第1章:人魚の伝説《断章1》
【SIDE:鳴海彩音】
小さな頃を思い出す。
私には数歳年上の従兄がいた。
時折、年に数回程度会う程度の関係。
ただ、私は姉がふたりいても、兄はないなかった。
それゆえに、私はとても彼に懐いていたのだ。
「あのね、あのね。朔也お兄ちゃん」
親戚同士の集まりの時は必ず、彼に甘えて遊んでもらっていた。
我が儘を言っても、甘えさせてくれる。
そんな彼に「秘密を教えてあげる」としゃがんでもらい、ひそひそ話をする。
「皆には秘密だよ? 私、お兄ちゃんのこと、大好き♪」
耳元に囁いて、笑顔で答える私を彼は頭を撫でてくれる。
「そうか。嬉しいよ、彩音。俺も好きだぞ」
純粋に好きだったし、多分、初恋だったんだと思う。
初恋なんて誰だって子供の頃にするものだ。
年上の相手、幼馴染、クラスの同級生。
手近な相手に好意を抱いた、ただそれだけのこと。
その後、彼は私が中学生の時に家庭教師としてお世話になったりして。
初恋の気持ちは憧れ程度のものだった。
彼を強く想って、恋をしていたわけでもないけど、特別視はしている。
そんな程度の軽い気持ちの恋心だった。
だけど。
人間にとって初恋は特別なものらしい。
忘れる事のできない思い出。
今も、心のどこかにあの頃の気持ちが残り続けているような。
そんな初恋の相手が私にはいた――。
あれから数年、私は大学生になっていた。
大学で友人に誘われて入ったのは民俗学を研究するサークルだった。
はっきり言って最初は地味な印象しかなかったのだけども、その土地の歴史や風習、伝統や伝説を調べていくのは面白さがあった。
大学が夏期休暇に入ると、私たちのサークルではある課題が出された。
自分が興味を持ったテーマについて調べる。
夏休みという時間を有効に使ってのフィールドワーク。
つまり現地調査をしてきなさいっていうこと。
地元の人しか知らない情報や伝説を聞くためにフィールドワークをする事が多い。
これも経験、それをレポートにまとめて、夏休み後に報告会をする事になっていた。
そうは言っても、いきなりテーマや何を調べると言うのを決められるわけがない。
私が悩んでいた時、思わぬ話を聞くことになったの。
「彩音、起きなさい。もうっ、夏休みだからってだらけるんじゃないわよ」
実家暮らしの私は大学の夏休みの始まりを怠惰に過ごしていた。
そんな姿に母は呆れた顔をしている。
「いいじゃない。ずっと寝てるくらい。ふわぁ」
「年頃の女の子が何言ってるの。彩音、遊びに行く彼氏くらいいないの?」
「あー、いません。お姉ちゃん達と違って私は結婚が遅いかもねぇ」
「自分で言わないの」
軽く笑いながら私はふたりの姉の顔を思い出す。
どちらも二十代前半で結婚、それぞれ可愛い子供がいて相手の所で暮らしている。
今はこの家には私と両親の3人暮らしだ。
大学生になっても、家から通える距離と言う事もあり実家暮らし。
その方が楽でもあり、高校時代と何も変わらないでいる。
「のんきに笑ってる場合かしら。まったく、この子は……誰に似たのか」
「いいじゃない。好きな人ができたら、ちゃんと家に連れて来るし」
「それは何年後くらい?」
「予定ではあと十年後までには彼氏くらい作りたい」
「遅いわよ!? そんな甘っちょろい考えじゃ10年後にも一人だわ」
母親からもひどい言われようだった。
高校時代に遊んでおかなかったことを悔やむ。
そもそも、恋愛と言うか、異性に縁もなく。
周囲が彼氏彼女だと騒いでいた時期を普通に何もなく過ごしてきてしまった。
大学生になっても、恋愛や合コンに興味らしい興味を持てず。
今も私には彼氏と呼べる異性のお相手が影すらいない。
「大丈夫だってば。私は私のぺースで恋愛するからご心配なく」
「彩音はマイペースすぎるのよ。少しは安心させて」
「従兄の朔也君みたいにとっかえひっかえ、相手を変えるみたいに?」
「……貴方のマイペースを少しだけ尊重するわ。ああなっては欲しくない」
近所に住んでいた従兄は頭が良くて、良い所の大学に通っていた。
ただし、非常に女癖が悪くて親戚内でも悪評が目立っていた。
「朔也君と言えば、今は田舎で教師してるんだっけ?」
朔也君。
私の従兄で、実のお兄ちゃんみたいな存在だった。
現在は教師をして、なぜか田舎暮らしをしているらしい。
「都会から逃げるように田舎へ。女性問題を抱えていたのかしらねぇ」
「それはありえるかも」
「あの子の事はいいけど、彩音も色々と考えておきなさいよ? 将来、これからどうするのか。就職するのか、結婚するのか」
これからの将来なんて明確なビジョンがまだあるわけではない。
就職先なんてまだ当分先の話だ。
「いつまでも実家暮らしは親としては嬉しい反面、出て行ってもらいたい気持ちもあるの。一人暮らししてみるのもありかもしれないわ」
「えー、炊事洗濯、面倒くさい。結婚して子育てする自信もない。やだやだ」
「こ、この子は……このままじゃダメだわ。一人暮らしでもさせようかしら」
確かにね、いつまでもこんな風に実家くらしもよろしくない。
そちらも、いつかは考えておくことにする。
「そうだ、彩音。貴方に用事があったのよ。さっさと着替えてちょうだい。いつも通り、野菜を持って行って欲しいの」
「おじさんのところへ?」
「そうよ。またあの人がスイカができたって何個も収穫してきて。頼んだわ」
「はいはい。任せておいて」
お父さんが趣味で自宅の庭を使って家庭菜園をしており、そこで出来たスイカを持っていくのだ。
ちなみに夏に入り、ほぼ毎日のようにスイカを食べている。
正直、飽きつつあるくらいに。
なので、おすそ分けと言う名の作りすぎた野菜の処分もよくあることだった。
私の父親の弟である叔父さんの家は歩いて五分くらいの近場にある。
インターホーンを鳴らすと、叔母さんが優しく出迎えてくれる。
「こんにちは、叔母さん。これ、母から持っていくように頼まれたスイカです」
「あらぁ、立派なスイカね。いつもありがとう、彩音ちゃん。ほら、暑いでしょ、何か飲み物を淹れるわ。中に入って」
暑い夏、外を少し歩くだけでも暑くて大変だ。
叔母さんに誘われて、リビングに入ると、叔父さんが雑誌を読んでいた。
「おや、こんにちは。彩音さん。大学生生活は楽しいかい?」
「はい、とても楽しいですよ。毎日、充実しています」
「彩音ちゃんがスイカを持ってきてくれたのよ。他にも野菜をたくさんもらったわ」
「あぁ、そうか。ありがとう。兄貴は家庭菜園を楽しんでるようだ」
「菜園が父の趣味ですから。とはいえ、もっと作る量を考えてほしくて。野菜を作っても、うちだけで食べきれる量じゃないんですよね」
今は両親と3人暮らし、姉ふたりは既に結婚して家を出ている。
趣味で野菜作りはいいのだけど、考えもなしにあまり作られても困る。
なので、こうして近所に住む叔父夫婦におすそ分けする事も多い。
「はい、どうぞ。アイスティーでいいかしら」
「ありがとうございます。ん、冷たくて美味しい」
叔母さんが淹れてくれたアイスティーを飲む。
暑さを忘れるような冷たさが心地よい。
「彩音ちゃんが来てくれると嬉しいわ」
彼らには一人息子がいて、私も小さい頃はよく可愛がってもらっていた。
鳴海朔也、私が“朔也君”と呼び慕う男の人。
大学卒業後は教師となり、地方へと行ってしまい会っていない。
「そう言えば、朔也君はどうしているんでしょうか?」
「朔也? あまり連絡もないが、元気にやってるんじゃないかな」
朔也君はある意味、親戚中から注目されている。
昔から成績がよくて、誰もが知る一流大学に現役合格。
将来は官僚かエリート企業に就職する道を進むと思いきや、選んだのはまさかの普通の教師の道だった。
まだ私立ならまだ分かるけど、なぜか公立高校の教師になった。
しかも、赴任先は田舎町という誰もが想像しない展開だ。
非常にもったいない選択をしていると、誰もが思った。
「美浜町でしたっけ。昔、叔父さん達が暮らしていた場所ですよね?」
「海の綺麗な町だが、アイツが再びあの町に戻るのは想像していなかったな。教師になるだけなら都会の方が給料の面でもいいだろうに」
「あの子はあの子なりに考えたんでしょう。悪い事ではないわ」
叔母さんはそう言うけども、叔父さん的にはちょっと残念と言った風に見える。
息子が一流大学に入ったと言う事でいろいろと期待していたんだろうか。
「彩音ちゃんは大学生活はどう? 楽しんでる?」
「えぇ。実は民俗学のサークルに入って、活動をしているんです。今まで興味がなかったんですけども、意外と面白いんですよ」
「ほぅ、民俗学か。僕の友人も大学時代にそう言うのを調べていたよ」
「この夏にフィールドワークでどこか調べに行こうと思っているんですけど、何か面白そうなテーマがないか悩んでいるんですよね」
早くテーマを決めたいのだけど、中々、思いつかない。
すると、叔父さんは「そういえば」とある話をしてくれた。
「僕達が以前に住んでいた美浜町と言う町にも、人魚伝説があったな」
「人魚伝説ですか?」
「日本は周囲を海に囲まれた島国だ。人魚伝説ってのは日本各地にある話なんだ」
人魚、それは架空の生物。
身体の上半分は人間で、下半分は尾びれのついた魚のような存在。
古くから世界中で人魚という伝説はいくつも残されている。
「初めて調べてみるテーマとしてはいいんじゃないかな」
「なるほど。初心者の私にはポピュラーな伝説の方が調べやすいですね」
もちろん、半分人間で半分魚の生物が現実に存在するとは思っていない。
大抵はジュゴンやアザラシなどの海洋生物を見間違えただけのことだと思う。
けれど、日本から古く伝わる人魚という存在には興味があった。
「興味があるのなら、ちょうど朔也も美浜町にいる事だし、連絡を取ってみると良い。どうせ、有給消費で暇をしている頃合いだ」
テーマが決まれば早いもので、話はどんどんと進んでいく。
叔父さんの提案で叔母さんが朔也君に連絡をしてくれる事になった。
人魚伝説を調べるために約一週間ほどの滞在したい。
突然の提案に朔也君も快く承諾してくれた。
私は急な話しながら、美浜町に出発する事になった。
当日になり、私は電車を乗り継いで朔也君の住む美浜町にやってきた。
期待に胸を膨らませ、初のフィールドワークが始まろうとしている。
揺れる電車の車窓から見えるのは真っ青な海だ。
「そう言えば、私がここに来るのは二度目なんだっけ」
私がまだ幼い頃に、家族で当時の叔父夫婦が住んでいた家に遊びに来たらしい。
姉さんたちなら記憶に残っているかもしれないけども、私はまだ4歳程度だったらしくて、覚えている事はほとんどない。
けれど、幼い私の記憶にあるひとつの光景。
「赤い夕焼けが綺麗だった。あれはこの海の記憶なのかな」
小さな頃に見た美しい夕焼け。
赤く、赤く染まる空と海が広がる景色。
幼き頃より記憶に焼き付いてるその光景がここなのかもしれない。
『次は美浜です。お降りの際は足元にご注意をしてください――』
電車のアナウンスに私はハッとする。
「美浜町。私が下りる駅はここね」
荷物を持って電車を降りる準備をした。
「暑いなぁ……でも、良い風が吹いてる」
駅からすぐに真っ青で綺麗な海が見えた。
穏やかな雰囲気の田舎町。
蒼い海が見える街、それが美浜町だ。
「夏休みに観光気分でっていうのもいいかもね」
私が期待しながら駅のホームで従兄を待つ。
約束の時間になる少し前の事だった。
「――えいっ」
「きゃ、きゃっ!? い、いきなり、なに!?」
背後から誰かに抱き付かれてびっくりすると、そこにいたのは、
「よぉ、彩音。元気にしてたか?」
久し振りに会う彼は優しい微笑みを見せる。
鳴海朔也と言う女好きの従兄との再会。
私の夏を特別なものへと変えていくことになるなんて――。