第3章:傾く天秤《断章2》
【SIDE:君島千沙子】
初めて朔也クンに出会い、惹かれてからの私の人生。
それまでの人生が変わってしまうほどに運命の出会いを私はした。
あの時の想い、今も変わらずにこの胸の中にある。
「君島さん、飲みすぎじゃない?」
行きつけのバーでお酒を飲んでいた私は店員の沢渡さんに注意されてしまう。
「別に。いつも、これくらい飲むじゃない」
「いつもよりも悪酔いしてるし。鳴海さんとうまくいってないの?」
「別に……そんなことない」
「本当に? だったら、もうちょっとお酒の飲み方を……あっ、はーい」
他のお客に呼ばれて彼女はそちらに行ってしまう。
私は再び、カウンター席でひとりワインをグラスに注ぐ。
「ねぇ、マスター。聞いてもいい?」
「……なんだ?」
寡黙なマスターは自分から話しかけてくるタイプではない。
「前の女を忘れられない男を口説くのはどうすればいいのかしら?」
「……例の先生のことか?」
「そう。朔也クンのこと。彼は東京に恋人がいたの。別れても、彼女の事を忘れられない。そんな相手に振り向いて欲しいって思ってもうまくいかなくて」
朔也クンは未だに千歳さんを振りきれていない。
「楽しい思い出を、幸せな記憶を上書きさせればいい」
「上書き……?」
「忘れられないのならば、忘れさせてやればいい。それだけのことだろう」
思い出を上書きする、そうすれば……朔也クンも私に振り向いてくれるかな。
私は傾けていたワインのグラスをテーブルに置く。
「そっか。それなら、私にもできるかも……」
「だが、そう単純なものではないぞ。人の想いは奥が深い」
「分かってる。だけど、やって見る価値はあるもの」
私は覚悟を決めて、朔也クンに向き合うことにした。
「君島さん、足元ふらついてるけど、大丈夫?」
「大丈夫……だと思う」
「間違って海に落ちたりしないでよ」
「そこまでドジじゃないわ。それじゃ、おやすみなさい」
沢渡さんにそんな心配をされながら私はお店を出たんだ。
お店を出てから海辺で気持ちを落ち着かせていると、朔也クンに会いたくなった。
彼を呼ぶと、すぐに来てくれる。
お酒がまわっているせいか、いつもよりも私は素直に自分の想いを彼に告げる。
「忘れさせてあげる。私が千歳さんの想い出を忘れさせてあげるから」
彼に振り向いて欲しかった。
何年も続いた彼への想いを受け止めて欲しかったの。
「思い出は残り続けるの。でもね、思い出は上書きできるのよ。悪い思い出も、いい思い出も、全ては過去。上書きをしてもいいじゃない」
「消せない記憶ってのもある」
「私が忘れさせてあげるって言った。千歳さんがどれだけ可愛くて、優しくて、貴方の心を支配していたのかなんて私は知らない。知りたくもない。私は彼女じゃないもの。けれどね、貴方が彼女を必要としたように、私を必要にさせてみせる」
私は自分から彼にキスをする。
唇が触れ合うと、心が触れ合うような感覚になれる。
でも、朔也クンはまだ私に心を許してくれていない。
「貴方の心の鍵が欲しい。いつまでも頑なに閉ざす、貴方の心の扉を私が開けたい。朔也クン、私を愛して……。私は貴方の想いに応えるだけの用意がある。貴方のすべてを背負う覚悟もある。貴方に私の人生を捧げてもいい」
「大げさだな、千沙子。俺はそんなにすごい奴じゃないぞ」
「朔也クンが私の人生を変えてくれたんだ。貴方以外の男性を私は好きにはならない。いつまでも貴方だけを思い続ける」
例え、朔也クンが私を選んでくれなくても。
私はきっと他の誰かを好きになんてなれない。
「……朔也クンが私を愛してくれる。その可能性はない? もう考える時間はあげたから、私は朔也クンからの答えが欲しい」
長い沈黙、朔也クンは考え込んでしまった。
私はその沈黙に耐えながら彼の答えを待つ。
「中学3年の時、千沙子に告白されたよな」
「したよ。私の精一杯の想いだったもの」
頑張って告白したけども彼がこの町を出ていくことになったんだ。
「もしも、あの時、俺が町を出ていかなかったら、俺は千沙子に何て答えてたと思う?」
「恋人同然の神奈さんがいたから断られてたかな?」
「違うんだよ……俺は、千沙子を恋人にしたいと思ってたんだ。神奈は妹同然で恋愛相手じゃなかったから」
「嘘……ホントに?」
彼の口から聞かされた言葉を私は信じられなかった。
「だ、だって、あの時は……」
「答えを出したことなかったんだ。あの時、どうしていたかなんて。でも、考えてみれば俺は千沙子に惹かれていた」
「……朔也クン」
嬉しい、ただ、嬉しい……。
朔也クンに私の想いを認めてもらえたことが嬉しかった。
「千歳の事、忘れられたわけじゃない。けれど、俺も前に進みたいと思ったんだ」
「あっ……」
朔也クンが私を強く抱きしめる。
「千沙子を選んでも良いかな。俺が過去を振り切るために」
「それが朔也クンの望む事なら……」
「……好きだ、千沙子。俺はお前が好きなんだ」
初めて彼から好きだと言ってもらった。
その想いが私の心を満たす。
「嬉しい……本当に嬉しいよ、朔也クンっ」
涙を瞳に溜め込みながら、私は喜ぶ。
彼が私を選んでくれた、その実感を得ることができる。
「これから、一緒に思い出を作っていこう?」
「うんっ。私も貴方が好きだもの」
中学の初恋から始まった想い。
ようやく繋がる心と心。
「――愛しているわ、朔也クン」
その夜、私達の想いは数年越しにひとつとなった。
だけど、これからなんだ。
千歳さんの事を思い出さなくなるくらいに、私が彼を幸せにしなくちゃいけない。
大変だけど、彼は私を選んでくれたんだもの。
神奈さんじゃなくて、私を選んでくれた事に意味があるの。
ずっと勝てないと思っていた相手に勝てたことに――。




