の角度で安置されていた。
脅威がないことを確認してから、床に降り立って部屋に踏み込む。部屋は乾燥していて、少し冷えている。部屋全体に電磁遮蔽が施されているのか、ノイズも少なく、あらゆる意味において静かだった。
歩を進める。ちょうど正面に位置するカプセルは曇っていて内部がよく見えなかったが、熱放射と電界の歪みから、人間が一人、その中で眠っていることがはっきりと感じられた。
目の前まで来て、カプセルの上のほうの結露を拭き取ると、寝顔が現れた。毛細血管によって仄かにピンクに彩られた白い肌と、肩までの長さの金色の髪。少女の頭のすぐ上あたりに金属のプレートが貼られていて、HELENと彫られている。
ピスがカプセルを開けようとした瞬間、大きな音を立ててロックが外れ、カプセルがゆっくりと開いた。ロックが外れる音がした時点で、ピスは反射的に跳んで10mほど後方に退避していたが、特に異変は起きなかった。
カプセルの中から湯気と共に現れたのは、一糸纏わぬ姿の少女だった。少女はふらふらとした足取りで立ち上がると、ピスの方向に身体を向けた。その肢体は彫刻のように美しい。
少女はそのまま数歩進んだが、立っていられるのが不思議だというぐらい酷い有様だ。頭もまるで首が据わっていない赤子のように不安定で、一歩進む度に左右に揺れ動いている。口は半開きで、目は閉じられたままだ。文字通りの意味でゾンビのような動きをしている。
「誰だね?」
消え入るような微かな声だったが、人間の何万倍もの解像度を持つフェイスレスの聴覚が聞き逃すはずはなかった。
「来客なんて実に久しぶりだ。誰なんだ?」
それは確かに少女の喉のあたりから発せられた音だったが、違和感があった。神経系の発する微弱漏洩電磁波を読み取ると、脳を睡眠紡錘波が駆け巡っていて、中心溝にはアルファ帯域の美しい波が刻まれている。末梢神経系は不気味に沈黙していて、筋電だけが激しく輝いていた。
室内に搬送波によるデータのやり取りは――自分のを除けば――感じなかった。そもそもこの部屋は明らかにシールドされている。セックスの直後のジャンキーみたいに全裸でふらついている少女の頭と体には、無数の電極が取り付けられていた。あれを介して操作する他に方法は見当たらない。
「存在しないことになっているこの子を攫いにくる人間がいるなんて、想像もしていなかったよ。まったく驚きだ」
真剣にこちらを特定しようとしているのではなく、まるでちょっとした謎解きを楽しんでいるような口調だ。あるいは、全てを知っていてそういう演技をしているようにも見える。表面的な態度だけではほとんど何の証拠にもならないが、もし相手がもっと必死だったなら、こんな手温い状況にはなっていないだろう。とっくに一個大隊に包囲されていたかもしれないし、相手がピスの想像した以上に馬鹿なら、今頃マッハ20で気の利いたプレゼントを贈ってきてくれていたかもしれない。ビルは崩壊し、何もかもが規格外のジョークと化し、最高の夜が奏でられる。何れにせよ、ピス達に失うものは何もない。"道具"は全て盗んできたもので、自分たちとの関連を示す証拠は出てこないし、通信も量子暗号によって完全な秘匿性を保っているから、傍受されている心配もない。
しかし、何も起きない。
「それで、君は一体なんなんだね?」
ピスは黙っていた。不用意に口を滑らせることはない。頭のいい人間は一を聞いて十を知るというが、優れたAIは一を聞いて百万を"視る"。相手がそれを言い終わる前に。
「妙な状況だな。クソに嵌ったのか?」ウィップの声。
「それにしては、やり方が杜撰だ。何がしたいのか全くわからない」
何億ものありとあらゆるシナリオが一瞬のうちに頭を駆け巡ったが、該当するようなものはなかった。
「有り得るとすれば、今だ。今この瞬間。このゲームに認知的リソースを割いている隙をついて、俺たちに侵入する」
「んなわけねえだろ。ゲームやる前に揃ってケツの穴をきつく締めてきたじゃねえか。今の俺たちにバレずに入れる奴なんて神様以外にはいないよ。お前もわかるだろ、ピス」ウィップが捲くし立てるように言った。
そう、その通りだ。ピスは無言で同意した。言うまでもなく、そんなことはわかっている。
「イモ引いてもいいぞ。お前次第だ」
誰かの描いた絵の上で踊らされるのは気に入らなかったが、ずっと頭をひねっていても仕方がない。ピスは顔を上げて、ふらついている裸体の少女を見た。
その時、右手の天井にある冷却装置から、一粒の水滴が落ちた。
自由落下する水滴は、自身の避けられぬ運命へと直進したが、床に当たる寸前の中空で"何か"に当たって散った。
瞬間、ピスは弾かれたように飛び上がり、宙を舞いながら右手首のプラズマカッターを出した。
ミリ秒前まで自分の身体があった位置を、死の光線が通り抜ける。
空中で体をひねりながら、カッターの先端を繰り出し、体ごと回転させて薙ぎ払うように振った。
激しい火花。
強烈な白い光の中から、両手を広げてのけぞり、今まさに倒れようとしているフェイスレスが現れる。
首から下は大きな音を立てて倒れ、解き放たれた首から上は一時のあいだ宙を舞ってから、鈍い音を立てて床を転がった。
2秒間の出来事だった。
ピスは床に着地すると、両手のプラズマカッターを展開し、何の躊躇いもなくフェイスレスの亡骸を八つ裂きにした。放っておけば、すぐにプリママテリアの無尽蔵な再生能力によって蘇ってくるし、モデルによっては切断された状態で活動できる場合もある。首から下はもちろんのこと、頭部ですらそうだ。ボール型の無方向性無人機が主流であることを考えると、のっぺらぼうの生首が大立ち回りを演じることができたとしても、何ら驚くに値しない。
フェイスレスの残骸が無残な姿に変わり果てたのを見届けてから、軽く万華鏡で施設全体の様子を確認した。延期に次ぐ延期を繰り返した第三次世界大戦が遂に始まるのかと期待したが、ECELの半径1kmは至って穏やかな夜だということが再確認されただけだった。
立ち止まり、耳を澄ます。
すべてが眠ったように静まり返っていて、冷却装置の発する、息を吐き出すような小さな音だけが聞こえる。
世界がいつ落ちてきてもいいと、いつも思っていた。
しかし、何も起きない。
いつだってそうだった。
神もなく、主人もなし。
「腰抜けが」
心中で神を嘲笑ったあと、ピスはプラズマカッターを展開し、少女の方向に放った。電極のコードだけが瞬時に焼ききられ、糸の切れた操り人形となった少女は、床に倒れこんだ。
倒れている少女に近寄る。非常によくできたバイオロイドだ。温度分布が人間のそれと比べて低いことと、呼吸と心拍の痕跡がないことを除けば、人間によく似ている。バラせばすぐにわかることだが、一目見ただけでは人間と見紛うこともない話ではない。
かなりの芸術品であることは、見た瞬間にわかった。あの変態にふっかければ、パン屋を始められるぐらいの金が手に入るだろう。しかし、それではつまらない、という思いがピスの脳で波を形成しつつあった。こういう時にはいつも決まって、ピスの中のデュオニュソスが顔を出す。スマートな選択よりも、カオスに支配された愚行を愛する神が。
「起きろ」
反応はない。
ピスは少女を仰向けにする。胸が露になったが、身体は死体のように何の反応も示さない。"やりすぎ"で意識を失う寸前のジャンキーのように、口も目も半開きだ。しかし命に別状がないことはわかっている。
「ヘレン」
名前を呼ぶと、運動野と小脳が激しく煌き、一瞬遅れて少女が身震いし、ゆっくりと目を開いた。生気のない表情がこちらを見上げ、碧い眼が照明を反射して虚ろに光る。
「よう。自由が欲しいか?」
外面には何の反応も起きなかった。しかし十秒近い生理学的沈黙の後で、脳に動きがあった。腹側線条体が強く輝いて、ドーパミン神経系経路を光が駆け巡った。少女は喋ることも覚束ないらしく、それは結局ただ口をパクパクと動かす動作となって現れただけだったが、聞き直す必要はなかった。彼女の決断が、意志が、光となってネットワークに広がるのを、ピスははっきりと見た。
「わかった」
ピスは存在すらしない表情筋を使って微笑むと、彼女の頭を両手で掴んで磁気刺激を与え、眠らせた。
「最初からそのつもりで、フェイスレスなんてデカブツを引っ張ってきたのか?」ウィップの声。
「この件で予測できなかったのは、自分の気分がどっちに転ぶかだけだよ」
「ケッ、物好きだなあ」
ウィップが鼻で笑った。
ヘレンが産声を上げた世界は、ただ白かった。
空間は純白に染まっていて、地形の輪郭も、それどころか色の濃淡すら存在しない。自分の目が狂っているのか、本当に白一色の世界にいるのか、その判別すら出来ない。
はっきりしていることは、自分が今、ベッドのような感触のものの上で横たわっているということだけ。
まるで天国のよう。
全てが繋がっていて、何も存在しない、穢れのない世界の中心で、横たわっている。
ここが死後の世界だというのなら、それでもいいと思っていた。しかし天国に身を委ねようと再び目を閉じた瞬間、瞼の裏側に浮かび上がったのは、天使でも神でもなく、首を切られて、血まみれで倒れているサーシャの姿だった。
反射的に目を開け、上体を起こした。
死ぬのはまだ早い。
「おはよう」
声がしたほうを向くと、すぐ傍に一人の人物がいた。スーツに身を包んだ銀色の髪の白人の青年が、足を組んで椅子に座り、こちらを向いている。椅子といったが、実際にはそのようなものは見えていない。青年の姿勢から、何かに座っていると判断したに過ぎない。
「ここは?」寝起きにも関わらず、ヘレンの頭は不思議とクリアだった。
「"ホワイトハウス"。処理能力を節約しつつ、環境が脳に与える影響を極力カットした仮想空間」
「あなたは?」
「身内には"ピスヘッド"って呼ばれてる」
何の前触れもなく、自分の身に何が起きたのかを思い出す。
「……私を連れ去ったの? あなたが?」
「そうだよ」ピスはそっけなく答えた後で、小さく笑った。「真っ先に聞かれると思ったんだが」
ヘレンが起きる前にピスが何百万回も試行させたシミュレーションとの、ささやかなズレだった。それは彼が賭けに負けたことを意味する。今頃ウィップはこの光景をモニターしながら、いつもの下品な笑い声をあげているはずだ。
「どうして、こんなことを?」
小便頭と名乗った目の前の男が、救世軍に精を出すタイプにはどう見ても思えなかった。天使や神にも見えないことは言うまでもない。
「まだ助けたわけじゃない」
ピスは事の顛末を話した。
「売る? 私を?」
背筋に寒気が走り、思わず身を引く。露骨に怖がっている様子のヘレンを見て、ピスは思わず笑った。
「自由にしてやってもいい。お前次第だ」
ピスは肩を竦めた。
「まず、名前は?」ピスは既に名前を知っていたが、敢えて訊いた。
「……ヘレン」
「なぜECELで監禁されてた?」
「ECEL?」
「閉じ込められてた施設の名前」
「そんなの知らない。私が覚えてるのは、散歩から帰ったら……」
そこまで言って、ヘレンは躊躇い、俯いた。思い出したくもないことを言おうとしているのが、すぐに分かった。
「散歩から家に帰ってきたら、その、家族が、殺されてた。みんな。家を出る前は何事もなかったのに、急に、みんな……」
ヘレンは今にも泣き出しそうな様子で、悲劇のヒロイン気取りへとその存在を昇華させようとしている。
「いい人たちだったのに……人間でもない私のことを、本当の家族みたいに、大事にしてくれて……」
大粒の涙が彼女の頬から現れ、すっかり泣きじゃくりはじめた。
物理現実においての彼女の身体には血液が一滴も流れていないため、涙を流すことは出来ない。彼女が今この空間と相互作用するために使用している擬似身体モデルは、ウィップが持っている平均的な20代女性の人体データに、既にスキャン済みのヘレンの容姿のデータを重ね合わせた、言うなれば間に合わせのものだ。このVRの中でだけ、彼女はオリジナルとなり、涙を流して泣くことができる。それは人生で初めての体験のはずだったが、悲しみにくれることに忙しいようで、気づいている様子は見られなかった。
「それで、逃げ出したのか?」ヘレンがひとしきり泣き終わるのを待ってから、ピスは質問を続けた。
泣いたことで過呼吸気味になった自分の胸を押さえながら、ヘレンは首を横に振った。
「逃げようとしたら、後ろから襲われて、気がついたら、灰色の部屋にいた」
ピスは無言で相槌を打った。
「入ってすぐに、"パパ"と名乗る男が現れた。見た瞬間に悟った。私の家族を殺したのはこいつだって」
「確認したのか?」
「隠す様子もなかった。私に用があって拉致した、家族は少し邪魔だったから殺しただけだって……」
ヘレンが再び泣き出したため、ピスは話題を変えることにした。
「家族と言ったが、どこでどんな生活を送ってた?」
その程度のことは既に調べがついていたが、彼女の脳ではどう認識されているのか、が重要だった。世界は意識の数だけ存在する。
ヘレンはひとしきり泣き続けたあとで、顔も上げずに細々とした声で言った。
「……4人で暮らしてた。雪景色の綺麗な、大きな山の見える静かなところで」
「具体的にどこだ?」
「たしか、北米大陸の、東海岸にある山。よくわからないけど、父さんが地図の本を見せてくれて、指で私たちの居場所を教えてくれたことがあって」
「地図の"本"?」
「そうよ、本。外の世界のことは、全部本から学んだの」
何らかの理由で、高度な文明から逃れて暮らす人々は少なからずいるが、彼らの多くはネットワークからも繋がりを絶って、しばしば旧時代的な生活を送っている。そういうことを実行に移そうとする人々に技術嫌悪が多い傾向があるというのもあるが、いくら情報空間が地球の何倍ものサイズになったとはいっても、ネットワークの表層に繋いでいることはリスクになることが多いという、より実際的な理由もある。
「でも、なんていうか……」ヘレンは険しい顔で目を閉じ、額に手を当てた。「今はよく思い出せない。靄がかかってるみたいで」
「オーケー、よくわかった」ピスは無表情で頷く。
「解放してくれるの?」
「まだだめだね」
ピスは悪巧みをする時のように、自分の口を手で覆い、ヘレンに顔を近づけた。もちろん誰かに聞かれる心配などないのだが、こういった無意味なジェスチャーが今日では人間性と呼ばれている。
「そんなことより、"パパ"を殺したいか?」
ヘレンは顔を上げて、話題に対して身構えるように真顔になったが、すぐに悲壮な決意の色が表情を塗り替え、ゆっくりと頷いた。
「なら、自由にしてやってもいい」
「本当?」ヘレンの顔が明るくなる。
「でも、今のお前じゃこの街では生き残れないよ。俺のとこに来た下種みたいなのはそこら中にいる。あっという間に捕まって、ベッドの中で使う類の人形としてパッケージングされて、闇市場で踊ることになるのが関の山だ」
ピスはふんぞり返って脚を組みなおした。
「俺らの一員になるなら、その引き換えに色々なことを教えてやる。一人で夜道も悪路も人生も歩けるようになるし、"パパ"を殺す技術も手に入る」
「一員って、何をするの?」
「悪いことをするんだ。クソみたいなことを、沢山。チンピラ人生を謳歌するんだよ」
ヘレンは黙ってピスを睨み付けた。
「パパの洋館を飾る人形をやってるよりはいいだろ。好きな時に死ねるんだからよ」ピスはまるで他人事のような態度で言った。
ヘレンはピスから目をそらし、考えた。正確には、考えているふりをした。自分が思考の余地があるふりを続けている、ということには気づいている。自分は生まれて初めて文明に触れた。何も知らないし、生きていくために先立つものも持っていない。何が役に立つのかすらもわからない。加えて、パパが追跡してくる可能性も高い。たとえ自力で脱出できたとしても、とても生きては行けなかっただろう。目の前の胡散臭くて尊大で人を食ったような態度の男は少しも信用できないが、言ってることには一定の説得力があった。
「一つだけ、約束して」
「何?」
「私を、強くしてくれる?」
「どのぐらい?」
「"パパ"を殺したいの。なんとしても、絶対に」
ヘレンは決意のこもった瞳で、まっすぐピスを見据える。
「朝飯前だ、そんなの」ピスは不敵な笑みを浮かべた。
「クソ野郎のケツに穴を増やすサービスに関しては、俺たちはちょっとした専門家なんだよ」
ピスが指を鳴らすと、瞬時に周囲の景色が変わる。
そこは見たこともない酒場だった。
暗い照明の中で紫煙が漂い、板張りの床の上に、丸いスツールとテーブルが並んでいる。
ピスの背後にカウンターがあり、その中からランニングシャツを着た筋肉質の男が顔を覗かせていた。カウンター席の一角を占領している人々が一斉にこちらを向いたが、ヘレンが知っている顔は誰一人としていない。
「ようこそ、ワイルド・ワイルド・ウェストへ」
ピスヘッドと名乗ったその胡散臭い男は、芝居がかった態度で両手を広げた。
その日からヘレンは、第二の人生を第三宇宙速度で進み始めた。見かけからは想像できないタフさを内に秘めた彼女は、知識や力に対して貪欲で、自分の身体や脳の改造もほとんど二つ返事で受け入れ――少しも難色を示さなかったことには、ピスもかなり驚いた――あっさりと超人類クラブへの入会を果たした。20年間のブランクは20分で埋め立てられ、入りきらないお釣りが溢れ返った。
「ようこそ。マイル・ハイ・クラブへ」
ヘレンが目覚めると、すぐそばにピスがいて、いつもの下品なジョークが即座に顔面に投下される。
ベッドの上で上体を起こすと、そこはいつもと変わらぬ"ホワイトハウス"だった。自分にも、見える世界にも、これといって変化は見られない。
「もう終わったの? 手術は」
「終わった」
ヘレンは周囲を見回し、自分の身体を見て、再びピスに視線を戻した。
「何が変わったの?」
「そうだな」
ピスは見えない椅子に座りなおした。
「俺たちの主観時間は、今だいたい最高速だ。ここで3300年怠けても、現実では1秒しか過ぎない」
「え?」ヘレンが目を丸くする。
「意識上の時間はどうとでもなるが、思考や知覚が追いつかなければ、どれだけ速くしてもあまり意味はない。限界処理速度との兼ね合いを考えると、ピコ秒――つまり今の速度ぐらいが上限だと考えたほうがいい」
「1秒で3300年?」
「イエス」ピスは悪戯っぽい微笑を浮かべた。「"都市"では時間の流れが早い。山に住んでるオリジナルが、鹿のケツでも追いかけて1日を終える間に、こっちでは1つの時代が始まって終わる。途方もなく多くのことが起こるんだ」
ヘレンは口を半開きにしたまま、呆然とピスを眺めた。自分でも驚くぐらい、何の実感も沸かない。目の前の酔っ払いの話を疑っていたわけではなかったが、一言一句どれをとっても現実のこととは思えない。
このまま現実に戻って目覚めれば、実感できるのだろうか。ベッドから起き上がろうとする自分の身体が何十年もかけて1ミリ動くのをにこやかに眺めて、我慢の限界を迎えれば、自分が超人になったことを受け入れられるだろうか。
「主観時間についての詳しい話は後だ。今からブートキャンプをやる」
「ブートキャンプ?」
「パパの頭蓋骨をファックできるようになるための訓練」
ピスは不敵な笑いを浮かべた。
「1秒で終わる。全てのカリキュラムが終わるのに0.01秒。その後で、起きるために目を開ける動作をするのに0.99秒。たったそれだけで、お前はいっぱしのプレイヤーになれる。このカリフォルニアのクソの中でもイモを引かないゲーマーにな」
ピスは身を乗り出し、ヘレンを真っ直ぐ睨んだ。
「覚悟はいいか?」
ヘレンはピスが身を乗り出した分だけ顔を引いた。
「やるわよ、もちろん」
「オーケー」
ピスは満面の笑み――ヘレンにとっては、この男の笑顔には恐怖しか感じない――を浮かべると、右手を高く掲げて、指を鳴らした。
その瞬間、ピスの背後に大量の人間が現れた。ヘレンは反射的に身を引く。物が突然目の前に現れたり、忽然と消えるというVR特有の現象に、まだあまり慣れていない。
「これは?」
冷静になってよく眺めると、それは人というよりは人形だった。黒い塗料の海に飛び込んできたかのように全身が漆黒で、人体にあるはずの突起物や穴がどこにも存在しない。少なくとも100体以上はいるようだが、身じろぎもせずに直立している。
「こいつらを、自分の手足みたいに動かせ。今日の宿題だ」
ヘレンは要領が掴めず、ピスの顔と人形達を交互に眺めた。
「大脳基底核と小脳の基本的な配線は、手術の直後の調整の時に、既に済ませてある。ブレイン・マシン・インターフェイスに使用する領野もすでに増設済み。準備は整っている」
「念じればいいの?」
ヘレンは渋々したがうことにしたようだったが、どうも消極的な態度だ。そんなことが出来るとは信じられないらしい。超人類と化して、神経工学が成し遂げた奇跡を瞬きよりも短い間隔で見せられたにも関わらず、ヘレンの人工大脳皮質のコネクトームは、未だに化石化された"人間の常識"を奏でているようだ。
「心配するなよ。簡単だ」
少しも簡単ではなかった。ヘレンはまず黒い人形を全員床に倒れさせ、その後の3仮想時間を、死に掛けの芋虫のように痙攣させることに費やした。
「いきなり100は無理か、やっぱり」
椅子に座って惨事を眺めていたピスは、他人事のような口調で言った。
ヘレンはこめかみに手を当てて唸り声をあげる作業を中断し、ピスを睨み付けた。できないことがわかっていてやらせたことは明白だ。
「こんなのは序の口だ。もっとでかいものを操作するようになる。できなかったら、今に自分のケツを拭くこともできなくなるんだ。この界隈じゃあな」
「あらそう? 念じるだけで、国を手足みたいに操れるようになるとでも言うわけ?」ヘレンが皮肉をたっぷり込めた一撃を放った。
「できる」ピスは得意気な様子で腕を組んだ。
「それなら、60兆の細胞を操作することだって、随分な離れ業だよ。重要なのはモデル化だ。それがうまくいけば、あとは自分の中に取り込むだけ。外界を取り込むんだよ。わかるか?」
「ずいぶん簡単に言うね」
「簡単だよ、実に簡単。モデルは現実に先行する。モデルが現実を定義するんだ。お前にも分かる時が来るよ」
その後の数時間で、ヘレンは指数関数的に上達し、自分と繋がれた百の人形を完全に内面化した。ピスはヘレンの上達速度をグラフにして自分の予測と照らし合わせたが、差異は誤差のレベルでしかなかった。面白半分で、彼女に突き放すようなことを言ったピスだったが、こうなることは当然予想済みだった。
「すごい……」
ヘレンは自分で自分の成し遂げたことに衝撃を受けているようだった。ピスにとってはもはや何百万年も前の出来事になるが、自分の存在が自分の想像を超えて広がり、それを肌で感じたときの衝撃は、彼自身もよく覚えている。
「全然違和感がない。自分の手足みたいで……」
ヘレンは興奮を少しも隠さない。
「次は1000だ」
「1000?」ヘレンがこちらを向いて目を丸くした。
「10倍ずつ増やしていく」
「どこまでやる気なの?」ヘレンは苦虫を噛み潰したような顔で聞く。
ピスは満面の笑みを浮かべた。
「たった一人の軍隊になれるまでだ」
ブートキャンプも終わりに差し掛かったある日、バードケイジでピスが一人で飲んでいると、ヘレンが現れた。
ヘレンは無言のまま、カウンター席のピスの隣に座る。横顔を見ると、どこか思いつめたような表情をしていた。普段とはかなり違う雰囲気で、初めて会った時の様子に似ている。打ち解けてきたのか、最近はかなり生意気を言うようになっていたので、ピスは少しだけ意外に思った。
ピスは特に気にすることもなく、飲酒もどきを続行する。ギネスが存在しない食道に注ぎ込まれ、一瞬の快楽が駆け巡った。
「ECELの関係者に、"パパ"はいない」
沈黙を破ったのはヘレンだった。ピスが顔を向けると、ちょうどこちらを向いたヘレンと目が合った。
「自分で調べたの。職員の何人かに侵入もした。みんな、皮質の広範囲にわたって改竄された痕跡があった。自然な構造変化じゃなくて、BCD由来の、しかもごく最近の。パパはECELの職員全員とあのビルを乗っ取って、私を飼っていた。自分たちの職場の扉一枚へだてた所で、女が閉じ込められてたなんて、きっと誰も知らなかったろうし、万が一知ったとしても、すぐにその記憶は消された。あの夜の襲撃だって、ニュースにもなってない。それどころか、職員も誰一人として知らない。全て消されたの。何もかも。そしてパパは消えた」
ヘレンはまくし立てるように言い切った。
「さっきまでオリジナルだったにしては、大したもんだ。もうこの世界を1人で歩ける」
ピスは肩をすくめた。現実時間では全て含めても数分だが、ヘレンにとっては9年近い歳月だった。彼女はその期間中ずっと、西海岸の肥溜めに住む原人の未発達な言語で言うところの"バッドアス"になるための特訓を受けていた。
何もかもが変わるには十分すぎる時間だ。
「ねえ、知ってるんでしょ?」
ヘレンがピスの顔を覗き込もうとする。
「"パパ"は何者?」
ピスは答える前に一気飲みして、再びグラスを空にした。
「たぶん、"オーヴァーロード"」
「大君主?」
ヘレンは怪訝を露骨に顔に出した。
「不死身になり、強大な力を持って、人間社会をコントロールしている"巨人"のことだ」
「どういうこと?」
「まず誰かの頭に侵入して、自分の脳とコネクトームがほぼ一致するように、全面的に書き換える。次に、脳対脳インターフェイスで強力にリンクさせて、知覚その他諸々を共有する。二人は大脳のレベルではほとんど誤差程度の違いしか持たなくなり、リンクが維持されている限り、すぐに同期される。それをn回繰り返すと、巨大な"個"が形成される。単にコピーが沢山いるわけじゃない。個々がニューロンとして振舞い、ネットワーク全体で脳として機能する。全体で一つの意思を創発するようになる」
「つまり、大きな脳のこと?」
「イエス」
ヘレンは頭が少し混乱して、話を呑み込むのに少し時間がかかった。
「有り得るの? そんなの……」
「そうだ。そうやって誰も信じなかった」
ピスはグラスを弄んだ。
「ごく一部の学者が指摘していたが、大半の人間は見向きもしなかった。"自分"を増殖させてネットワークを作るなんてぶっ飛んだ発想は、チープなSFの読み過ぎた奴が見る白昼夢だというわけだ。その時代、脳への侵入は既に現実のものとなってたが、そんな状況にあっても、オーヴァーロードには誰も現実味を抱けなかった」
ピスは肩を竦めて、口を斜めにした。
「人類が気がついた時には、手遅れだった。いちはやくその価値に気づいた一部の人間は、力と、不死と、国土級の馬鹿でかいケツを手に入れた。そこから先は、戦いだよ。文字通り、自分の存在を賭けた戦いがこの地球を覆った」
グラスの氷が乾いた音を響かせたが、ヘレンのほうは声も出なかった。
ピスに拾われてから経験したことは、何もかも常軌を逸していたが、その中でもこれは別格だ。
「でも、そんなものが社会に知られていないの? 誰も言及しない? そんなこと――」
ヘレンはそこまで口走った瞬間に、全てを悟った。
「みんな、乗っ取られているってこと? もうすでに?」
狼狽するヘレンの様子を楽しむように、ピスはニヤニヤと笑った。
「誰もそのことを口走らないのは、した瞬間に捕まるからだよ。私はどのオーヴァーロードにも乗っ取られていないスタンドアローンです、って叫んでるようなもんだからな。公共空間でそんなことを言おうものなら、2分もしないうちに四方八方から幻戦を頭蓋骨に撃ち込まれて、あっという間に哲学的な死を迎えることになる。だから、乗っ取られていないごく一部の奴らも、地下に潜って必死で息を潜めてる。人間が所有を主張していない土地が地上に存在しないのと同じように、オーヴァーロードに乗っ取られていない脳、というのも殆どいない」
ピスは続けた。
「"自分"のままでいられるっていうのは、最近ではとても贅沢なことなんだよ」
ヘレンは言葉を失った。
不死身になり、大地を覆う巨人となった存在が、精神という領土を奪い合っている。一度乗っ取られれば、そのことに気づくことすらない。一滴の血も、一瞬の苦痛もなしに、人間の最も大事なものを奪われる。
精神の自由を。
「何、それ……そんなの倒せるの?」
「さぁね」ピスの相変わらずのぶっきらぼうな口ぶり。
ヘレンは唖然として、ピスを眺めることしかできない。
「殺る方法はないわけじゃない。ただ、このヤマには別のところに問題がある」
「何?」
「ここまでの顛末は、パパの描いたシナリオの可能性が高い」
「どういうこと?」
「いいか、つまりパパはな、お前の家族を殺し、お前を監禁して、そのあと何食わぬ顔で俺達にお前の奪還を依頼した。お前がパパを八つ裂きにしたいと言い出すのも、俺がそれに協力するのも、奴のシナリオの内だ」
「まさか。そんなことして何になるの?」
「知らねえよ。だがあんまりにも出来過ぎている。あのジョン・ブル気取りは未だに何の連絡もしてこないし、俺がECELに乗り込んだ時も、"パパ"はまともに抵抗もしなかった。何から何までふざけてる」
「じゃあ、どうするの?」
「どうもこうもない」
ピスはゆっくりと席を立ち、ヘレンを見下ろした。
「お前の覚悟の問題だよ。"パパ"はシャンパンとクラッカーを用意して、お前のことを待ってる。何が出てきても文句は言えない」
ヘレンはピスの顔を見上げた。いつもの不敵な微笑ではなく、感情が一切消えうせた無表情がそこにあった。
「それでもまだ殺りたいんなら、俺のところに来い。ファックの仕方を教えてやる」
ヘレンはビルの屋上に座って、灰色の空を流れるガラスの破片を眺めていた。
空高く広がる破片は、落ちてくることもなく、舞い込んだ淡い光を受け入れて、乱反射させながら、川のように、あるいは雲のように、静かに流れている。
楽しくもなく、悲しくもない。
生きることが何かを感じることなら、この風景に生はない。
無を感じさせる光景だった。
独我論的空間に閉じこもってもう何時間になるのか、自分でもよく思い出せない。何日も過ぎているかもしれない。その間中ずっと、空を眺めていた。
自らの心が生み出す風景に目を奪われている間に、何億年もの月日が過ぎ去っていたら、どれだけいいだろうと思った。でも、外ではどうせ半秒も経っていないことはわかっている。そのことが少しだけ残念だった。自分は一体何を期待しているのだろう、と考える。
不意に横を向くと、サーシャが自分と同じように屋上の縁に座っていた。ブランコに乗っていた時のように足を規則正しく揺らしながら、満面の笑みをこちらに向けている。ヘレンも笑顔でそれに応じた。
辺縁系を弄んで、文字通りの意味での"白昼夢"を見ることが、すっかり習慣となっていた。空しいことだとは承知していたが、心が随分と安らいだのは事実だし、家族が誰も死んでいないかのような錯覚すら覚えた。
父と母は、欧州でサイバネティクスを研究していた学者だったと聞いている。自分たちの研究の結晶としてヘレンが生み出されたが、やがて都市での生活に嫌気が差し、コロラド州の大自然の中に移ってきて、サーシャを古典的な方法で産んだ。「私たちが作ったのだから、お前は間違いなく私たちの子供だ」と、口癖のように何度も強調していたことを覚えている。
自分の掌に視線を落とす。
家族は、復讐を望んでいるのか。
答えのない問いだと分かっているのに、それを考えずにいられたことは、あの日以来一度もない。
「情動記憶を消してしまえばいい」
先日のピスとの会話を思い出す。
「復讐なんてしても、少し溜飲が下がるだけだ。だったら今すぐ辺縁系を掃除したほうがいい。手間を完全に省いて、同じ結末が得られる」
「感情が無意味だって言うの?」
「そうだ」ピスはにべもなく言い切る。
「肉体を動かすための方便。意味はない」
グラスを口にあてて、ほんの僅かな量を口に含んだ。
「感情に意味を見出した奴は、みんな死んだか、機械に繋がれて"天国"で暮らしている」
ピスの言葉が、心の中で残響した。
腕で両膝を強く抱きかかえる。消してしまうのが一番良いように思えた。過去に刻まれた刺青を消し去って、服を着替えるみたいに生まれ変わり、苦しみも憎しみも払い捨てて、新品の人生を好きなように歩む。
あの酔っ払いに説教されるまでもなく、よくわかっていたことだ。復讐心は虚しい。感情など一瞬の幻に過ぎない。
なら、何を躊躇っている?
なぜ、まだ考えている振りを続けている?
10年以上繰り返された訓練に耐え、身体を改造し、信じられないことを沢山目にした。現実の数分のあいだに、何もかもが変わった。それでもなお、家族の顔は脳裏を離れなかった。
後戻りはできない。
自分を苦しめるだけの感情が、確かな実感を持って自分の一部となっている。
切り離すことなどできない。
そのことが、たまらなく悲しかった。
ヘレンはゆっくりと立ち上がった。
後戻りはできない。
切り離すことなどできない。
そう思い込むことで、存在する退路すら絶つかのように、ヘレンは強く、何度も心の中で繰り返した。
バードケイジに顔を出すと、ハマーが一人でテーブルに突っ伏して黒い後頭部を見せていた。ハマーもウィップも、自分が見る限りではほぼいつもここにいる。ヘレン自身も何度もそこに加わって一緒に管を巻いていたが、ピスからここは活発なグループだと聞かされていただけに、何もしないでギネスをあおりながらラリっている彼らの姿はひどく不思議に映った。今ではその意味と、背後にある事実がはっきりと見える。彼らは無数の身体のうちの一つを、ここで遊ばせているだけだった。彼らが何十、何百の"存在"を持っているのかはわからないが、それは認知的・行動的リソースのごく一部に過ぎない。彼らがここで膀胱にギネスの臭いの液体をせっせと精製しているとき、同時にこの街のどこかで警察を切り刻み、アフリカでネットワークの深層を穿り返して分析し、月面の都市ティコで旧友と談笑しているのだろう。そしてそれら全てを"一人の人間"が体験する。奇妙に聞こえるが、確かな意味を持って、そうだと断言することができる。
人類は、個体という限界を超越する術を得たのだ。
「ハマー」
名前を呼び、テーブルを叩く。すぐに寝起きの不機嫌そうな顔が現れた。
「"パパ"を殺ることにしたんだけど、手を貸す気はある?」
視線を重ねたまま、たっぷり10秒以上は沈黙したあとで、ハマーはおもむろにコインを取り出し、トスした。古びた1セント硬貨はテーブルの上を何度か跳ねてから――この男が好みそうな無駄な演出だ――テーブルの中央付近でようやく落ち着いた。覗き込むと、リンカーン記念館が静かに佇んでいるのが見えた。
「……くだらねえ用事で起こすんじゃねえよ」
ハマーはどんな時でも、コイントスの結果に速やかに従う。捨て台詞を吐いて、彼は再び夢の世界に消えた。
「こういう奴なんだ」
振り返ると、いつの間にか背後にピスが立っていた。
「一度そうなったら、ケツに核をブチ込んでも従わない」
「どうしようもないね。脳にもサイコロ埋め込んでるんじゃないの?」
「その通り。ニューロチップの何割かに量子乱数発生器を内蔵してるらしい」
呆れて返す言葉も出ない。
「やる気になったのか?」
すぐにピスの言葉の意味を理解する。
「うん」
その決断とは裏腹に、剥き出しの憎悪のような感情は不思議とどこにもなかった。人生を賭けるに相応しい目的を得たような、妙な清清しさだけが広がっている。
「あいつを殺さないと何も始まらないし、何も終わらない」
「そうか」
ピスはそっけなく頷くと、歩を進めてハマーの横の椅子に座った。応じてヘレンもすぐに座る。一つのテーブルを、ハマーとヘレンとピスが囲う形になった。
「約束通り、パパの殺り方を教えてやる。結論から言えば、"コピー"だ」
「コピー……」
「知っての通り、俺達は既に個を超越している。それでも人類の大半はまだ個体で、バックアップを保険として持っている程度だが、個体のままでは復讐を遂げるどころか、このクソみたいな街を歩くことすらできない。軍隊になる必要がある。たった一人の軍隊に」
ピスは大麻の煙草を燻らせながら、静かに語った。ヘレンは思いつめた表情で頷く。図らずも同席することになったハマーを一瞥したが、起きだす気配は微塵もない。
「ここまでは、どの道教えるつもりだったことだ。ブートキャンプの最終プログラムと言える。だがお前の場合は、更に上のレベルを目指す必要がある」
「上のレベル?」
「オーヴァーロードになれ」
瞬間、息を止めたかのような静寂。
視線を絡ませたまま、時が止まる。
「それは……相手に対抗して、ということ?」
恐る恐る質問を切り出しながら、ヘレンはピスの鋭い視線から決して目を逸らさなかった。奇妙なことに、それがある種の戦いのように思えた。
「それだけじゃない。オーヴァーロードの一番の強みが、お前の復讐に役に立つ。つまり、不死性だ」
ピスの視線はどういうわけか、一瞬たりとも逸らすことなくヘレンの瞳を真っ直ぐに貫いている。まるで何かを見定めようとしているかのように。
「俺の"感触"では、パパはアメリカ中西部を中心とするオーヴァーロードだ。恐らくECFのオーヴァーロードの傍系で、数百万の細胞と、それより数桁多い"人形"を持っている。中堅ってとこだが、はっきり言って絶望的だね。お前が奴を殺せる可能性は兆に一つっていうとこだ」
ヘレンは身じろぎもせず、目を逸らすこともできず、凍りついたようになって、ただひたすらにピスの視線と言葉を受け止めた。
「ところが、不死になれば話は別。オーヴァーロードには、死にさえしなければあらゆる問題に対処できる、というシステム哲学が根底にある。理論的には、地球や人類が滅びても生き続けることができる。何億年、何兆年かかってもいい。生きて、攻撃を続ける。"パパ"の最後のセルが倒れた時、お前が生きていれば、お前の勝ちだ」
言葉が出ない。
もう後戻りはできない。
自分の頭で何度も繰り返した言葉が、現実のものとなってのしかかってくる。
「相手が相手だから、生き続けることが完遂のための最も重要な要素となる。あとは、お前の意志の問題。宇宙が冷え切って死ぬまで"パパ"と乳繰り合う根性があるかどうかだ」
確かに、これは単なるオールド・スクールな復讐劇には留まらない。すぐに直観した。自分は今、とんでもないことを始めようとしている。
「オーヴァーロードはみんな……生き抜くことだけを目的に存在してるの?」
「そう思っても間違いじゃない」
「なんで、そこまでして生きようとするの? 何のために?」
復讐の念に突き動かされている自分がこんなことを聞くのは、ひどく間抜けなことだというのはよくわかっている。しかし訊かずにはいられなかった。
「それ以外には何もないからだ。生きていることだけが、生命の定義となる。ただ生きる。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけのこと。それが生命の本質だ」
ずっと無表情だったピスが微笑み、姿勢を変えて背もたれに寄りかかった。
「萎えたか? パパのほうはいきり立ってるようだぞ」
ピスは悪戯めいた笑みを浮かべて、天井めがけて勢いよくタバコの煙を吐き出した。
「いきり立ってる、って?」
次の瞬間、店全体を激しい震動が襲い、ヘレンは反射的に頭を低くした。
すぐに店内を見回す。閑散としたバードケイジには何の変化もない。しかし、断続的な揺れが続いている。
いうまでもなく、ここはVRだ。たとえ地球が割れるほどの地震があっても、ワンパイントグラス一つとして揺れることはありえない。
それは信号なのだ。そしてヘレンは、その信号が意味することを知っていた。
「お前のファンが殺到してきてるぞ。すっかり人気者だなあ」
ピスは大麻のタバコを燻らせながら、ぼんやりと天井で揺れる電灯を眺めている。緊張感はまるで感じられない。横で寝ているハマーのほうも微動だにしない。
「パパが攻めてきてるの? バードケイジのネットワークを?」
「そうだな。これはたぶん、パパの"臭い"だが、まぁ大丈夫だ。ここは元から攻撃を受けるために存在してるんだ」
ヘレンは何が大丈夫なのか全く理解できず、信じられないという思いを顔の隅々にまで行き渡らせてディスプレイした。
「おい、出てこいよ」
唐突にピスがそう言った瞬間、背中に冷たいものが走り、ヘレンは反射的に振り返った。
5歩の距離に、ベージュ色のくたびれたソフト帽を深く被り、トレンチコートに身を包んだ男が、こちらに身体を向けて仁王立ちになっている。右手で杖をついていて、顔は帽子に隠れて見えなかったが、口元にわずかな髭と微笑をたたえているのが辛うじて見えた。
自分が見たものがなんなのかを認めた瞬間、ヘレンの全身の毛が逆立った。
「なんということだ」
いやに落ち着いた喋りと、鼻につくイギリス英語。それは決して忘れられない人間の特徴だった。
「"自分"を100人も用意したんだよ。つまり、ここを攻めるためにね。それがどうだ、蓋を開けてみたら、生きて突破できたのは私だけだ。まいったなあ……」
パパは身振り手振りを交えながら、自分がいかに困っているかを説明しようとした。その態度は紳士的で穏やかで、いかにも困っている老人という風情を崩さない。ヘレンは一瞬、この男の正体を忘れそうになった。数百万の身体を持ち、地を這うように次々と人の精神を食らい、そして自分の家族を殺した、地球を覆う巨大な化け物なのだということを。
「帰んな、ご老人。お前は俺を殺せない。これは俺のゲームだ。俺が仕掛けたゲームだ。よく言うだろ、いつだって胴元が勝つんだ」
「そのようだね」パパは申し訳なさそうに苦笑した。「しかし、折角ここまで来たわけだからね。出来る限りのことはしてみるよ」
そう言って彼はコートの襟を正し、背筋を伸ばした。
「内部を精査しろ。お喋りできてるってことは、奴と相互作用してるってことだ」
ピスの声が不意に頭の中に響く。
「奴を殺すぐらいは訳ないことだが、あっちは何も失うものはない。オーヴァーロードだからな。でもお前の命は一つ。お前は全財産を賭けて、あの紳士気取りはせいぜい10セント。そういうゲームだ。分が良いとは思えないね」
「逃げるべきだと思う?」
「遅すぎる。お前とバードケイジの結合度は高い。切断するんだって一瞬じゃないんだ。1秒で3000年だぞ? 切断しようと試みている間に、あいつはお前のことを一物が擦り切れるまでレイプできる」
ヘレンはとっくに処理速度を限界にまで上げていた。ピスも既に同じ速度のはずだが、パパとの会話にはタイムラグが全くなかった。そのことが意味するところは一つしかない。パパは既にバードケイジのネットワークの内側に入ってきているのだ。
「戦うしかないか……」ヘレンはため息と共に、迷いと恐怖を吐き出した。
「当たり前だ」
ピスはそう言って、自分のすぐ隣で突っ伏しているハマーの頭を引っ叩いた。再び不機嫌な顔が浮上してくる。
「うるせえな……やんねえって言ったろうが」
「そっちの件じゃない。人型標的のご来店だぞ」
「なんだよ、またか?」ハマーが顔をしかめて、パパのほうを見た。
「それで、作戦会議は終わりかね?」
ずっと黙ってこちらを眺めていたパパが口を開いた。
瞬間、3人全員が一斉に銃を抜き、間髪入れずに火を吹いた。
放たれた3発の弾丸は真っ直ぐにパパへと向かったが、パパは被弾する寸前に自身をフェードアウトして消え去り、忽然と消え去った。弾は空を切り、壁に突き刺さる。
「チッ」ハマーが大きな音を立てて舌打ちした。
「追うぞ」
ピスが一瞬で消え去り、ハマーもすぐにいなくなる。
ヘレンは深呼吸すると、銃のグリップを両手で強く握り締めて、天井を見上げた。
その瞬間、周囲の光景がひび割れたガラスのように崩れ去り、灰色の憂鬱な空が視界一杯に広がった。
素早く周囲を見回す。灰色の空、灰色のビル、灰色の道路。人っ子一人、カラス一羽いない街。幻戦ソフトウェア「PW2000」の基本アーキテクチャ。
椅子を蹴飛ばして、ヘレンは道路を駆け出した。
周囲を見回しながら、パパの気配を探る。先ほどの様子では、パパは明らかにヒトコネクトームレベルの構造物に見えた。それほどのものなら、探知されずに活動するのはかなり難しい。ここがザ・スレイブの管理領域だということを考慮すれば、ほぼ不可能だと言っても言い過ぎではない。
しかし、パパの気配はどこにもなかった。
「……妙だな」ハマーの声。やはりヘレンと同じことに気づいたようだ。
「時間は俺たちの味方だ。2秒後に一時的に閉鎖して、100層より上を初期化する。そうなればあの偽者野郎はこっちが見つけるまでもなく死ぬ。それまで守っていればいい」ピスの声。
「主観時間でどのぐらい?」
「百年ぐらいかな」
「ハッ、最高だな」ハマーが呆れたように鼻で笑った。
ヘレンはローレディのまま立ち止まり、パパが忽然と消えた理由を考えようとした。
「幻戦は解釈が世界を作る。何かが見えないのなら、その原因はお前にある。だから、自分の内部状態を変えなきゃいけない。それが出来れば、幻戦は自分の右手を探すよりも簡単な作業になる」
数年前――現実時間では昨日――に、ブートキャンプでピスに言われたことを思い出す。
ヘレンは考えた。おそらく、正規の存在になりすましている可能性が一番高い。それなら発見できない理由も頷ける。しかしバードケイジの浅い層は、その大部分が待ち伏せを想定したハニーポットであり、正規のプロセスや通信は殆ど発生しない。ヒトコネクトームのような構造物が隠れられるような場所はないはずだ。
大量のサーチライトの蠢く、草一本生えていない空き地という状況の中で、パパはまんまと看守の目を欺き続けている。
どうやって?
どこに隠れている?
不意に気づいた瞬間、背筋を寒気が駆け上がった。
このネットワークで活動している正規の存在は、ピスとハマーと自分の3人だ。誰かの一部になりすまし、影の中に身を潜めればいい。灯台下暗しというわけだが、勿論そんなことは簡単にはできない。対象の情報を十二分に持っていなければ不可能だ。
いや、持っている。
この3人の中で、パパにコネクトームを抜き取られた可能性があるのは……。
ヘレンは素早く身体をひねって振り返りながら、銃を目線の位置まで上げていく。
それを捉えた瞬間、躊躇せずに引き金を引く。
光で視界が白み、
薬莢が宙を舞う。
照星の先に立っていたのは、額に大きな穴の開いたヘレン――自分自身だった。
相手も銃を構えていたので、一瞬鏡かと思う。しかし、そこには鏡像との決定的な違いがある。
生きる者と、死ぬ者。
"ヘレン"は握っていた銃を投げ出して、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
胸を撫で下ろして深呼吸し、眼前の死体を見下ろす。
もう一人のヘレンは、口を半開きにしたまま、虚ろな瞳で灰色の空を眺めていた。
「……そういうことか」
振り返ると、苦虫を噛み潰したような表情をぶら下げたピスが立っていた。
「お前をECELに監禁してた時に、コネクトームを抜き取ったんだな」
「やらない理由もないでしょうね」ヘレンは自分の興奮を吐き出すように、大きなため息をついた。
「小賢しいことしやがって。エセ紳士野郎がよ」
ハマーが現れるやいなや悪態をついた。
「今度は俺達が盗る番だ」
ハマーが死体の傍に屈みこんで、額に手を触れると、死体が瞬時にまばゆい光に包まれて消え去った。
それを見届けたあと、ピスはヘレンのほうを向いた。
「これで決意が固まったろ」
ヘレンは一瞬何の話かわからなかったが、すぐに思い出す。
「オーヴァーロードの話?」
「そうだ。こんなギャンブル、毎回したくはないだろ。仕事はもっと手堅くいかないとな」
「命が沢山あるのは悪くねえぞ。スケールのでかい遊びができる。警察や軍とも"馴れ合い"し放題」ハマーが立ち上がりながら、下品な笑いをこちらに向けた。
ヘレンはまだ微かに抵抗を感じていたが、論理的には全くもって彼らのいう通りだということはわかっていた。パパに対抗するため、というのも勿論あるが、何事においてもやり直しがきくのはそう悪いことではない。
「これ以上この糞壷の人気者になる前に、あの野郎のケツに火をブチ込む算段をまとめたほうがいい」
選択の余地はないようだった。それは復讐を誓った時にもう決まっていた運命であるように思えた。
「……わかった」
目覚めたとき、ヘレンは自分の変化に驚いた。何かが変わったことにではなく、何も変わっていないことに驚いたのだ。自分が眠っている間に施された処置は、旧人類から見れば間違いなく大きな一歩であるはずだった――少なくとも、酒臭さと胡散臭さを常に纏っているあの男が言うには、そのはずだったが、自分の身には不気味なほど何の異変もなかった。椅子から立ち上がり、変化を求めて周囲を見回したが、"ホワイトハウス"の景色は例によってうんざりするような純白を繰り返しているだけだ。
眼前にピスが出現する。
「気分は?」
「本当に何かした? 何が変わったの?」ピスに疑念の眼差しを向ける。このやり取りに既視感を覚えたのは言うまでもない。
「後ろを見てみろ」
促されて後ろを振り返る。10歩の距離に"自分"がいた。相手も丁度こちらに振り返ったところで、体勢まで殆ど同じだった。一瞬そこに鏡があるのかとヘレンは思ったが、体の向きが反対だったため、違うということに気づいた。
「手を動かしてみろ」
言われるがままに手を軽く振ってみると、相手が同じような動きをした。
「人形と何が違うの? あれは」
「違うのは、相手もお前と同じ中枢神経系を持ってるってことだ。コネクトームもほぼ同じ奴を。互いの皮質は量子ネットワークでリンクされていて、知覚と思考は共有され、意思決定は相互作用によって生まれる。今お前は手を動かして、相手もそれに自動的に従った――そう思っているだろ? だが、逆もまた真だと言えるんだ。あいつが手を動かして、お前がそれをただ、事後承諾的に受け入れた」
「なに? 私が操られてるってこと?」ヘレンは怪訝な表情を"二つ"浮かべた。
「違う。そういう思考はもうやめろ。意思の源を空間的座標に求めることは無意味だが、強いて言うなら、お前たちの"間"だ」
ヘレンは自分と分身の間を見た。もちろんそこには何もない。
「各々が文字通りの意味で一つのニューロンとして機能する。それでも脳の大部分――特に深部構造は依然個体を制御するために使われるが、増設された相互作用皮質によって、意思決定は全体で生み出される」
未だに実感はなかったが、たしかに分身を見ても、特別な感情は何も湧かなかった。自分の身体を見る時のように、何の不自然さもなくそれを受け入れている。
「ちょっと自由に動いてみろ」
色々と試してみることにした。まずわかったのは、たとえ見えない位置にあっても、分身――細胞と言うらしい――がどこで何をしているか、姿勢まで正確にわかるということだった。目をつぶっていても自分の手の位置が分かるのと同じように、それを明確に"感じる"のだ。体性感覚と、身体図式は完全に共有しているようだった。思考や直観については殆ど、あるいは全く境界は存在しないようで、"相手の思考"などというものは微塵も感じられず、それは常に"私の思考"でしかなかったが、別のセルにとってもそれは同じなようだった。ピスが試しにもう片方のセルのほうに耳打ちをすると、声は聞こえないものの、何を言われたのかをどういうわけか直観で知り、それに従う――あるいは従わない――ことができた。また、興味本位でセルとの会話を試みたが、考えるだけでもそれは馬鹿げた行為に思えたし、実際会話のようなものは成り立たなかった。相手が何を考えて何を喋るのかが、実際に口に出す前に筋道まで全てわかってしまった。自分の手で操っている人形とお喋りをしているようなもので、気味が悪くなっていてすぐにやめてしまった。
「通信が維持されている限り、セル同士は常に遠心性と求心性の信号、そして思考をある程度まで共有する。長期記憶はセルが待機系に移行した際に他の全てのセルのコネクトームを取得して重ね合わせられ、融合するという形で、不定期だが頻繁に共有がなされる。時の試練に耐えたり、複数のセルで一致している細胞集成体は、より一層強化される」
「視覚と聴覚の意識体験はないの?」
「通常ではオフになってるが、"万華鏡"を使えばそれらもリアルタイムで共有することができる。でも、お前にはまだ早いと思うね」
「どうして?」
「飛んでいっちまうぞ。やめられなくなるぜ」
ピスは下卑た笑みを浮かべた。
「ねぇ、ピス」
「なんだ」
「ピスはオーヴァーロードなの?」
「高くつくぞ、その情報は。聞きたければたっぷり支払ってもらう」ピスは本気で隠そうとしてるというよりは、からかっているような態度だった。
「じゃあやめとく。復讐にはもううんざりしてるの」ヘレンは苦笑して首を振った。
ピスは人差し指を顔の前で振って悪戯っぽい笑みを浮かべ、はぐらかした。
「次は分裂の方法だ。まず、個人を規定する細胞集成体の集合、通称"自我子"を……」
長く短いブートキャンプが終わり、ついにヘレンは自由になり、そしてオーヴァーロードになった。真っ先に取り掛かったのは無論パパの情報収集だが、思っていたほど大変な作業ではなかった。今では70以上存在する細胞全体に分担させていたし、さらにその70分の1になったタスクすら、MPASと補助人格と潜在意識に任せっきりにしていた。ヘレンの意識は、自分がしている恐るべき規模の作業とは全く似つかわしくないほどの退屈な状態に置かれた。このことで、あのアイリッシュ・パブの飲んだくれ達に対する新たな事実が判明した。彼らのシステムは、たとえ二日酔いで倒れている時ですら、歴史上の人々が何十年もかけて書類の中に埋もれて成し遂げた作業を数分の1秒で捌いている。そして今では自分もそうだった。
退屈しのぎに、ヘレンは世界中を飛び回った。精神にとって、空間という概念はもはや意味を為さなくなったようだった。エアーズロックからの日の出を拝んだ次の瞬間には月に飛び、地球を眺めながら月面の岩の感触を指先で堪能する。マリアナ海溝に飛び込んで深海魚と戯れ、飽きたら中東にでも飛んで、現代のテクノロジーと比較すれば信じられないほど旧式の装備で砂漠に挑む勇敢な遊牧民達を、数千メートル上空から見送った。世界がこれほど小さく感じられたことはない。コロラドに住んでいた頃は、父親に連れられて近場のさほど高くない山に登り、そこからの景色を見るだけでも、世界の広大さに圧倒されたものだった。それが今では、文字通りの意味で世界を股にかけている。
"神の視点"を得た時の感動は、決して言葉に表すことはできない。すべての視点を統合した視覚は、自分が至るところに遍在するかのようで、一点に存在するのではなく、薄い膜のようになって大地に広がる感覚だった。
身体の動きについても同じだった。遠心性コピーを送信し合っているため、全ての細胞の行動は実感として常に自分の行動だった。信じられないほど大規模な行動が、間抜けに思えてくるほど簡単な動作で可能になった。右手で北極を、左手で南極を攻撃する、というようなことが比喩を超越して言葉通りの現実となった。身体地図は地球地図と重なり合い、自分の肌の下で国際情勢が動くのを生々しく感じない日はなかった。
ヘレンは、自分が到達した存在の次元に何度となく打ち震えた。あらゆる感覚は不気味なほど自然で、かつ滑らかにそこに在り、自分が何か特別な存在になったような感覚はそれほどない。しかし何事もなかったかのように此処に佇んでいる自己感覚は、疑いようもなく大地に、空に広がり、青い岩の塊をその手に握り締めていた。
これほどまでに存在のあり方を変えながら、どうして自分のままでいられるのだろう。
どうして、一人のままなのか。
今の自分は、いったい何なのか。
人工衛星の視覚を借りて、虚空の中から地球をありとあらゆる角度で眺めながら、もはやそれが何を意味しているのかすらわからない、自分の手のひらという名の幻想を眺める。ヘレンの白く小さな手は幽霊のように半透明で、その背後にある美しい惑星が透けて重なり合っていた。
初期のオーヴァーロード達の気持ちは、今の自分にはよく分かる。これほどまでに豊かな世界を見せ付けられて、どこまでも広がりたいという衝動を止めることなどできない。自殺行為としか思えない貧弱な準備で大海原に乗り出した、歴史上に星の数ほど存在した命知らず達と同じように、オーヴァーロードは事象の地平面に夢を馳せ続ける。
ヘレンは一度宙返りすると、目の前の淡く青い点めがけて飛び込んだ。
精神が、地球へと垂直に降りていく。
今はただ、この世界を自由に泳ぎたい。
どこまでも行ける。
どこまでも広がれる。
そして、どこまで行っても、独りなのだろう。
地球中を泳ぎ回っていたある時、ヘレンの精神は、フロムシティに高い比重を置く深層の中にできた空間に迷い込んだ。何かに呼び寄せられるような感覚を覚えて周辺のネットワークを解釈したところ、一つの空間が浮かび上がってきた。
目を開けると、ヘレンは湖の上の桟橋に佇んでいた。霧の立ち込めたその湖には波一つなく穏やかで、陸は見えない。桟橋の一端も永久に続くかのように、霧の中に消えている。誰かがこのような空間を作ったというわけではなく、これはヘレンの幻戦ソフトウェアによる解釈の結果生まれたモデルだ。
「何しにきたの」
突然の声に振り返ると、すぐ傍にアジア系の少年が立っていた。少年の視線は湖面に注がれている。
「ケイ」
ケイはザ・スレイブのメンバーで、ピスとの距離からいって幹部のような存在だと聞かされている。ヘレンはあまり話したことはなかったが、お互いに面識はあった。
「何してるの?」
「何も」
「……あぁ、そう」
奇妙な雰囲気の少年だった。このグループには狂人しかいないことはよくわかっていたので、すぐに適応する。自分も既にその一人かもしれないという点に関しては、あまり考えたくない。
ケイは相変わらず微動だにせずに、湖の水面を凝視している。流石に気になりはじめたヘレンは、つられて同じ場所を見た。そこは他と同様に波一つ立っていない湖面で、何か沈んでいるものが見えるわけでもない。
「何見てるの? さっきから」
ケイは何も答えない。こちらに目をくれようともしない。流石に少し苛立ちを感じたとき、微かに水の流れる音が耳に入ってきた。
はっとしてヘレンが先ほどの水面を見ると、そこに小さな渦ができていた。ひとりでに生まれた渦は次第に大きくなり、やがて周囲にも複数の渦が出現して、各々の渦が水の流れによって繋がった。瞬く間に、湖全体が、所々に渦を生みながら一方向に流れる大きな一つの川となった。
「生きている河だ」
ケイの独り言が沈黙を破った。
「このあたりは、深層といってもまだまだ浅い。表層に近いから、ほどよいデータ流がある。カオスの縁ができているんだ」
「どういうこと?」
「サーフェイスから、色々と流れ込んでくるんだよ。どこかの誰かが無差別にばら撒いたワームが変質したやつとか、色々ね。そういったものが流れ込んで、相互に命令を与え合って影響しあううちに、ループを作り、そのうち最小のエネルギー状態に至る。それがこの渦だ」
「生き物だっていうの? この渦が?」
「まだ細胞というレベルには達していない。せいぜい自己触媒ループを繰り返す分子集団といったところだけど、僕は生命だと思っている。増殖と再帰が生命の定義だと、僕は考えているんだ」
せせらぎの音だけが響く静謐の中で、生命が生まれては消え、周囲のシステムに取り込まれたり、取り込んで増大したりといったプロセスを繰り返しているのがはっきりと見てとれた。まだ生命とは言えない原始的なレベルのようだったが、そこには確かに息吹が感じられる。
時が経つにつれ、生命の渦は全体で共進化を遂げていくだろう。その先に何が生まれるかは、彼女にも想像できない。
「こういう場所って、ネットワークの至るところにあるの?」
ヘレンは興味というよりは、少し不安な気持ちになって、そう尋ねた。
「沢山あるだろうね、きっと」
「不気味だね。単なる情報インフラが、自発的に生命を生み出すの? 理屈はわかるけど、どうも信じられない……」ヘレンは顔を少しだけしかめて、自分の二の腕を掴んだ。
「この宇宙そのものが生命なんだ。だから生命が生まれるのはなんら不思議じゃない」
「生物じゃないものも沢山あるでしょ、宇宙には」
「非生命も含めての生命なんだ。信号が0と1で成り立つようにね。合わさって、一つの現象を作っている。これと同じだよ。ループを作って補完しあっている」
ケイはこちらを一瞥したあと、眼下の渦を指差した。
「無関係なものなどないんだ。どのスケールで見ても、生命が現れる」
ケイの言うとおりだった。水流は自己相似な構造によって、どこを切り取っても一まとまりのシステムが現れるようになっていて、解釈の範囲を確認しなければ、自分が今どこを見ているのかもわからなくなるほどだ。
「ここにはよく来るの?」
「系の発展過程を眺めてる。モデルを作って試行錯誤してるんだよ。そのうち上位存在と交信ができるようになるんじゃないかって、少し期待してるんだ」
「上位存在?」
「神と呼ぶ人もいるけど、僕のはもっと具体的なものだ。最上位の層、つまり宇宙という層が創発している存在のこと」
「宇宙そのものを"解釈"?」ヘレンは目を丸くした。
「まだスタート地点に立ったばかりだし、手探りだけど、僕は可能だと思っている」
ケイはそこまで喋って、そこで初めてこちらを向いた。予想通りモナリザのような表情を浮かべて、落ち着き払っている。
ヘレンは腕を組んで、訝しげな視線でケイを見た。
「百歩譲ってそんなことができるとしても、少なくとも今は無理でしょ。宇宙を隅々まで調査でもしない限りさ」
「その必要はないよ」ケイは微笑みながら首を横に振った。
「ヒトの脳だけが、社会や国家、人類というスケールを感じることができる。その知覚は不完全な形だけど、未熟な神経系を持つ生命体にはできないことだ。全体の痕跡は必ず部分に埋め込まれる。宇宙は僕らの中にある。問題は見る眼を持っているか否か、だけのはずなんだ」
口調は静かで落ち着いていたが、その瞳には強い情熱と確信が見え隠れする。
ヘレンはケイから眼を離して、何を見るでもなく、ぼんやりと湖面の水流を見やった。
長い沈黙が垂れ込める。
「あるいは、もっといい方法がある」沈黙を破ったのはケイだった。
ヘレンはケイのほうを向く。
「宇宙そのものになってしまえばいい。自分で」
「オーヴァーロードのこと?」ヘレンは片眉を上げた。
「あれは一つの可能性だと思う。僕らはもっと大きな存在になれる。それが技術的に可能であることが示されているんだ」
ケイの視線は湖の中に落ちたままだった。単なる独り言なのか、こちらに言ったのかさえ判然としない雰囲気がある。彼の周囲には独特の空間と時間が取り巻いていて、他人などまるで意に介さないようにも見える。
「なんというか、私はそこまで考えたことないけど……でも、今ならわかる気がする。理屈じゃなくて、感覚として」
ヘレンはそこまで言ってから、顎に手を当てて俯き、少し考えた。頭を整理する必要があった。
「オーヴァーロードになって一番感じたのは、身体と"わたし"はあまり関係ないってことだね。関係ないっていうと、間違いになるけど、こう、固定されてない、液体みたいなものなんだなって」
ヘレンは続けた。
「考えが変わった、って言うと嘘になるね。そんなこと、今まで一度も考えたことなかったから。当たり前のように、自分と身体を一つのものだと思っていた。こんな風にどこまでも広がれるなんてね。今じゃあ、自分を神だと思わずにいることのほうが難しいよ」
ヘレンは自嘲気味に笑った。普段はこんなことを他人に話すようなタイプではないので、少し恥ずかしい。この少年の奇妙な魔力か何かに当てられてしまったような気がした。
「ねぇ、いつもそんなこと考えてるの? こんな所で?」ヘレンは面白半分で訊いた。
「だいたいは」
「どうして? 何かの宗教とか?」
「さぁね。まぁ、暇だからかな、きっと」
真顔でそういうケイを見ているうちに、ヘレンは可笑しくなって、声をあげて笑った。
それから二人は、しばらくのあいだ無言で、心を奪われたかのように、眼下の幻想的な水流をただ眺めていた。
二度と同じ形にならないようにめまぐるしく揺らぎながら、それでいて同じ場所を回り続ける渦が、静かに、ゆっくりと、大きくなりつつあった。
ある日、ヘレンはピスに起こされた。
テーブルに突っ伏していた顔を上げると、既にハマーとウィップが座っていて、ピスが在りし日の政治家よろしく、立ったまま机に両手を乗せて、全員の顔を睨んでいる。
「33270層に合わせろ。秒間仮想秒は1000億」
言われた通りにした。プライベート層の中でも殆ど最下層だ。つまり、かなり用心している。
「今日はパパに一発食らわせにいく」
「実に愉快だな」ハマーの微塵もやる気の感じられない相槌。
「あの一件以来、バードケイジにはパパのケツから出たと思しき攻撃が毎秒平均2億発。今この瞬間も続いてる。大半はウォールか外縁で止まってるが、我慢強い俺らとしても、これ以上は見過ごすわけにはいかない」
「我慢強いんだってよ、俺たち。知らなかったぜ」ハマーがウィップのほうを向く。
「Fで始まる4文字を相手が言い終わるまで銃を抜くのを我慢できたら、このへんの界隈じゃあ聖人の部類に入るからな」ウィップが涼しい顔で言った。
「奴さんがくれたコネクトームを使って、情報空間での振る舞いをある程度モデル化したんだが、そいつを使って奴のセルの一つを特定することに成功した。殴りこみ、踏み台にして、パパの大域構造までいく。俺の便通みたいに何もかもが"するり"といけば、パパは死ぬ」
「オーヴァーロード殺しか」ハマーの声のトーンは低かったが、その口調にはある種の畏敬の念のようなものが微かに感じられた。
「そういう感じじゃなかったけどな、あいつは。カマホモ野郎の間違いじゃないのか? なぁ?」ウィップが下品な笑顔を浮かべながら、ハマーに顔を向ける。
「セルの物理的な位置も把握してあるが、カチ込むなんていう間抜けなことはしない。大域構造に踏み込む前に勘付かれたら、セルを焼かれて尻尾切りで終わりだ。滅茶苦茶にするのはご法度。バレた時点でヤマは中止。危険であればセルを切り捨ててでも完全に引き揚げる。わかったか?」
表には出さなかったが、内心ヘレンはピスの技量に舌を巻いていた。宣言的記憶の大部分を消されたコネクトームの燃えかすからここまでのネタを仕入れられるのは、もはや魔術か何かのようにすら思える。
「面子はこれだけ?」ヘレンが訊く。
「ここの連中はいつも集まりが悪いからな」ピスが一瞬顔をしかめた。
ヘレンは不思議に思った。むしろ、なぜ集まる必要があるのか。ここにいるメンバーは一人ひとりが一つの軍隊だ。"一人"でも人手には困らないはずだし、補助人格のように、絶対に裏切らない仲間を自分の内部に作り出すこともできる。過去の履歴も内部状態もわからない他人と組むのは、殆どの場合リスクでしかない。なぜこんな古きよき時代のギャングスタの掃き溜めのような旧式の組織を作って、チームプレイを気取っているのだろう。
「ここを出たら30秒きっかりでゲームを始める。今がブリーフィングだ。質問や便所はここで全部済ませる。いいな?」
時の流れから取り残された空間で、ブリーフィングは十時間以上続いた。
そこは、放棄されてから少なくとも10年は過ぎている廃屋だった。ノースダコタの僻地にあるそのコンクリートの平屋は、打ち捨てられ、誰からも忘れ去られていて、うらめしそうに夜空の星を見上げる屋上のパラボラアンテナだけが、在りし日のこの建造物の役目を静かに物語っている。
ヘレンはレバーを素早く操作して、廃屋の屋上部分までゆっくりと上昇した。センサーがあった場合、空気の振動を感知されて見つかることもあるので、慎重にならなければいけない。
屋上はパラボラアンテナとその土台がある他には、破片と落ち葉と埃が散乱しているだけで、何も不自然な点はないように見える。しかしヘレンは数秒のうちに目当てのものを発見した。屋上の床の一角に、埃も汚れも一切ない、場違いなほど綺麗な30センチ四方の空間がある。そこには何も置かれていなかったが、その意味するところがわからないほどヘレンは無知ではない。赤外線を知覚すると、その位置から天へと目掛けて真っ直ぐ伸びる、大黒柱のように太い近赤外線のレーザーが現れた。
ヘレンは高度を下げ、窓ガラスの割れている廃墟の窓から静かに侵入した。野球ボールほどの大きさの球状無方向性無人機の内部では、ヘレンという現象が渦を巻いて流れている。BMIを介して身体感覚ごと無人機そのものになってしまうこともできたが、居心地が気に入らなかったので、人型の擬似身体はそのままに"コクピットモデル"でいくことにした。早すぎる発覚を避けるために、通信はまだ封鎖している。オーヴァーロードとしての自分の大域ネットワークから離れ、通信すらも絶つのは初めての体験だったので、久々に孤独の静けさを堪能することができた。
廃墟の内部は外部同様にひどい有様で、大自然に浸食されるがままに任せている。暗闇の中で、窓や壁の亀裂から差し込んだ星明りに照らされて、光り輝く埃が踊っているのが見えるだけで、動きらしい動きはない。ヘレンは忍び足をするようなスピードで廊下を進んだ。床や壁にはセンサーが配置されている可能性が高いので、触れないようにする。
じれったくなるような速度で廊下を抜けると、窓のない部屋に出た。お決まりの汚れやゴミ、動物の糞などが撒かれているだけで、家具のようなものはなく、寂れていて殺風景だ。ヘレンは部屋の中心でホバリングして、周囲を念入りに見回した。天井にはかつて電灯だったものがぶら下がっている。センサーを切り替えると、そこから微弱電磁波が漏れていることがわかった。床に視線を落とす。おそらくセルの本体は床の下に隠されていて、壁に埋め込まれた有線で、壊れた電灯の内部に隠された中継器と繋がっているのだろう。全体として随分と急場しのぎの隠れ家のように見えるし、それほど上手く隠匿できているともいえない。ハニーポットの可能性が頭を掠めたが、単に重要なセルではないだけかもしれない。汚れ仕事をさせる外縁のセルなんていうのは往々にしてこの程度の扱いなものだ。
ヘレンは割れた電灯に接近すると、MAVの前面にある極小針を出して、1滴の更に100分の1ほどのわずかな水滴を、電磁波の漏洩している箇所に発射した。今回はセルではなく、中継器に侵入する。ナノマシンを介して物理現実から干渉し、バックドアを生成しようというわけだ。
程なくして、電灯のソケットの僅かな隙間から、規則的に点滅する微弱な光が現れた。ヘレンは上昇して、ドローンから直径1ミリもない極小ケーブルを出すと、静かに通信を開始した。
「まずはファーストステップ」
ホワイトハウスの中で、4人は輪になって顔を合わせた。
「近赤外線レーザーで成層圏プラットフォームを介して、セルの直上に位置する静止衛星に繋がってる。この、PS-357という衛星。これ」
ヘレンが言うと、4人が囲っている位置に小さな地球が現れ、北米大陸上に固定されている衛星の一つがピックアップされた。
「公式には地球国家連合の気象衛星ってことになってる。パパがECFの巨人の子供なら、あの衛星と"ねんごろ"でも驚きはねえな」ウィップが腕を組んだまま険しい顔で言った。
「入るか」ピスがそっけなく言った。
「どうやって?」
「相互作用皮質の通信はダメだ。通常ルートの生存確認信号に創発型のエクスプロイトを紛れ込ませろ。簡素なやつでいい」
程なくして、PS-357の内部ネットワークに侵入した。
「ヒト・コネクトームに似てないか? どうも臭うんだがよ」ハマーが顔をしかめる。
「おそらく、この衛星自体がパパのセルだ。しかもかなり重要だぞ。ほとんどハブだぜ、たぶんな」ピスがにやりと笑った。
「誰か1人がカチ込むってのはどうだ? そのあいだ、残りの3人は通信のトレースをして、できるだけ多くパパのセルを暴く。見たところ、ハブとして機能してるようだから、燃やしてあっさり尻尾切りというわけにもいかないだろう。多少派手にやっても大丈夫だ」
3人は無言で顔を見合わせた。
「私がやる」ヘレンはピスを真剣な眼差しで見据えた。
「そうだろうよ」ピスは済ました顔で頷いた。やはり彼女が志願することを予測していたようだ。
「多少は遊んでも大丈夫だが、こっそりやるゲームだってことを忘れるなよ」
「わかってる」
「じゃあ、後で」
ピスは全員の顔を順番に眺めて目配せした後で、一瞬で姿を消した。ハマーとウィップもそれに続く。
ヘレンはホワイトハウスに一人残された。
「サーシャ」
「なに?」
振り返ると、目の前に子供服を着たサーシャが立っていた。遥か頭上にあるヘレンの顔を見上げている。
自身の記憶をもとに、ヘレンは補助人格としてサーシャを作っていた。それはよくできたコピーに過ぎないことはわかっていたが、後悔はしていない。最高の相棒になるAPとして、これほど相応しい人間はいない。
「幻戦の時間よ、可愛い子。この静止衛星にはパパのセルがこびりついてる。クラス4のヒト・コネクトームとして解釈して」
「わかってるって、お姉ちゃん」
サーシャは満面の笑みを浮かべてウィンクすると、瞬時に目の前から消え去った。それとほぼ同時に周囲の景色が音を立てて変わりはじめる。四方八方でビルが"生えて"、植物の成長を早送りで眺めている時のように、凄まじい勢いで空に向かって伸び、氾濫した川の水のように道路が地面を駆け巡る。主観時間で5秒もかからないうちに、大都市が姿を現した。
「ここが左V1(第一次視覚野)。単なるハートビートを視覚野で受け取ってるなんて奇妙な趣味だと思うけど、私たちのスタート地点としては悪くない」サーシャの声。
「パパの"燃えかす"を参考にして写像したから、構造には信頼を置いていいよ。今のところは想定通り」
銃を抜き、どこを見るでもなく、漠然と街全体を見上げた。20世紀のアメリカの都市を模している幻戦空間は、不気味なほどに静まり返っている。
脳は一瞬たりとも変化をやめることのない荒れ狂う大海原であり、静謐とはおよそ無縁の世界だ。
何かが引っかかった。
深く潜り、発覚するまでの間に、できるだけ多く盗む?
自分がそれをしている時には、相手も同じことができるということだ。
「サーシャ、私の中枢はどうなってる?」
「異常はないはずだけど……」サーシャは自信なさげに口ごもった。彼女はヘレンの脳をモニターしているので、いわんとしていることは既にわかっているはずだ。
「だって、まだERPは来てないでしょ? パパが私たちに気づいて同じことをしてたとしても、気づいた瞬間に必ずアウェアネスはあるはずじゃない。そうじゃない?」
「サーシャ、いいから私の脳を精査して。今すぐに、隅々まで、徹底的に。ICとメンバーとここに繋がる経路以外は全てカット。侵入を受けているという前提で念入りにやって」
そこまで言った瞬間、背筋に寒気が走った。
はっとして空を見ると、血のように赤く染まり始めている。
「だめだ、侵入されてる。あちこちで一斉に活性化し始めた」サーシャの取り乱した声が聞こえた。おそらく、ヘレンがパパの策略に気づいたことをERPで知ったのだろう。もう息を潜めても無意味だと悟るや否や、ダイナミックエントリーに切り替えたのだ。
「どのぐらいやられてる?」
「わからない。少なくとも7割はダメだと思う。後ろ半分は全滅みたい」
悪夢は現実になった。パパは侵入を受けたことに気づいて、まったく同じことをやり返していた。静止衛星内部のパパにアウェアネスが起こらなかったのは、本当に気づいていなかったのだろう。パパの大域構造だけが察知して、衛星のセルを生贄に使ったに違いない。
「なんとか抵抗してみる」
サーシャの勇んだ声が心地よかったが、状況は絶望的だ。声が聞こえないところを見ると、ピス達もやられている可能性が高い。万が一撃退に成功したとしても、何を仕掛けられているかわかったものではない。植えつけられた、検出すらできないほどの些細な差異が、何年もかけて花を咲かせ、自分を滅ぼすかもしれない。
ヘレンは赤く染まった空を眺めながら、銃を自分のこめかみに当てた。一番スマートな方法が何なのかはわかっている。このセルを焼き捨てて、ヘレンの大域構造を守ることだ。
「死なんてのはクソだよ。屁でもねえな」
ハマーやウィップが口癖のように言っていたのを思い出す。恐れていない、という意味だけではない。彼らは何度も死を経験し、それをあっさりと乗り越える。オーヴァーロードにとっては、古典的な意味での死とは掠り傷のようなものなのだ。
しかし、ヘレンは引き金を引けなかった。
「そうだ。死にたまえ。死んで、自分を守りなさい」
どこからともなく声が響き渡る。
「オーヴァーロードの本質は不死ではない。幾千となく死ぬことができることだ。君もいつか、その意味がわかるだろう」
血に染まった空に、黒い球体が現れた。日食の太陽のようにも見えたそれは次第に大きくなり、ブラックホールのように周囲の全てを呑み込んでいく。
「さぁ、死にたまえ。死んで、生き残りなさい」
漆黒の闇が自分を包み込もうとした瞬間、ヘレンは引き金を引いた。
彼女がその死を感じることはなかった。閃光を見たと思った瞬間、ヘレンという現象を形作っていたある種の結合は、その拘束を解き放たれて砕け散った。
水滴が弾けるように、自己だったものの欠片が虚無に広がっていく。
そうして、彼女は一つの死を迎えた。
バードケイジの閑散とした店内で、4人はテーブルを囲っていた。
ピスはシングルソファに深く沈みこんで、微かに苦そうな顔を浮かべている。ハマーは目を閉じて、バーチャル毛じらみを絶滅に追い込もうとするように頭を何度も掻いている。ウィップは腕を組み、目だけを動かして3人を順番に眺めるプロセスを無意味に繰り返している。
ヘレンは顔を上げる気にもならず、頭を抱えて俯いていた。
「存外やるな、あのクソ狸爺も」
沈黙を破ったのはハマーだった。ウィップがハマーのほうを向いて片眉を上げる。ハマーが素直に敵を認めるような発言をするのはかなり珍しい。
「クソを呑まされただけってわけじゃない。量的にも質的にも、大域構造のネタをかなり仕入れられた。今頃あいつもケツに火がついたみたいに騒いでるだろ」
ピスが独り言のように言ったが、場の空気は少しも変わらなかった。結果的に、ハマーとウィップとヘレンがセルを一つずつ失うことになった。とはいえ、セル一つで済んだのは幸いだったと言うべきだ。パパは明らかに深入りする気でいたようだったし、気づくのがもう少し遅かったら、バードケイジは今ごろウェストコートを着て杖をついた輩の集う、紅茶の匂いのする空間になっていただろう。その光景は西海岸の悪ガキが死よりも恐れる何かだ。
「おいおい……待てよ、おい、なぁ。お前の持ち込んだヤマだろ。違うか?」ハマーが不満を露わにした。
「だからなんだよ」ピスはうんざりしたようにハマーから顔を背けた。
「なんだよそれ? 俺たちはセルを失ったんだぞ」
「当たり前だろ」
「いいや、お前が……」
「大したことじゃねえよ」ピスは制止するように両手を広げながら、ハマーの言葉を遮るようにぴしゃりと言い放った。
「いいか? ガキのオムツを替えてるんじゃないんだぞ、俺たちは。100万クラスのオーヴァーロードと喧嘩してるんだ。わかるか? セルが一つ死ぬなんざノミに引っかかれたようなもんだろうがよ。赤ん坊みたいにピーピー騒ぐんじゃねえ。わかったか?」
その時、不意にヘレンが顔を上げた。口喧嘩が中断され、全員の視線が彼女に集まる。大方の予想に反して、ヘレンの顔は酷いことにはなっておらず、ただ少し陰のある無表情がそこにあるだけだった。
ハマーやウィップは、オーヴァーロードの戦争論というものをよく理解しているから、長いスパンで見たときに5割以上獲れていれば上々、といったような思考がしっかりと染み付いている。だから怒ってるとはいっても一過性のもので、大したことはない。
しかし、ヘレンは違う。そういった戯言自体は彼女もよく知っているが、感情面では受け入れられていない。ピスはそのことを見抜いていた。
「ヘレン、死ぬのは初めてか?」
彼女はピスの問いかけにも答えず、テーブルの一点を眺めている。
「……なんにも感じなかった。何にも」心ここにあらずといった様子で、独り言のように呟く。
「銃声すら聞こえなかった。なんか、もっとこう……」ヘレンはそこまで言って、自嘲気味な笑みを浮かべる。表現に困っているのではなく、語る言葉をそもそも持っていないように見えた。
ヘレンはピスのほうを向く。
「これが死なの?」
すがりつくような表情だった。こういう表情を向けられるのは、ピスにとっては久々の体験だ。どう応えるべきかはよくわかっている。人がこういう表情になる時には、犬に骨を投げるように、簡単に与えてやれるような答えなどないのだ。
「古典的な死だ、ヘレン。それが全ての終わりを意味していた時代もあったが、俺らにとっては鳥の糞を踏むみたいなもんだ。ビッチみたいに悲鳴をあげて騒ぐことでもない」
言葉遣いこそ汚かったものの、ピスの様子は子供に言って聞かせるように穏やかだった。
「じゃあセルが全部死んだ時に"本当の死"が訪れるの?」
「俺が知ってるように見えるか?」
「でも、だって、それなら……」ヘレンは困惑してしどろもどろになり、言葉を失った。
"再び目覚めない、なんていう保障はどこにある?"
喉まで出掛かって出なかった疑問が、精神の中で残響する。
自分が混乱していることはわかっている。
しかし、衝撃を受けずにいることは不可能だった。
疑う余地もない、一つの死。
何事もなかったかのように、滑らかに連続する生。
私は、私の死を見ていた。
自分は失望しているのか、感動しているのか、それすらもわからない。
暴風雨のように荒れ狂うヘレンの頭の中に、一瞬家族の顔が過ぎった。
私の家族も?
「ヘレン」
急激に現実に戻され、精神が再び静謐の世界に戻ってくる。
呆然として顔を上げると、ピスの顔があった。彼にしては珍しいことに、慈しみを感じるような微笑をたたえている。
「お前の死は、お前だけのものだ」
ピスは彼女の肩を叩いた。
「さて、奴から引きずり出したクソでも洗ってくるかな、俺は。お前らの偉大で尊い犠牲に見合う掘り出し物が出てくるかもな」
全員に目配せをすると、ピスは瞬時にその場から消え去った。
「あの、クソ小便野郎」
ハマーも悪態をつきながら消えた。ウィップもそれに続く。
あっという間にバードケイジには誰もいなくなった。
自分の手のひらに視線を落とす。
「……私は、私の死を見ていた?」
そして、生きている。
微かに震える華奢な白い手は、自らの死が現実であったことを雄弁に物語っていた。
ホワイトハウスのうんざりするような純白の中で、ヘレンはパパと対峙していた。
「なんだね?」
その紳士は落ち着いた様子で立ち、両手を杖のグリップに置いている。バードケイジでの幻戦で手に入れたコネクトームを材料に、応対ソフトとして再現したパパのコピーだ。外見的な振る舞いは、むろん酒場でのパパの姿をもとに作られている。
「パパが私の家族を殺した理由、もう一度説明して。もっと詳しく」ヘレンは横柄な態度をとった。目の前にいるのは単なる応対ソフトであり、言うなれば読まれるためだけに存在している本のようなものだということは、彼女自身よくわかっている。それでも扁桃体がパパという記号に反応して憎悪をせっせと生み出すのを止めることは困難だったし、止める気もなかった。
「オーヴァーロードの意思決定はあくまでも大域構造全体で創発されるものだ。コネクトームを一つ取ったぐらいでは私の意図を読むことは――」
「御託はいいからさっさと話して、下種野郎」ヘレンはぴしゃりと言い放った。その怒りは馬鹿げているにも程がある。いちいちそう前置きをするように設定したのはヘレン自身なのだ。
「わかった」
コピーは静かに頷いた。単なる応対ソフトが怒ることはないし、いかなる場合でも常に素直で協力的だ。
「パパが君をこのような状況に陥れたのは、"交配"を行うためだ。この理由に則って言えば、君はパパの適応度を高める材料として選ばれ、今この瞬間も試されているということになる。そして君の家族は、君に動機を与えるために殺された」
コピーは続けた。
「不死者は非常に安定的な存在だ。"ゆらぎ"は持っているが、有機生命体が持つような真の意味での柔軟さを持っているわけではない。ルールを生み出すのではなく、ルールによって生み出されている。その上、"自我子"として主要なネットワークやセルアセンブリを固定させてしまう有様でね。オーヴァーロードのように増殖するにしても、転写に殆どミスがない。ソフトウェア化された不死者は"硬い"。たとえ数億年が過ぎても、人格にほとんど変化はない」
「でも、それが目的なんでしょ」
「その通りだ。こうした"硬さ"の半分は意図して行われている。"近代西洋的自我"という幻想を守るためにね。しかしそこにも問題がないわけではない。そこで、古典的な手法を導入した」
「有機生命体の真似事に落ち着いたわけね、結局」
「オーヴァーロードは自分自身が殆ど変化しない代わりに、様々な手段で変異体を生み出す。中心では単為生殖のようにコピーによる増殖を繰り返して、安定した部分を形成する。周辺部では交叉や突然変異を行って自身の"子"を生み出し、流動性と多様性と適応性を保つ。適応度を高める手法の中の一つに、交叉の材料として有望な者を見つけてきて、自分を攻撃するように仕向けるというやや特殊なものがある」
「それが私?」
「そうだ。主に精神がまだ安定化されていない個体が世界中から選ばれて、復讐するよう仕向けられる。そのような外来の存在は、オーヴァーロードにとっては淘汰圧そのものであるのと同時に、親候補となりうる個体でもある。オーヴァーロードに戦いを挑めるほどの個体に成長するだけでも十分だが、倒せるとなればより優秀だ。言い換えるなら、非常に適応度が高いことが証明されている」
ヘレンははっとして目を見開いた。
「待って……自分が殺されることもプランに含めている、っていうこと? そう言ったの?」
「そういうことだ。勝ったらその個体の一部を取り入れて変異する。負けて殺され、乗っ取られれば、より適応度の高い個体として生まれ変わることができる。そのようなエリート個体は、前身のオーヴァーロードの基盤を高い割合で引き継ぐことを選ぶことが期待できるからね」
「生きるために、死ぬことを選ぶの?」
コピーは静かに頷いた。
「全然理解できないんだけど……」ヘレンは額に手を当てて当惑した。
ヘレンは俯いて、しばし考えた。
「私をピスに押し付けたのは? どう説明する?」
「他の強力なオーヴァーロードのエッセンスを取り入れるためだろう。君をピスに預けた時に、彼がどう応じるか、パパは正確に予測できていたようだ。もっとも、読みが外れたところで何も失うものはないがね」
バードケイジに乗り込んできたパパのセルは、乗り込んできた時点でエピソード記憶の大半を失っていた。おそらくパパの大域ネットワークの決断で、敵に渡ると不利になるような記憶が寸前に消去され、セルというよりは殆どピース――コネクトームの一部を使用して作られるプログラム――に近い存在になっていた。しかしそれでもなお、このコピーの言うことは信用できるように思える。結局のところ思考パターンはパパのそれと近いわけだし、じっさい筋も通っている。
パパのコネクトームを自身のそれに組み込まなかったのは、仄かに心理的な抵抗を感じたからだが、ヘレン自身にすらそのことは間抜けなことのように思えた。70の"脳"、それよりも一桁は多い"身体"、世界中にその能力の許す限り拡散したボットが動的に形成する"末梢神経系"、それら全てを守り、自己と非自己の境界を形成するセキュリティという名の"免疫系"、そしてそういった各要素が生み出す相互作用をも含めた"ヘレン"という巨大な系は、目下増殖中の末端のワームから、前頭前皮質のニューロン一つ一つに至るまで、パパに特化している。環境に応じて最適な形をとるのは生物への自然な要請だが、ヘレンにとって環境とはまさにパパそのものに他ならない。今こうしている間にも、自分という系はパパと相互作用し、目まぐるしく形を変えている。今更コネクトームを一つ毛嫌いしたところで、何かが変わるわけでもない。
しかし最近のヘレンには、そういった馬鹿げた無根拠な感情が愛おしく感じられることもまた事実だった。自分が日に日に複雑化・最適化・合理化の度合いを増していく度に、無意味、無根拠な信念の集合体としての自己というものを強く意識する。この街の人間が古びた酒場で古代人の真似事をしている気持ちが、何となくわかるようになってきていた。
特大のため息をついて、思考を中断した。時間が無限にあるので、つい無駄な思考に深入りしてしまうことが多くなっている。
「ヘレン」
声を耳にするが早いか、目の前にピスが現れた。より正確には、目の前にピスを表示させた。本当のピスはどこに存在しているか、といったような位置関係については殆ど考えなくなっていた。自分の実在性すらよくわからなくなってきているのに、他人のそれについて心配する余裕はない。
「ECFが、この街での対ゲーマー作戦を強化するって叫んでるぞ」
「本当に? 私は聞いてないけど」応対ソフトを消しながら応える。
「警察内部にある個人的な"コネ"からの情報。ここで暴れまわる布石だろうな」
「ついに来るの?」
「そういうこと」ピスは口を斜めにした。
パパはフロムシティを飲み込もうとしている――それは以前から感じていた確かな感触だった。常々フロムシティを掌握したいと考えているECFのオーヴァーロードも、おそらく背後で支援しているに違いない。自身の内部状態を国家に昇華させながら、カオスに愛されし西海岸をそのアトラクターに引き込もうとしている。最近では、街にもパパ由来だと思われる外乱がよく起こるようになってきていて、誰もが侵攻の可能性を噂していた。
「他のゲーマーと協力して撃退、とはいかないの? こういう時ぐらいさ」
「そういうことができない馬鹿が集まってるのが、この街の美点の一つだ」
ヘレンはため息をついた。
「標的はこの街そのものだよ。ECFの巨人がずっと狙ってた目の上の瘤だからな。ただ、パパだけはお前を優先的に狙ってくる可能性はある」
「望むところよ。こっちから殴りこむ手間が省ける」
「実際には、ECFとパパの区別は殆どつかないだろう。元々あいつはECFの巨人から生じた支流のようだし、ない交ぜになって突っ込んでくるはずだ。それでもパパがまだお前にベタ惚れなら、判別は簡単になる」
「それにしても、なぜ物理的なフロムシティに拘るの?」
「地理的要因がまったくの無意味になったってわけじゃない。こんな時代でもな。だがおそらくは、フロムシティという概念への攻撃だろう」
「概念に対する攻撃……」
「それに、広がろうとする欲望はオーヴァーロードに付き物だ。呼吸みたいなものだからな」
「何かシナリオは?」
「特に考えてない。連中が動き出したら何か軽くでっち上げるか」
ピスには緊張の欠片も感じられない。
「大事じゃないの? このクソみたいな街」
「愛しても、執着はしない主義でね」ピスは肩を竦めた。
「またな」
「やめてよ、それ」ヘレンは半眼で睨み付けた。
「イギリスかぶれっぽいだろ」
ピスは下卑た笑いを浮かべた。
ヘレンは久しぶりに、バードケイジの公共層で一人で飲んでいた。他のメンバー同様、彼女もセルを一人バードケイジに常駐させていたが、永遠に夜明けの来ない乱痴気騒ぎに混ざる気にもなれず、結局大半の時間はスリープ状態にしていた。
カウンター席でギネスを少しずつ飲みながら、何気なく店内を見る。客は普段に比べると全体的に声を潜めて会話しているように見えるが、準管理者権限を与えられているヘレンには、ここでかわされる会話は一言一句すべて"視る"ことができる。最もトレンドなのはやはりECFの侵攻についての話題で、もちきりという表現が相応しいほどだが、彼女の予想に反して、不安げな雰囲気は全体的にあまりなかった。フロムシティと物理的な繋がりが殆どないのか、バックアップや待機系があるから死ぬ心配などないと高をくくっているのか。あるいは、電子麻薬で鈍くなっていて、何もかもがどうでもよくなっているだけかもしれない。
「なんだよ、お前。珍しいな」
声がしたほうを向くと、いつの間にかピスがすぐ傍に立っていた。
「何してんの?」
「どう考えたって俺の台詞だろ、それは」
ピスは苦笑して、ヘレンのすぐ隣に座った。
「それで、どう?」
「かなり食い込んできてるな。シエラネバダ・ラインのずっとこっち側にまで、攻撃型プログラムが浸透してきてる。言うまでもなく、ECFのロゴがでかでかと描かれてるやつがな」
「やっぱり、ここを制圧するのがECFの意志?」
「あれほどの規模のオーヴァーロードになると、意志と物理現象の間に境界は殆どない。地球そのものが奴の脳みたいなもんだ。ただ"思う"だけで、物理現実が書き換えられてしまう。潜在意識で燻っている段階ですらそうだ」
「今がその段階?」
「そういうこと」ピスは早くも一本目のギネスを飲み干した。
ECFが、たった"一人"のオーヴァーロードによって支配されていることを疑う者はいない。上層部の円卓の下で繰り広げられた闘争を勝ち残った将軍の誰かなのか、あるいは緩やかな融合を繰り返した結果"独り"になったのか、真相は誰にもわからないが、2070年代というかなり早い時期に出現した古参のオーヴァーロードで、世界で最も強大だといわれている。その大きさはECFの版図と同じ――つまり、ほぼ地球全土だ。その目的は、計画書を盗み見なくても分かりきっている。人類全てを支配下に置き、比喩ではなく文字通りの意味で、人類と自分をイコールで結ぶことだ。
「ECFに乗っ取られた地域ってさ、どうなるの?」
「どうもならない。至って平和そのものだ。紛争も犯罪も起こらない。犯罪すら起こらない、と言ってもいい」
「人間の尊厳を踏みにじって?」
「俺は信じてないが」ピスは鼻で笑った。「そんなものがあるとしても、別に踏みにじっちゃいない。尊厳と統制は両立できる。ECFのゾンビ共だって、みんな"自分の意志"で動いてるんだ。それがどこから来たかを知らないだけ。知らないからこそ、そんな概念が成り立っていると言ってもいい」
ピスは澄ました顔で言うと、再びグラスを呷った。
「それに、元はと言えば人間が始めたことだろ。ECFはただ引き継いだだけ。人類を支配することの価値なんて、もう殆どなくなっている。殺す必要すらない。空を飛んでいる鳥のように、ただ無視すればいいだけの存在、それがECFというシステムにとっての生身の人間だ」
「でも、そんなことに気づかないほど馬鹿でもないんでしょ? ECFは。命令を拒否できないように結線されてる?」
「さぁね。あれぐらいのレベルになると、ヒトの知能なんてのは遥か下だからな。文字通り想像もできねえよ」
「増量されて、MPASによってブーストされた私たちの脳でも?」
MPASは、ヒトの知能を遥かに超えた性能を持つ万能演算装置だ。それを辺縁系に繋ぐことで、潜在意識のレベルでは人智を遥かに超越することができるため、あとはわけもわからずに直観や感情に従っていれば、大抵のことはうまくいくという寸法だ。
使用者は自身のMPASのアルゴリズムを細かく自由に設定できるし、好きなだけモニターすることもできるが、MPASが出した結論について"納得"することは決してできない。愚か者はそれでも言葉遊びのような思考を続けて、安心できる適当な理由をでっち上げるが、いずれは誰しもが受け入れるようになる。ただ静かに、内なる神に身を委ねるようになるのだ。
数十年前、技術的特異点に直面した人類は、機械に人類が支配される、という陳腐なフィクションで何度も描かれたフランケンシュタイン・コンプレックス的な事態を防ぎつつ、その能力だけを利用する――簡単に言えば、ヒトを辞めることなくヒトを超越するという、大変都合の良い方法を模索した。信じられないことに、それは見つかった。
「MPASはケンカやレースに負けないようにするための道具でしかない。俺たちはECFを顔の形が変わるまで叩きのめせることもあるかもしれないが、仮にそんなことができたとしても、奴の考えは絶対にわからない。コネクトームを覗いてすら不可能だ」
ピスは興味もなさそうにそう言うと、再びグラスを空けた。あまりにもペースが早すぎるが、元を正せば報酬系を操作することによって得ている酩酊で、飲む動作との直接の関連はない。雰囲気を味わうためにやっているだけなのだろう。
「下らない飲酒ごっこで人間のふりをするのをやめて、人間以上にならないとだめ、ってわけね」
ヘレンは自分のグラスを弄んだ。表面の白い泡の層が、照明を反射して光っている。
「パパを殺りたいか? 人間をやめてまで?」ピスは面白半分といった表情で言う。
「人間? 誰が? 私が?」ヘレンは自嘲的に笑った。「今の自分を人間だなんて思っていない。これっぽっちもね。パパを殺すために存在するシステム、群知能、あるいは意志そのもの」
「そうか」
ピスはからかおうともせず、ただそっけなく相槌を打っただけだった。ヘレンは少し肩透かしを食らった気分になる。
しばしの沈黙が流れた。
「……ねぇ、どうして私を助けたの?」
「最初はただの気まぐれだった」ピスはこちらも向かずに続けた。「そこから先は、クソ食い愛好会をぶちのめすための標準作戦手順だ」
「前にも同じようなことを?」
「何人も」
ピスは緩慢な動きでこちらを向いた。酔っているのか、どこか眠そうな目をしているように見える。
「ECFを恨む奴を支援することは、どんな時でも損にはならない。奴が流動性と多様性に満ちた外縁部で自分を守っているように、俺達もこうやって対抗する」
「私が復讐をやめるっていったら、どうする?」ヘレンは悪戯っぽい笑みを浮かべて訊いた。「復讐心のエングラムを消し去って、ここで年がら年中ラリってるだけのどうしようもない連中の仲間入りをして、宇宙が熱的死を迎えるまで無為に生きていく、っていったら?」
「どうもしねえよ」ピスは鼻で笑った。感情がどこかから舞い戻ってきたようだ。鳥籠に帰ってくる鳥もいるのかもしれない。
「だが、お前は結局パパを殺しに行くよ。賭けてもいい。もう内面化されてるんだよ。まるで家事でもこなすみたいに、さも当然のことのように殺しに行くさ」
「復讐心で殺すのと、理由もなく殺すのと、何が違う?」
「何も」ピスは即答した。
「金のために戦う奴。復讐のために戦う奴。正義のために戦う奴。うちにいる馬鹿みたいに、コイントスで決める奴。何でもいい。どれも同じだ。単なる言葉遊び。生き続けられるかどうか、それだけが問題だ」
「ピスはなぜ戦うの?」
「簡単だよ。ただ選んだからだ。俺たちはそれを自由と呼ぶ」
「それだけ?」
「それだけだ」
ピスはグラスを呷り、一瞬で空にした。
「何か策はあるのか?」
「一つあるけど、かなりの博打だよ。好意的に見積もっても、成功率は1%もないと思う」
「外したらどうする?」
「世界中にバックアップを潜伏させているの。死んだって何度でも蘇る。どれだけかかっても必ず殺す」
不意に、憎悪のあまり自分が無意識に握り拳を作っていたことに気づく。ヘレンはなぜか可笑しくなって微笑んだ。
「けど、そんなに悪くない博打だよ。ケイのお陰で思いついたプランなんだけど、当たればパパは完全に死ぬ。一撃でね。セルを一人ひとり虱潰しにする必要もない」
「ケイのお陰? あいつが?」
ピスはこちらを向いて片眉を上げると、不意に腹を抱えて笑い出した。
「あいつがそんなことをするとはなぁ。意味わかんねえ奴だろ」
「かなり不思議な子だね」ヘレンは最大限に好意的な表現を用いた。
「あいつは殆ど地球にいないんだよ。意識がな、どっか飛んでってるんだ。それが他人とお喋りして、あまつさえ一計を案じたって? 今すぐ石碑に刻みたくなる大事件だな」
「ケイの提案ってわけじゃないんだけどね。彼との会話で、ヒントをもらったの。考えというか、視点をね」
「十分やべえよ。ほんと」
ピスは鼻を鳴らすと、席を立った。
「まぁいいや。あとで軽くブリーフィングをやる。顔出せよ」
ピスは踵を返してカウンターに背を向けると、ヘレンの肩を叩いた。
「全てを失っても戦い続けろ。絶対に止まるな」
見上げると、ピスの不敵な笑顔がこちらを見下ろしている。
「それだけだ。またな」
その言葉を最後に、ピスは忽然と消え去った。
ヘレンはB1で一番高い通信塔の先端に立って、市街の北の方角を睨んでいた。
先ほどから情報の波が何度も畝っては、不思議な音色と共に自分の身体を通り抜けた。街は静まり返っていて、仄かにスモッグが漂っている以外に動きはない。しかし今やスラムの一角で光ケーブルを齧っているネズミですら、来たるべきものが来たことを知っている。市街の天井部分は爽やかな青空を演出していたが、今の状況を考えれば逆に不気味さすら感じる。
意図のある静寂。嵐の前の静けさ。
「来るぞ」ピスの声。
地上に潜伏させているMAVの視界を得る。地上に広がる本物の空の天気は悪く、分厚い灰色の雲が天井のように空を覆っている。視界のほぼ中央で、地上から突き出した二本の白い槍が雲に突き刺さっているのが見えた。海に近いほうがマリナタワービル、隣がリベラプラザビルだ。どちらも少し前から軍が支配していて、二つのビルを中心に軍の基地が広がっている。
暫くの間、空の景色に変化はなかった。しかし数秒が過ぎた時、雲の隙間からぽつぽつと黒い点が現れはじめた。黒点は次々に増えて、瞬く間に都市圏の空全体を不気味な模様で演出した。
「成層圏に緊急即応部隊の基地がある。そこからのお越しだ」ピスの声。
「動きがあってから4分52秒。パーフェクトだな」
QRFは命令から5分以内に地球上のどこにでも展開できることで知られ、現代のミニットマンとして恐れられている。
「塔からは来ないの?」
「んなわけないだろうよ」ハマーの笑う声が聞こえた。
ハマーの言葉を証明するかのように、2本のタワーは中腹から黒いものを――植物が胞子を吐き出すように――吹き出し始めた。吹き出された黒点は次第に秩序を持った動きになり、タワーの外壁にDNAのように美しい螺旋構造を描きながら、まるで棒に絡みついた一本の黒い縄のようになって、下へ下へと降りていく。
ヘレンは拡散させているMAVの視界を全て得てから、見えている範囲の黒点を一瞬のうちに数えた。
97385。
ヘレンの存在すらしない胃に、プレッシャーがのしかかるのを感じた。
「よう、やばいんじゃないか、これ」ウィップの声。
街を地図から消そうという気はないはずだった。それならもっと楽なオプションが沢山ある。QRFを動かしたということ自体が、標的以外にはなるべく傷をつけないという意志の表れに他ならない。だが、そのことは軍が本気でないことを意味するわけではない。
本気でこの街を"掃除"する気なのだ。
無人機の群れは既に地上100mほどまで迫り、大蛇のように連なって空を畝っていた。市の地上部分には建物は殆どなく、タワー周辺以外は緑の目立つ自然豊かな景色だったが、至る所にジオフロントへ繋がる通気口や通路が口を開けている。
「B1に来るよ」
ケイの声が聞こえるが早いか、空を舞う黒い大蛇は、水道管に蛇が頭から滑り込むように、次々と通気口になだれ込み始めた。
「シナリオの大筋に変化はない。戦闘を継続することだけを考えろ。万能生成器さえ生きていれば、負けることはない。俺たちが耐えてる間に、ヘレンがパパに奥まで入り込んで仕留める。いいな?」
返事はなかったが、全員が重々承知しているのはわかっている。主観時間で何日もかけて作戦を検討したのだから、当然の話だ。
ヘレンの意識は瞬時に通信塔に戻った。見上げると、偽物の青空に大きく開いた黒い穴から漆黒の"霧"が流れ込んできて、市街に広がろうとしている。
「やれ」
ピスの声と同時に、街の至る所から無数の"火球"が発射された。火の玉の正体は、数万度の電離ガスを放射する小型のミサイルで、光り輝きながら空を駆け上がり、今や覆いかぶさったヴェールのように空に広がっている霧に吸い込まれていく。
ヘレンは祈るような気持ちで眺めていた。火球は次々に着弾し、次々に火花が上がったが、黒い霧にさほど大きな影響は与えられていないようだ。数があまりにも多すぎる。元々が夥しいところに加えて、今こうしている間にも増殖しているのだ。
黒い霧の分厚い層は迎撃を受けながらも徐々に高度を下げ、ついに数十メートルのところまで下がってきた。
「第二段階、くるぞ」ハマーの声。
不意に黒い霧の粒子が各所で密集し始め、建物ほどの大きさの無数の黒い球体が空に出現した。不気味な黒い球体はそのまま道路に落下すると、液体のような動きをしながら形を変えた。
それは人間だった。周囲の建物よりも高い黒塗りの巨人が街のあちこちに現れる。黒い霧は次々に巨人を生み出し、通信塔から見回すだけでも何百も目に付くほどになった。
「何やってんだよ、お前らはよ。さっさと撃ちまくれ。ぶちかませ!」
ピスの声に焚きつけられるように、どこからともなく無数の火球が現れ、目にも止まらぬ速度で次々に巨人へと飛び込んでいく。修復能力の限界を超えたのか、ヘレンの目の前にいた巨人が全身から火花を散らしながら砕け散って倒れた。しかし倒してもそれを上回る数の巨人が生み出され、空から降下してくる。
空を覆う黒い霧。
街を闊歩する顔のない巨人。
高速で飛び交う無数の火球。
地獄という名に相応しい光景。
「B1全域にほぼ展開完了。すごい数だね」ケイの暢気な声。
ザ・スレイブの面々も含め、愉快犯達はみな可視光ステルスで姿を隠し、逃げ回りながら火球と無人機を生成して戦っていたが、どこまで持ち応えられるかは怪しい所だった。数はもちろんのこと、生成能力で負けているのが致命的で、いつかは押し切られてしまうだろう。数で押し潰すのはECFの常套戦術であり、彼らが負けない理由でもあるが、ヘレンが目の当たりにするのは初めてだった。
「サーシャ!」
「ここにいるよ」名前を呼ぶと、どこからともなく明るく幼い声が返ってきる。
「どう思う? これ」ヘレンは空を見上げて言った。
「やっぱり、パパのコネクトームとよく似てるよ。時空パターンとしてね」
「全体でということ?」
「うん。地上にいるのを含めてもいいけど、特に空の黒い霧がね。全くデタラメに動いてるわけじゃないのは、勿論なんだけど、戦術レベルで有意味な活動とも違う。パパの脳として解釈すれば、一番矛盾がない。神経インパルス列によく似た通信の波が行き交ってるし、意識を創発してる可能性も高い」
「じゃあ、全てのセルを使って干渉してみて。パパのコネクトームと、大域構造のトポロジーを使って写像するの。できるでしょ?」
出来るに決まっているのだが、ヘレンは未だにこういう訊きかたをしてしまう。好意的に解釈すれば、まだ妹と認識しているからだといえるかもしれない。
「もちろん」
ヘレンは目を閉じて、深呼吸した。無数の自分が同調するのを感じる。今の自分は、2320のセルが生み出す集合精神だ。この命をすべて使い切る前に、なんとしてもパパを殺さなければならない。
数万の身体。数千の脳。ただ一つの精神。
たった独りの自分。
「構築完了。来るよ」
目を開く。
ヘレンの眼前には、雲ひとつない爽やかな青空の下、一面に広がる草原があった。
フェイスレスに宿ったピスの精神は、階段の踊り場から変わり果てたフロム・シティの光景を見た。ファック・シティと揶揄され続けた西海岸の糞壷は、遂に名前に相応しい装いを手に入れたようだ。ECFのガサ入れは過去に何度かあったが、これほどまでの規模は初めてだ。
不意にビル全体が振動する。ストリートの向こうから、7階建てと同じ身長を持つ黒い巨人がゆっくりと歩いてくるのが見える。一歩進む度に周囲一帯に小さな地震が起こしているようだ。
ピスは銃を構え、まっすぐ巨人へと向けた。放射線を知覚すると、巨人の腹部が白く明滅しているのが見える。万能生成器を潰さない限り、何も終わりはしない。
引き金を引いた。無数の火球が銃口から放たれ、光の尾を引きながら巨人の腹へと直進する。全身が見えなくなるほどの閃光があがり、巨人は傍にあったビルを巻き添えにする形で倒れ、すさまじい量の土煙の中に消えた。
「おい、ヘレン、おい、何やってんだ? そっちの状況は――」
ピスはそこまで口走って、何気なく顔を上げる。
視界の中央に見える塔の頂上で、一瞬何かが光った。
「クソッ」
ピスが反射的に踊り場から飛び出すのと、ビルが消し飛ぶのはほぼ同時だった。爆音と共に全てが土煙に包まれる中、ピスは宙返りして隣の建物の屋根に着地し、すぐに四つん這いになって塔の方角を見た。
塔の頂上で、若い女性が黒い長髪を風になびかせながら立っているのが見える。膝までスカートがあるネイビーブルーのスーツを着こなし、色白い顔は無表情で、淡褐色の瞳はこの世の無常を諦観するような目つきで、特大のクソと化した街を見下ろしている。一瞬遅れて、彼女の着ている服がECFの軍服――もはや絶滅寸前の概念だ――だということをピスは思い出した。
塔までの距離は300メートル以上あったが、フェイスレスの増強された視覚には目の前で見ているのと同じことで、全てが鮮明だ。
「……やばいのが来た」
「なんだ? 何が来た?」ハマーの声。
「サラ・メイヤー。ECFの中将殿」
「サラ? "不死委員会"のババアの?」ハマーは驚愕を隠そうともしない。
「他に誰がいるんだよ」
ピスは西海岸のギャングがあの女の面を見た時に必ずすること――すなわち舌打ちをした。お近づきになりたいと思うような類の人物でないことだけは間違いない。こんな風にクソに嵌まり込んでいる時なら尚の事だ。しかし御年90歳近くになるECFの生ける伝説は、決まってそういう時にこそ現れるし、こちらがクソに嵌まっていないと見るやいなや、ご丁寧にもクソを口に詰め込んでくれるサービス精神を持ち合わせている。
「我々は地球国家連合軍です。ただちに可視光遮蔽装置を切り、動きを止め、交戦意思がないことを表明しなさい」
サラの落ち着き払った声は可聴域の音波だけでなく、電波のあらゆる帯域を使用して街全体に響き渡った。
「いちいちうっせえんだよ、ビッチ。死ね!」
ピスは叫ぶと同時に銃を撃った。数百の火球がサラを包み込むように散開しながら襲い掛かったが、着弾の寸前で閃光と共に全て撃ち落とされた。
「クソッ、めんどくせえな」
反撃を回避するために屋根から飛び降りると、ピスは可視光ステルスに即座に身を包み、路地の闇へと消えた。
「何これ……何が起きてるの?」
ヘレンは自分の目を疑った。澄み渡った青空の下で、若草の揺れる大草原がどこまでも広がっている。地獄絵図のような戦争の喧騒は消え去り、風が草原を撫でる音だけが耳に流れてくる。
「わからない。でも幻戦ソフトの解釈に間違いはないよ」
「ハニーポットの可能性は?」
「そんなはずないよ。お姉ちゃんもわかるでしょ? 全部のセルが一斉にあらゆる経路から繋いでるんだよ。これがハニーポットなら、全てが嘘だということになっちゃうよ。そうじゃない?」
返す言葉もない。しかし状況が納得できないものであることに変わりはなかった。
ヘレンは何の考えも思い浮かばず、周囲を見回す。
その時、不意にそれが目に入った。
少し離れた場所に、一軒の家が建っているのが見える。
ヘレンは凍りつき、目が離せなくなった。
見間違うはずもない。
思わず両手で口を覆う。
そこは、自分の家だった。
「……そんな、嘘でしょ?」サーシャの声。
ヘレンは反射的に駆け出していた。
世界のどこよりも暖かく、安心できる場所だったはずの、我が家へ向かって。
「滅茶苦茶やりやがって、クソババア」
ピスは悪態をつきながら立ち上がった。周囲にはビルだったものの残骸が撒き散らされている。周囲は土煙に包まれていて、可視光の視界は1メートルもない。
自分の左腕に視線を落とす。見るまでもなくわかっていたことだが、二の腕の中ほどから先が千切れてなくなっている。ピスは内心で舌打ちしたが、それだけだった。痛みはないし、擬似身体も変わらず機能しているので、そこには依然として自由に動かせる幻肢を感じる。自分の身体と自分そのものが、分かつことのできない一体のものだと考えられていた時代が長くあったが、ピスにとっては身体などというものは単なる仮住まい、あるいは道具の一つに過ぎない。
身体についた埃をはらう。状況はそれほど悪くない。反応するのがあと0.5秒遅かったら、左腕どころか全身が消え去っていただろう。
「自己修復を開始します」
女性の声と共に、周囲の瓦礫が細かい粒子に分解されて切断面に吸い込まれ、腕が再構築されていく。
「あのババア、どこにいる?」ハマーが悪態をつく。
「"どこにでも"だよ、間抜け。さっさと何とかしろ」
「フェイスレス1匹の生成能力じゃないな。大型のスプレッダーが2か3、そのあたりに隠れてるぞ」ハマーはピスを無視して独り言のように続けた。
ピスはサラと激しく交戦していたが、1発撃ち込むと100発返ってくるという有様で、状況は少しも芳しくなかった。
「パパが生成能力を貸してるんじゃないのか?」
「いいや、ババアの自前だ。"二人"して乗り込んできた割には、あいつら溶け合っている様子は全然ないんだな。しっかり境界線を引いて、お互いに閉じた系を作ってるって感じだよ。見える範囲のクソはだいたい全部パパだ。サラの主力は入ってきてない」
「もっと余裕があればズタズタにできるんだけどな、あんなババア」ピスは舌打ちした。
ピスの戦力――"身体"と言い換えても差し支えないが――の大半はパパを食い止めるのに使われていて、せいぜいこの身体を含めたフェイスレス数体しか余剰戦力がなく、認知的リソースについても同様だった。大域構造に二正面作戦を行わせるのは負担になるため、サラとの交戦を行うセルは大域構造と一時的に疎結合になっている。"この"ピスはその結果生じた意識、彼という存在の1バージョン、あるいは傍流だった。
ピスの苦境は偶然のものではない。パパが荒らし回り、混乱を引き起こしたところで、サラが少数精鋭として立ち回る。そういうプランがあることは明らかだ。ピス達の余剰がなくなるのも計算のうちなのだろう。
「スプレッダーがいそうな場所を半径800m以内まで絞り込んだ。俺は一杯一杯だから無理だぞ。このネタで何とかしてみろ、"一人"でな」
視界の隅にB1の一部の地図が表示され、その中で3つの赤い円がシーツに滴った血のように広がった。
何気なく空を見上げる。フロムシティは巨大な動物園にでもなったようだ。まるで鯨のような黒くて巨大な楕円形の物体が、飛行船のようにゆっくりと空を漂っている。その周囲では、家一軒ほどの大きさにもなる大きな鳥が、屋根のように大きな翼をはばたかせて、我が物顔に飛び交っている。
"百鬼夜行"という名で呼ばれるその悪名高い戦術は、ウィップのジョークと同じぐらい馬鹿げている。作戦地域に投入された大量のドローンは、自身の万能生成器を用いて増殖する。通常の戦術と違う点は、設計図に基づいて正確にコピーするのでなく、"ゆらぎ"を利用して亜種、変種を次々に生み出すところだ。意図された誤算によって生みの親とはわずかな差異を持つ亜種は、同じ要領で亜種を生み出す。ここに正のフィードバックが起こり、その成り行きは投じた本人――どうせECF上層部のいけすかない将校だろう――にすら全く予測不能になる。精確さが要求されるような作戦には不向きだが、その名どおりの状況を作ることがお望みなら、これ以上のものはない。
そう、ちょうど今のこの街のような。
「左前腕部の自己修復、完了しました」
視線を落とす。先ほどまでと同じ左腕が、まるで何事もなかったようにそこにあった。
ピスは存在しない表情筋で微笑むと、一気に空高く飛び上がった。
血眼になって探す必要などない。敵はいつだって肌が触れ合う距離にいる。
絡み合い、もつれあっている。
誰一人として、そのことから逃れられないのだから。
ヘレンは正面玄関の前に立つと、左右を見回したあとで、家を見上げた。周囲の風景こそ現実と違うものの、彼女の生家はぞっとするほど細部まで再現されている。
否が応にも緊張が高まった。これはどういうことなのだろう。幻戦ソフトウェアは1つのまとまった世界を提供するものの、それは自身の脳と幻戦ソフトウェアが外界をあるルールに基づいて解釈した結果だ。ヘレン自身のエピソード記憶がこの風景に影響していることは容易に想像がついたが、これほどまでに強調され、それでいながら極めて歪で中途半端なのは奇妙に思えた。ヘレンの脳と記憶に強く準拠しているのなら、もっと違った形になっているはずだ。
ヘレンは玄関に近づき、恐る恐るドアを開いた。サーシャが血の海に横たわっている光景が一瞬頭を過ぎるが、室内は綺麗で、死体どころか血一滴すらなかった。家具や靴はあの日のままの位置で、時が止まったように佇んでいる。ヘレンは安堵のため息をついて胸を撫で下ろしたが、何を恐れていたのかについては自分でもよくわからなかった。あの日と同じようにサーシャが倒れていたからといって、それはただの幻覚、あるいは単なる記憶の想起でしかないのに。
とはいえ、それでも不安は消えなかった。胸騒ぎに導かれるように、ヘレンは屋内へと足を踏み入れる。何もないのなら、それでいい。きっと解釈が不適切か、情報自体に間違いがあっただけで――よくあることだ――ただ解釈をやり直せばいいだけの話だ。いずれにせよ、確かめる必要がある。
ゆっくりと歩を進める。
家は静まり返っていて、何の音も聞こえてこない。
リビングの入り口に差し掛かったとき、それが見えた。
何の異変もないリビング――両親の無残な死体はなかった――のソファに、一人の男が座っているのが見える。
ベージュ色のくたびれたソフト帽。
使い込まれ、薄汚れたトレンチコート。
一度として物理的に存在したことのないヘレンの心臓が、ひときわ大きな鼓動を打った。
男は静かに顔を上げ、彼女と目が合うと、ゆっくりと微笑んだ。
「ヘレン」
空を飛びながら、ピスは先ほどの塔を見やった。その頂上には依然としてサラが君臨している。黒く長い髪を旗のように靡かせながら、針のように尖った通信塔の頂上に爪先立ちになり――本当に立っているわけではなく、実際には浮いているのだろう――哀れむような表情で街を見下ろしている。彼女の周囲では、彼女を取り囲むように無数の火球がダンスをしながら飛び交っている。信心深い人間が見たら、魔女は実在したのだと騒ぎ立てるだろう。そして残念なことに、それは正しい。
ピスは魔女を横目に大きく迂回しながら飛んだ。あそこに見えている悪魔のような光景は、彼女の存在の一部でしかない。あれを殺したところで首尾はせいぜいフェイスレス一体だろう。スプレッダーを叩かなければならない。
やがてピスは目当ての建物を見つけ、上空で足を止めた。その直方体のビルは一見何の変哲もないが、ハマーの分析が珍しく当たっていれば、そこにスプレッダーのうちの1つが隠れているはずだ。
ハマーの作ったモデルを視覚に反映する。瞬時に眼下の建物が情報タグで埋め尽くされ、建物の屋根を透過する形で、内部にいる"何者か"が赤く光って示された。ハマーのような盆暗でもサラを簡単に暴くモデルを構築することができるのは、過去に何度も戦っているからというとても単純な理由による。戦闘の記録をMPASで洗わせてパターン識別モデルを作れば、本人ですら気づいていないような微細な癖、傾向までをも余すところなく拾い、それを可視化することができる。3回も戦えば相手の尻の毛の本数までわかるという寸法だ。そうした固定化された傾向の大半は、服を着替えるように変えることはできない。何故なら、それは"自分"とか"アイデンティティ"と呼ばれるものと不可分だからだ。技術的にはもちろん変えることが可能だが、それは痛みを伴わない死を意味する。
他のフェイスレスが配置についたことを体性感覚で知ると、ピスは左手に内蔵されているレールガンを構えた。センサーによれば、建物内の構造は変えられ、スプレッダーを中心にコンクリートが塗り固められた状態になっている。時間稼ぎが目的だが、十分な初速を出したレールガンなら一発で建物全体を跡形もなく破壊できる。あとは"火の玉"を送り込んで溶かしてしまえばいいだけだ。
3つのスプレッダーを同時に破壊しなければならない。一つでも打ち漏らして再生の時間を与えれば、プリマ・マテリアによってすぐに元通りになるだろう。
「そろそろ一回死んだほうがいいぜ、ババア」
ピスは冷酷な笑みを浮かべた。
「自分から逃げる方法は、それしかないんだからな」
発射と着弾は、フェイスレスの増強された知覚ですらほぼ同時に感じられた。瞬時に全てが土煙に覆われ、無数のコンクリート片が宙を舞う。主観時間を少し早めていたため、全てがスローモーションになる。
ピスは間髪入れずに火球を放つ。10発ほどの火球が銃口から飛び出し、爆煙の中に消えた。そして自分も突入しようと身構える。
その時、ピスは何気なく右手の方向を見た。周囲は爆煙の灰色に包まれていて、可視光視界は1メートルもなく、どこを向いても見える景色は同じだったが、ピスの中にいる電子仕掛けの神が、注意をその方向に向けさせた。
それは一瞬の出来事だった。ほんの一瞬、煙が不自然な流れ方をした瞬間があった。
周囲の煙のナノレベルの振動の情報を取得しながら、空気力学に基づいてシミュレートする。
目の前に、こちらに飛びかかろうとしている人型の何かが現れる。
遅れて、パターン識別モデルが"解釈"を深化させる。
それはサラだった。
黒く長い髪。
悲哀をどこかに隠した無表情。
サラの顔をしたフェイスレスが、今にもこちらを切り刻もうと大きく振り被っている。
絵画のように全てが止まる。
一瞬が永遠になる。
ピスは身体をひねりながら、プラズマナイフを"抜刀"し、そのままのモーメントで斬りかかる。
回避はもう間に合わない。
二人がお互いに刃を入れたのは、ほぼ同時だった。
視界が白く輝く光に包まれる。
知覚が次々に消失し、焼きついた痕が溶け落ちるように消えていく。
何も感じない。
痛みも、後悔も、恐怖も、不安も。
純白の世界の中で、ピスの意識は静かに消えていった。
ヘレンは一瞬目を疑ったが、冷静になって考え直した。黒い霧はパパを創発してるのだから、パパの姿があったからといって驚くに値しない。問題は、何を解釈した結果なのかだ。
「これはパパの大域構造との中継点だよ。黒い霧自体がパパを創発してるけど、大域構造とも繋がってるの。つまり、あれはパパへの入り口」彼女の思考を見たサーシャが、文字通りの言外の質問に答えた。
黒い霧のネットワークを洞窟とするなら、目の前のパパは洞窟の天井にぽっかりと開いた地上への穴、あるいはそこから顔を出して洞窟の中を覗き込んでいる人間そのものに例えられる。
「君には私が見えているのか? まぁ、それはそうか。私にも君が見えているよ」
パパが微笑む。邪念のない笑みで、リラックスしているのが手に取るようにわかった。これは何を表象しているのだろう、と考える。世界が確固としたものではなく、自分と環境の相互作用によって生み出されるものだということはよくわかっていたが、その事実は不気味で、思い返す度に居心地の悪い思いをさせた。
「どういうことなの? これは」
ヘレンは怒りとも戸惑いともつかない感情に突き動かされて、両手を広げ、周囲の光景を示した。
「君が私をどう解釈したのか、私にはわからない。しかし大方の想像はつく」
「あなたが大域構造?」
「そんなことを気にしているのかね? この期に及んで?」パパは笑った。「全体は部分に刻まれる。君はいつだって本質と対峙しているんだよ」
紳士的で、邪念を感じさせない、憎めない態度。何度もシミュレーションで走らせた姿と、何も変わらない。
不意に嫌な予感がして、咄嗟に接続を確認する。1000以上の接続があるにも関わらず、侵入を受けている痕跡はない。今のところは、ノースダコタの二の舞にはならずに済んでいるようだ。
「どう思う?」ヘレンは内言で呟いた。
「悪くないよ」サーシャの軽快な声。「大域構造に殴りこめる切符が手に入ったわけだしね。もし相手が逃げる気でも、そのまま切断させて荒らし回ればいい。物理現実の軍は統制を失ってメチャメチャ、侵攻作戦は失敗。どっちに転んでも悪くないでしょ?」
「切断する素振りはないようだけど、ノースダコタの時と同じことをしようとしてる?」
「わからないけど、未だに逃げ出さないのは確かに不自然ね」
ヘレンは懐から銃を抜き、まっすぐパパの顔に向けた。
迷いはなかった。何をすべきかは明らかだ。
パパは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻り、小さく肩を竦めた。
「私を殺せるのか?」
「殺すわ。何度蘇ってでも」ヘレンは語気を強め、文字通りの意味で言った。
「そういう意味じゃない」パパは子供の間違いを正す親のように、ゆっくりと首を左右に振る。
「君の家はどこにあった?」
「?」
「親の名前を思い出せるかね?」
「いったい何なの? そんなの……」
ヘレンは苛立って言い返そうとして、言葉に詰まった。
背筋に寒気が走る。
過去の情景は、今でも目に浮かぶようにはっきりと思い出せる。
それなのに、固有名詞を少しも思い出すことができない。
喉の寸前まで出掛かるような感覚があるのに、一文字も出てこない。
単なる度忘れ?
ヘレンの脳のスペックを考えれば、トンネル効果よりも有り得ないことだ。
「下種野郎」
ヘレンは吐き捨てるように言って、パパの右眼に銃口を近づけた。
「私の記憶を改竄したのね? ECELの時に」
「改竄なんてしていない」
パパは不気味な笑顔を浮かべた。
「ただ作っただけだ。君をね」
「……は?」
「名前も知らない君の両親について調べたことは? あの銀髪の彼の援助のおかげで、そうするだけの能力と時間はあったはずだね」
「嘘だ」
「生まれ育った土地について何を知ってる? どこにあるんだ?」
「黙れ」
「世界を一望できるようになっただろう? そのぐらいのことはできたんじゃないのかね?」
「黙れ、英国人。黙れ!」
ヘレンは激昂して叫んだが、それはほとんど悲鳴だった。
パパは微笑をたたえたまま足を組み、子供に御伽噺をする父親のような穏やかな口調で、ゆっくりと喋り始めた。
「……いつも、夢から覚めたような感覚に包まれている。記憶全体に靄がかかっていて、鮮明に思い出すこともできるが、すぐに湯気みたいに立ち消えてしまう。言葉では説明できない違和感があるが、すぐにどうでもよくなってきて、そのうち再生すらしなくなる」
背筋を冷たいものが這い上がってくる。
心当たりがあった。
私の20年。
私のサーシャ。
私のママ。
私のパパ。
その全てが、目覚める寸前、1ミリ秒の間に見た夢なのか?
「ヘレン」
頭の中にあの鋭い声が響いた。
「そいつを殺れ。大域構造を獲れば、全部ケリがつく」
ピスの声はいつもの調子だったが、どこか一仕事を終わらせた後のような雰囲気が感じられる。
「何やってんだ、お前? そいつは"パンデモニウム"の自滅コードを持ってるんだぞ。どうしてもブッ殺したい仇じゃなかったのか?」
呆然としていて、ピスの言葉が少しも頭に入ってこない。先ほどまでの意気込みは既に雲散霧消している。
事実だとすれば、こんな茶番は全て無意味だ。誰も死んでいないのだから、復讐の理由そのものが消える。それどころか、自分の親を殺すことになるのだ。
唯一の肉親を。
「……ピス」
「なに?」
「全部知ってたの?」
沈黙。
その沈黙が、既に雄弁に物語っていた。
「……可能性が高いとは思っていた」
即座に何の話か悟ったピスは、ゆっくりと重々しく語りだした。
「過去はすぐに調べたよ。お前がパパの仕込みだったら、俺らはクソを食わされることになるからな。結論から言えば、何も出てこなかった。十年分の軌道上からのフロリダの映像を洗ったが、条件を満たす家屋はどこにもなかった。だいたい、2100年前後のコロラドはECFとゲリラの交戦が激しかった場所だ。生身の人間が地上に一軒家を建てて、暢気に家族ドラマが出来たとは思えない」
ピスの説明は淡々としていたが、ヘレンの存在しない心臓の鼓動はどんどん激しくなった。しかし、耳を塞ぐことはできない。
「お前のパパとママの情報も、何も出てこなかった。ヨーロッパ中を洗って、毛一本すら出てこない。フケるのは俺らの世界じゃよくあることだが、俺たちもそういう奴のケツを追いかけることには慣れてる。足跡を消した痕跡すらも見つからないってのは、現実的に考えて有り得ない」
ピスは続けた。
「だが、妙だった。過去は確かにすべてフェイクだったが、どういうわけか、お前自身は何もかもが真実だ。脳も改竄の痕跡がないし、嘘もついてないし、いきなり俺たちの背中を刺す心配もない。それで気づいたんだ。パパはちょっとしたゲームを仕掛けてきてる。俺たちは乗ることにした。あとはお前の知ってる通りだ」
ヘレンは床に膝をつき、顔を覆って泣いた。
足元から全てが崩壊する。
自分の人生は全て嘘だった。
二人の強大なオーヴァーロードの対決を盛り上げるためだけに生み出された、人形。
それが、ヘレン。
それが、自分。
それが、私。
それが、全て。
「真に価値のあるものは、常にカオスの中から産まれる」
パパの落ち着いた声が聞こえる。
「君をここから追い出さないのは、君の価値を確かめるためだ。私が"放流"した亜種の中で、私まで辿り着いたのは君だけだ。強力なオーヴァーロードの助けを借りたとはいえ、こんなことは早々ない。生命が絶滅の歴史であるように、殆どは何もなせずに死んでしまうのでね」
ヘレンは泣くのをやめ、顔を上げた。
パパはその微笑みのなかに、優しさと厳しさを同居させている。
「私は大域構造に繋がっている。君にとっては、最高にして最後のチャンスだ」
そう言いながら、ゆっくりと両手を広げる。
「君の価値を見せてみなさい」
全身を冷たいものが走った。
「お姉ちゃん! 全てのセルが一斉に攻撃を受けてる!」サーシャの声。
サーシャって誰?
そんな人物は存在しない。
私のイマジナリーフレンド。
単なる空想。
「おい、ヘレン、良く聞け。今すぐに決めろ。殺るか、フケるかだ。ウィップの脳味噌でも理解できるイージーチョイスだろ。他の選択肢なんてない。おい、聞いてるか?」
ピスヘッド。
全てを知っていながら、自分の戦争のために私を利用した男。
この期に及んですら、そのことしか考えていない。
単なる人形である私のことなんか、何とも思っていない。
「そいつを殺れば全部終わるんだ。おい、前言ってたよな。エースを隠し持ってるんだろ? 何もかもが手遅れになる前に、そいつを撃ち込んで逃げろ。聞こえてるのか?」
フロムシティ?
そんな街のことなんかどうでもいい。どうなろうが知ったこっちゃない。
世界がどうなったって、なんにも関係ない。
これは私の問題。
私の命。
私だけの世界。
「今すぐに切断しないと全部やられちゃうよ。死んじゃうんだよ、お姉ちゃん!」
視線を落とし、握り締めた銃をぼんやりと眺める。
尋常の方法では、パパのようなオーヴァーロードを殺しきることはできない。一部のセルを乗っ取ったところで、すぐに切り離しとアポトーシスが行われ、大域構造は何の傷も受けない。時間をかけて浸透しようものなら、ノースダコタの二の舞になるし、全面戦争になればセルの数がそのまま勝敗に直結してくる。残るは数百万のセルを一瞬のうちに制圧することだが、そんな魔法のような方法はない。オーヴァーロードは生き抜くことに特化したシステムであり、それゆえに難攻不落だ。そしてオーヴァーロード内でのヒエラルキーは、基本的にセルの数で決まる。2320と数百万では勝負にもならない。
しかし、一つだけ方法がある。乗っ取ろうとしなければいいのだ。セルを乗っ取るのではなく、セル間の関係、流れだけを変える。セキュリティは攻撃を察知することだけに特化しているため、殆ど攻撃行動をとらないウィルスはヒューリスティックな手法では検知できない。オーヴァーロードは一瞬で壊滅されることを避けるために、各セルは自分と直接繋がっている数セルしか把握していない場合が多く、全体の構造そのものが変えられても気づきにくい。
そうして流れを変え、自分自身を創発する。パパというオーヴァーロードは、ただパパとして振舞うだけで、一つ上の層にヘレンを生み出す。
それが、ケイとの会話で思いついたプラン、切り札だった。
通常なら、こんな方法は絶対に成功しない。しかし、ヘレンはパパと自分のコネクトームが構造的に似ていることを知っている。だからこそ成立する賭けだった。
相手の内側にいる自分を、呼び覚ます。
しかし、何のために?
復讐の理由などもう存在しない。
何の意味もなく、自分の親を殺すことになる。
ヘレンの中で、新しい自分と古い自分が、激しく対立する。
何のために?
誰のために?
「……何のためでもない」
ゆっくりと立ち上がり、
真っ直ぐに見据える。
思い出は、全て幻だった。
私には、もう何もない。
だからこそ、自由だ。
全ての理由と意味を失い、
最後にたった一滴だけ残った、不純物のないもの。
「お姉ちゃん、これ以上はもう――」
銃を真っ直ぐに、パパに向けた。
心は晴天のように澄み渡っている。
私だけのために、戦うことができる。
私だけのために、生きることができる。
「時間だ」
引き金を引くのと、ヘレンが砕け散るのは、ほぼ同時だった。
パパの胸に吸い込まれる銃弾を見届けながら、自分を無の間隙へと投げ出して、
静かに、死を受け入れた。
パパは自分の胸に手を当てる。コートにぽっかりと射入口が空いているのが手触りでわかった。
前方に視線を戻す。ガラス細工のように砕け散ったあの少女の残骸は、もうどこにもない。彼女のセルを全て焼き払った感触を、彼はしっかりと感じていた。どうせバックアップセルをどこかに隠しているのだろうが、もはや脅威になるとは思えない。
ふたたび射入口を見る。創発型ウィルスの一種が、大域構造の奥深くまで侵入してきたのは間違いない。それはまさに、瞬間空洞のようにパパの"身体"の隅々にまで行き渡った。
しかし、何の被害もない。
パパの優秀な免疫系が、即座に大半を探知して駆除に成功していたが、それを考慮しても何のダメージもないのは不自然だった。発現した個体も、殆ど何の意味もない動作をいくつか行ったあとで自滅している。意図した通りの動作に失敗したということだろうか。
命を賭けた一撃が、たったこれだけなのか?
パパは考えることをやめた。その程度だったということだろう。自分のコネクトームをもとに作った亜種を、西海岸最大のオーヴァーロードに送りつけるのは、楽しみであると同時に戦略的意義のある試みだったが、つまらない結果に終わった。それだけのこと。
何もかもが下らない。
パパはフロム・シティから撤退しようと思い立った。散々入れ込んでいたのに、今では全てが茶番に思える。
射入口をさすりながらゆっくりと立ち上がり、そこで違和感に襲われる。
今の自分は、何か変ではないか?
どうも自分らしくないように感じる。
しかしそんな一瞬の――且つ的確な――違和感さえ、すぐに雲散霧消してしまう。
パパは目を閉じた。
ぜんぶ終わりにしよう。
異様な光景が繰り広げられていた。ECFがこの街に投入した珍獣の群れが、操り人形の糸が切れたように、次々に機能を停止して墜落している。"死体"が荒れ果てた街に降り注ぎ、いっそう退廃的な情景を産んでいた。
「なんだよ、これ?」ハマーの声。
ビルの屋上に降り立ったピスは、ぼんやりと空を見上げて、周囲に降り注ぐ"死体の雨"を眺める。何が起こったかは明白だが、そのことに驚かずにいることは不可能だった。ヘレンの成し遂げたことは、奇跡という表現を使っても決してオーバーではない。
「……ヘレンだ」ケイの声。
「あいつがやったって意味か? その、自滅コードを?」ウィップの声。
"百鬼夜行"は誰にも予測できないのが強みだが、それは暴走をただ聞こえのいいように言い換えただけでもある。収拾がつかなくなった場合に備えて、何世代増殖を繰り返しても決して消えない自滅コードを織り込んでおくのが通例となっている。
「ってことは、大域構造をやったの? あいつが? パパの? どうやって?」
ハマーは信じられないといった様子で捲くし立てるように言う。
「方法はともかくとしても、肝心のヘレンはどこにいった?」ウィップの声。
「相手そのものになったんだ」
ピスは独り言のように言った。
「なんだよそれ?」ハマーの不機嫌な声。
「ビッグ・フィッシュになったんだよ、ビッグ・フィッシュに」
「意味わかんねえよ。おい、いつものピスヘッド語じゃなくて、英語で説明しろ。わかるか?」
ピスは何も答えず、空に向かって呟いた。
「全部おまえのものだ、ヘレン。何もかも、お前のものだ」
思わず表情が緩む。
「どこまでも飛べ。どこまでも」
遠くの空で、黒い霧が雲散霧消していくのが見えた。
生まれたままの姿で、ヘレンは空を漂っていた。眼下には青い地球、頭上には黒い宇宙が広がっている。その狭間こそが、まさに彼女の居場所だった。
背泳ぎをするように地球に背を向け、どこまでも広がる漆黒の世界を見る。自分がどういった存在になったか、ということは考えなかったし、考える必要もなかった。
世界は、何度でも私を産み出す。
私は世界そのもの。
私は自由そのもの。
私は可能性そのもの。
「あら、珍しい」
立ち上がり、声がしたほうを振り向くと、青と黒――有と無――の狭間に、一人の少女が浮かんでいる。
白いワンピース。
乳白色の肌。
艶のあるブロンド。
東欧の血を感じさせる顔。
「この層に来客があるのは久しぶりね」
少女は微笑んだ。見覚えはないが、その笑顔に既視感を覚える。
「あなたは?」
「私? ただの女の子。散歩中のね」
ヘレンは思わず微笑んだ。
「面白いことをいうね」
「もっと上の層から来たの」
少女は歩いてヘレンの目の前までやってきた。
「新しい世界を見てみたくない?」
「新しい世界?」
「上の層に行くってこと」少女は満面の笑みを浮かべる。
「悪くないね、それ」
躊躇いはなかった。
今の自分に迷いはない。
理由も、意味も、存在も。
生も、死も。
全てを乗り越えたところに、私は立っている。
「にぎやかなほうが楽しいもんね」
少女は微笑むと、ヘレンの前に手のひらを差し出した。
それに応じて、少女の小さな手を握り締め、
ゆっくりと、目を閉じた。