第2章:あと少しだけ《断章1》
【SIDE:鳴海朔也】
何気ないこと、当たり前の日常。
“幸せ”はそういう身近な所にあるものなのか。
「……あと少しで届きそうで届かないってもの、あるよね?」
明るい笑顔を浮かべている女の子。
空を見上げて、千歳は俺にそう呟いた。
彼女は両手を空へとかかげる。
「太陽でもつかむつもりか?」
「雲をつかみたい。青い空に手を伸ばすと、なんだかつかめる気がしない?」
「相変わらずだな。お子様め」
「あーっ、ひっどい。そういう意地悪なことを言うんだから。朔也ちゃん」
同い年なのに年下に感じるのは気のせいではない。
千歳は子供のような純粋さを残している女の子だ。
「むぅ……朔也ちゃんって意地悪すぎる、うん、意地悪さんだ。私、可哀想。意地悪な彼氏に意地悪されて」
「悪かった、拗ねるなよ。ちょっとしたことですぐ拗ねるんだから。千歳はホントに純粋だな」
「……でも、この蒼い空に手が届いたら面白いよね?」
空をつかもうとする彼女を俺は面白そうに見つめていた。
ちょっと不思議な性格をした女の子。
それが千歳という俺の恋人だった。
「よく分からないが、空の話はおいといて。次のデート、どこにするんだ?」
「朔也ちゃんが決めていいよ? 動物園でもいいし、水族館でもいい」
「なるほど。動物園か、水族館を希望するのか」
「えへへっ。動物さんでも、お魚さんでも、好きな方を選んでほしいなぁ」
動物とか、生き物が好きな彼女らしいチョイスだ。
そういうところが子供っぽいというのはあまり口にしないでおこう。
彼女のご機嫌をそこねるのはよくない。
「まぁ、それでいいなら考えておくよ」
「朔也ちゃんは……楽しんでいる?」
「楽しむ? 何をだ?」
「私と恋人関係にあるってこと。ほら、朔也ちゃんって女の子にモテるし」
千歳と付き合い始めて2ヶ月。
友人を介して知り合い、千歳と付き合っている現実に不満はない。
癒されキャラの性格の彼女は子供っぽいところもあるが一緒にいて和む。
「十分すぎるほど、楽しんでいるぞ。千歳は他の女の子にない魅力がある」
「え?ホント?」
「20歳にもなって、未だにサンタを信じてそうな純粋なところとか。見てると楽しい」
「ち、違うってば。……それは18歳の時に真実を知ったの」
恥ずかしそうに顔を赤らめて照れる彼女。
つまり、18歳までは普通に信じてたのね。
つまるところ、千歳という女の子は汚れなき真っ白なお嬢様である。
家柄良好、純粋培養された女子高育ちで、少しだけ世間知らずのお嬢様。
まさか俺みたいな男と付き合うことになるとは思ってもいなかっただろう。
「お前こそ、俺でいいのかと時々思う」
「そうだよね。朔也ちゃんって遊び人だもん」
「遊び人って表現は気にいらないが。その遊び人が恋人でいいのか?」
「……でも、朔也ちゃんはすごく優しいじゃない。会ったときからずっと感じていたの。朔也ちゃんの優しさに甘えていたいって……この人なら信じられる。私は、自分が信じられる人の傍にいたい」
そっと千歳が俺の背中に抱きついてくる。
背中越しに彼女のぬくもりを感じる。
「朔也ちゃんの傍にいると安心できるの。心がふわって温かくなるんだ」
「ふわっと、ね。……そんなものか?」
「うん。だからね、朔也ちゃん」
彼女は俺の耳元にある言葉を囁いたのだ。
「――朔也ちゃんが私を嫌いになるまで、傍に居させて。貴方の傍にいたいの」
太陽のような明るい笑顔が良く似合う、千歳の笑顔が俺は好きだった。
そして、今、その笑顔は俺のそばにはいない。
「――千歳……」
思わず、自分の口から出た言葉で目が覚める。
「ちとせ……?」
窓から差し込む太陽の光。
俺は自分の部屋の布団の中にいた。
「今のは、夢か?」
どうやら夢を見ていたようだ。
なんだかとても懐かしい夢を見た。
「そうだよな。千歳がここにいるはずはない。あれは千歳の夢か……」
そういや、あれはいつごろの話だったっけ。
千歳と付き合って間もないころ、俺が20歳の頃だから3年前か。
もう3年も経つんだな、時間の流れははやいものだ。
こうして、俺も徐々におっさんになっていくと考えると複雑な気持ちになる。
「ったく、なんでいまさらあんな夢を見るかな」
柄にもなく感傷的になってしまうではないか。
千歳……俺の大事な恋人だった女の子。
無邪気で、純粋で、太陽みたいに明るくて可愛い女の子。
それなのに、俺の前から立ち去った女の子。
「アイツの事を考えるのはやめよ。今さら、何を思いだしてるんだか」
千歳は俺の前から姿を消した。
それが現実なのだから。
「あれ……?」
よく見ると、ドアが開きっぱなしになっている。
「俺、開けっ放しで寝てたのか?」
寝る前には部屋の扉は閉めているはずなのに。
俺はドアの近くに行くと廊下の先に神奈の後ろ姿が見えた。
なんだかいつもと違い寂しそうに見えた。
「なんだ? おい、神奈?」
「は、はい!? な、何?」
びくっと身体を震わせて反応をする彼女。
振り向いた神奈はどことなく顔色も悪い。
「なんでそんなに驚いてるんだよ?」
「い、いきなり後ろから声をかけられたから、かな?」
「かなって……俺に言われても。びっくりさせたか?」
「あはは、まぁね。……おはよう、朔也」
なんだ、神奈のやつ?
いつもとなんか様子が違う気がする。
「あっ、と。ご飯の準備してくるね。そうだ、朔也。今日は海に泳ぎに行かない?」
「別にいいが。それなら準備をするか」
「うん。しておいて。ほら、とりあえず顔でも洗ってきてよ」
不自然すぎる、何か神奈の様子がおかしい。
逃げるように立ち去る彼女に違和感を覚えた。
「……まぁ、いいか」
変な夢を見たので、気持ちを切り替えよう。
俺は神奈の様子がおかしいことに気付きながらも特に気にせずにいた。
その時……彼女がどうして、様子がおかしかったのかには気付かずに――。