第5章:嵐の夜に《断章2》
【SIDE:鳴海朔也】
仕事が終わった頃には空は雨模様。
これから台風が接近しているので、ひどくなるばかりだろう。
俺は足早に傘を片手に帰っていると、商店街で斎藤と遭遇した。
彼は雨がっぱ姿で、何やら忙しそうに動いている。
「よぅ、斎藤。この台風だと船も大変だな」
「おー、鳴海か。仕事は終わったのか?」
「あぁ、嵐になる前に何とかな。斎藤はこれからどこかに行くのか?」
「俺はさっき、港に行って船の移動をしてきたばかりさ。自分の船を守るのも漁師の仕事だからな。これから、また漁協に来いって組合長に言われてるんだ。いざという時の待機だと。また面倒くさい。雑用を若手に押し付けるからさ」
若手漁師も大変だが、それも経験だろう。
こういう台風の時は海の仕事の人間は気を使うものらしい。
「大変だな。頑張ってこい」
「そうだ、ついさっき……いや、何でもない。くれぐれも海には近づくなよ、鳴海」
「分かってるよ。じゃぁな」
斎藤は何かを言いかけたようだが言葉を飲み込んだ。
彼と別れて、俺は家に帰ることにした。
家につくや、玄関前の植木鉢を移動して、後は雨戸の確認もしてから家の中に入る。
本格的に雨が強くなる前に帰ってこれてよかった。
「ただいま」
だが、家の中は静まり返っていた。
「神奈? 出かけているのか」
俺はスーツを脱いで私服に着替える。
自分の部屋の変化に気付いたのはその時だった。
「……あれ?」
見慣れた部屋に何かが変わってる気がした。
だが、部屋を見渡すがそれが分からない。
「気のせいか」
神奈が掃除して、荷物の場所が変わったくらいなのかもしれない。
俺は部屋を出るとリビングのテレビをつけた。
『台風は本州に上陸。今回の台風は各地に大風と大雨による影響で……』
台風情報によると今回はちょっと規模が大きな台風らしい。
「神奈、この雨の中を出かけているのなら、大丈夫か?」
買い物にでも出かけているんだろう。
そう思って、俺は特に心配もせずにいた。
だが、雨が一層激しくなるが、神奈が戻ってくる気配はない。
俺は気になり携帯に電話してみると、彼女の部屋から着信音がする。
「携帯を置いて行ったのか?」
誰もいない部屋に携帯は置かれたままだ。
俺は気になり始めて、彼女の姉である美帆さんにかけてみる。
彼女はお店の方にいるようで、神奈は今日は来ていないらしい。
「美帆さん、神奈を知りませんか?」
『……神奈? あの子、いないの? 夕方に朔也君の家に行った時はいたわよ」
「そうなんですか。そっちには?」
『この店には来てないわ。神奈、どうしちゃったのかしら?』
最近の神奈は疲れ気味だと言う事で、美帆さんは休みを与えてくれたらしい。
俺が頼んでいたことなのだが、最後は言い争いになってしまったそうだ。
『朔也君。あの子は不安なのよ。それが元気のなかった原因だと思うわ』
「……俺の責任ですね。ちゃんと話をしてあげていなかったから」
神奈の様子がおかしかったのは俺の態度がはっきりしないから。
その答えを出さないとな。
『ねぇ、朔也君。神奈は貴方が好きなの。だから、大事にしてあげてよ?』
「分かっています。俺にとっても大事な子です」
俺の中途半端な態度が神奈を傷つけていたとしたら?
俺は彼女の不安を取り除いてあげなくちゃいけない。
美帆さんとの電話を切り、俺は彼女を待とうとする。
「しかし、アイツはどこに行ったんだ?」
俺は自室に戻り、ふと、視線をベッドの方へと向けた。
そして、違和感の正体に気付く。
テレビの上に置いていたはずのもの。
俺が捨てきれずにいた、思い出の欠片。
「指輪が……ない?」
千歳に渡せなかった婚約指輪。
そろそろ、どうしようか悩んでいたので表に出していたのだが、それがなかった。
「どこかに落ちてるとか……」
辺りを探すが、見当たらない。
「まさか、神奈が……?」
嫌な予感、神奈がこれを持ち出したのではないと言う不安。
だが、どうして、今さらこんなものを?
それは分からないが、彼女が帰ってこない理由と同じ気がした。
ただの勘だ、外れているに違いない。
そう何度も思うが、俺は不安を捨て切れずにいた。
「……アイツ、この雨の中、どこに出かけたって言うんだ?」
台風が接近している状況で、無茶をするとは思えないが……。
俺は玄関の扉を開けてみると、ひどい大雨が降り続けている。
「例えば、どこかで雨宿りして、戻れないとか……」
買い物に出かけたが、思いのほか、大雨で帰れなくなった。
……いや、それならタクシーを使うなりして帰ってくるはずだ。
それに出かけるにしても、アイツは携帯を置いていくようなことはしない。
「突発的に出て行った、とか?」
そう、あの指輪を見て、何かを思い、持ち出した……。
そんな仮定、ありえないと分かっていても、消せない不安。
「神奈……」
俺はいてもたってもいられずに、何人かの女の友人に連絡をする。
だが、誰も今日は神奈を見かけてもいないと言う。
斎藤に電話をすると、彼は「そういえば……」と思い出したように、
『相坂? さっきも言いかけたが、彼女なら夕方くらいに海の近くにいるのを見かけたぞ。傘をさして、ひとりでいた。買い物帰りか知らないが、海には近づくなって言ったんだがな。心ここにあらずって感じだった。様子が変だと言えば、変だった気が……』
「海? それはどの辺だ?」
『いつもの海岸沿いの道だよ。夕方、相坂は海を眺めていた。あの時はまだ、雨もそんなに降っていなかったからな』
神奈の情報を手に入れた俺はとりあえず、海沿いの道へ向かおうとする。
だが、電話越しに斎藤は俺に警告する。
『おい、不用意に海には近づくなよ、鳴海。今、大雨洪水警報と暴風波浪警報が出てる。海は大荒れだ。下手すりゃ、おお事になるぞ。さすがに相坂もこんな時間まであの場所にはいないだろう? 大方、誰か友人の家にいるんじゃないか?』
「分かってるよ。ただ見にいくだけだ。斎藤、情報、ありがとう」
『くれぐれも気をつけろよ』
斎藤の心配に俺は頷いて、電話を切った。
急いで外に出るが、雨風がきつくて前に進めない。
突風に傘を持って行かれそうになりながら、なんとか海沿いの道まで出た。
「ここか? ……神奈はどこに?」
暗い海は今日は大荒れ、嵐と共に激しい波を揺らしていた。
見渡す限り、人影はなし。
「ここじゃないとしたら……?」
俺はふと、脳裏によぎった場所がある。
俺たちにとって大切な場所。
それは、隠れ浜――。
小さい頃からよく遊び、俺たちの想い出が多い場所。
「隠れ浜か。神奈がいるとしたら、あそこか?」
この台風の夜にいるとは到底思えない。
それでも、俺は直感であの場所へと向かっていた。
浜辺を歩き、隠れ浜にたどりつく。
ここは岩場に囲まれて、風はひどくないが今日は波が高い。
「――か、神奈!?」
その岩場に人影を見つけた。
大きく波が跳ねる、危険な場所に人影がいたのだ。
浜辺には折れた傘が転がっている。
「神奈っ! おい、こんな場所で何をしてるんだ!?」
「……」
傘もささず、ずぶぬれになりながら立ち尽くす。
神奈は俺に気付くと、小さな声で俺の名前を呼んだ。
「……朔也?」
「何でこんな場所にいるんだよ。ずぶぬれじゃないか。さっさと家に帰ろう。こんな台風の日に海に近づく奴があるか」
「朔也には関係ないでしょう。私がどこにいても……」
俺は神奈に手を伸ばすが、神奈は弱々しく、伸ばした手を振り払う。
「神奈……?」
「誰にだって辛い思い出はあるわよね」
「あ、あぁ。そうだな。そりゃ、あるだろう?」
「……忘れてしまいたい。忘れてしまえば楽になる。そんな辛い記憶は誰にでもある。私もあるわ。朔也がこの町からいなくなってしまった7年間の日々。どうして、私はもっと一緒にいた時間を大事にしなかったんだろうって悔やんでいた」
神奈は悲痛な面持ちで俺に告げる。
その瞳に溜まるのは雨ではなく大粒の“涙”。
涙が彼女の頬を伝い流れる。
「15年だよ? ほとんど生まれたときから一緒だったのに、私は言えなかった。朔也のことが好きだったのに、好きだって告白できなかった。告白しないまま、朔也は町から、私の前から去ったの。だから……こんな、後悔をすることになる」
彼女が取りだしたのはあの千歳への婚約指輪の箱だった。
「好きだったくせに好きだと言えなかった。その過ちが、結果として、朔也の心を他の誰かに奪われちゃったんだ」
嵐の夜に、神奈は涙ながらに想いを、本音を、俺に伝えてきた――。