第18章:戸惑いの海《断章2》
【SIDE:鳴海朔也】
俺が7年ぶりに戻った事で動き始めた時計の針。
それは何も喜ばしい事だけじゃなかった。
俺自身がつけなきゃいけない、けじめもあって。
「……ま、待て、待ってくれ!?」
壁際に追い詰められる俺。
「私は朔也の事を信じていたのに……裏切り者」
俺を追い詰めているのは神奈。
この世のすべてを憎しむような形相で俺を睨みつけている。
「どうして、私じゃないの?ずっと、幼馴染だった私じゃないの?」
「それは、お前の事は俺は妹みたいに思っていたから」
「ひどいよ、朔也。私、ずっとここで待っていた。7年間も朔也の事を待ち続けてたのに、この仕打ちはひどいわ。私の事を忘れて、朔也は東京で他の子と恋人になっていたんだね」
神奈の手に握り締められているモノに俺は心底ゾクリとさせられる。
白く光るのは包丁、それが意味するモノは――。
「か、神奈!? お、俺が悪かった、だから……」
「どうせ、私は朔也好みの体形じゃないわよ。可愛くもない。けどね、付き合いの長さだけは信じていたの。朔也が選んでくれるのは私だって……そう信じていたのに」
神奈が俺に近づいてくる。
俺は逃げ場もなく戸惑うしかない。
「私じゃない誰かを好きになった、朔也が悪いんだ。裏切ったのは朔也なの」
「俺は神奈の事だって……」
嫌いじゃなかった、むしろ、好意を抱いていた頃もあった。
けれど、俺にとっては神奈は妹のように可愛い存在でありすぎたから。
女としてはどうしても見れなくて、それがこの子をここまで追い詰めていたのか。
「もう二度と他の女の子に振り向かないように、してあげるね?」
「うぎゃー!?」
振り下ろされる包丁、俺の自業自得が招いた最悪な展開……。
「――バイバイ、朔也。大好きだったよ」
神奈の瞳から涙がこぼれていた。
これが大事なモノを裏切った報いだって言うのか――。
……。
「ぬぎゃー!?」
ハッと目が覚めた俺は寝汗をびっしょりとかいていた。
「ゆ、夢……なのか……?」
俺は布団から起き上がり、自分の身体を確かめる。
刺されたあともなし、ただの悪夢だったらしい。
「は、はぁ……夢にしてはリアリティがありすぎて怖い」
まさか神奈に刺殺されそうになる夢なんてありえない。
これは神様が俺に対する警告と受け止めておくべきか。
女の子の恨みは怖いってよく言うからな。
「き、気をつけよう、うん……」
俺はシャワーを浴びに風呂場へと行く。
汗を流しながら俺は夢の事を思い出していた。
「よくよく考えたら神奈が俺にああいう事をするはずがない」
と、信じたい……いや、マジで。
そんなことはしないと神奈の事を信じてます。
どうだろうな、俺があの子を裏切ったのは事実だ。
きっと、俺がした事はアイツなりに傷ついてる。
その罪悪感からあんな夢を見てしまったのかもしれない。
「神奈が嫌いだったわけじゃない。千沙子だってそうだ。俺がこの町にい続けていたらきっと、俺の横にいたのは……」
東京に出てきて、俺はそれまで体験した事のない文化に触れた。
何もないあの町と違い、都会には何でもあるし、魅力的な世界がある事を知ってしまった。
東京に出て、たった数ヶ月で俺は自分の故郷を忘れてしまっていた。
大学進学時にはもう2度と戻る事もない、とさえ思うようになっていた。
「……最低だよな。ここにはちゃんと待ってくれていた皆がいたのに」
町に戻ってた事で友人や千沙子、神奈、いろんな人々が俺を歓迎してくれた。
その意味を俺はちゃんと理解していなかった。
いつのまにか、俺は……故郷を捨てて、都会の人間として染まっていたんだ。
ここに戻ってきて、俺はよかったと思っている。
「それにしても、神奈があんな風に俺を恨んでいるとは……」
例え、夢でも、俺の態度ひとつでそうなるかもしれない。
人の気持ちをないがしろにしてしまえば、人に恨まれるのも仕方ない。
「……神奈を下手にからかうのはやめる事にしよう」
俺はもっとあの子を大事にしなくちゃいけない。
素直に俺に好意を向けてくれる相手なのだから。
「幼馴染か。難しいよな」
俺はそう呟いてシャワーを浴び終える。
さて、今日もお仕事、頑張るとしますか。
俺がその情報を耳にしたのは、つい先ほどの事だ。
今日も教師の仕事で朝から忙しい。
特に水曜日は3つのクラスの授業が詰まってるので大変だ。
昼休憩になって昼飯から帰って来た俺を待っていたのは千津と桃花ちゃん。
「ん? ふたり揃ってどうしたんだ?」
「いいからこっちに来て」
ふたりとも神妙な面持ちで俺を職員室から連れだす。
中庭まで俺を連れてくると千津が怒った顔をする。
「先生、正直に答えて。神奈さんに何かしたでしょ?」
「そうだよ、お兄ちゃん。ひどいことしたに違いない」
女子高生、ふたりに詰め寄られて責められる事をした覚えはない。
「な、何の話だ? 俺には身に覚えがないぞ?」
「嘘ばっかり。朔也先生が何かしたに違いない」
「……お兄ちゃんじゃないなら、誰が神奈さんを悲しませるの?」
「だから、誤解だってば? 俺は何もしてないけど……どういうことだ?」
俺は事情がよく分からずに彼女達に尋ね返す。
俺が変な事をした覚えは……例の千歳の件以外にないが、あれから数日が経ち、今さら何かがあるとは思えない。
そう思ってるのは俺だけって言う可能性はないわけじゃないけどさ。
「昨日、私と桃花が家に帰る途中、駅の方から来る神奈さんを見かけたの。挨拶しようと思ったら、彼女、泣いてたんだよ」
「神奈が泣いていた?」
「号泣って感じじゃなかったけど、そのままいなくなっちゃって……。絶対にお兄ちゃんが何かしたに違いないでしょ?」
「……事情は分かったが、俺を犯人扱いするのはやめてくれ」
証拠さえ見つかれば動機はあるので、犯人じゃないと声を大きくして否定はできない。
「あの神奈が泣いていた、ね……?」
「あーっ、信じてないでしょ?お兄ちゃん」
「神奈さんも女の人なんだから辛い事があれば泣くわ。いくら朔也先生の事が好きで、命令は絶対遵守。さらに逆らえない事をいいことに朔也先生がどんなアブノーマルなプレイを夜な夜な彼女に強要させているかと思うと……」
「何もしてねぇよ!? 俺を変態みたいに言わないでくれ」
女子高生の口からそんな生々しい事は聞きたくない。
「だったら、先生の浮気とか? 他に女を作ったとか? そういえば、この前も女の人と腕組んで歩いてたでしょ? 楽しそうに笑ってたもの」
「それは多分、千沙子だ。あの子は違うから。神奈も知ってる相手だよ」
「ふーん。公然と浮気ですか、最低ですねー……」
しまった、思わぬ発言で千津の信頼を失いかけてる。
そんな白い眼で先生を見ないでくれ。
「友達の一人であって、そう言う意味じゃない。それよりも、神奈が泣いていたって詳しく聞かせてくれよ? いつくらいだ?」
「時間は大体、夜の7時くらいかな? 駅の方から涙を流して、指で拭う神奈さんを見たの。びっくりして、声をかけられなかったけど、そのまま家がある方へ行っちゃったわ」
「昨日の夜か? そういや、店には神奈は休みの日でいなかったな」
アイツも個別に休日があるので珍しくはない。
友達とどこかに出かけたりする事もよくあるからな。
「……お兄ちゃん。本当に何も心あたりがないの?」
「神奈と揉めた事は最近あるが、それが原因とは思えない」
「男の言い分って奴だね。いつもそうやって知らない所で女人の恨みを買うんだよ。グサッて刺されても知らないからね?」
女の子の恨み=刺殺END。
今朝見た悪夢を思い出してマジ凹み。
うぎゃー、それは勘弁してくれ。
「……ごめんなさい」
「せ、先生? どうしたの? いきなり、落ち込んで?」
「何でもない、何でもないんだよ。そうだよな、人って知らない所で人を傷つけて恨みを買ってるかもしれない。俺がした事が彼女を傷つけているかもしれない。これは反省すべきことだ、うん」
「何かいきなり反省しだした。実は心当たりがあったりして?」
ここはクールな俺を装わなければいけない。
「情報、ありがとう。俺も一度神奈にあって話をしてみるよ」
「あんなにいい女の人って中々いないんだから泣かしちゃダメだよ?」
「……あぁ、そうだな」
それに関しては否定はしない。
神奈は女として見れば可愛いし、素直じゃないが性格も悪くなくて面倒見もいい。
いい奴だからこそ、俺もどこか甘えているのかもしれないな。
「……それで、先生は神奈さんに何をしたわけ?」
「それは言えません」
「ふーん。生徒に言えないような真似を夜な夜な神奈さんに強引にさせてるんだ。アブノーマル、SMプレイ?」
「だから、それはしてないっての。変な情報雑誌の影響を受け過ぎだ」
最近の女の子のティーンズ向け雑誌は平気でそう言う事を書いてるらしいからな。
まったく、教育的にはよくないと思うんですよ。
……野郎がエロ本を漁るのとどちらが悪いかと言われたら返答に困るが。
それはさておき、神奈が何か悩んでいると言うなら気になるな。
「今日は早めにアイツに会いに行くとしようか」
俺はそう思いながら、職員室に戻る事にした。