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1・自由からの闘争

わたしは醜いものを眺めながら、そこに美しいものを見る。

はるかわが家を離れていながら、故郷の友たちに会う。

うるさい音を聞きながら、その中にコマドリの歌を聞く。

人込みの中にいても、感じるのは山の中の静けさだ。

悲しみの冬の中にいて、思い出すのは悦びの夏。

孤独の夜にあって、感謝の昼を生きる。

けれど悲しみが毛布のように広がり、もうそれしか見えなくなると

どこか高いところへ目をやって

胸の奥深くに宿るものの影を見つける。




ナンシー・ウッド / 『今日は死ぬのにもってこいの日』














西暦2115年

北米西海岸 フロム・シティ ウォーターフロント















 死ぬために、僕は飛んでいる。

 澄んだ青空。撓る水平線。無限に広がる深い紺色の海。

 その全てが僕の一部となり、美しく流れながら、誰のものでもなくなっていく。

 誰にも捕まえることのできない、一瞬の輝きが、静かに満ちている。

 空に来るのは、久しぶりだった。

 僕の肉体は、いまもジオフロントの谷底で眠っている。

 魂だけが、ここまで辿り着いた。

『――おはよう、世界の皆』

 よく知った声。

『――ザ・スレイブが、公共の電波で西海岸(ウェストコースト)に糞を垂れ流すお時間だ』

 前方に、何本もの塔が現れた。

 水平線が、地平線に変わる。

『――そういやこの前、ダチにこんなことを言われたよ』

 両手を広げ、高度を上げる。今では港湾がはっきりと見える。

 海岸線に広がる、コンビナートやメガフロート。

 無数の引っかき傷のような、船の航跡。

 蚊柱のように、ビルの合間を飛び交うプレーン。

『――ゲーマーの奴らは馬鹿だな。こっちに来れば、どんなくそったれな願望も叶う。何にだってなれる』

 塔の中に、ひときわ高い一本がある。

 軌道を修正、真正面に捉える。

 マリナ・タワービル。

 全高2087メートル。

 僕のターゲット。

『――なのにあいつら、四方八方に唾をかけて、派手にぶちかますんだ。大した理由もねえのに、なんでベッドの上で死ねる人生を捨てるんだろうな』

 高度を下げながら、一気に加速する。

 ここからは、ナビに身を委ねる。

『――俺は何も答えない。あいつらにはわからないからね』

 身体がひとりでに傾いて、コースを微調整する。

 こういうのも悪くない。

 自分の身体が自動操縦だという事実を思い出させてくれる機会が、たまにはあってもいい。

『――俺たちは、意味もなく殺せるし、理由(わけ)もなく、世界を敵に回せる』

 飛び交うプレーンの合間をすり抜けながら、天を突き刺す塔に迫る。

「FC-ATCからL2842……FC-ATCからL2842……。応答願います。こちらはFC-ATC……フロム・シティ航空交通……」

 抑揚のない女性の声が、僕の頭の中にやってくる。

 よくできているけど、人工音声であることを隠そうとはしない。

「L2842……マリナ・タワーのコリジョンコースに入っています……。ただちに高度を上げ……」

 通信を遮断。

 大人しく従うような人間は、こんなことは計画しない。

 僕らはとびっきりのクズなんだから。

『――全てを投げてもいいと思える一瞬があれば』

 マリナ・タワーが徐々に大きくなる。

 すでに音速に近い。

 いつもなら、タワーの近接防御網が機能して、とっくに撃墜されている。

 でも、今日は特別な日だ。

『――まぁ、今日はこのあたりで。みんな、聴いてくれてありがとう』

 均一な模様をした灰色の外壁が、視界を覆う。

 全てがスローモーションになり、周囲の喧騒が聞こえなくなる。

 目を見開く。

 最期まで目は閉じない。それがルールだ。

 100メートル。

 50。

 20。

 10。

『――今日も、よい夢を』




 衝撃が全身を襲った瞬間、目を開けた。

 真っ暗だった。正確には、ヘッド(H)マウント(M)ディスプレイ(D)に視界を遮られていた、と言ったほうがいい。昔からの伝統で「ディスプレイ」と名づけられてはいるけど、名前通りの骨董品はどこにもついていない。

 こめかみのあたりをまさぐってボタンを押すと、空気が噴出すような音と共にHMDが開かれる。

 ベッドから起き上がった。狭くて薄暗い部屋が視界に飛び込んでくる。すぐ横の壁に目を向けると、壁がフェードアウトして消え去り、大きな窓が現れた。人工雨がガラスの外側を濡らしている。外が曇っていたので、窓を開けても部屋の中は大して明るくならなかった。

 外の景色は相変わらずだった。偽者の曇り空。偽者の雨。静かに死を待つように並ぶ建物。その合間を縫うように、木の根のように張り巡らされたケーブル。

 左脳が生み出した、灰色の蟻の巣。

 指を鳴らすだけで世界が変わる仮想(V)現実(R)と違って、現実は安定している。何の前触れもなく重力が消えることも、地球の自転が止まったりすることもない。朝起きたら、見たこともない別世界にいた、なんてことがあったら、どれだけ楽しく、どれだけ恐ろしいだろう、といつも思う。だけど現実というやつは、良くも悪くも予想を裏切らないものだ。神様はきっと、かなりの保守主義者なのだろう。

 僕は曇り空を見ながら、微かに聞こえてくる雨音を楽しんでいたけど、やがて何かがカーペットを走る音が聞こえてきた。

 "イソギンチャク"は、ひどく旧式のハウスロイドだ。4つの車輪と、車体の上に置かれた一本のアームによって構成されていて、アームの先端には、沢山の指が絡み合っている――これが名前の由来だ。

 そのアームが今、湯気を出す小さな箱を持っている。

「ありがとう」

 独り言のようにイソギンチャクに向かって言うと、湯気が漏れている箱を手に取る。その合図を待っていたといわんばかりに、イソギンチャクは僕から遠ざかり、キッチンの方角へと消えていった。

 何も置かれていないベッドのシーツの上に胡坐をかいて座り、外の雨を見ながら、遅めの昼食を始めた。

 御粥のようなその昼食は――といっても、本物を食べたことは一度もない――まずくはなかったけど、おいしくもない。味は味覚野を制御して自分でつけるもの、という認識が一般的になったから、最近のフードに味はない。必須栄養素がどうとかは僕にはよくわからないけど、定期的に現実に戻ってきてでも食べたい、と思うようなものでないことは確かだ。これなら、鼻と口とその他諸々にチューブを挿して、勝手に生命維持をしてくれる気の利いたカプセルの中で、人生の大半を過ごす人たちの仲間入りをしたほうが、まだましだろう。こういう言い方をすると、すごく哀れな人たちに思えるけど、彼らはみんなVRの中では豪邸に住んでいて、本物を買ったら一本何千万ECドルもするようなワインを右手に持ち、左手には絶世の美女を抱えている。

 プラントと呼ばれるそういった人々は、そう珍しい存在でもないらしい。僕のように、ベッドと小さな部屋に、おいしいのかまずいのかよくわからない、嘔吐物のような何かを食いに戻ってくるような人は、もう珍しい存在なのかもしれない。

 御粥もどきを食べ終えたあとで、漠然と景色を眺めながら、目を閉じる。

 気だるい重さ。

 肉体という牢獄。制約と限界の集い。

 最近、忘れそうになる感覚だった。

 体に縛られるのも、たまには悪くない。そう、たまには。

 目を開けて、窓からの景色を眺める。

 どこまで広がっているんだろう。

 どこまでが、僕だろうか。

 御粥もどきを食べ終えて数分もしないうちに、僕はネットワークに飛び込んでいた。




 "バード・ケイジ"は20世紀後半のアイリッシュ・パブを再現した空間で、西海岸の暇を持て余した永遠のティーンエイジャー達で、今日も賑わっている。

 薄暗がりの中、騒ぐ客と紫煙のあいだを潜り抜けながら、カウンターを目指す。一歩進むごとに、床が軋んで音を立てた。

「ケイ!」

 カウンター席の左端に、こちらに手を振っている一団が見えた。

 並んで座っているのは二人の少年。

 銀色の髪が目立つ白人と、耳にピアスをした黒人。

 僕は目の前のスツールに座った。

「よお」白人のほうがグラスを片手に言った。

「昼間から小便製造業?」

「ここはずっと夜だろ、ケイ。ナイトフィーバーだ。ワイルド・ウェスト・コーストの夜は終わらねえんだよ」

「下もフィーバーだな」黒人のほうが下らない合いの手を入れた。

 白いほうの名前はピスヘッド。本名も素性も知らないし、誰も訊かない。細身で長身で銀髪で、いつ見てもネイビーのスーツに茶色のネクタイという格好で、なにか悪巧みをしていそうな笑みを浮かべる、白人の若者のアバターをしている。僕が知っているのは、西海岸で暴れまわっている愉快犯グループの一つで、僕も所属している「ザ・スレイブ」のリーダーだということと、バード・ケイジのカウンター席で、ワンパイントグラスを片手に"飲酒ごっこ"をするのが好きな悪ガキだということぐらい。

 そして、このMC崩れみたいな黒人坊主がハマー。僕の幼馴染で、現実で親交のある数少ない人間の一人。ザ・スレイブに僕を誘った張本人でもある。普段は屁と下らないジョークを放出するだけの奴だけど、実は中々のワルだ。

兄弟(ブロウ)、調子は?」

 下らない応酬をしていると、目の前に1パイントのギネスが置かれた。

 顔を上げると、カウンターの中から大男が顔を覗かせていた。ウィップはバード・ケイジ――正確にはそのネットワーク――の所有者で、ザ・スレイブのメンバーであり、バーマンでもある。

 ウィップは黙っていればいい奴だ。でも黙らせてしまったら、彼の最大の長所は失われる。僕らはそれでいつも困っている。

「良いと思うよ。今すぐウィップの顔にぶちまけられそうだ」

「そっちの調子じゃねえよ」ウィップは馬鹿笑いした。

 僕はギネスを口に運ぼうとして、寸前で手を止めた。

「これ、ギネス?」

「いいや、俺謹製の麻薬(ドープ)。さっき組んだんだ。マジで最高(ドープ)だぜ」

「機序は?」

「モデルはテトラ(T)ヒドロ(H)カンナビノール(C)だよ。GABAの抑制。加えて、オキシトシンの放出も促す。多幸感(ユーフォリア)と、イッたあとの余韻の二本立て」

 僕は無言で頷く。電子麻薬の研究に余念の無いジャンキー達の間では、研究し尽くされて誰も興味を示さないような、ありふれた構成だったけど、ウィップの得意気な顔に免じて、黙っておくことにした。

「エンゼルズ・ブールバード・ボーイズの奴ら、一発かましたな」ハマーが、ギネスの残りを一気に飲み干して言った。

「首尾は?」

「市警の脇の甘い奴らを4人ばかりゾンビにして、電磁遮蔽(シールド)された頭蓋骨の中を滅茶苦茶にしてやったんだ。発見されたとき、そいつらは地下(B)第4階層(4)のウェストパーク・アヴェニューのど真ん中で、全裸で大の字でぶっ倒れてたらしい」

小便(ピー)を噴き出しながら」ウィップが不要な情報を補足した。

「三日前だ」ハマーが頷く。

 数秒のうちに、事件の情報を頭に入れる。知りたいと思った時には、知ることができるものだ。

警部(キャプテン)を4人も?」

「派手にやったらしい。真っ当な人間には戻れるだろうが、する意味がない。バックアップも殺ったから、"復元"は無理だろ」ハマーが他人事のような口調で言い、またグラスを空けた。

「いい人生だ」

市警(ブルー)の奴ら、今頃はやべえことになってんな」ウィップはにやけた。「不意打ち(アウトオブザブルー)食らって、顔は真っ青ってわけだよ」

「制服と同じぐらいな」ハマーが、もう何杯目になるかわからないギネスに手をつける。

 黙って聞いていたピスが鼻で笑った。

「ピス、僕らのゲームはどうなってる?」僕は気になっていたことを尋ねた。

 ピスは返事をせず、しばしの間グラスの中の液体を弄んでいたが、やがて静かに口を開いた。

「近いうちに一発かましたいが、その前に幾つかある」

「マジかよ。大丈夫か? 青制服も血気盛んなんだろ、最近は」ウィップが首を突き出した。彼は依然カウンターの中にいるが、バーマンとしての仕事をまったくしないで、おしゃべりに没頭している。ウィップがまともに仕事をしているところを、僕は見たことがない。優秀な店員――タンパク質の塊は入っていない――がいるから、店は問題なく回るんだけど。

「嗅ぎ回ってるよ」ピスは独り言のように呟いた。

 その時にわかに、ピスの横顔がゲームの時のそれになっていることに気づいた。目つきは鋭く、冷たいが、口元は小さく微笑んでいる。悪巧みをしていて、心底それを楽しもうとしている顔。

 不意に、背筋に冷たいものを感じて、振り返る。

 真っ先に一人の男が目に付いた。黒いスーツを着た、一つ目の男が、バーの入口あたりから僕らを見ている。オールバックの髪型によって露出した額に、大きな眼が一つだけあって、本来目のある場所は、ただの窪み。酔っ払いの喧騒にまみれる店内や人ごみを全く意に介さず、微動だにしない。不思議と、周囲をふらついている客と肩が触れ合うこともない。まるでそこだけ別の空間のように、違う空気が流れている。

 僕の右手が反応して、滑らかな動作で懐に入る。

「待った」

 懐のものを抜く寸前に、声がかかった。ピスはカウンターに少し前屈みになって、手元のグラスを覗き込むような格好で、目を瞑っている。ドラッグの余韻を堪能している時のような雰囲気。

「いいから、大人しくラリってろ」

 ウィップの顔を見た。ウィップはピスを一瞥したあと、僕のほうを見て、わざとらしく目を剥いた。俺にきくなよ、という意味だ。

 さっきピスが一瞬だけ見せた、ゲームの時の表情を思い出して、矛を収めることにした。きっと、また何か企んでいる。

 一つ目のほうに視線を戻すと、ちょうど歩き始めたところだった。大勢の客が彼の周囲を行き交っているけど、やはり誰にもぶつからない。堂々とした足取りで、真っ直ぐ僕らのほうに向かってくる。

 一週間ぐらい前から、とあるイントルーダ――攻撃・侵入に特化した大型ウィルス――が南部で流行りはじめた。僕らゲーマーの間でよく使われる幻戦ソフトウェアでは、目が一つしかない男として表象されることから、"サイクロップ"と呼ばれている。なかなか良くできていて、この界隈でも既に何人かやられている、という話を聞いていた。

 あれがなんであるにせよ、ウィルスだということは間違いないという確信があった。背筋の寒気が全てを物語っている。そして、ウィルスがここまで浸透してきているのは、僕らにとってあまり好ましい状態とは言えない。

 一つ目は急ぐ様子もなく、ゆっくりと歩み寄って、ピスの目の前まできた。額の大きな眼球はサッケード(対象を捉えるために無意識に行われる素早い眼球運動)しながら、ピスの背中を嘗め回すように精査している。それでも、ピスは微動だにしない。目を開けようとすらしない。

 不意に、一つ目が懐に手を入れた。一瞬右手が反応しそうになったけど、抑える。一つ目は懐から拳銃を取り出すと、ピスの後頭部に突きつけた。

 僕の意識は冴え渡っていた。すでにウィップの"特製"は頭から消えて、アドレナリンが放出されている。同時に、前帯状皮質が(B)制御(C)デバイス(D)ネットワークによって細かく制御されて、強い感情が暴走しないように抑制されている。いつでも戦いに飛び込むことができる。

 しかし、ピスは動かない。

「気をつけろよ」

 ピスは誰にいうでもなく呟いて席を立ち、一つ目のほうに身体を向けた。銃口がピスの額の位置に来る。

「俺に踏み込んでるぞ」

 目の前で光が起き、

 一瞬遅れて、銃声。

 薬莢が鈍く輝きながら、中空を舞う。

 床に崩れ落ちたのは、一つ目だった。

 自分の頭を撃ったらしい。

 ピスは一つ目を見下ろすと、わざとらしく大きなため息をついた。

「どうして、ここまで踏み込ませた?」

 ピスは僕のほうを向いて、返事の代わりに人差し指を口に当てた。まだ何かあるらしい。

 バードケイジの客は、何事もなかったかのように、ハイになって談笑している。

 ピスはポケットに手を突っ込んで、気だるそうな態度でふらふらと歩きだし、僕らから一番近い位置にあったラウンドテーブルの前に立った。

 そこでは、6人ほどの少年がテーブルを囲んで、グラスを片手に談笑している。ピスはすぐに彼らの視線を独り占めにした。

 即座に彼らのIDにアクセスし、視野の隅に並べる。このご時世ならそこら中に転がっているような少年ばかりで、特に見るべきところはない。この店には今回も含めて3回来ている。 

「なんだよ?」少年の中の一人が、突っ立ったままで、次のアクションを起こそうとしないピスを見上げながら言った。

 僕らはピスの意図がわからなかったので、観客に徹することにした。不意に、ウィップがにやついていることに気づいた。

「楽しいか?」ピスは話しかけてきた少年に顔を近づけた。僕の位置からは顔が見えなかったが、どんな表情をしているかは容易に想像がつく。

「はぁ?」質問をぶつけられた少年は、他の少年たちと顔を見合わせ、一瞬目を剥いてみせた。笑いをこらえているのが、表情からわかった。

 愉快犯文化をインストールされた、ごく普通のティーンエイジャーの反応に見える。しかし、VRでポーカーをやるのは、現実よりもずっと簡単だ。

「楽しいか?」ピスはさっきと全く同じ抑揚で繰り返した。

 少年の中の何人かが、忍び笑いをしているのが見える。

「楽しいよ」少年の顔は半笑いだ。「あんたが消えれば」

「そうか」ピスの声が心なしか明るくなった。

「俺も楽しいよ。今からもっと楽しくなる」

 ピスがそう口走った次の瞬間には、少年は宙を舞っていた。正確には、宙を舞いながら近くの壁目掛けて飛んでいった。遅れて、ピスが少年の胸倉を掴んで投げ飛ばしたことに気づく。

 何の前触れもなくショーの主役になった少年は、店内にごった返している客の誰かにぶつかって、床に落ちるかに見えたが、なぜかすべての客をすり抜けて、奥の壁に激突し、間髪いれずに床の洗礼を受けた。

 それを合図に、少年たちと、ピスと、僕らを除く全ての客が消えうせて、さっきまでの喧騒が嘘だったかのように店内が静まり返った。

 その光景を見て全てを悟った僕は、ウィップのほうに振り返った。彼はそれを待っていたようで、ひどくにやついている。

「悪いな、ケイ。騙すつもりはなかったんだが、やっこさんのターゲットはお前じゃなかったし、言わなくてもいいだろうって。作戦上の機密保全(OPSEC)ってやつだよ」

 ウィップが、僕が口に出さなかった質問に対して、用意していた答えをすらすらと披露した。勿論にやけている。

「三日前ぐらいに、ピスのネットの最外縁に"触れた"やつがいたんだよ。ピスの尻を長いこと追っかけていたやつでさ。やけに慎重なやつだったけど、なんとかキルゾーンの中に誘き寄せたわけ。まんまと踏んじまったんだな。ゾンビ取りがゾンビ、というわけだ」

警察(ブルー)?」

「見てろよ」ウィップが得意気な顔で、ショーの舞台のほうを顎で示す。

 視線を戻すと、床にうずくまっている少年に、ピスが歩み寄っている最中だった。

「いらっしゃい」苦しそうに蠢く少年の前にしゃがむと、ピスは言った。

 少年――といっても、中身は違うだろう――の顔は僕からは見えなかったけど、今日が人生最良の日だと思って満ち足りている顔でないことだけは確かだった。

「思い出せる? ここ来た理由。無理だろ? ターゲットがたむろしてる場所に直通(ホットライン)で繋ぐなんて、酷い。ABCもクソもあったもんじゃない。酷いよ、ほんと。そうだろ? 普段の自分なら絶対こんなことやらないって思わない? ん?」

 僕は運が良かった少年たちのほうを見た。5人の少年はピスのほうを見たまま固まっている。というより、本当に微動だにしない。おそらく、中身がいるのは空を飛んだ少年だけで、この5人はただのプログラムなのだろう。こういうパブでは一人で飲んでいると目立つが、大勢で馬鹿騒ぎしていれば目立たない。騒いでいるのがティーンエイジャーなら尚のこと良い。教科書通りの擬装カムだ。

「夢と同じだよ。ありえないことが次々起こるのに、驚かない。変だと思うことすらない。全てをすんなり受け入れる」

 ピスが鼻で笑う。少し自嘲気味な色があった。

「俺の夢へようこそ」

 ピスは踵を床につけてしゃがんだまま、顔を斜めに傾けて、少年の顔を覗き込もうとしている。

「デニス・エイブリー、2083年生まれ。フロム市警(FCPD)の元巡査部長(サージェント)。同僚とのトラブルが原因で、5年前に辞表を提出……」ピスが本当の経歴を読み上げている。

「シナリオなんだろ、これも。潜入捜査アンダーカバーをやるために、警察と表面上縁を切る必要があった。わざわざ同僚との喧嘩まで演出して抜けた。そうだろ?」

 少年は蹲ったまま、顔をあげようともしない。脳を牛耳られているのは、銃口を突きつけられているよりも絶望的だ。

「悪いけど、ポリくせえのはだめだぞ、このへんじゃあな。臭うんだよ、青いのは。わかんだろ」

 返事はない。

「まぁいいや」ピスはため息をついた。彼のほうも尋問をする気などなくて、ただ遊んでいるだけなのだろう。

 ピスが指を鳴らすと、テーブルで凍り付いていた5人の少年が消滅した。

「ケイ」ピスはゆっくりと立ち上がり、僕のほうを見る。「カレンを見てこいよ。俺はこいつがコストに見合った価値があるかどうかを判断する」足元に転がっている少年を顎で示した。

「庭園?」僕は席を立った。

「コンサートの時以外はあそこだろ、あいつは」ピスが少年を見下ろしながら言う。

 僕は無言で頷き、目を閉じる。

 そして、バード・ケイジから離脱した。




 目を開くと、そこは庭園だった。

 地面に広がる芝生には石一つ見当たらず、整然としている。僕のすぐ隣にある池の水面は穏やかで、鏡のように景色を映している。そして、そんな小さな庭園の周囲を、新緑の森が囲んでいる。森はどこまでも続いているように見えた。この世界がどこまで"描画"されているのか、不意に気になった。

 春の日差しの中、美しい庭園を眺めながら、僕はカレンの精神がすごく安定していることを感じていた。この領域はいわゆるプライベートで、カレンの神経ネットワークと陸続きだ。彼女の気分次第で、文字通り世界がどうとでも変わってしまう。普通は安定化プログラムを使って"土台"を作るものだが、彼女はそんなものにはお構いなしだ。

 周囲を見回すと、少し遠くに人影が見えた。大木の下にあるベンチに、白いワンピースにスニーカーという井出達の少女が座っていて、ブロンドの髪を風になびかせながら、体の半分ぐらいはありそうな、大きなクラシックギターを弾いている。

 それがカレン・アダムズだった。

 僕は足を進めた。とりあえず、一歩進んだ瞬間世界が壊れて、宇宙に放り出される、ということはないようだ。以前、カレンが変性意識状態トランスになった時に、実際にそういうことがあった。あの時は危なかったけど、間一髪のところで、安全装置が仕事をした。

 脳には現実と幻想の区別はない。どちらもただの入力に過ぎない。こっちで死んだせいで、現実でも死んでしまった人間は、一杯いる。

「おはよう」

 僕の挨拶に反応して、カレンが顔を上げる。

「ケイ」カレンは満面の笑みを浮かべた。

「またギター?」

「まぁね」

「悪魔に魂を売れば、すぐに上手くなる」

「いいかも、それ」カレンは肩を揺らして笑ったけど、不意に怪訝な表情になった。

「売るとどうなるの?」

「大昔に売った人は、若くして死んだ」

 カレンは目を丸くして、僕の顔を眺めている。

「悪魔に魂を売って死んだら、どうなるの?」好奇の瞳が、僕に向けられる。

「どこに行くの?」

 僕は答えず、空を見上げた。

 青天だった。

 周囲を見回す。

 さっきまで芝生だった庭園は、ヒナゲシがどこまでも咲き乱れる花畑に変わっていた。庭園全体の地形も、ところどころ変わっている。

「そういえば、何か用?」

 花に気を取られていた僕の精神は、透き通るような声で舞い戻ってきた。

 カレンは首を傾げながら僕の顔を見上げていたけど、その瞬間、彼女が抱えていたクラシックギターが消滅した。しかし彼女は眉一つ動かさない。たぶん彼女の無意識が、ギターの時間は終わりだと判断したのだろう。

 幸いなことに、カレンが首を回して、彼女の視界から僕がいなくなった瞬間に、僕が消滅してしまう、ということは起こらない――はずだ。しかし冷静に考えてみれば、そういうことが起こらないほうが不思議だという見方もできる。

「青い奴らがまた嗅ぎ回ってる。さっきもピスが、パブで一人やった。カレンは大丈夫だとは思うけど、一応」

 僕はそう言いながら、視界の隅にコンソールを表示させ、この空間の接続を軽くチェックした。

「さっき?」

「2分前、現実時間」

「ああ、そうなの……うん」カレンは笑顔を作ったが、興味も不安もないようだった。

「またコンサート?」僕は話題を変えることにした。

「うん、再来週に」カレンは自分のすぐそばに生えていたヒナゲシを一本抜いて、鼻に近づけた。ヒナゲシは彼女の手の中で成長と増殖をはじめ、あっという間に顔が隠れるほどの大きな花束になった。

「お客さん、一杯来るといいけど」

 来るに決まってる――僕は頭の中で即答した。何千万人も来るだろう。今までもそうだったし、きっとこれからもそうだ。フロム・シティが生んだ世界の歌姫、カレン・アダムスのコンサートなんだから。

 僕らみたいな、どうしようもない奴らが大暴れしているせいで、ファイト・シティという不名誉な別名を与えられているこの街にとって、15歳の天才シンガーソングライターであるカレンは、この糞壷が世界に輸出するものの中でも、間違いなく上位に入る。

 まぁ、そんな歌姫は、実はその「どうしようもない連中」の一員なんだけど。

 カレンは、握っていた花束を真上に投げた。空に舞った花は、地面に落ちることなく、まるで煙が雲散霧消するように消えていった。

「怖くないの?」

「何が?」

「死ぬこととか」

「なんで?」

「ほら、死ぬかもしれないんでしょ?」

 警察や、対立するギャングとの抗争のことを言っているのだろう、と解釈した。

「あんまり」

「どうして?」

「わからないけど」僕は肩を竦める。「案外、怖いものじゃないかもしれないし。まぁ、想像だけど」

「でも、みんな怖がってるよね」

「そうだね」

「わからないから怖い?」

「わからないものに、魅力を感じることもある。人間にはそういう感性も備わってるよ」

「それもそうかぁ」カレンが頷きながら感心したような声をあげる。

「よくわかんないんだよね、私も」

「怖くないの?」

「私? 私は……うん。興味あるよ」

「興味?」

「パパとママが行った場所だから。死ぬとあれでしょ? ほら、あの、天国ってところに行くんでしょ?」

「そう考える人もいる」

「いいなぁ、覗いてみたい」カレンの口調は心底楽しそうだった。

 彼女の両親は、5年ぐらい前に宇宙船の事故に仲良く巻き込まれて"蒸発"した。カレンは物凄く泣いたけど、遺言に従って、カレンの脳に科学のメスが入れられた。医者は記憶の消去も考えたらしいけど、記憶を消してしまうと色々と面倒が起きるので、苦痛の軽減のみに留めることにした。つまり、情動反応と、記憶を結びつける糸を、切った。

 カレンは両親が死んだことをはっきりと覚えているけど、彼女にとっては、今日の朝食のメニューみたいなものだ。両親がいなくなってつらいか、と聞かれる度に、決まって彼女は、顔色一つ変えずに、「悲しい」とか「寂しい」と答えた。

「ねぇ、こういうの、ない?」

「ん?」

「言うの難しいんだけどさ、なんていうかね……自分と世界の区別がなくなる、っていうか」

「自分と世界の?」

「うーん……その、目を閉じているだけで、どんどん広がって……いや、大きくなっていく、というかさ。わかる?」カレンは丸い目をこちらに向けて、返答を求めた。僕は肩を竦める。

「一人で曲作ったりしてるとね、ひらめく瞬間とかに、すごい気持ちよくなることがあるんだけど、そういう時に、そんな気分になるんだよね、たまに。想像なんだけどさ、死ってそんな感じなんじゃないかな」

 口ではそう言いながら、カレンの口調には一定の確信があった。

「ケイは、ある? そういうこと」

「わからないな。死んだことがないからね。でも、似たような感覚を味わったことはある」

「本当?」カレンは驚嘆を隠さない。

「幻戦のときに、なるよ。そんな感じに」

「どんな感じ?」カレンの碧い瞳が、僕の目を覗き込む。

「自由だ、と思った」

「自由……」

 カレンは独り言のように反復する。

 その大きな目は僕に向けられてはいるけど、ずっと遠くを見ている。

 死後の世界。

 考えたこともなかった。

 そんなもの、有り得るんだろうか。

「ケイはさ」

「ん?」

「死にたいと思ったこと、ある?」

 カレンは無表情。

 大きくて丸い目は、今度は真っ直ぐに、僕を捉えている。

「まぁ、何度かは」

「今は?」

「いつ死んでもいいと思いながら、生きてる」

「どうして、死なないの?」

「生きてるから」

「生きてるから?」

「死をずっと見てたら、生が顔を出したから、まぁ、付き合ってもいいかなって」

「適当なんだね」カレンが鼻を鳴らした。

 返事代わりに、僕は口を斜めにした。

「私はね、死にたいよ」

「どうして?」

「生きたから」

 満面の笑顔。

「答えを見つけたんだ」

 この上なく生き生きと輝く瞳が、死を語る。

 全てを照らす太陽。

 満開で恵みを謳歌するヒナゲシ。

 子供の頬を撫でるように、優しい風。

「カレン、調子は?」

 気づくと、アジア系の顔立ちの少年が、すぐ横に立っていて、彼女に満面の笑みを向けている。

「あぁ、ごめん。全然すすんでない」カレンは申し訳なさそうに苦笑いした。

「どんな歌か決まってるの?」

「大体はね。次の曲は……」

 親しげな様子で喋っているのを眺めながら、僕は少年の正体を見破った。

 カレンは脳に、社会が定義するところの病気というやつを患っている。分裂性認知症、とかそんなような名前の病気だ。主な症状は幻覚で、たいてい「友達」という形で、存在しない人間が現れ、やけにフランクな態度で近づいてくる。当の本人が幻覚だということに気づくことは稀だし、説明されても信じようとはしない。僕が見た限りでは、同じ「友達」が二度以上現れることは絶対にないらしい。それでも、カレンはいつも驚く素振りすらなしに、幼馴染に会ったような態度で接する。

 こうやってプライベートVR――独我論的空間、と呼ぶ人々もいる――に繋いでいれば、幻覚のリアリティが増すことはあっても、消えることはない。だから、まるで治る気配がない。彼女が分裂性認知症であることは、彼女の身内の何人かは既に気づいているけど、生活に支障がないという理由と、それが彼女の創造性や芸術家としての才能に大きく関わっているかもしれない、という理由から放置されている。もしかしたら、障害を個性として考えるという、最近もっぱら売り出し中の思想も関係しているかもしれない。

 僕は会話に熱中するカレンを眺めながら、静かに目を閉じた。カレンは熱中すると周りが見えなくなる。挨拶はいらないだろうと思った。

「ケイ!」

 離脱する寸前に声をかけられ、反射的に僕は目を開いた。少年とカレンが、真っ直ぐこちらを見ている。

「また聞かせてよ、話」

「話?」

「いろいろ」

「あぁ」返事なのかどうなのか、自分でもよくわからない呻き声を発した。

 カレンは満面の笑みを浮かべている。

 話をする?

 言葉で表せないものを?

 僕は小さく笑った。

 久しぶりに笑ったような気がした。





 カレンと別れてから少しの間、僕はゆっくりしていたけど、1時間ぐらい――脳の時計は46分と主張した――すぎた頃に、ピスから声がかかった。

 目を開けると、そこは"無"だった。どこを見ても墨で塗りたくったように真っ黒で、地に足がついていなかったら、上下左右すらわからないような、そんな空間だった。つまり、通信処理の無駄を徹底的に省こうとしてるわけだ。いよいよゲームらしくなってきた。

 自分の少し前方に、淡い光が見える。この空間で唯一の光源だ。そしてその白い光を囲むように、4つの人影が立っているのが見えた。

「デートは?」ピスが冷やかしてきた。

「自由だった」三人のほうに歩み寄りながら答える。

「なんだそりゃ」ハマーが鼻で笑った。

 僕はハマーから目を離し、アジア人の少女のほうを向いた。

「ソノラ」

 黒いライダースーツに全身を包んだソノラは、黒い髪を揺らしながら顔を上げ、僕のほうを見て、小さく頷いた。正確には、頷いたように見えなくもない、微かな動きをした。それが彼女の返事だった。

 あいかわらず無表情だったけど、鋭い視線を放つブラウンの瞳の中に、底知れない宇宙がある。

 ソノラが加入してきたのは、半年ぐらい前だ。彼女がフロム・シティ界隈の若者コミュニティに姿を現したのは、その時が初めてで、誰一人として彼女の素性を知る者はいなかった。

 ある時、ピスがソノラを勧誘したという情報を掴んだハマーが、彼女の素性について尋ねた。ピスは自分も殆ど知らないと前置きした上で、こう言った。

「自分で訊けよ。やつが話さないんなら、それが答えだ」

 答えは自明だった。彼女が加入して数日もしないうちに、既にメンバーの間では、彼女の無口さに関連するジョークが十個は生まれていたからだ。

 僕自身、彼女については他のメンバーと同じぐらいの情報しか持ち合わせていなかったけど、それほど気にならなかった。そもそも、素性を知らない相手のほうが多い。今さら一人増えたところで、大した違いはない。

「ケイ」

 ピスの鋭い声で、僕は我に帰った。

「こいつらにはもう説明したから、簡潔に言う。さっきの青制服の頭を漁っていたら、面白いものが見つかった。デッド・ホースの詳細な身元だ」ピスが鋭い視線で語り始めた。姿勢はリラックスしているが、ゲーム・モードになっていることが窺えた。

「へぇ……」僕は感心して声をあげた。

「随分仕事熱心だったらしい。バード・ケイジだけじゃなくて、他のも嗅ぎ回ってたんだ。俺らには返り討ちにあったが、デッド・ホースに関しては、かなりのところまでネタを掴んでたみたいだ。案外腕は悪くないのかもな」

「俺たちが優秀すぎるんだ」ハマーがにやりと微笑んだ。

「それで、どのぐらいまで掴んでたの? その……」

「デニス・エイブリー」

「それ」僕は軽く頷いた。

「まだデコード中だが、デッド・ホースの一番偉いやつを、フリーダム・ストリートのど真ん中で裸踊りさせられるぐらいのネタはありそうだ」

「すごい」

 デッド・ホースはこのフロム・シティを中心に活動する愉快犯グループの一つで、要するに僕らとあんまり変わらない。有象無象の中の一つだ。彼らはみな似たもの同士で、愚かにも警察に喧嘩を売って馬鹿騒ぎに興じているけど、どういうわけか、愉快犯同士でも対立することがある。この期に及んでまだ敵を増やそうとするのは、奇妙あるいは馬鹿としかいいようがないけど、奇妙あるいは馬鹿あるいは両方でなければ、そもそもこんなことを始めようとは思わない。

 そして、僕らもその"奇妙な馬鹿"の一員であることから逃れられていない。ザ・スレイブとデッド・ホースは数ヶ月前から敵対している。どういう原因だったかはよく覚えていないが、下らない理由であることは確かだ。小競り合いをしたり、罵り合ったりする程度の仲だけど、敵には違いない。敵の存在は、僕ら愉快犯にとってはとても大事だ。それは自由と大きな関係がある。

「それで、今は?」

「バックドアを付けて、バード・ケイジの記念すべき初フライトの記憶痕跡(エングラム)を消して、普通の生活に戻させた。符号化してスナップを取ってるが、あの野郎、脳がほとんど機械化されてないんだ。少々手間取ってる」

 僕は委細承知だという表情で頷き、全員の顔を見回したあと、ふたたびピスに視線を戻した。

「どこまでやる?」

 ピスは僕と目を合わせたまま、沈黙を守っている。あの鋭い視線だ。

「幻戦だ。あいつには色々と世話になったから、全員で挨拶しにいこう。それで……」

 そこまで言って、ピスは口元で小さく微笑んだ。

「片道切符をやる」





 数日後、僕はスイートルームの中にいた。外はすっかり暗くなっていて、シャンデリアの淡い照明が、室内の雰囲気に一役買っている。壁一面に広がる大きな窓の外には、立派な夜景が広がっているけど、僕は違和感を覚えた。立ち並ぶビルがやけに低いし、外見も古臭い。何よりプレーンが空を飛び交っていない。21世紀初頭の再現かな、などと考えていると、頭の中から声が聞こえてきた。

「ケイ、ぼさっとしてんなよ。"馬"が来た。5秒もしないうちにそっちに行くぞ」

 僕は答えなかった。窓から離れ、豪勢なダブルベッドのほうを向く。ぼさっとするのは、今の僕には難しい。外付けの補助処理装置を2~3個接続した今の僕の脳は、頭脳労働という意味では200人分ぐらいの脳に匹敵する。普段から――僕が生まれた直後から――埋め込まれているBCDも、今は「戦闘モード」なので、意識を鮮明に保ったり、アドレナリンを出させたりして、色々と頑張ってくれているはずだ。

 今回は大したゲームじゃないけど、ゲームの時の僕は――というより多くの愉快犯は――必ずこういう、脳だけスーパーマンみたいな状態になる。昔の戦士が、戦いの時に鎧や剣を持っていくのと同じようなものだ。ピスがそんなことを知らないはずはないから、多分ジョークだろう、と思った。

 部屋の中を漠然と眺めていると、不意に何かの気配を感じた。誰かが接続してくる時の感触だと悟った瞬間、目の前にスーツ姿の男が現れた。美男子の白人だが、ほんとうの容姿とはかなり違う――まぁ、それ自体は珍しくない。同じにしている奴を探すほうが、たぶん難しい。

 すぐ視界の隅に公開IDを表示させ、一瞥して確認する。ロベルト・ブルコフ。デッド・ホースの本名。スーツ姿のデッド・ホースはベッドの傍に立ったまま、部屋全体を見回している。表情は明るかったが、それがインテリアに感動しているからではないことは分かっている。

 僕はしばしの間、目と鼻の先にいる今回のターゲットを眺めた。もちろん、相手からこちらの姿はまったく見えていない。ほんとうはピスとハマーもこの部屋をモニターしているけど、彼らは僕と違って見るだけだ。

 程なくして、期待と高揚の入り混じった、ゲームの時のあの感覚が湧き上がってきた――たぶんBCDが、アドレナリンとセロトニンの濃度を調節しているからだろう。そろそろゲームを始める頃合いだ。

 僕は白いドアを見た。まるで僕の視線を待ってたかのようにドアが開いて、赤いドレスに身を包んだ女性が部屋に入ってくる。上品な仕草で室内に入ってくると、ベッドのすぐそばに立っているデッド・ホースに気づき、顔をほころばせた。

 この高級娼婦の仕草が、すべて計算づくのものかどうかと聞かれたら、答えはイエスだ。操作しているのは、他でもない僕だからだ。レオニードという人形師が貸し出している娼婦のマルガレータに、"馬"が惚れ込んでいるという情報を得た僕らは、レオニードに掛け合って、今回のゲームをセッティングする許可をもらった。奪うという選択肢もあったけど、チップをちらつかせただけで、レオニードはあっさりと承諾した。

「あいつは上客じゃないし、売ってもいい。ただ、俺に迷惑がかかるようなことがないようにしてくれ」

 レオニードはそっけない態度でそう言った。それが5時間前の出来事だ。

 デッド・ホースは明らかに高揚していて、馴れ馴れしい様子でマルガレータに歩み寄る。

 ここまで全部うまくいっている。

 デッド・ホースはマルガレータの肩を掴んで引き寄せ、口づけした。あまりにも古典的な伝達を見て、奇妙な感動が湧き上がってくる。

 双方向なようで、独りよがり。

 繋がっているようで、明確な断絶。

 完成された愛を夢見た、どこか歪な残骸。

 疑う余地のない、人間のつくったもの。

「ハマー!」

 ターゲットが、週に一度のマルガレータとのお楽しみの時間だけ、何十重にも張り巡らしているウォールの9割方を解除していることに僕らが気づいたのは、レオニードから渡された、デッド・ホースの先週の情事のログを見た時だった。まずハマーが、時間当たりの通信量がやけに多いことに気づき、ピスが仮説を立てた。"生の感触"を味わうために、お楽しみ――情事とは限らない――の時だけウォールを解除する奴は多い。

 体制感覚野には、唇やその周辺から入力を受けている領域が多い。デッド・ホースに接吻をするように仕向けて――といっても、その必要はほとんどないけど――その瞬間の情報伝達を利用して、頭頂葉にバックドアを投げ込む。

「応答あり。ビンゴ」ハマーの声。

「入るぞ」

 ピスの鋭い口調が頭に響いた時には、僕は既に目を閉じていた。



 気付くと、僕らは高層ビルの谷底にいた。わずかに見える空は曇っていて、灰色が街全体を支配している。

「ミッドタウンだ。21世紀初頭のニューヨーク」

 ビルを見上げ、独り言のように口走った。もちろん、本当にいるわけではない。単なる表象だ。

「成功?」ハマーがピスのほうを向いた。

「右中心後溝。バックドアはあれ」

 ピスが顎で示した先には、マンホールの蓋があった。

「下水?」ハマーがわざとらしく目を剥いた。

「なんだっていいだろ、別に」ピスが一笑に付した。

「ロックフェラー・センターあたりに降り立ちたいな。次があるなら」

「いや、メトロポリタンだ」

 僕らは周囲を警戒しながら、ゆっくりと歩き出した。ハマーはここに残る。バックドアを守りつつ、状況をモニターするのが彼の仕事だ。視覚的には単なるマンホールの蓋だが、あそこを取られたら全員追い出される。

 やがて、僕らは大通りに出た。

「感知なし、アウェアネスなし。全てフラット」ハマーの声。

「どうするの」ソノラが車の流れを眺めながら言った。彼女が喋るところを見たのは久しぶりだ。ピスも同じことを思っているような気がした。

「言ったろ、一次運動野(M1)だ」ピスはポケットに手を突っ込み、鋭い視線を灰色の空に向けている。

「ハマー」

「大通りに沿って北」ハマーの素っ気ない声。

「だ、そうだ」ピスが澄ました顔を僕らに向けた。


 ミッドタウンはゴーストタウンで、走っている車すら見かけない――要するに、万事異常なしだ。ニューロンとグリアのささやかな隙間に張り巡らされた、直径10ナノメートルにも満たないBCD内で活動するプログラムは、正常に活動している限りは、目には見えない。"街の一部になっている"という表現が一番いいかもしれない。活動をやめているか、何らかの大きな変化が起きた時だけ、姿を現す。つまり、空気や電気みたいなものだ。それが当たり前に存在している時は、誰も意識しない。なくなった途端に大騒ぎになる。嫌でも意識せざるをえなくなる。

 道中に危険はなかった。セキュリティは不正な活動を監視しているので、何もしなければ攻撃されることはない。現実と同じで、法に触れず、大人しく、目立たなくしていればいいわけだ。しかし現実の僕らはそういう典型的な市民ではないし、それはロシアンマフィアくずれの脳の中でも同じことだ。散歩をしにきたわけじゃない。

 やがて、今までとは雰囲気が違う街区に入り込んだ。人や車の通りがなくなり、高いビルもほとんど見当たらない。それでも気にせず足を進めていると、ソノラが不意に立ち止まった。

 僕とピスは同時に振り返る。ソノラは無言で僕らの進行方向を指差した。

 ソノラの指の先には、鉄条網つきのコンクリートの壁が並んでいた。随分と長い壁で、僕らの位置からは切れ目が見えない。その代わりに、大きな門が見えた。

「ベルリンの壁だ。知ってるか?」

「名前なら」僕はピスのほうを一瞥した。

「中心溝」ソノラが短く、しかしはっきりとした口調で言った。

「ハマー」ピスが宙に向かって言う。

「そう、中心溝。中心後回の吻側。まぁ、3野だな。壁を越えるとM1。ここまではだいたい、デニスの持ってたコネクトーム通り。やっぱあの法執行官(ロウマン)、悪くない」ハマーの声。

「ずれたな、若干」ピスは舌打ちしたが、口調に緊張感はない。

「突破は?」

「無理ね」ソノラが呟いた。「ガンファイトしても無意味。門を越えても、ここに戻ってくる」

「人が作ったものなら、どんな時でも方法はある」

「解析が必要だ」検問を眺めながら、僕はつぶやいた。

「やってるよ。"ザ・レジメント"の最新版。改変はほとんどなし。教科書通り。オリジナリティのねぇやつだ。穴は開けられるが……」ハマーの声。

「なんだよ?」

「入った時に、感知されるかもしれない。既知の手法だから」

「だから?」

「いや、ただの確認だよ、小便小僧。すぐにやる」ハマーが笑っているのが声で分かった。

 やりとりが一段落すると、ピスは僕らのほうを振り返った。無表情だ。

「俺は別の穴から左M1。お前らは右。この壁を越えたら、時間との勝負」

「今から右半球に?」

「あっちにもいるんだよ、俺は」

 僕は無言で頷いた。VRでは身体的制約がないので、複数の場所に同時に存在することができる。たとえばウィップはバードケイジのカウンターでいつも突っ立っているけど、脳の何割かを使って色んなところを飛び回って、くだらないことに終始している。どれだけ存在が広がっても、自分からは逃れられないという好例だ。

「M1だけ?」

「デニスのネタでは、外部とのコネクションは一本。こいつの体、いうほど科学のメスが入ってないんだ。脳の大半も"ナマ"で、脳幹はBCDも通ってない。心不全で殺されたくはないってことなんだろうが、好都合だ。イワン崩れを閉じ込める」

「構築が甘いなぁ、随分と」

「典型的なネクロマンサーだよ、馬は。ゾンビ専門。自分でかち込むんじゃなくて、闇でゾンビネットを買う。幻戦なんてろくすっぽしたこともないだろうし、そういうリスクは取らない。それで今まで尻尾が掴めなかったんだ。インファイトに持ち込めばこんなもんだろ?」

 僕は頷いた。

「穴が開いたらキックオフ」

「左手にあるアパートの2階、白いドア」ハマーの鋭い声。

 ソノラとほぼ同時に左を向いた。みすぼらしいアパートが建っている。

「行けよ」

 ピスはそう言うと、ポケットに手を突っ込んで、踵を返した。どこからともなく、黒いスーツを着た男達が現れ、ピスの周囲に集まり始めた。

 久しぶりにピスが暴れるところを見たかったけど、すぐにアパートに駆け込んだ。壁のグラフィティを横切って、唾や埃で汚れたアパート内の階段を駆け上がる。すぐにそれが目に入った。

 その白い扉は、汚れきったニューヨークの場末のアパートに似つかわしくないぐらい綺麗で、すごく目立っていた。

 僕はドアノブを握り、すぐ隣にいるソノラのほうを振り返った。ソノラは既に銃を握っていて、僕の目を見て小さく頷いた。視線だけで何人か殺せそうな、いつものあの眼差しだ。

 扉を開けて、すぐに飛び込む。そこは木造アパートの廊下だった。ひどく暗い。微かな雨音が、建物全体に響いている。

 踏む度に軋んで音を立てる床を歩きながら、窓の外を覗き込んだ。雨に洗われている真っ最中の小さな窓からは、暗闇に包まれた街が見える。

「シカゴ」僕は独り言のように言った。「行ったことないけど、歩いたことはある」

 僕はソノラのほうを振り返った。ソノラは何も言わずに窓からの景色を一瞥すると、再び僕のほうに視線を戻した。

「行こう」

 観光気分で緊張感のない僕に嫌気が差したのか、ソノラは僕の言葉よりも僅かに早く、廊下を駆け出した。どうして僕はこんなに緊張感がないんだろう、と自問自答しながらそれに続こうとした時、背筋に違和感が走った。

 ソノラも感じたのだろう、すぐに足を止める。

「気づいたか?」ハマーの声。

「セキュリティ?」

「漏らすなよ、予定調和だろ。まだナチュラル(N)キラー(K)

 僕らは廊下を静かに進み、一階へと続く階段へと差し掛かった。裸電球の弱弱しい光が揺れる玄関ホールが見える。しかし降りようとした矢先に、光の下で動く影が目に入った。

 視界の隅で、ソノラが壁に背中を預けて、階下に銃を向けた。動きが滑らかだ。

「5人」

 僕はひどくゆっくりとした動きで、階下を覗いた。僕らの声は僕らにしか聞こえない。

 まだ息を潜めてはいたものの、戦闘は避けられそうにない。NKプログラムは、いわばセキュリティの先陣で、"自己"であるという明確な証拠がない構造物を、全て敵とみなして攻撃する。

 そうこうしているうちに、彼らは姿を現した。全身黒づくめで、頭はフード、顔はガスマスクで覆われ、手にはサブマシンガンを握っている。「レジメント」という、もっとも普及してるタイプのセキュリティ。

 まだこちらには気づいていないが、慎重にクリアリングをしていて、階段を上ってくるのは時間の問題のように見えた。

「右手前をやる」

 ソノラの鋭い声に、無言で頷く。

 静かに懐から銃を出した。スミス・アンド・ウェッソンM686。

「3、2、1」

 銃声と銃口炎が、一瞬のうちに暗闇と静寂を引き裂いた。最初の連射でソノラが黒づくめを二人薙ぎ倒し、僕も一人を地面と接吻させた。生き残った二人の反応は俊敏で、すぐに物陰に隠れて撃ち返して来た。

 周囲にセキュリティの放った弾丸が着弾し、木片と埃が宙を舞う。

 僕はほとんど飛び降りるような状態で階段を下り、適当に何発か撃ち返しながら、そばにあった木箱の陰に隠れた。すぐに周囲で銃弾が舞う。

 そうこうしているうちに、敵のうちの一人が近づいてくる気配がした。

 さてどう対応するか、と思案していると、すぐ近くまで来ていたセキュリティが銃火になぎ倒された。ソノラだ。

 僕は深呼吸し、目を閉じて、木箱に身体を押し付けた。自分の身体が沈み込んでいく。

 木箱の中を通過し、壁の中へと入る。

 目を開けると、目の前に黒づくめの背中が見えた。壁を通り抜けて裏を取った。

 壁から上半身だけを出した状態で、後頭部めがけてM686を向ける。

 こちらの存在に気づいて振り返ろうとしていたが、もう遅い。

 撃つ。

 頭への一発で、その場に崩れ落ちた。

 静寂。

 ソノラが僕の前に歩いてきて、幽霊よろしく壁から上半身だけを出している僕のほうを見た。

「動かないと」

 彼女の顔を見る。取り乱した様子は見られない。

 そのとおりだ。理論上、セキュリティの兵隊は無限に現れ続ける。

 ソノラは窓に駆け寄って、窓枠に背中をつけた。一連の動作が猫のようにしなやかだった。

「2ブロック先にいる」淡い光に、ソノラの横顔が照らされている。

 さっきのコンタクトで、敵のNKのおおよそのコードが分かった。事前情報通り、オリジナルからあまり改変がない。

「派手にやったから、殺到してくるよ」

 そう言いながら、手元のM686を見る。月明かりを浴びて、一瞬だけシリンダーが輝いた。

「まだM1は遠い」

「二手に分かれよう」服に付いた汚れを払う真似事をしながら、僕は言った。

 ソノラは無言で頷いた。

「陽動をやるわ。ケイは中枢を」

 僕が説明するまでもなく、意味を理解したらしい。

「わかった、気をつけて。僕はこの扉から出る」

 ソノラは無言で頷くと、廊下の闇へと消えた。



 雨の中、ひとり路地を駆けていた。もうすっかり真っ暗で、等間隔に並べられた街灯の明かりだけが輝いている。

 街は静まり返っていて、僕と雨を除けば動きすら見当たらない。デニスの地図が正しければ、もうM1に入っているはずだ。

「右のM1に入った。ハマー、中枢は?」

「見えないな。それに、こっちも大繁盛なんだよ。バックドアを探しにきた奴らがうろついてる」

事象(E)関連(R)電位(P)は?」

「なし。P300が来てたら、気づかないわけねえよ」

「私も」ソノラの声。

「僕もまだ」

「ウォッカのやりすぎだよ。イワン野郎、鈍すぎる」ピスの声。

 自分で探すことにした。統計からいえば、街の中央にもっと下の層に入れる糸口があることが多い。でも統計は嘘の別名でもある。面倒なことになった。

 前方に見えた人影に、身体が反応して撃つ。

 雨の格子の中に浮かぶ影が一つ、崩れ落ちる。

 残りが撃ち返してきた。多い。水と弾が周囲で跳ねる。

 横にあったビルに駆け込む。電気もついていないエントランスホールは人気もなく、静まり返っている。

 膝をついて、床に人差し指を走らせる。

 描き終えて顔を上げると、目の前に僕が立っていた。ほぼ同じアバターだけど、顔が少しだけ違う。

 もう一人の僕は無言で頷くと、ビルを飛び出していった。

 その背中を見送ったあとで、入り口正面にあった受付カウンターに飛び込み、誰もいない椅子に座る。

 ガラス張りの正面玄関のほうを見つめながら、深呼吸し、目を閉じて、動きを止める。

 頭の中でコードを大急ぎで組みなおしながら、全身の力を抜く。

 静寂。

 瞼の闇の中で、気配を探る。

 銃声。

 ビルの前を通っている。

 立ち止まらずに通り過ぎる。

 目を開ける。

 消えた。

 分身のほうを僕だと思ってくれたらしい。

 欺瞞としては初歩的な部類に入るけど、時間は稼げる、

 立ち上がって前進する。服は濡れていない。現実のように濡れたりはしない――現実だとどういう風に濡れるのか、すっかり忘れてしまったけど。

 大理石の壁に手を触れた。このビルは何を表象したものなんだろう。感触では、アストロサイトの管理プログラムに、コードが似ている。

 デコイもいるし、この中に居れば、一息ついてプランを再考するぐらいの時間は作れるはず。中枢への接点と思しき気配は、僕の周囲にはどうやら3つあるようだった。たぶん2つはデコイだ。

 いずれにせよ、急ぐ必要がある。侵入はスピードが命だ。

 暗号パターンに気を使いながら歩き、上階に続く階段に差し掛かった時に、足を止めた。

 不意に、それを感じたからだ。

 目を閉じる。

 セキュリティじゃない。

 このビルのどこか。

 違う。

 後ろだ。

 気づいた瞬間に、振り返っていた。

 正面玄関を背に、一つの人影が立っている。

 逆光で顔は見えない。しかしシルエットは小さく、体つきも丸みを帯びている。

 こちらに近づいてくる。

 顔が見えた。

 子供だ。

 青い眼、金色の長髪、着ているワンピースと同じぐらい白い肌。

 真っ直ぐこちらを見ている。

 セキュリティじゃない。では何者か。

 通りすがりの善良な市民ということはありそうもない。ここは街ではなく、小物ギャングの脳の中だ。

 放浪者(ワンダラー)

 僕の脳が真っ先にひねり出した言葉はそれだった。

 何らかの理由でデータが変質した結果、本来の目的や役割を離れて、独立して活動し始めたプログラム。

 ネットワークを彷徨った末に、脳に転がり込んできたウィルスが、セキュリティを欺こうとして自分を書き換えた拍子に壊れ、何もせずに居座っているうちに、セキュリティにもシステムの一部として認識されるようになり、定着する。

 自分のいる場所が、人間の脳の中だということにすら気づかぬまま、ただ居座り続ける――その人間の思考に干渉しながら。

 ありそうな話だと思った。

「誰?」僕は少女に言った。

 どういう言語が通じるのかすらわからないし、どういう反応を示すかもわからない。相手は人間ではないし、人間が意図して作った対話プログラムというわけでもない。

 少女は僕の問いかけに笑顔で答えた。しかし笑顔という信号を発したのは口だけで、目は少しも笑っていない。ピスに似ている。

「誰だと思う?」

 まともに言葉が通じたことに僕は驚いた。バグか何かでコードを書き換えられる前は、人間様を相手に世間話でもするようなプログラムだったのかもしれない。

「いつからここに?」

「ずっと昔からいるような気もするし、ついさっきのような気もする」

「ここがどういう場所か、知ってる?」

「殺風景な場所」

 僕らが、自分の住んでいる宇宙の外側を知らないのと同じように、自分が何者で、ここがどこなのか、全く知らないワンダラーは珍しくない。

「ここの人じゃないんでしょ?」

「そうだよ」

「何しに来たの?」

「悪いこと」

 僕は周囲を見回したあと、再び少女に視線を落とした。

「全身真っ黒で、虫みたいな顔をした奴らの出所が知りたいんだ。知らない?」

「知ってる」

 思ったとおりだ、と思った。長く居座っているワンダラーの中には、そこで主のように振舞っている者が少なくない。セキュリティホールぐらい知ってても不思議はないと踏んだが、僕の予感は的中した。

 少女は僕の横を通って、ホールの壁の一角に近づくと、手で触れた。

 何の前触れもなく、壁に扉が現れる。その白い扉は、ずっと昔からそこにあったかのように、まったく違和感を感じさせなかった。つまり、かなり古株のワンダラーだ。

「ありがとう」

「一つ、訊きたいことがあるんだけど」

「?」僕は少女のほうを見た。

「生きているのって、楽しい?」

 質問の真意がわからなかった僕は、表情から何かを読み取ろうとしたが、少女は無表情だった。透き通った眼の中に、海が広がっているだけ。

 しばしの沈黙の後で、僕は答えた。

「楽しいよ」

 それをきいた少女は笑みを浮かべた。それが少女の答えだった。

 どこかカレンに似ている。カレンの中身をピスに変えると、こんな感じだろうか。

 僕は少女から視線を放し、ドアノブに手をかけたが、その瞬間にやり忘れたことを思い出し、向き直った。

「君の名前は?」

「イヴ」

「僕はケイ。アルファベットのK」僕は小さく微笑んでみせた。「またどこかで」

「会うわ、きっと」

 どうしてこんなことを言ったのか、自分にも分からない。

 今やっていることが全部うまくいったら、もう二度と会うことはない。

 何の根拠もない口約束を交わして、永遠の別れをする。

 それを何度となく繰り返しながら、自分が孤独であることにすら気づかない。

 僕はドアノブを回した。


 扉の向こうは、古びた洋館の廊下だった。

 19世紀ごろぐらいの英国貴族の屋敷といったところだろうか。暗かったが、雨は降っていないようだ。窓からの景色は、屋敷が山の中にあることを雄弁に物語っていた。

 僕は第六感にしたがって、廊下を進んだ。赤い絨毯が敷かれていたので、足音は響かない。等間隔で置かれた蝋燭が、夜闇の中で揺れている。

 廊下の突き当たりにある扉にたどりつくと、何のためらいもなく開ける。

 書斎だった。まず目に飛び込んできたのは、書斎机に座っている人影だ。スーツを着て立派な髭を蓄えた初老の男性が、僕に驚いたように一瞬こちらを見たが、すぐに何事もなかったかのように、手元の書類に視線を落とした。

 不審には思わないはずだ。正規のルートでアクセスしてきたと認識されているに違いない。

 とんでもない間違いだ。

 M686を抜き、紳士の額に一発見舞う。

 男は大きくもんどりうって、座っている椅子ごと床に倒れる。

「右M1のセキュリティを取った。完全にセキュア。今から書き換える」

「こっちも終わってる。一杯やろうかと思ってたところだ」ピスの声。

「オーケー、オーケー。経路の確保は俺がやる。デッド・ホース・ショーだ」



「なんだよ、お前ら?」

 目を開けて真っ先に見えてきたのは、デッド・ホースとピスだった。

 ハマーとソノラも、デッド・ホースを取り囲むように立っている。

 デッド・ホースとマルガレータの逢瀬の現場に戻ってきたらしい。もっとも、雰囲気はだいぶ変わってしまったし、当の美女の姿はもうどこにも見えない。

「まぁまぁ、怒るなよ」ピスは不気味な笑顔を浮かべながら、やけにフランクな態度で接している。

 時間を確かめた。目の前で不機嫌そうにしている、ロシアンマフィア気取りの脳に飛び込んでから、現実時間で数秒しか経っていない。

「リョーニャの身内か? なんなんだ、いったい」

 ピスの胸倉を掴もうとしたのだろう、デッド・ホースは腕を伸ばしたが、その腕はピスの胸から一センチほどの距離でぴたりと静止した。

 まったく予想外のことが起きると、認識するのに数秒かかることがある。デッド・ホースは一瞬何が起こったかわからず、いらつきを隠さなかったが、自分の腕が石像みたいに動かなくなった理由を悟った瞬間、凍りついた。

「マリナ・タワーの一件で、スターダムに躍り出た人気グループだよ。ん? 知ってるだろ?」

 ピスの言葉は耳に届いてるはずだけど、デッド・ホースは微動だにしない。

「試してみろよ、離脱」ハマーが言った。

「お前ら」デッド・ホースは恐怖とも怒りともつかない表情を浮かべながら、目前のピスの顔を睨み付けた。

 ピスとハマーはへらへら笑いながら、返事もせずにデッド・ホースに視線を注いでいる。

「まさか……」

「心配無用だよ。案外楽だぜ、きっと。一瞬だし、痛くもない。そのへんは自信があるんだよ、俺達」ピスは慰めるようにデッド・ホースの肩に手を乗せたが、肝心の慰められているほうの顔は、警察の制服みたいに真っ青だ。

 不意に、デッド・ホースが動く。

 ピスの顎に盛大なアッパーを食らわせようとした渾身の拳は、その目的を果たすことなく、ピスの顎から数センチのところで止まった。

「おいおい、やめろよ。暴力はよくない」ピスは半笑いを浮かべながら、デッド・ホースの手首を掴んだ。

「たのむ、助けてくれ。なんでもする。この街から消えて欲しいなら、今すぐどこにでも飛んでいく」

 なんでもする。

 何をすれば、死から逃げられるだろう、と考える。

 そんな方法があるだろうか。

「まぁまぁ。お前はなんにも悪くない。だから、何もしなくていい。何かをするのは俺たちのほうだよ」

 デッド・ホースの腕を横に除けながら、ピスがやけに優しい物腰で語りかけ始める。

「つまり、あれだ。天災みたいなもんだよ。悪いやつじゃなくても死ぬんだ。悪いから死ぬんじゃないんだよ。え? 行いがどうとか、まったく、これっぽっちも関係ないだろ。絡んでこない。死ってそういうものなんだ。わかるだろ?」

 デッド・ホースは唖然とした表情でピスを見ている。

「いいじゃないか、そういうの。理由(わけ)もなく生まれて、理由もなく生き、理由もなく死ぬ。自由ってやつだよ、それが。素晴らしいじゃない。え? そうだろ?」

 ピスはそこまで言うと、口は笑っているが目は笑っていない、といういつもの表情に戻り、いまや青を通り越して漂白したような顔色になっているデッド・ホースの肩に手を乗せた。

「まぁ、楽しもうぜ。どうせ、いつかは来る。楽しんだほうがいい」

 ピスは不気味な笑みを浮かべた。





 いつからか、僕は廊下を歩いていた。

 白く、長い廊下。

 壁も、床も、天井も、シーツみたいに白。

 どこまでも、前に続いているだけ。

 歩く理由も、いつからここにいるのかも、何一つわからなかったけど、少しも気にならなかった。

 よく似たものを知っている。

 何度も味わっている。

 ただ、足を前に出す。それだけでいい。

 思考も、意思も、理由も、感情も、欲望もない。

 ただ、足を前に出す。

 それだけで。

「ケイ」

 顔を上げる。

 カレンが微笑んでいる。

 白い服と、白い部屋。

「どう? 私の部屋」

 部屋を見回す。

 天井が高い、白いだけの、四角い部屋。

「白い」

 カレンが笑った。

「なにそれ」

 彼女はひとしきり笑うと、部屋の中央に行き、僕に背を向けて蹲る。

 近づくと、手で何かを弄っているのが見える。積み木だ。

「ここは?」

「世界」カレンは積み木遊びに夢中で、こちらを向こうともしない。

「世界?」

「うん」

「カレンの世界は、いつも白いの?」

「白いよ」

 カレンが顔を上げて僕を見る。

「本当は白いんだよ、みんな」

 そう言って、再び積み木に視線を戻す。

 僕は天井を見上げる。どこから光が入っているのか、部屋はどこも眩しい。

「綺麗なものが好き」

「綺麗なもの?」

「うん。何もかも、全部」

「汚いものは、ないの?」

「ないよ」

 カレンが、再び顔を上げる。

「全てを愛してるの。何もかも、全部」

 カレンは白い歯を見せる。

「だから……」





 目を開け、顔を上げる。

 バード・ケイジのカウンター席。

 客もウィップもいない。誰もいない。

 別のレイヤーで営業中なのだろうか。

 ここに突っ伏して寝るまでの経緯が思い出せない。

 BCDで記憶を参照しようとして、すぐにやめる。

 よくあることだ。

 不意に、視界の隅に誰かがいることに気づく。

「ソノラ」

 その姿を認めると同時に、名前を呼んでいた。

 ソノラは僕から何席か離れた場所に座り、腕と脚を組み、カウンターにもたれて、静まり返った店内を見据えている。

 横顔はあいかわらず無表情だった。

「夢を見てたよ、夢の中で」

 カウンターの中に並べられているグラスを眺めながら、独り言のように言った。一瞬だけ、意識が夢の内容に言及する。以前、カレンが作った没入型創作物(イマーシブフィクション)の中に訪れたことがあった。その時の記憶を基に生まれた夢かもしれない。

「ときどき、今どの夢なのか、分からなくなるよ。こうやって、渡り歩いているとね」

 ソノラはなにも答えない。

 沈黙が流れる。

「ピスは、どこに向かっているの」感情の気配のない声が聞こえた。

 ソノラのほうを向くと、彼女もちょうどこちらを向いたところだった。

「何をしようとしているの?」

 褐色の虹彩が、僕の心を覗き込んでいる。

「まだ聞いてないよ、僕も。どっかの政治家でも狙うんじゃない。でかいゲームって言ってたから」

「違う」

 ソノラの否定は、心なしか語気が強かった。

 貫くような視線で、依然僕を捉えている。

 彼女の質問の真意は、最初から分かっていた。わざとはぐらかしたのだ。

「ピスに目指すべき場所なんてないよ。今をずっと続けるだけだ。飲んで、寝て、馬鹿騒ぎをする」

「いつまで?」

「さぁ。死ぬまで?」

 僕はソノラから目を離した。この席に座るようになってから、どれぐらいの時間が経っただろう。ハマーが下らないジョークを言い、カウンターの中のウィップが馬鹿笑いをする。気だるそうにグラスを弄びながら、鼻で笑うピス。

 この席で何度も見てきた光景。何度も見てきた幻。

「目的も理由もなしに、ゲームを繰り返すの?」

「そうだよ」僕はソノラのほうを見ずに言った。

「なんの意味があるの?」

「何も」

 右の頬に、ソノラの視線を感じる。

 千の言葉よりも、雄弁な沈黙。

「もし、目的のようなものがあるとしたら」カウンターに頬杖をついて、ソノラのほうを向いた。

「自由になること」

「自由?」

「自由」

「ビルを吹き飛ばすことが、自由?」

「違う」

「アヴェニューで、制服警官にダンスをさせるのが自由?」

「違うよ」

「じゃあ、何?」

「自由になろうとすること自体が、自由」

 僕は微笑んでみせたが、ソノラは眉毛一つ動かさなかった。微動だにせずに、僕を突き刺している。

「ごめん」僕は表情を消し、目をそらす。

「言葉にできないことなんだ」

 周囲で、マイペースな煙が漂っている。べつに誰かが吸ってるわけじゃない。演出された紫煙だ。

「怖いよ、はっきり言って」

「何が?」

 ソノラの眼差しの感触を頬で確かめながら、自分の掌に視線を落とす。

「あなた達」

 不意を打たれて、思わず吹き出した。彼女らしくない発言だった。もっとも、今の彼女は何から何まで"らしくない"。

「どのあたりが?」ソノラを一瞥する。

「迷いがない」

「迷ってるよ、しょっちゅう」

「迷うことに、迷いがない」

 ソノラを見る。

 深いブラウンが、僕を引き込もうとする。

 言葉とは裏腹に、彼女の瞳は揺らがない。

 サッケードを演出していないだけかもしれない。

 いい眼だ。

「あなた達に似てるグループを、ひとつだけ知ってる」

 落ち着き払った声が、沈黙を終わらせる。

オズ(OZ)

 オズ。

 石を投げ込んだみたいに、一瞬で心に波が現れる。

「オズ?」

「知らないの?」

 ソノラの表情にほとんど変化はなかったけど、知らないのが信じられない、と思っているのが口調から伝わってきた。

 僕は何も答えず、茫然とソノラを眺めていたが、頭の中ではオズという単語が壁紙の模様みたいに並んでいた。

「数年前にこの街――いや、世界中で暴れてた愉快犯。天才的なゲーマー集団として猛威を振るう一方で、音楽活動もしてた。社会を滅茶苦茶にしてるのに、大勢からほとんど崇拝といっていいほどの支持を集め続けた」ソノラは閑散とした店内を眺めながら、淡々と語った。

「今では、ちょっとした伝説になってる」

「今は?」

「10年前に、忽然と姿を消した。それっきり。何の前触れもなかったから、未だに憶測が飛び交っている」

「青いのが殺ったんじゃないの?」

「可能性は低い。オズの能力は、警察を完全に圧倒していた。一人も逮捕者を出さなかった。ちょうど、今の私たちのように」

 含みのある口調だった。

「メンバー同士で殺し合って全滅した、というのが最も有力な説」

「本当に?」

 ソノラは僕のほうを向いて、首を振った。「証拠があるわけじゃない。はっきりいって、噂の域を出ないわ」

 ソノラから目を離し、考える。

 どうして僕は、こんなにオズに惹かれるんだろう。

 さっきまで、名前すら知らなかったのに。

 無意識ではオズのことを知っていた?

 サブコンシャス・ログ――潜在意識下の活動記録――はときどき確認している。そんなことはないはずだ。

 では、侵入を受けた?

 有り得ない話ではない。

 あとで検査しよう。

「ここは普通じゃない」

 僕は顔を上げた。

「普通?」

「馴れ合いながら、銀行の入出金記録を操作して、小銭を掠めて喜んでいる、そのあたりのとは、何もかもが違う」

 ソノラは少しだけ身を乗り出し、僕に顔を近づけた。

 どんな嘘も貫くような視線。

 いや、違う。

「私は知りたい。ザ・スレイブが何なのか。何を隠しているのか」

 視線を絡ませたまま、時が止まる。

 音も動きもない。

 空間に存在する全てが、僕らの会話を固唾を呑んで見守っている。

「じゃあ、君は?」

 僕の意思が出しゃばってきて、沈黙を破る。

「君は何?」

 ソノラの顔は微塵も変化しない。ただ鋭い視線で僕を刺しているだけ。

 しかしその瞬間、不意に彼女が微笑んだ。

 微笑んだように見えなくもない、小さな口の動き。

 でも、確かに笑った。

「亡霊」

 ソノラは席を立ち、僕のほうを見下ろした。先ほどの微笑はもうない。

「亡霊?」

 彼女は答えず、静かに目を閉じた。

「行くわ」

 ソノラの姿が、霧のようにフェードアウトしていく。

 全てがただの夢だったとあざ笑うかのような静寂が、そこに残った。







 御粥もどきを機械的に口に運びながら、僕は考えていた。

 窓から見える街には偽物の青空が広がり、今は昼過ぎだと主張したがる偽物の陽光が、僕の部屋の至るところで幅を利かせている。

 1.4キロよりも少し重くなった脳の中を、沢山のことが駆け巡る。

 オズのこと。

 ソノラのこと。

 彼女があんなに喋っているところをみたのは、初めてだ。

 そもそも、彼女はいったい何者だろう。僕らを嗅ぎまわっているようなニュアンスだった。ただの好奇心なのか、もっと別の理由があるのか、ブルーの息がかかってるのか、いまの僕には判断が難しい。

 そして、僕らとオズを結び付けようとしているようにも見えた。

 オズ。

 10年前に失踪した、伝説的な愉快犯グループ。

 なぜ僕は、そんな有名なグループを知らない?

 もともと世間に興味があるほうではない。でも多少は知っていないとゲームに参加できないから、それなりにアンテナは張ってきたつもりだ。

 やはり、侵入?

 どこかの段階でエングラムを書き換えられた?

 部屋の一角に目をやって、円柱形の箱を見た。

 デザインなんて概念は知らないとでも言いたげな、真っ白なその箱が、僕の補助記憶装置(ストレージ)だ。僕は"骨壷"と呼んでいる。機能も似たようなものなので、なかなか悪くないネーミングだと思っている。

 人は自分が思っている以上に、多くのことを忘れていく。でもだからといって、すべてを忘れてしまうのは寂しい。人は過去を後生大事に宝石箱に入れたがる生き物でもある。そのためにこの骨壷がある。

 脳に埋め込まれたBCDは、常に脳の活動を記録しているが、そのデータ――スナップショットと呼ばれる――が定期的にこれに送信され、蓄積される。そこにはエピソード記憶、手続き記憶、思考や思想、その変遷までもが残されている。その記録は、一部を抽出することによって、文字通りその人物を"再現"することもできる。

 僕は骨壷に近寄ろうとして、ベッドを出て立ち上がる。

 瞬間、得体の知れない違和感が襲い掛かった。

 周囲を見回す。

 いつも通りの、殺風景な自室に見える。

 違和感や直観には、ただ意識に上っていないだけで、はっきりとした根拠があることが多い。

 目を閉じ、BCDにアクセスする。

 まぶたの裏の闇に、次々に現れるボタンを押す。

 アウェアネスが湧き上がってきた。

 すぐに振り返る。

 窓の光の差し込み方が、いつもと少し違う。不自然だ。毎日視野の片隅で感じ、脳裏に蓄積された昼過ぎの陽光の記憶と、ずれが生じている。それが、僕の潜在意識の回答だった。

 ここから見える空は、市の天候管制局が制御している立体映像だ。そこでは、偽物の太陽は1ナノメートルのずれもなしに、毎日同じコースを辿る――偽物のほうがお行儀がいい。だから、こんなに大きな変化は起きない。

「気づいた?」

 窓に近づこうとしたとき、背後から声がかかった。

 ちょうど骨壷のすぐ横に、ひとりの少年が立っている。

「K6」

 僕のため息のような呟きに、K6は無表情で頷く。

 少年の容姿は僕にそっくりだった。当たり前だ。K6は、僕の6歳の頃のスナップを基に作られた補助(A)人格(P)なんだから。

 脳に内蔵されたデバイスであるAPは、使用者の補佐役として、脳に干渉することが役目だ。APは無意識下で思考に影響を与えているが、こうしてはっきりと姿を現すことはあまりない。

「いいニュースじゃなさそうだ」

「攻撃を受けてるよ」K6は僕を見上げながら、顔色一つ変えずに言った。内容とは裏腹に、取り乱した様子は少しも見られない。

 言われるまでもなく、K6の姿を見たときから想像はできていた。K6は僕のAPの中では最上位に位置する、まとめ役のような存在でもある。こうして姿を現したということは、かなりまずい状況になっていることは間違いない。

「状況は?」

 K6は無表情で頷く。「ターゲットは左一次視覚野から侵入して、視覚路に沿って左の側頭葉と頭頂葉に浸透。状況から、たぶん前頭方向めざして侵攻中。他は、正確な被害はわからない」

 僕は部屋の中を見回した。「これは?」

「幻覚」

 K6はゆっくりとした足取りで、すぐそばの壁へと近づいた。

「昼食をとるために、ここに戻ろうとしたでしょ?」

 僕は無言で頷く。

「それが、ターゲットには都合が悪かった」

 K6は壁の一点を注意深く見つめながら、おもむろに人差し指で、壁に小さな円を描いた。すると、そこに穴が開いて、底の見えない闇が姿を現した。

「侵入はずっと前から行われてたけど、ケイが現実に戻ろうとしたので、あわてて知覚を支配して、閉じ込めた」

「でも、僕の部屋に関する情報が不十分だったから、完全に再現できなかった」

 K6は頷いたが、興味と視線は穴の中に注ぎこまれているようだった。

「でも、ターゲットのミスは太陽光だけだよ。幻覚への移行も継ぎ目なしで滑らか。部屋の再現も完璧。運動野の信号も正確に拾って、ちゃんとフィードバックを返してる。それで僕も騙されてた」

「気づいたきっかけは?」

 K6は穴から目を離し、こちらを見た。「ケイの違和感。アウェアネスの数秒前にキャッチして、それで」

 かなりの腕だ。

 ここまでやられたのは初めてだった。

 最悪という言葉がふさわしい状況に思える。でも、ほんとうに年貢の納め時なのかどうか、試してみるのも悪くない。

 そもそも僕は、戦うためにこの世界に身を投じている。これは予定調和だ。

「そういえば、今の僕は?」

「左前頭前皮質(PFC)の一部。他の部位が信用できないから、スタンドアローンにして、一時的に前頭葉のみで人格を生じさせてる。統合状態のケイとは違う」

「なるほど」

「ターゲットは攻撃をやめる気配がない。殺しや脅迫が目的じゃないみたいだ。最終目標はここ――いや、君だと思う」

 そこまでやるクラッカーは稀だ。運動野を落とせばそれで事足りる場合は多い。相当腕に自信があるのか、なにか他に目的があるのだろう。もしかしたら、クラッカーとしてのプライド、とかいうやつかもしれない。

 僕の思考は一瞬、攻撃者は何者か、という点に及んだけど、すぐに考えるのをやめてしまった。僕らの敵はあまりにも多すぎる――なんと言っても、自分から作っているのだから。

「どうする?」K6の口調はまったく抑揚がない。

 僕は顎に手を当て、考える。

「潜在意識が察知してから、K6が来るまで、数分あった」

「2分23秒」K6が素っ気なく答えた。

「その間の戦況は?」現実時間の数分は、こちらでは数時間に匹敵する。神経細胞にとっては、数ミリは途方もない距離で、数秒はとてつもない時間だ。

「押し返してる。今もね。セキュリティだけじゃなくて、APも総動員だから、アウェアネス後は概ね優勢。ウィルスも変異してるのが多いけど、だいたいは既知のものだから、それほど対処には苦労しない。ただ……」

「ただ?」

「次から次へと出てくるんだ。しかも、統率がとれてる」

「スプレッダ――ウィルスの発生源――がいるんじゃないか」

「多分。AP達もそう言ってる。しかも、かなり高度なのがいる。自律思考できるやつ。統率力を見るかぎり、たぶん、僕らAPと同レベルの構造物がいるはずだ」

「そんな芸術品なら、あまり派手には動けない」

「APレベルの巨大構造物の活動はまだ探知してないけど、もしいるとすれば、左一次視覚野が怪しい。侵入してから一歩も動かずに、潜伏して、命令だけを出してる可能性が高い」

 K6の目を見た。依然、表情には何の感情も見られない。僕は6歳の頃からこんなに無愛想だったんだろうか。今となっては思い出せないけど、スナップに劣化や改竄がないとすれば、今僕の目の前にいるのは、紛れもなく6歳の僕だ。

「下位APとセキュリティは駆除に専念。僕は視覚野。K6はモニター継続。運が良ければ、問題がコンパクトになるかもしれない」




 色あせた空が、どこまでも広がっている。

 晴れと曇りの、間ぐらいの空。

 幻戦ソフトウェア特有の、曖昧な空。

 鳥の飛んでいない空だ。

「周辺に探知なし」

 K6の声。

 地上に視線を戻すと、周囲には年季を感じさせるような石油化学コンビナートが広がっていて、長い煙突が何本か、空を突き刺している。

 煙突と工業施設に囲まれて孤立する、空き地。

 僕は、その殺風景な場所の真ん中に立っていた。

 灰色の世界の中で動くものは、長い煙突から出ているかすかな煙だけで、人影すら見えない。

 僕は一度大きく深呼吸した。

 まったく無意味で、しかも実際にはしていない行為だ。

「静かだ」

「もしいるとすれば、基底レベルで同化してる。このまま潜み続けてたら、いつかシステムの一部として認識される」

 目を閉じる。

 左の頬に、風を感じる。

 普段から嗅覚路を接続していないから、僕の幻の中に匂いはない。

 現実と同じぐらい鮮明なのは、映像と音ぐらいで、実際には体性感覚もかなり希薄だ。

 どこか浮いているような感覚。

 ときどき、腕を振り回すと、手首から先が飛んでいくんじゃないかという気になる。

 でも、そんなことは絶対に起きない。

 存在しないんだから。

 腕も、手も。

 体も。

 自分も。

 全て幻。

 夢だ。

「これだ」

「何?」

「風」

「……これ、シータリズム?」K6が、すぐに意味を理解する。

「馬のM1に入ったときさ、イヴをあぶり出したの、K6でしょ?」

「たしかに、あの時のノイズに似てる」

「解析してみて」

 この感覚には、覚えがある。

 前にも感じたリズム。

「当たりだ。来るよ」

 目を開ける。

 十歩ぐらいの距離に、一人の少女が立っている。

 白いワンピース。

 乳白色の肌。

 艶のあるブロンド。

 東欧の血を感じさせる顔。

「イヴ」

 思わず口走っていた。

 紛れもなく、あの時の少女。

 あの少女。

「誰? 私が見えるの?」

 透き通るような声。

「マイニングしたの?」

「ケイの一部だよ、僕は」

「一部?」

「実行機能、ってやつかな」

 イヴは大きくて丸い目で、僕をまっすぐ見据える。

 やがて言葉の咀嚼を終えたのか、かすかに顎を引き、背筋を伸ばして、少しだけ目を見開いた。わずかな仕草だったが、自分の置かれた立場を理解したようだった。

「アウェアネスだったんだ。さっきの波」イヴはほんの一瞬目をそらして、顔をしかめた。

「なぜ気づいたの?」鋭い視線が僕に向けられる。

「陽の光だよ。あの時間はいつも、斜めに光が入って、ベッドを真っ二つにするはずなんだ。でも、今日は違った」

 それを聞いたイブは、すぐに相好を崩した。自虐的ではなく、感心して笑ったように見えた。

「どうして、私の名前を?」

「前に会って、約束したんだ。また会うって」

 イヴは少し首を傾げた。

「持ってないわ、そんな記憶」

「本物と会った」

「でしょうね」

 イヴは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「私は所詮、イヴの一部」

「だから、僕のことも知らなかった」

 イヴは目を閉じて頷いた。

「私は、イヴの電子戦能力のほんの一部でしかない。でも……」

「でも?」

「君と"私"は、また会うことになる。いつか必ず。そんな気がする」

 少女は碧い瞳で、僕をまっすぐと見据えた。

「ただの予感じゃない。私がそう感じるのは、こうなることを予期して、イヴが書き込んだ、という意味」

「つまり、イヴからのメッセージ」

 僕がそう言うと、イヴは微笑んだ。

 あの底知れぬ笑顔。

「それで、どうする?」

 僕は返事のかわりに、M686を抜く。

「私をマイニングしたのはすごいけど、脳の半分でイニシアチブを取ってるのよ、私は」

 イヴは取り乱した様子もなく、からかうような態度を崩さない。

「私は、君の半分」

 銃口を向ける。

 沈黙。

 奇妙な感覚。

 イヴと僕の間に、境界線がある。

 自分が広がり、同じように広がってきたイヴとぶつかり、境界線ができている。

 そんな気がする。

 幻戦で何度も味わった感覚だった。

 自分は、隙さえあれば広がろうとする。

 単細胞生物の分裂も、戦争で国を広げようとするのも、みんな同じだ。

 自分を広げようとする。

 広がらずにはいられない。

 自我。

 究極のウィルス。

 イヴと目を合わせたまま、銃口を上に向け、引き金を引く。

 乾いた音が響き渡る。

 静寂。

 構えを解いて、腕を垂らす。

 目の前のイヴは、微動だにせず、僕と視線を絡ませながら、徐々にフェードアウトしていった。

 それを見届け、一番近くにあった煙突を見上げる。

 煙突の頂点で、足を投げ出して座っていたイヴが、身を投げるところが見えた。

 いや、違う。

 落ちた。

 イヴは長い煙突を落ちながら、少しずつその体を花びらへと変えていき、地面に激突するのを待たずに、消失した。

 無数の白い花びらが、灰色の空と、錆びた鉄の世界を舞っている。

「気づいてた?」

 K6の声。

「僕は、撃つ瞬間まで気づけなかった。無意味なコードが多いとは感じてたけど」

「最後の一瞬、意識に干渉してきたんだ。錯覚でも見せようとしたんだろうけど、そのコンタクトが、欺瞞を見抜く鍵になった」

 花びらを眺めながら答える。

「それに、感じたんだ」

「感じた?」

「どこか似てるんだよ、イヴは。僕にね。それで分かったのかもしれない」

「まさか」K6は信じていないようだった。

 僕らの世界では、戦いが起こるときには、必ず敵と繋がっている。繋がっていなければ、戦えないし、そもそも戦いは起きない。例外はない。どんな関係性であるにせよ、必ず繋がっている。

 ノイズの海で出会い、

 運命の糸で繋がり、

 相手の全てを見たいと願い、

 抱き寄せるように近づいて、

 接吻をするように、死を打ち込む。

 愛し合うように、殺し合う。

「また、いつか」

 しばらく風に舞っていた花びらは、もう消えていた。




 目を開けると、自分の部屋だった。

 周囲を見回し、外の景色も確認する――もちろん、光の差し込み方も。

 部屋は何事もなかったように、いつもの姿でそこにあった。

「よくできてる」

「本物だよ」僕の独り言に、頭の中からK6が答えた。

「復旧は?」

「順調。バックドアや蛇口――脳の活動を盗聴するプログラム――が残っていないか、チェックしてる」

「コネクトームへの影響は?」

「特になし」

「どうやって入った?」

「創発型。入った後で化けたんだ」

 その方法ならたしかにウォールには引っかからない。しかし、あれだけ高度なスプレッダーを生み出すのは簡単ではない。かなり優秀なゲーマーが揃っているザ・スレイブでも、そんな才能(ゲーム)を持ってるのは3~4人だろう。

「かなり危なかったよ」K6の声はあいかわらず淡々としていて、まるで他人事のような口調だ。

「また、死にぞこなったな」

「トレースする?」

「もちろん」

 K6からの返事はなかった。無意識の海に還っていったらしい。K6は無駄口を叩くのが嫌いだ。作った僕が言うのだから、それは間違いない。

 僕は余韻に浸るように、ぼんやりと天井を眺めていたが、やがてゆっくりと起き上がり、ベッドから出た。

 住まいを特定されたのだから、長居はできない。

 やることは沢山ある。





「掻い摘んで言えば、こんな感じだよ。ログ要る?」

 その言葉を最後に、僕は一部始終の説明を終えた。バード・ケイジの店内は、馬鹿騒ぎが大好きな若者で賑わっていたけど、僕らの定位置であるカウンター席の一角だけは静まり返っていた。

 ピスは僕が説明している間、グラスの液体を弄びながら、一言も発さずに聞き入っていた。

 ソノラも腕を組んで黙っている――彼女の場合はいつも通りだ。

 ウィップがたまに口笛を吹いたけど、それを除けば、おおむね皆が黙って聞いていた――ハマーですら、おとなしくしていた。

「相手に心当たりは?」ウィップがカウンターの中から身を乗り出してきた。

 僕は肩をすくめた。

 やり取りを眺めていたハマーが、信じられないとでもいう風に首を振った。

 皆が、侵入者の芸術的な腕に驚愕しているのが、よくわかった。

 そして、そんなやばい奴に、自分たちのグループが狙われているという事実に、戦慄していることも。

「しかし、少女のアバターでイヴっていったら……」

「やめろよ」ウィップが言いかけたところで、ハマーが制止した。「都市伝説だ、あれは」

「信じてんだぜ、俺は。イヴはたしかに実在する」ウィップが得意気な口調で言い返した。

「いてもいなくても同じだ」それまで黙って聞いていたピスが口を開いた。「これだけ模倣犯が溢れかえってたらな」

 ピスの一言で全員が黙り、沈黙が訪れた。時折、客が僕らのすぐ後ろを通ったが、盗み聞かれる心配はなかった。この会話は、僕らにしか聞こえない。

「次のヤマの話をしたいんだが」沈黙を破ったのはピスだった。

「はぁ?」ウィップが間抜けな声をあげる。

「なんだよ、どうしてほしい? 女王様を探しだしてもらいたいのか?」ピスは鼻で笑った。「どうもこうもないだろ。俺たちはテニスクラブじゃないんだ。常に敵に狙われてる。これまでと何も変わらない。ちょっと厄介なのに目をつけられただけ。そうだろ?」

 誰も喋らなかった。背後からは、まがい物のアルコールに大脳皮質を抑制されて、理性が吹き飛んだ若者たちの叫び声が聞こえる。

「……ヤマの話に入るぞ」沈黙を返事と受け取ったのか、ピスは話を切り出した。

「デュンヴァルトを知ってるか?」

「クソ食い愛好会――地球国家連合軍の蔑称――の?」ハマーが気だるそうな態度で言う。

「そう。不死委員会とかいう、ふざけた名前の部署に入ってる元帥殿」ピスは頷いた。「そいつがこの街に来る。一週間後だ」

「うまいクソを出す店があるんだな」ハマーが鼻から息を漏らした。

「連中の言葉ではプレゼンス――軍隊が影響力誇示のために特定の地域に駐留すること――と言う」ピスは頷いた。

「で、それが?」ウィップが興味津々といった表情で、ピスに顔を近づける。

「そいつをゾンビにする」

 僕とハマーとウィップは、お互いに顔を見合わせた。

 視界の隅で、ソノラがピスのほうに顔を向けたのが見えた――何ヶ月かぶりに彼女が動いたところを見たような錯覚を覚えた。僕の頭に構築されたソノラのイメージは、いささか誇張されている。

「どこまでやる?」ハマーが真剣な顔でピスに詰め寄る。

「殺しはなし。あの下種野郎(プリック)、講演をやるんだ。リベラ・プラザでな。全世界が注目しているところで、素敵な恥をかいてもらう」

 ピスは不気味な微笑みを浮かべた。

「何をやらせるかは決めてない。なにか、こう、面白いことを言わせたい。フロム(F)シティ(C)の伝統行事に倣って、ゾンビ・マンボを踊ってもらってもいい。まぁ、何かいい案があったら、言ってくれよ」

「ディテールは?」僕はピスに尋ねた。

「ブリーフィングをやるよ、明日あたりに」ピスは手の中で弄んでいたギネスを一気に飲み干した。

「ウェストB2の銀行で花火があったろ。どこがやった?」

「マレハン・クラブの奴らが声明を出したって」ハマーが答えた。

 ゲームの話は終わりのようだった。ピスが真面目な話をするときは、だいたい何の前触れもなく始まり、唐突に終わる。

 そこからは、いつもの僕らだった。

 世間話、下らないジョーク、馬鹿騒ぎ、そしてギネス。

 僕はそれを静かに堪能した。



 時間が過ぎた。

 一人、また一人と帰っていって、気づいた時には、僕とピスしか残っていなかった。店内の客もまばらになっている。

 ピスは例によってグラスの中の液体を弄び、まるでそこから宇宙の真理が見えるかのような表情で眺めている。

 僕もピスも、沈黙に耐えられないような人間ではなかったので、二人とも黙っていた。

「今は?」

 長い沈黙のあとで、先に口を開いたのはピスだった。

「どうしてるんだ?」

 ピスが僕のほうを向いて、口を斜めにした。

「部屋を引き払って、"消毒"して、遊覧飛行生活」

「まぁ、そうだな」ピスは納得したように頷く。

「あそこまで、やりたい放題やられたのは初めてだよ。たぶん、部屋にも何度か超小型無人機(MAV)で入られてる。イヴには、チャンスは幾らでもあった」

「ゾンビ化を狙ってたって?」

「かもしれない」

「へぇ」ピスは険しい表情を浮かべながら、顎をこすった。

「遊覧生活は?」

「別に、あんまり変わらないよ。どうせいつもこっちだし、僕の持ち物っていったら、――体に入ってるものを除けば――イソギンチャクと骨壷ぐらいのものだったから」

 ピスが鼻から息を漏らした。

「身軽なほうがいい。この商売(ビズ)には熱狂的なファンが付き物だろ。あまり可愛くない追っかけが付く。ほら、わかるだろ?」

 僕は肩を竦める。

「怖くないのか?」

「ファンが?」

「イヴだよ、イヴ」

 イヴ――本名、年齢、性別、国籍、出自、一切不明の謎の犯罪者。わかっていることは、スラブ系の少女のアバターで現れ、まるで朝食前のウォーキングをするようにセキュリティをすり抜けるということだけ。

 数年前、糞食い愛好会が地球(E)国家連合(C)銀行(B)に構築していた、当時世界最高峰のセキュリティを突破し、愛好会一同の茶色い顔におかわりの糞を塗りつけた一件で、「クラッカーのオリンポスを登頂した」として、かなり有名になった。

 イヴについて世間が知っていることといえば、そのクラッカーとしての手腕ぐらいのものだろう。今では模倣犯が続出して、本人よりも活発という有様で、以前にも増して"彼女"を包む霧は深まっている。

「こんな噂がある」

 ピスが静かに語りだした。

「イヴは、自分が気に入った奴の前にしか、面を出さない。もちろん、奴はどこにでもいるし、操り人形も、FCに落ちてる鳥の糞より多い。でも、イヴであることを明かしてコンタクトするのは、気に入った奴だけ」

「気に入った奴?」

 ピスはこちらに顔を向け、まっすぐ僕の目を見た。

「死にたがってる奴」

 ピスは無表情で、何も言わずに僕を見ている。

 視線を絡ませたまま、時が止まる。

 死にたがることと、生きたがることは、何が違う?

 多くの人は、生きることで死に向かう。

 テクノロジーのお陰で、そうじゃなくなった人も確かにいる。しかし僕の知る限りでは、そういう人々の多くは、自ら死を選んでいる。

 生と死は、切り離せるものだろうか。

「くだらないな」

 不意にピスが表情を崩す。

 ピスは頭の後ろで手を組んで、椅子にもたれた。

 カウンターの中の木の棚には、ワインの瓶が整然と並べられていて、そのすぐ隣では、2本の大きなケグが、照明の光を反射している。

「何度も死んだけど」

 2本のケグは、まるで仁王立ちでもしているように、堂々としている。

「マリナ・タワーは、良かった。最近では」

 数多の記憶が、風にもてあそばれる木の葉みたいに、駆け抜ける。

 これらの全てが、1人の人間の情報だという思想に、僕は未だに納得できないでいた。

「良かったな、あれは。マジで良かった。トリップしたとき以来だ、あんなのは。

 最高の朝。青空。海。炎。死と破壊。ぜんぶ最高だった」

 ピスの言葉が途切れた。

 余韻に浸るような沈黙。

「汚いものから逃げようとするから、汚れていく。そこらへんが分かってないんだ、俗物(スノッブ)はな」

 ピスは上体を起こして、気だるそうに自分の首に手を当てた。

 沈黙。

 ピスは無言で席を立つと、僕の目の前にグラスを置いた。透き通ったワンパイントグラスの中で、白く濁った液体が揺れている。

「"魂の縄"。この間作った。かなり飛べるぞ」

「どのくらい?」

「望むままに」

 ピスは微笑むと、出口のほうへと歩き出す。

 数歩あるいたところで、立ち止まって、こちらを向いた。

「そうそう、いいこと教えてやるよ」

 悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「ほんとにやばいことになったら、自分を消せ」

「消す?」思わず、怪訝な表情を浮かべる。

「消す。消えうせて、無になれ」

 ピスはポケットに手を突っ込んで、口を斜めにした。

「そうなったら、ケイ、無敵だよ、お前は。無いものを倒すことはできない」

「なにそれ?」

「生活の知恵」

 ピスの目に答えを求めた。態度は冗談を言ってる時のそれだったけど、瞳は真剣だ。

 碧い虹彩の中に、波ひとつない海がある。

 平穏と狂気が同居する海が。

「真実に生きろよ」

 ピスは右手で銃の形を作って、自分のこめかみに当て、舌を出した。

「無になるって?」

 ピスは何も答えず、踵を返して出口へと消えた。






 目を開けると、夕日色の庭園にいた。

 芝生を歩きながら、周囲の風景を眺める。セントラル・パークに似ている。

 すぐそばのベンチに人影が見えたので、僕は歩み寄った。

「デフ」

 ウィンドブレーカーにジーンズという格好のデフは、僕の声にも応えず、心ここにあらずと言った表情で遠くを見ている。白人の若者のアバターを纏っていたが、その顔はいつもひどくやつれていた。現実の顔と違い、アバターは故意に設定しなければそういった変化は生じない。彼なりの自虐だったのかもしれない。

 彼の視線をたどると、公園内にある池に行き着いた。

「久しぶりだね」

 僕はそう言いながら、デフの隣に座った。

 デフは顔どころか目すら動かさない。

「今も、やってるのか?」デフは口以外の場所を一切動かさずに言った。消え入りそうな掠れた声だった。

 僕は返事をせずに、デフと同じように湖を眺めていた。何のことを言っているのか、すぐにわかった。

「やってるよ。かなり派手に」

「そうかよ」溜息なのか発言なのか、判別がつかないような返事。

 デフはうちのメンバーでも犯罪者(プレイヤー)でもなく、ただの大麻常習者(ストナー)だけど、ザ・スレイブの面々とはかなり親しい。ピスとは数年来の仲で、他のメンバーともよく交流している。

電子麻薬(チケット)は?」僕はデフのほうを一瞥した。

「やってる」デフは背もたれに寄りかかった。

「今は?」

「憂鬱になりたい時もあるだろ」

 僕は頷いた。

 再び、沈黙。

 デフと一対一で話す時は、大体いつもこんな感じだ。不快に感じたことは一度もない。喋っていないと死んでしまう病気に、二人とも罹っていない。

「俺がこういう面さげてると、みんな言うんだよ」デフは視線を落とした。「どうした、デフ? チケットは? ハイにならなくていいのか?」

 口も顔も目も動かさずに、ただ耳を傾けた。

「ユーフォリアは悪くない――ああ、悪くない。あいつらの言う通り。最高だよ」デフの表情が僅かに動いた。想像力を働かせれば、苦笑しているように見えなくもない。

「でも、こいつはあれなんだ。本当に、天国へのチケットなんだ。飛んでいくって意味じゃない。死後の世界の住人なんだ、俺たち自身が」

 デフが顔を少しだけこちらに向けた。

「生きてないんだ」

 何も答えなかった。

 デフの瞳は、夕日の色に染まっている。

 どことなく悲しい色だった。

「前も言ったが」デフは視線を再び湖の方向へと戻した。

「お前らのことは、どうしようもなく馬鹿な、ろくでなしだと思ってる。ケイ、もちろんお前も。ピスなんかは筆頭だ。この肥溜めの濃度の高いクソを抽出したような、クソの中のクソだよ」

 言葉とは違い、デフの口調は穏やかだった。

「だけど、お前らみたいなのを見ていると、心底羨ましく感じるんだ。最近ずっと、そんな感じだ」

 僕はデフのほうを見た。夕日に照らされたデフの横顔は、相変わらず無表情だ。

「やべえな、俺も」

 デフは自嘲気味につぶやいて、鼻をすすった。

「用件を言えよ」デフが少しだけ顔をこちらに向けた。「あるんだろ? ろくでもない用が」

 一陣の風が、どこまでも広がる芝生を撫でている。

 静かだった。

「オズの情報が欲しい」

 それを聞いたデフは、しばしの間微動だにしなかったけど、やがて大きな溜息をついた。

「ろくでもねぇな、本当に」

「結構、長いんだよな、この界隈。顔も広い。知ってるんじゃないかって思って」

 デフは緩慢な動きで首を横に振った。思い出したくない過去、というやつかもしれない。

 黙って待つことにした。

 木々がざわめいている。

「あいつらと会ったのは、15年ぐらい前か」

 デフが静かに語りだした。重い足を動かすみたいに、ゆっくりと。

「最初に会ったのはドロシー。ディアナとかいう偽名でバード・ケイジに入り浸ってた。髪は真っ赤で服はパンク、性格も髪の色と同じ――すごい女だった。それで、なんとなく話してるうちに、そこそこ親しくなった。ゲーマーだってことと、本名がドロシーだってことを教えられて、他の奴も紹介された。グループの名前はオズ。メンバーは、頭のドロシーを含めて5人。その頃はまだ、有名ってわけでもなかった」

 デフは姿勢を変え、少しだけ前屈みになった。視線は相変わらず、遠くの池に注がれている。

「はっきり言ったの? ぼかさずに?」

「俺も同じことを考えた。だから訊いた。そんなに話していいのかよ、メンバーでもなんでもないやつに。……なんて答えたと思う?」デフは顔を少しだけこちらに向ける。

 デフの言葉を待った。

「あいつは笑いながら、"あんたが何をしようとしても、こちらは手を打てる"と言った。あんたのことはとっくに調べ尽くしている、とも言った」

 デフは鼻息で笑った。

「それがブラフじゃないってことを知ったのは、ずっと後だが、思えば、オズの腕はあの頃から凄かった――圧倒的だったと思う。そっちの方面は、あんまり分かんねえけど」

 僕は黙って頷いた。

「それで、オズと親しくなった。さすがに、ゲームについてはほとんど話してくれなかったが、後日談だの裏話だの、そういう類のことは話してくれるような仲になった。中でも、トトとは随分親しくなった。オズはキレてる奴ばっかりだったが、トトも相当だ。アジア系のガキのアバターで、中身のほうも容姿と同じぐらい大人しかったが、ドロシーの話では、どんな修羅場でも顔色は涼しいままらしい」

 デフはそう言うと、僕のほうを向いた。

「ちょうどお前みたいなやつだったよ、ケイ。雰囲気とかな。今まで言わなかったが、お前と初めて会った時から、デジャヴ感じてたんだよ」

「僕に?」

 デフは頷いた。

「それである日、バードケイジかどっかでやつと喋ってるときに、夢についての話題になった――どういう流れだったか、よく覚えてないが、とにかくそういう話になった。俺は"特にない"って答えた――麻薬(ドープ)とビールに溺れて、ここで腐っていくだけだと」

 デフは乾いた声で笑う。

「それで、訊いたんだよ。お前はどうなんだ、何かしたいことはあるのかって。……そしたらあいつ、オズのメンバーと殺し合いたい、なんていうんだ。真顔でな」

 心臓が大きく鳴る。

 トトの返事が意外だったからじゃない。

 予想通りだったからだ。

「最初は冗談だと思った。でも、あいつのモナリザみたいな胸糞悪いツラを見ているうちに、本気って気づいたんだ」デフの表情はいつの間にか険しくなっていた。

「驚いたよ。オズの奴らは仲がいいもんだとばかり思ってたからな。だから訊いたんだ。恨みでもあるのか? って。そしたらあいつ、ゆっくり首を横に振って、オズのメンバーは最高だよ、とか言うんだ。だからすぐ二発目を撃った。なら、どうしてオズの奴らを殺したいんだ?」

 デフはそこまで言うと、黙って僕のほうを見た。無表情だけど、どこか寂しげな色。

「あいつは微笑むだけで、何も答えなかった」

 デフは再び、遠くに視線を戻した。

 風が吹いてくる。

「奴らが失踪したのは、それから一月ぐらい後の話だよ。オズの面子は確かにいい奴らだったが、何考えてるのかわからないところがあったから、そんな驚かなかった――いかれてる奴らばかりだったからな。でも、仲間内で殺しあって全滅したって噂を聞いたときは、トトの言葉を思い出さずにはいられなかったよ」

「本当に自滅を?」

「なんとも言えないが」デフは肩を竦めた。

「ときどき考えるよ、今でも。あいつの言葉の意味を」

 沈黙が訪れた。

 話している最中は何度か笑っていたデフの表情は、再び無表情に戻り、池に視線を注いでいる。

「ありがとう」僕は立ち上がった。

「何してんのか知らんが」去ろうとする僕を引き止めるように、デフが言った。

「やめとけよ。伝説だとかなんだとか言われてるが、ただの気違いだ、あれは」デフは顔を少しだけこちらに向けて、流し目で僕を見た。

「忠告?」

「そんなんじゃねえよ。時間の無駄って言ってるだけだ」

 デフの目を見た。

 言葉とは裏腹に、瞳は強く忠告を発しているように見える。

 デフが死んだのは、去年の夏頃だった。

 アンダーグラウンドで買った中古のプラズマ・ナイフを最大出力にして、まず骨壷を壊し、次に自分の顔を突いた。高温の電離ガスが彼を本物の天国に送るのに、たぶん100分の1秒もかからなかっただろう。

 警察ブルーはすぐに他殺の線を洗ったけど、侵入の痕跡は見つからず、すぐに自殺と断定された。何ヶ月も電子麻薬を切ってたせいで、精神調整ができなくなり、重度の欝になった、というのが彼らの結論だった。

 デフが骨壷と自分の脳を焼いた理由が、僕にはよくわかった。一度きりの人生にしたかったのだ。でも、それは叶わなかった。ピスは本人に無断で、彼のスナップを抜き取っていた。自殺を予期していたのだろうと、僕は思った。止めなかったのが、ピス流の優しさだったのかもしれない。

 ピスはスナップをコピーし、特に親しかったハマーと僕にくれた。

「懐古趣味か」

 ハマーにからかわれたピスは一言だけ、

「気まぐれ」

 と答えた。

 僕がストレージにアクセスする度に、いつも同じデフが顔を出す。

 死の三日前の気だるい午後を、何度でも繰り返す。

 デフは、答えを得ただろうか。

 幸せになっただろうか。

 幸せ。

 過去に名前をつけて、一喜一憂する行為。

 いかにも人間らしい、無意味な記号操作。

「デフ」

「なんだよ」

「うちに入る?」

 デフは吹き出した。

「笑わせんな」

 僕は肩を竦めて、微笑んでみせた。









地球(E)国家連合(C)(F)がリベラ・プラザビルにセキュリティを構築したのは、ちょうど2ヶ月前」

 暗黒空間を、黒板の前に立つ教師のように歩き回るピスに、全員――僕、ハマー、ソノラ――の視線が集まっている。

「講演と慰問コンサートの開催を公表したのが2週間前――ここまではいつも通りのスカトロ愛好会、連中の標準(S)作戦(O)手順(P)。公表してから構築し始めたんじゃ遅すぎるからな」

「俺らみたいなクズに叩かれる」ハマーが顎をこすりながら合いの手を入れる。

「糞食うだけが能じゃないわけだ」ピスは腕を組んだ。

「慰問って?」

 ピスは足を止めて僕を見ると、不敵な笑みを浮かべた。「カレンがECFの慰問コンサートをやることになった」

 ハマーが口笛を吹いた。

「全世界の、平和を愛する高貴な戦士様が、糞壷が生んだ歌姫(ディーヴァ)を拝みに来る」

 少し驚いた。しかし冷静に考えれば、それほど意外な話でもない。ECFの慰問コンサートは、歌手の知名度を表す一つの指標のようなものになっている、という話をきいたことがある。ECFは大規模な公開諜報(OSINT)を行っている。仮想空間上での些細な発言や仕草、文章をリアルタイムで収集、分析して、数億人の心理状態や傾向を同時に読む、というようなことを、半秒も休むことなく行っている。本来はインテリジェンスの一環だけど、当然、歌手の生の知名度を知るためにも使える。

「しかしそれだと、カレンと僕らを関連づけられる可能性があるんじゃ?」僕は疑問を率直にぶつけた。作戦の完成度は、ブリーフィングの時にどれだけ批判的な視線に晒されるかで決まってくる。

「カレンはこの一件について何も知らない。だからむしろ、シロだと連中に思わせるいい機会だ」

「つまり、協力も得られない」

 振り向くと、腕を組んだソノラが、いつもの感情をプログラミングし忘れたような冷たい表情で、ピスのほうを見つめている。

 彼女の横顔に、二人で話したあの時の面影はない。あれは本当にソノラだったのだろうか。僕がイヴに掴まされた記憶の可能性もある――イヴが側頭葉にも侵入していたことはわかっている。それとも、"自分"などという一塊の魂のような存在が本当にあると信じている僕が、古臭い人間なだけなのだろうか。

「そういうこと。まぁ、その点はそれほど問題にはならない。カレンをこの件に入れたとしても、大したメリットはない」

 僕の頭に、これまでに何度か浮かんだことのある疑問が、再び顔を出した。

 カレンは、なぜメンバーに加わっているのか。

 カレンをゲームに巻き込むのはリスクが高いというのはその通りだし、そもそも彼女が持つのは音楽の才能であって、他人の脳をレイプするような「愉快な」ことに関しては全くの素人だ。実際、彼女がゲームに直接的に加わったことは、僕が知る限りでは一度もない。なのにカレンは何故ザ・スレイブの、ヘッドであるピスにもっとも近い、いわば幹部クラス――もっとも、ピスはこの言い方を好まないが――に居座っているのだろうか。

 大した理由はないのかもしれない。僕らは、大人のやり方で子供の遊びを、論理的に非論理的なことをやる人種であり、それが強みでもある。

 ソノラはそれ以上言及することなく、無言で引き下がったが、完全に納得してはいないように見えた。キルゾーンに味方がいるというのは不安要素だし、作戦が複雑になって、大きなしくじりに繋がる可能性がある。いつものように、手当たり次第という簡単な話にはならない。しかし、そんな当たり前のことは、ピスもよくわかっているはずだ。何か理由があるのだろう。論理的、あるいは非論理的な理由が。

「それで?」ハマーがピスを一瞥した。

「さっき言ったように、基礎工事で種を蒔くというわけにはいかない。真剣勝負(シュート)だ」

 ピスはいつもの黒スーツのポケットに手を突っ込み、僕らの周囲を歩き始めた。

「まずリベラ・プラザのネットワークに入る。ここまでは簡単、赤い絨毯を歩くみたいに簡単だ。そこからクソ共が掌握してる司令部(HQ)のネットに侵入する。連中が入る前は単なるプラザのネットの一部だったが、今はもうまるっきり別物――こっちは簡単じゃあない」

「構造は?」

「マリエンベルクの9」

「9?」ハマーが片眉を上げた。

「湯気が立ってるぐらい最新だよ。俺もさっき知ったんだ」

「ハードだな」ハマーが感心したような様子で顎をこすった。

「俺とハマーはこれから、バックドアを滑り込ませるプログラムを作る。当日は俺がスプレッダー、ハマーがバックドア。侵入したら、ソノラとケイは中枢を目指す。デュンヴァルトを見つけたら、やつに入る」

「元帥の脳の情報は?」僕が聞こうとしたことを、ソノラがタッチの差で言った。

「手に入らなかったが、入るのには苦労しないだろう。おそらくデュンヴァルトは中枢に接続してるんじゃなくて、その一部になってる――連中はよくやるんだよ。だから、入ったあとは慎重にやれ。どこからがやつの神経ネットか、境界がかなり曖昧になってる」

 ピスは確認を求めるように、僕とソノラを交互に見た。

「バージョン8の解析情報をやる。よく練っとけ。だが、8ってことを忘れんなよ」

 僕とソノラは無言で頷き、ピスの真剣な視線に応じた。

多目的(M)予測(P)分析(A)システム(S)対策は?」ハマーが言った。

「デニスだ」ピスはスーツの襟を正しながら、ハマーのほうを向き直った。人間らしい自然な動作をするのがうまい。いいプログラムを使っている。

「あいつはサウスFCでゲーマーを嗅ぎ回ってるアンダーカバーだった。いや、今もそうだな。ゾンビになったことは、青いのにはばれてない」

「使えるな」

「使える。ガセ満載の報告を出させてるよ。上司の耳か、FCPDのMPASに入れば上々だ」

「でもシュートは避けられんだろ、それでも」ハマーが気だるそうな態度で言う。

「攻撃は読まれてると思っていい。MPASに占ってもらうまでもない。"ファイト・シティ"のど真ん中に引っ越してきて、軍のお偉いさんが演説をぶつなんて、攻撃してくださいって言ってるようなもんだ。見え透いたハニーだ」

「勝算は?」

「ない」ピスはにべもなく言い切った。

「まぁ、そう悪くもない。俺らはバージョン9を知らんが、こっちも新しい道具を持ち込む。幻戦は攻撃側有利だ。タダで食える昼飯は無いからな」

 ピスは腕を組んで仁王立ちし、鋭い視線で全員の顔を見た。

「わかるだろ? ダーウィニズムだよ。適応できたやつが生き残る」

 ピスの顔に、あの不敵な笑みが浮かんだ。

「それが全てだ」





 ある日の朝、ハマーから呼び出しがあった。

 誘われるがままに飛び込むと、そこは住宅街だった。

 最初はわからなかったけど、歩道をのんびりと歩くうちに、20世紀初頭のアメリカの住宅街だと気づいた。

 強い日差し、フラットな芝生、広い道路、整然と並んでいる平屋の住宅――見た限りでは、細部まで作りこまれている。

 ハマーにこんな趣味があったとは知らなかった、などと考えながら歩いていると、不意に誰かが僕の横を通り過ぎた。

 振り返ると、ブロンドでおかっぱ頭の少年が、スキップにも似た走りで去っていくのが見えた。

「よう」

 声に応じて、もと歩いていたほうを向くと、いつの間にかそこにハマーが立っていた。

 ランニングシャツにダボダボのカーゴパンツといういつもの格好で、気だるそうに自分の手のひらに視線を落としている。

 手のひらの中には、一つのサイコロがあった。

「新しい趣味?」

 そう言いながら、ハマーに歩み寄る。

「いや、記憶だよ。ガキの頃の記憶」ハマーの視線は依然サイコロに注がれている。

「ガキの頃?」

 冗談かと思って聞き返した。ハマーは僕と同じで、チルドレン・アクト――政府によって人口調整を目的に行われた、クローン技術を用いた人間の合法的な生産計画――によって生み出された、親のいない子供だ。西海岸に広がるこの地下迷宮から――少なくとも肉体は――出たことはないはずだし、100年前のアトランタの郊外にタイムスリップしたこともないはずだ。

「ホログラフィーじゃないの? 誰かの記憶の」

「俺の記憶なんだよ、今は」

 追及するのをやめた。他人の記憶を自分の頭に入れているんだろうか。僕も――というより、愉快犯はみな――あまり常識のあるほうではないけど、一般的な視点では、それは「危険な行為」の部類に入る。

「お前もさ、デフのスナップ、持ってんだろ」

 無言で頷く。

「どこに置いてる?」

「脳室のストレージ」

「だろ」

 ハマーが顔を上げ、初めて僕のほうを見た。悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「期待してんだろ? ちょっとした神経伝達の齟齬で、デフが自分の頭に入り込んでくるのを」

「誤差の範囲だよ、そんな確率は」

「頭の外に置けばゼロだ」

 ハマーは無表情。

 僕の心を見透かしている。

「デフだけじゃない。他人が自分に、コーヒーに垂らしたミルクみたいに混ざってくるのを、なかば期待してる。そうだろ?」

 僕は沈黙を保った。沈黙が返事になってしまうと気づいていたけど、さほど気にならなかった。

 ハマーは沈黙する僕を見て、満足げに笑みを浮かべて、再び手のひらに視線を落とした。

「色んな奴らが、俺の中に来て、どこかに去っていく」

 ハマーはサイコロを親指に乗せて、真上に弾いた。真っ直ぐ飛び上がって宙で回転したサイコロは、そのまま真っ直ぐに落ち、歩道の上を少し転がったあとで、動きを止めた。

「モーテルみたいに」

 ハマーは昔からサイコロ遊びが、より正確に言えば乱数生成器を作るのが趣味で、暇さえあればずっといじくりまわしている。

 ザ・スレイブに入る前のハマーは、有名なゴト師だった。賭博施設のネットワークに、セキュリティに引っかからない程度にジャブを打って、その反応から乱数生成アルゴリズムを見抜き、時には操作までして、大金を巻き上げる。

 ある日、いつものようにイカサマをしている時に、ハマーは客の一人にトリックを見抜かれていることに気づいた。その客に「なぜイカサマをする?」と問われたハマーは、「スリリングなゲームは面白いけど、運で全てが決まってしまうのはちょっとつまらない」と答えた。

 客は彼の言葉に賛同したあとで、「それなら、もっと面白いゲームがある」と言い、彼を自分のグループに誘った。その客は自らのことをピスヘッドと名乗った。ひどい名前だ。ハマーの大脳皮質と彼のMPASは、10分の1秒もかからない内に「こいつは気違いだ」という結論をひねり出したけど、それでもハマーは――いや、むしろ"だからこそ"話に乗った。賽は投げられた。

 足元に転がっているサイコロを覗き込む。出た目は1だった。

「新しいサイコロ?」

「昨日作った」ハマーがサイコロを拾いながら言った。

「くせえぞ、今回のヤマ」

「どのあたりが?」

「天下の軍隊様を叩きに行くのに、仕込みも解析もなし。おまけにこのタイミングで、天才ハッカー様のジャブ」

 ハマーは手でサイコロを弄びながら、独り言のように語っている。

「連中だって馬鹿じゃない。愉快犯戦争の最前線に軍旗(スタンダード)を立てるんだ。MPAS使わなくたって、攻撃ぐらい予想できる」ハマーが一瞬顔をしかめる。「ピスの言うとおりだよ。あいつら、絶対待ってるぞ。標準規格(スタンダード)じゃない編成でな」

「つまり?」

「地球大のクソ」

「でも、大きなヤマだ。この街に来たばかりの海軍のトップに、世界が見てる前で恥をかかせれば、絵になる」

「そうなりゃいいがな」

 ハマーはサイコロを人差し指の先に乗せた。

「あいつらも、こびりついたクソみたいに諦めが悪い。溺れる奴も、意識が飛ぶまでは手足を振る。それとおんなじ。ポーカーフェイスを気取ってるが、軍も青も、最近になって随分やり方を変えた。その一つがハニーポットだ」

「前からじゃないか、そんなの」

「力入れてんだよ。あいつら、気づいたんだ。追っても捕まえられないなら、待てばいい。罠を張ってな。シンプルな話だよ。俺の耳に入る限りでは、相当うまくいってるらしい」

「リベラ・プラザも、その可能性が高いって?」

「あそこはコネクションも出入りも多い。どうせ、俺らのターゲットだっていやしない。決まった原稿を読み上げるだけだろ。人形で十分だ」

 ハマーから目を離し、視線を落とした。見え透いた罠に見える、という感覚は、ずっと感じていた。意識と無意識の境目ぐらいで、ちらついている。それに、たしかにスマートじゃない部分も多い。

「いつものあいつなら中止してる。今回のあいつはなんかおかしいよ。MPASも同じ意見だ。戦う前に勝つのが好きなあいつがさ、勝算もないのに堂々としてる。やり方も変えない。気にいらねえ」

 ハマーは苦いものでも食べたみたいに一瞬顔をしかめ、舌打ちした。

 風に乗って、どこかの家から、子供の泣き声と、ヒステリックな女性の声が、微かに聞こえる。

 これは誰の記憶なんだろう。少なく見積もっても、60年以上は昔の情景に見える。

「言うまでもないだろうけど、自分だけの逃げ道を作っとけよ。ピスがゾンビってことだってある。あいつを落とせるやつなんて、そうそういねえだろうけど」

「それが用件?」

「まぁな」

「わざわざ旧式コミュニケーションをしないといけないような、抽象性の高い用事には見えないけど」

「伝達はミスがあったほうがいいこともある」ハマーは口を斜めにした。

「たしかに」

 僕は笑った。





 昼過ぎの雨が、窓を濡らしている。

 僕は窓に寄りかかって、数日前から予定されていた雨の音を聴きながら、灰色の街を眺めていた。

「ケイ」

 目だけを動かして、声がしたほうを見ると、薄暗い部屋の中に、K6が立っていた。

 白いTシャツに、カーキ色のハーフパンツ、白のスニーカーといういつもの格好のK6は、何年も前からそこに立ってたみたいに、ごく自然に部屋の景色の一部になっている。

「サンノゼに住む男に行き着いたよ。ただのジャンキー。ジャブを打ったけど反応がなかったから、道具を送り込んだら、簡単に制圧。危機管理意識のない構成だった」

「首尾は?」

「送り主なのは確かだよ。痕跡もあった。この男の頭から出た創発型――つまりイヴが、東京、香港、ジャカルタ、ケープタウン、マドリード、NY、フロムシティの順に世界一周して、ケイの頭に転がり込んできた」

 目のすぐそばで、窓ガラスを滴っている雨水を眺めながら、にわかに、自分が結果を半ば予想していることに気づく。

「他には?」

「何も」K6は無表情で首を振った。「海馬のエングラムにも、最近操作された痕跡はなかったよ。気づいてもいなかったみたいだ。発射台(ランチャー)として使い捨てにされただけだろうね。前後数日の記憶も洗ったけど、イヴとの接触の様子もなかった」

 予期された落胆が、僕を襲う。

「どうする?」

 イヴほどの相手が、一度使い捨てにしたゾンビをもう一度使うようなミスを犯すとは思えなかった。切れた尻尾を拾いに戻る蜥蜴はいない。

「引き揚げていいよ、ドアだけ残して」

「わかった」

「もう一つ」

「なに?」

「イヴに、また会うような気がするんだ、最近」

 K6は黙ったまま、僕の言葉を待っている。

「これ、どう思う?」

「MPASと大脳基底核とAPが、イヴとのコンタクトを予言してる。あとは、希望的観測。その三つが同期して、予感という形で意識に表れてる。ケイを構成するネットワーク全体が、イヴをフォーカスしている」

「やっぱり、そうか」

「会う可能性は高い。正確には、すでにイヴの脚本に乗せられている」

「イヴの予言ネットワークが、僕の頭を読んでる?」

「読んでることは確実。問題は精度と、筋書きの内容」

「イヴは一度、僕に入ってる。しかも半分弱を乗っ取ってた」

「あの幻戦の時に、本物のイヴが一瞬でも繋いでいたら、相手はかなりの情報を得ているはずだよ。半分あれば十分だ」

「次に来るとしたら、どこ?」

「リベラ・プラザ」

「先に侵入して、僕らを待ってる?」

「イヴが軍属である可能性もある。一度も捕まらずにいる理由も、それなら説明が付く」

「デナイアブル――政府が関与を否定する非合法活動――用のAIか」

 K6は無言で頷く。

 たしかに、筋は通っている。最近の軍は、なにかとマッチポンプに熱を上げている。

「そういえば、K6はイブとコンタクトした?」

「あの時は繋がらなかった。イヴに踏み込まれた感触もなかった。僕はモニターしていただけだし」

「それなら、K6はイブにとって不確定要素になるはずだ。いざという時になったら、君が僕を制御する。そういう感じでいこう」

「筋書きに乗るの?」

「イヴは僕をすぐに殺そうとしなかった。何かをさせたかったんだ。それに興味がある」僕は微笑んだ。「イヴの脚本から降りる瞬間が来たら、その時は任せるよ」

 K6は無言で頷くと、一回の瞬きの間に消えていた。

 雨音だけの世界が戻ってくる。

 部屋に視線を戻す。よく再現できている。数年借りてただけの、何の思い出もない部屋だけど、どこか安心する。幻にも温かみを感じることができる、という事実に、ヒトはずっと昔から気づいていた。

 目を閉じる。

 聞こえるのは、雨音と、イヴのピースの声。

「君とイヴは、また会うことになる。いつか、必ず」

 僕に会いたがっている。

 スプレッダーにわざわざあんなメッセージを仕込むということは、そういうことだ。もしかしたら、直接会いに行く、という含意もあるかもしれない。

 しかし、僕の前に現れたイヴが、あの都市伝説の少女であるという証拠はない。すごく腕のいいクラッカー、ということだけが、はっきりしている。

 十分だ。

 本物を決める行為にそれほど意味があるとは思えない。

 気分が良かった。

 敵が現れた。

 僕らには、敵が必要だ。

「死にたがってる奴」

 目を開ける。

 灰色の空が、薄暗い部屋の中を淡く照らしている。

 死にたがってる者の前に現れる、少女。

 現れて、何をするんだろう。殺すのか。助けるのか。指でも差しながら、嘲笑するのか。

「私はね、死にたいよ」

 透き通った声が、体を通り抜ける。

 気がつくと、グラスを握っていた。

 グラスを鼻先に持ってきて、中で揺れている白い液体を弄ぶ。

 分析では、ジメチルトリプタミン(DMT)モデルの電子薬物で、強い幻覚作用を持つとのことだった。

 一気に飲み干す。

 苦みが一瞬、喉にちらついたけど、それだけだった。

 グラスを床に放って、目を閉じる。

 最初に見えてきたのは、白い輪郭の四角形だった。BCDを操作する時のパネルに似ている。その四角形が回転しながら僕に近づいてきて、花が開くみたいに、大きな幾何学模様に化けた。

 僕を包み込めるほど大きい幾何学模様は、物凄い勢いで迫ってきているけど、いつまでたっても僕に衝突しない。

 不意に、模様が砕け散る。

 闇の向こうから、誰かが歩いてくる。

 顔も名前もわからない。でも、知っている。

 よく知っている。

 優しくて、恐ろしい。

 冷たくて、暖かい。

 手を伸ばす。

 届かない。

 全てが崩壊する。

 足下から崩れ落ちる。

 思考が曖昧になり、ゆっくりと雲散霧消してゆく。

 気が付いた時には、もう掴めなくなっている。

 雨音の中で、僕の意識は、静かに消えていった。






 いつもの暗黒空間で、僕らは輪になって立っていた。

 僕の右隣には、腕を組んで無表情をぶら下げたソノラ。左隣には、自分の足を眺めながら、下唇を噛んでいるハマー。正面には、ポケットに手を入れて、瞑想でもしてるみたいに目を閉じているピス。

 僕らは、今回のゲームの第一段階を迎えていた。ハマーが作ったバックドアを、デニスに仕込ませるというプロセスだ。末席とはいえ、リベラ・プラザ=ECFネットに正規に出入りできるデニスを使わない手はない、というソノラの意見に、ピスが乗った。ゾンビデビューを果たして数週間しか経っていない、VIPでもないデニスなら、マークされている可能性は低い、という考えだった。

 たとえ一切しくじりをしていなくても、ゾンビは長く使っていれば、それだけでマークされる。ECFが高級将校よりも大事にする虎の子「ハンドレッド」に勘付かれるからだ。「神の目」という陳腐なあだ名で恐れられている、100台のMPASからなるそのネットワークは、数多の"予言"によって、数えるのも億劫になるぐらいの犯罪者、およびECFの権益を脅かす存在を葬ってきた。予言の細かい精度はともかくにしても、自分が心の中で犯行を決意する何日も前に、軍や警察に察知されているかもしれない、という恐怖を与えることは、犯罪抑止という点においては一定の成果をあげている。

 尻尾を切ることに関しては、僕らはちょっとした専門家だから、デニスがしくじっても僕らにまで害が及ぶことはないけど、ゲームは当然そこで失敗となる。リングに入れなかったらボクシングはできない。どれだけの腕があっても意味がない。

「当たりだ」

 全員が一斉にピスの顔を見る。ピスはゆっくりと目を開けて、順番に僕らの顔を見た。

「ようこそ、リベラ・プラザ・ビルへ」

 ピスが不敵な笑みを浮かべると、彼の背後に一枚の扉が現れた。ピスが優雅な動きで踵を返し、ドアを開く。

 扉の向こうは、典型的な20世紀のヨーロッパの都市が広がっている。

 アスファルトの道路、旧い装いを誇っているビルやアパート、洒落たカフェ。

「私たちの使うPW2000では、マリエンベルク・アーキテクチャは、連邦共和制時代のドイツの都市として表現されることが多い」

 田舎者みたいに建物を見上げていると、僕の疑問を察したソノラが言った。

「なんでもいい」ピスが吐き捨てるように言った。

「やるぞ。ここが最外縁。なにか感じないか?」ピスが振り返って肩越しに僕のほうを見た。

「生体脳みたいな感触がある」

「奴の加齢臭だよ」ピスがにやりと笑う。「デュンヴァルトは、リベラ・プラザネットの中枢と一体になってる。その感覚が強くなるほうへ行け」

 僕とソノラが同時に頷く。

 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。

「なんだよ、今の」僕の隣にいたハマーが悪態をついた。

「来る」ソノラが銃を抜いた。

「早いな」ピスは舌打ちした。

 M686を抜いて、周囲を見回す。

 静寂。

 目を閉じて、心を空っぽにすることにした。それほど難しいことではない。一度やり方を覚えれば、BCDにプログラムが生まれる。そうなれば、あとは念じるだけだ。

 精神の無限の静けさの中で、かすかに波が起こる。

「上だ」

 僕の声に、全員が一斉に空を見た。

 黒ずくめの人間のようなものが、大の字になって、雲の上から無数に降ってくる。その数は少しずつ増えて、やがて空を埋め尽くさんばかりの数になった。

 あまりにも多い。

「道具の出番だ」

 ピスが指を鳴らすと、僕らの周囲に、黒いスーツを着た男達が現れた。

 全員が同時に銃を空に向けた。

「やれ」

 ピスの声を合図に、一斉に撃つ。

 無数の弾丸が、天国を目指すみたいに駆け上がって、NKプログラムを求める。

 しかし、きりがない。そもそもNKをいくら殺しても意味がない。セキュリティ中枢を乗っ取らない限り、永遠に出てくる。

「行けよ」

 視線を地上に戻すと、目の前にいるピスが僕を見ていた。戦いは黒スーツにまかせっきりで、自分はポケットに手を入れて、だるそうに立っている。

「デュンヴァルトをやってこい」ピスが口を斜めにした。

 どういうわけか、父親が子供を送り出す時のような表情だ、と思った。もちろん想像だ。

 僕は無言で頷いて、道路を駆け出した。ソノラがすぐについてくる。

 前方に降りてきたNKに一発放ち、黙らせる。

 ソノラが傍にあった細いビルのドアを蹴破って、中に飛び込む。

 それに続くと、中には四角い螺旋階段が上階へと続いていた。

「待ってたんだ」

 階段を駆け上がりながら呟く。

「ゲーマーの襲撃を?」ハマーの声。

「違う。僕らを待っていた」

 ソノラが先行して、階段の途中にあった扉を開けようとする。

「待って」

 ソノラを止めて、M686を扉に向ける。

 頭の中で3つ数えて、撃つ。

 その瞬間、扉を開けて飛び出してきた黒ずくめが、一瞬で崩れ落ちた。

 部屋の中は広いプールで、人工的に作られた滝が流れ込んでいる。しかしよく見ると、滝の流れは逆、つまりプールから上の方向にのぼっている。

 そもそも、この細いビルにこんなスペースはないはずだ。

 僕らの幻戦ソフトウェアでは、基礎構造が現実離れしていればいるほど、そのネットワークがまともに――あるいは日常的に使われていないことを意味している。

 つまり、侵入者とやり合うことを想定して用意されたロケーションの可能性が高い。

「だから言ってんだろ、いつも」ハマーの声。「ガチガチにやるから読まれるんだ。もっとサイコロを振れって」

「不確定要素そのものだろ、俺らなんか」ピスの声。

「ハンドレッドには止まって見えてた。だからこうなったんだろ。え? 違うか?」

 ハマーは――たとえゲーム中であっても――情動制御を滅多にしない。これまでずっとそうだった。だから今も、こうして感情豊かに悪態をついている。これも不確定要素というやつかもしれない。

 刹那、背筋に寒気が走る。

 反射的に、右に体をひねる。

 全てがスローモーションになる。

 その瞬間、前方の壁を突き破って弾が現れ、僕を掠めた。

 ソノラが素早く反応して、弾が来た方向に何発が撃ち返した。

 姿勢を低くして、M686を壁の射入口に向ける。

「効力射を受けた。キラーTがもう動いてるかもしれない」

「はぁ? キラーT?」ハマーの驚嘆が聞こえてくる。

 キラーTプログラムは、セキュリティの二番手であり、いわばエリートだ。セキュリティ中枢はNKと侵入者の戦いを監視して情報を集め、それを基に侵入者に対処できるプログラム――キラーTを作り、送り出す。その性質上、キラーTは必ず遅れて出現するけど、侵入者にとっては天敵であり、ただではすまない。しかし……。

「早すぎる」

 独り言のように呟く。

「動かないと」

 ソノラが銃を構えながら言う。

「誰の筋書きだよ、これ」ハマーが語気を強くする。

 みな黙っている。

「イヴ」

 思わず、言葉が口をついて出た。

 ソノラが僕のほうを向く。

「待ってたんだ、僕を」

「根拠は?」ハマーの声。

「僕を作戦から外してくれ。終わるまで通信もなし。イヴに頭を覗かれたのは僕だけだ。読まれてる」

 僕は何を見るでもなく、顔を上げた。

「ピス」

「お前はどうするんだ、ケイ」

「会いに行く」

「今すぐ全部畳んで、逃げ出しゃいいんじゃないのか」ハマーの声。

「僕もそう思う。そっちはそうしてもいい」

 不意に、ピスが声を上げて笑った。

「とんでもない爆弾だな、ケイ、お前は。ほんと格別だ。行ってこいよ」

「ありがとう」僕は微笑んだ。

「……クレイジー」ハマーが呆れたような口調で、わざとらしく母音を伸ばした。

「なにいってんだ、不確定要素だろ」ピスが鼻で笑った。


 ソノラと別れ、僕は路地を駆けだした。

「K6」

「いるよ」感情のない声。

 いるに決まっている。彼は僕の無意識の番人だ。僕以上に、僕のことを知っている。僕が知覚するよりも早く、僕を見ている。

「イヴのピース、復元できてる?」

「うん」

「今すぐ前頭前皮質(PFC)に繋いで」

「どれだけ読めるか、怪しいよ。所詮ピースだし、宣言記憶もほとんどない」

「いいから」

 誰かの思考を読もうと思ったら、相手の脳を覗くか、あるいは相手になってしまうのが得策だ。今の僕には、前者はできないし、後者は大幅に限定されている。しかし、できることはすべきだ。

 深く理解し、同調する。そうして初めて、相手を殺すことができる。

「いくよ」

 イヴのピースが、僕に繋がれた。といっても、意識に特に変化はない。「僕」という議会の多数決に、イヴの一派が加わっただけ。

 しかし、それは大きな意味を持つ。

「イヴのシナリオだと思う?」K6の声。

「賭けてもいい」

「何を賭けるの?」

「存在」

 一度だけ、大きく深呼吸する。イヴの欠片が、僕に馴染むのを待つ。

 少しだけ、イヴの思考を読もうとしたけど、答えは出なかった。そう単純なものでもない。あるいは、既に内面化されてしまって、気づかないのかもしれない。もう少し馴染んだら、K6が調整をしてくれるはずだ。

 思考をやめて、顔を上げる。

 それは、何の違和感もなく、視界の中央に居座っていた。

 誰もいない路地に立つ、一人の少女。

 足まで届くほどに長い黒髪。

 髪と同じぐらい黒いドレス。

 僕をまっすぐ射抜く、灰色の瞳。

 ずっと前からそこにいたように、僕のことを見つめている。

 幻戦では、解釈が存在を決める。それは常に見出されるものだ。

 おそらく、イヴのピースを僕のネットワークに組み込んだことによって、見えるようになったんだろう。

 しかし、奇妙だった。少女は僕に似ている。他者を見ているような気になれなかった。

「構造がケイに似てる。少なくとも50%は一致と推定。潜在意識が自分の投影だと誤認して、無視してたんだ」

 疑いようのないことだった。そう処理するように組んだのは、ほかでもない僕だ。

 しかし、問題はそんなところにはない。

「僕とイヴを結線(ワイアード)させて生まれたんだ、あれ」

「やっぱり、スナップを盗まれていた?」

「骨壷のほうも覗かれてたかもしれない。どっちにしろ、僕がここまで来るのを見越して、あれを作った」

「よくわからないな。これがイヴの筋書き?」

「僕にもわからないけど」

 一瞬、手元のM686に視線を落とす。

「殺してもらいたい、と思ってるのかも」

 M686を構え、間髪いれずに撃つ。

 少女は、人間のものとは思えない不気味な身のこなしでかわすと、身を翻して、忽然と姿を消した。

 イヴのシナリオでは、勝者はどちらなんだろう。

 一瞬考え、すぐにやめた。

 今にわかる。

 少女の姿は見えない。

 目を閉じる。

 一瞬、額に熱を感じて、左に飛ぶ。

 すぐ横を弾丸が掠める。

 感じる。

 自分のことのようにわかる。

 思わず頬が緩んだ。

 強い繋がり。

 お互いの存在が溶け合っている。

 深呼吸して、目を閉じる。

 前方の気配も、動きを止める。

 次の当たりで決まる。

「来る。3仮想秒(VS)後」

 闇の中で、感覚が希薄になっていく。

 体を全て失って、世界を見つめるだけの存在になった僕は、正面に浮かび上がったものを見ていた。

 それは、僕だった。

 目を閉じ、少し俯いて、右手にはM686。

 祈るように、佇んでいる。

「何をしているの?」

 誰かの声。

「殺そうとしている」

「誰を?」

「敵を」

「君の敵は誰?」

 不意に、手の存在を思い出す。

 銃を握り締め、腕を上げる。

 向ける先は一つしかない。

 そう、僕だ。

「誰を殺そうとしているの?」

 これは、そうだ。

 相手の視点が、混線している?

 いや、違う。

「僕を」

「自分を殺すの?」

 そうだ。

 自分は、どこまでも広がっている。

 誰かを撃っても、誰かをストリートで踊らせても、いつだって自分だった。

 何をしても、どこまで行っても、自分からは逃れられなかった。

 いつだって、たった一つの幻が、僕を繋ぎ止めていた。

 そうか。

 そうだったんだ。

 右の人差し指が動く。

 閃光。

 弾はマズルから飛び出して、僕へと向かう。

 僕は動かない。

 眠るように、目を閉じているだけ。

 誰も死にはしない。

 誰も生きていない。

 嘘が一つ消えるだけ。

 胸に衝撃。

 弾が僕を貫き、

 白い光に包まれる。

 全てを平らに。

 無限に広がる。

 消せ。

 捨てろ。

 解き放て。

 無になれ。






 長い夢を見た。

 存在という夢だった。

 完全を求めて破綻し、愛を求めて血を流す。

 シンプルな答えを見失い、辿り着けないが故に、際限のない愚かさの中でもがき、苦しむ。

 大きな存在というドラマ。

 歪で、汚れていて、ボロボロになった、長いタペストリー。

 それが僕だった。

 僕というのはつまり、全ての存在ということだ。

 今でも、耳を澄ませば聞こえてくる。

「――D3からE4、LPネットワーク全体に障害」

「――ストレリチアンか? 侵入を受けていたのは認識している」

「――全体に障害が起こっており、現在原因の究明を……」

「――なんだ、これ? 全部生体脳の感触だぞ?」

「――リベラプラザがでっかい脳味噌になったみたいだ。なんだよ、これ、本当に。何が起きてる?」

「――ケイ?」

 そろそろ、戻ろう。

 続きが見たい。

 終わりの無いドラマを。






 死ぬために、僕は生きている。

 雲一つない青空。

 どこまでも広がる雛罌粟。

 何もかもを輝かせる太陽。

 その全てが僕の一部となり、美しく流れながら、誰のものでもなくなっていく。

 誰にも捕まえることのできない、一瞬の輝きが、静かに満ちている。

「おはよう」

 振り返る。

 数歩の距離に、少女が立っている。

「はじめまして?」

「そうね。初対面だとも言えるし、そうでないとも言える」

 イヴは頬を緩めた。

「すごいことをするね。一瞬でリベラプラザネットを支配するなんて」

 イヴは楽しそうだった。母親に、今日あった楽しいことを夢中で喋っている子供のような態度。

 やっぱり、カレンに似ている。

「しかも、帰ってきた。あんなことしたら、帰ってこれないよ、普通はね。脳死して、ノイズの海に消えてしまう。自我なんて保てない」

「支配したわけじゃない」僕は微笑んだ。「僕はここにいない、ということに気づいただけだ」

「じゃあ、どこにいるの?」

「どこにも」

「ふぅん」イヴは感心したような声をあげた。

「気づいたのね? 自分は、脳にも肉体にも依拠していないと。望むままに存在を変えることができると」

「やっとね」

「どうして、帰ってきたの?」

「たぶん、気に入っているんだ。不完全な在り方を」

「面白い」イヴは満足げに頷く。

 不意に、僕はそれに気づいた。

 イヴの背後、ずっと向こうに、一本の大木がある。

 その下にある白いベンチに、誰かが眠っている。

 すぐに、誰だかわかった。見間違うはずもない。

 いつもあの場所で、ギターを弾きながら、歌を口ずさんでいた少女。

「私のピースは、どうなったの? 自信作だったんだけど」

「僕の一部になった」そう返しながら、イヴに視線を戻す。

「君も、イヴのピース?」

「そうとも言える。本物なんていないし。どこにもね」

 イヴが微笑む。

 無表情に限りなく近い、アルカイックスマイル。

「君は、何?」

「全て」

「全て?」

「うん」

「なら、僕も君の一部?」

「そう考えても、間違いじゃない」

「カレンに、何を?」

「彼女が欲しがっているものを、与える」

「欲しがっているもの?」

「死」

「死?」

「彼女は自由と言ったけど、同じもの。少なくとも、彼女にとっては」

「死ぬためだけに、なぜ中枢ネットまで?」

「ここじゃなきゃいけない理由がある。そうね、あと少し」

 あと少し?

 増強された海馬が記憶を巡る。

 ECFの慰問コンサート。

 数千万の軍人がカレンのコンサートを……。

 リベラ・プラザから全人間界の……。

結線(ワイアード)か」

 答えに辿りついた時には、言葉が口をついて出ていた。

 自由。

 カレンの待ち望んでいたもの。

 今夜、手に入るもの。

「彼女を形成していた情報は、少しも欠けずに保存される。でも、そうね。死んでいるとも言える」イヴが淡々と答える。

「それで?」

「私と融合する」

「なぜ?」

「存在として広がるため。カレンの言葉で言えば、愛」

 僕はイヴから目を離さなかった。

 彼女はリラックスした様子で、髪を耳にかけ、一瞬だけ、僕に微笑を見せた。

 人間の振りをするのがうまい。

「彼女を選んだことに、大した理由はないよ。一定の割合で生じるものだから。

 カレンは音楽で自由を見て、それを望むようになった。その感情が私に入り込んで、叶える方法を与えた。それだけ」

 僕の言外の質問に、イヴが答える。

 その背後に見える、カレンの寝顔。

「君みたいな人は、本当に久しぶり。生きてもいないし、死んでもいないのね」

 イブの微笑。

「そこから、何が見える?」

 イヴが長髪をなびかせながら踵を返し、カレンめがけて歩き出す。

 全てと一体になること。それがカレンの望みだった。

 そして、イヴが、その方法を提供した。

 歌っている彼女の感情が、観客の脳に直接流れ込むのが、カレンのコンサートの特徴だった。激しく繰り返されるフィードバック・ループの末に、観客までをも含めた、コンサート全体が、一つの芸術作品となる。巨大なイマーシブ・フィクションが描かれる。

 その瞬間を利用して、数千万の観客の脳に侵入して、結線ワイアードする。

 激しい感情と共に、カレンの存在そのものを、流れ込ませ、増幅させていく。

 具体的な計画は、僕にもわからない。

 そんなことが可能なのかどうかすらも。

 いや、可能なはずだ。

 存在は、どこまでも広がることができる。

 何にだってなれる。

 僕が無を見ることができたなら、彼女にだってできるはずだ。

 はっきりしていることは、僕の知るカレンは死に、もっと大きな何かが生まれ、彼女はその一部、あるいはそれ自体になる、ということ。

 全てと一体になる。

 自由になる。

 自分という殻を破る。

 死ぬ。

 驚きはなかった。

 僕も何度も考えたことだ。

 カレンの思考が鮮明にトレースできた。

 プライベートVRに繋ぐうちに、いつからか、僕の思考が流れ込んでいたのかもしれない。

 あるいは、僕のほうが取り込まれていたか。

 彼女がザ・スレイブにいた理由が、今わかった。

 自由を求めていたんだ。

 僕らのように。

 そして、彼女は答えを得た。

 いいじゃないか。

 何がいけない?

 彼女の望んだことだ。

 邪魔をすることはない。

 叶えさせてやればいい。

 望みを。

 自由を。

 愛を。

「違う」

 ゆっくりと腕が動く。

 手には、M686。

 脇を締め、左手をグリップに添える。

 体が勝手にスタンスをとろうとしている間も、視線は常にイヴを捉えている。

 僕の声に応じて、イヴが足を止めた。

 右腕と銃身と視線が、直線上に並ぶ。

 イヴはまだ、僕に背中を向けている。

 何をしている?

 叶えさせてやればいいじゃないか。

「まだだ」

 撃つ。

 全てがスローモーションになる。

 .357マグナム・ブレットが、風を切り裂きながら、自らの存在理由を見つける。

 イヴが、ゆっくりとこちらを向く。

 目が合う。

 無表情。

 僕の選択を悟ったイヴが、静かに微笑む。

 弾丸がイヴの眉間に吸い込まれる。

 先ほどまでイヴの頭部を構成していたものが、幾つかのパーツになって四方に散る。

 容姿と肌の色に似合わぬ真っ赤な血が、花開くように空中に広がる。

 首から上を失ったイヴが、大きくのけぞり、背中から倒れていく。

 眼前で繰り広げられる惨劇は、ただひたすらに鮮明で、美しい。

 現実よりも、現実的な嘘。

 倒れ行くイヴが、白と赤の花びらへと姿を変える。

 血も、体も、砕け散った頭も消え、そこにはただ、花びらだけが舞う。

 僕はなぜ、引き金を引いた?

 引き金を引かせたのは、誰だ?

 ハマー。

 ソノラ。

 ピス。

 デフ。

 イヴ。

 カレン。

 M686を手放し、ゆっくりと歩み寄る。

 カレンは、両手を胸に当てて、安らかな寝顔を僕に向けている。

 彼女の額に、手のひらを当てる。

「……目覚めると、君の前には大観衆がいて、皆が歌声を待っている」

 カレンは死んだように眠っていて、喉すら動かない。

 でも、僕には生々しい感覚があった。

 カレンはここにいる。

 カレンの全てがここにある。

 全てが、ここに帰ってきた。

「君は目を丸くして、少しだけ驚く。だけど、すぐに悟って、笑みを浮かべる」

 ここに、境界がある。

 混じり合わないものが、接している。

 交わらない線が、どこまでも続いている。

 こんなにはっきりと感じることはなかった。

 違いを。

 存在を。

「君は歌う。ただ夢中で歌う。

 自分であるために。自由であるために」

 カレンの額から手を離す。

 身じろぎもしない彼女に、微笑みかける。

「また、そのうち」

 静かに目を閉じる。

 幻戦。

 すべての嘘が消える場所。










 鳥が飛んでいる。

 真っ青な空を背景に、風を受けて滑空する鳥を、僕は見ている。

 名前もわからない、白い鳥が、重力に逆らっている。

 神様の見えない手が、地面に引きずり下ろそうとする。

 必死に抵抗している。

 つまり、生きている。

 抗うことを自由と呼ぶのか、抗いぬいた先にあるものを自由と呼ぶのか、僕にはわからない。

 いずれにせよ、僕らにはそれしかない。

 抗うことでしか、生を確かめることはできない。

 そんな哀れな存在が好きだった。

 完全を求めて破綻し、愛を求めて血を流す。

 際限のない愚かさが好きだった。

「うわぁ、高い」

 振り返ると、車椅子に乗ったカレンが、僕に向かってきているところだった。

「どのくらいなの? 高さ」

「1000ぐらい。ここはそんなに高くないよ。このへんではね」ポケットに手を突っ込んで、口を斜めにしてみせる。

 リベラ・プラザの屋上からの景色は中々良かった。天を突き刺すマリナ・タワーと、風景の大部分を占める太平洋が真っ先に目に付く。まがりなりにも大都市なだけあって、眼下のウォーターフロントは灰色と直線の目立つ街並みだったけど、それでも、思っていたよりは緑が多かった。都市機能の大半が地下に潜ったので、地上では自然保護とやらに精を出せる、というわけだ。

「どう?」

 カレンは空を見上げながら、両手を広げて、大きく深呼吸した。

「新鮮」

「空気が?」

「ううん」彼女の意識が地球に戻ってきて、僕の目を捉える。

「身体が」

 二人で笑った。

 僕も、自分の身体に戻ってくるのは久しぶりだった。

 全身を覆う気だるい重さが、自分がここにいるという錯覚を見せる。

 この器から出られないのだと、嘘を囁く。

 たしかに、新鮮だ。

 たまには悪くない。

 そう、たまには。

「コンサート、どうだった?」

「え? ああ、うん。楽しかったよ」

「そうか」

「あんなに自分らしく歌えたの、初めてかも」

「うん」

 カレンはあの日、このビルで起こったことを知らない。

 イヴが記憶を消した可能性もあったけど、僕の"感触"はそれを否定していた。たぶん、全てが無意識下で進行していたのだろう。カレンの無意識の願望がイヴに届き、イヴの願いとなった。イヴはカレンの無意識に触れ、彼女すら知らないうちに、あの状況へと進んでいった。

 そして、それは僕の願いでもあった。僕はイヴのシナリオを警戒していたけど、実際には、イヴは僕の思考を読む必要すらなかった。それは、僕のシナリオでもあった。カレンの願いの形成にも、僕は深く関わっていた。彼女の独我論空間に、僕はよく繋いでいた。ハードレベルの繋がりなのか、ソフトレベルなのかはわからない。そんなことは問題ですらないかもしれない。いずれにせよ、彼女の願望を僕が綺麗にトレースできたのは、偶然ではないはずだ。

 あの状況は、僕ら3人の望んだものだった。イヴのピースを取り込んだ瞬間まで、僕はそのことに気づかなかった。

「ケイ?」

 カレンが上目遣いで、僕を見ている。

「カレン」

「なに?」

「いまでも、死にたいと思う?」

「うーん……」カレンは下唇に人差し指を当てて、視線を空に泳がせた。

「どうでもいいかな、今は」

「どうでもいい?」

「うん。結局ね、死ぬのも生きるのも、同じことだと思うんだよね。最近、そんな気がするの。だったら、私は歌うことだけを考えていたいなぁって」

「死んでも、歌い続ける?」

「それしかないからね、私」カレンが自嘲気味な笑いを浮かべた。

 あの時、死のうとしていた彼女を、僕は止めた。その理由が、今でもわからずにいる。

 死が別れだと思ったことはない。残酷なことだと思ったこともない。

 完成してしまうのが怖かったのかもしれない。

 僕が死を選ばない理由だって、きっとそうだろう。

 完成させたくない。いつまでも歪でありたいという幼稚な願望が、僕にはあった。

「海、すごいね」

 カレンは髪を耳にかけながら、海を指差した。

 一面に広がる海。

 その大きさも、僕がいなければ成立しない。

「そこから、何が見える?」

 空を見上げる。

 もう鳥はいない。

 青色の無が、どこまでも広がっていた。

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