第7章:つまずきの石《断章1》
【SIDE:鳴海朔也】
「……また、来ていないんですか?」
「そうよ。この前、一度だけ私の授業にも来てくれたけど不登校が続いてるわ」
4月中旬、俺も教師としての生活に徐々に慣れはじめていた。
放課後の職員会議が終わった後に、村瀬先生から話があると呼びとめられた。
問題の生徒がひとりだけいる。
彼女の話は以前から何度か話題にあがっていた生徒のことだ。
黒崎千津(くろさき ちづ)。
入学式以降、よく授業を休みがちな生徒で俺の授業も何度か休んでいる。
初めは様子を見ているだけだった村瀬先生も自分のクラスの生徒だけに気になっている様子で、彼女を呼びだすかどうか悩んでいるようだ。
「不登校なら不登校で問題を解決してあげたいじゃない」
「……そうですね。相談ごとがあるのなら、相談にのるべきでしょう。彼女の親にはこの事を伝えてあるんですか?」
「それが、中々、伝えづらいというか……」
黒崎の両親は昨年に離婚しており、今は母親と二人暮らしだそうだ。
その母親は町議会の議員で、いわゆるお偉い人らしい。
「仕事も忙しいみたいなのよ。町議員でしょ。下手に動きたくないわ」
「それが本音ですか。ですが、黒崎の事を思えば相談せざるをえないでしょう。彼女の現状を親御さんが知っているのかどうか……その辺も確認する必要があるでしょうし。一度、黒崎を呼びだすというのは?」
「それしかなさそうね。うぅ、こういうの苦手なのに」
村瀬先生は別に面倒事を背負いたくないわけではない。
非常に感情移入しやすい性格のために、自分でも踏みとどまっているだけだ。
昨年度は新人教師ながら生徒の問題に深入りしすぎて、ちょっと問題になったらしい。
それを若さと呼ぶ、誰もがする苦い経験のひとつである。
「……と、言っても私の授業はほとんど出てくれてないのよね」
「俺の授業は比較的、参加してくれているようですね」
俺達は出席名簿を眺めながらよく出ている授業を調べ始める。
数学、化学……理系科目の授業は出席が少ない。
逆に国語や社会科など文系の科目の授業は出席率が高い事が分かる。
「……彼女は文系なんですかね」
「だったら、私の英語も文系科目だってば。私、嫌われてる?」
「どうでしょう。入学試験の点数はどちらの科目もよかったんでしたっけ?」
「……文系、理系ともに優秀。ほぼ満点だそうよ。期待してたのになぁ」
彼女はそう呟きながら、俺に何枚か彼女の資料を手渡す。
「家柄優秀、成績良好、うちの学校に入った生徒の中でもかなり優秀な方よ。でも、入ってみれば、登校すら中々してくれない。これって、何なのかしら」
彼女は困り果てているようだが、悩んでいても仕方がない。
「話だけでも聞いてみましょう。俺の授業、明日は4時間目にあるので昼休憩に生徒指導室に連れてくるのはどうでしょうか?」
「その後の5時間目は私の英語があるけど、ボイコットされそうだし。お願いできる?」
「はい。本人がどう考えているのか、それが大事でしょう。悩みがあるのなら解決するべきです。……完全な不登校になる前にね」
俺にも不登校になった経験がある。
2ヶ月間、精神的なもので登校できなかったあの過去を思い出す。
ああいう感情は思春期独特のものだ。
黒崎にもそう言うものがあるのではないか。
「俺も以前、不登校になったことがあるんですよ」
「え?そうなの?」
「イジメとか問題があったわけではなかったんですけど、精神的に落ち込むことがあって、それがきっかけでどうしても行けなくなってしまった。きっかけひとつで何もできなくなってしまう恐ろしさがあるんです」
無気力と不安、思春期って言うのは難しい時期でもある。
そこでのつまずきは人生に大きな傷を残す事もある。
そうならないために、俺達もできる事をしなくてはいけない。
「何となく分かる気がするわ。黒崎さんにも何かあると、鳴海先生は思うんだ?」
「えぇ。家庭的な事情、精神的な不安。何かしらの不安があると思います。ただ、授業をサボってる生徒には思えないんですよね。俺の授業を受ける光景は真面目でサボりをするような生徒には見えませんでしたから」
彼女にも事情があって、授業に出ていないのだろう。
それを知り、相談に乗る事で解決できることもある。
「黒崎さんのこと、一度よく調べて見るわ。明日、よろしくね」
「分かりました。連れてこれるかどうかは分かりませんが」
「逃げられたら、また次にしましょう。無理して、嫌われても意味がないもの」
人が抱える事情は様々だ。
それゆえに、誰か他人に頼ることも必要な場合がある。
黒崎は何に悩み、苦しんでいるのだろうか?
俺はそれが気になっていた。
翌日の朝、俺が学校に出勤して来ると難しい顔をしている村瀬先生がいた。
彼女は「ちょっと来て」と俺を呼ぶ。
「何かありましたか?」
「中学に私の知り合いの教師がいるの。彼女から、去年の黒崎さんの話を聞いたのよ。ちょうど当時の担任だったので詳しい話が聞けたわ」
「何か分かったんですか?」
村瀬先生は小さくため息をつきながら俯き加減になる。
「黒崎さんってね、本当はこの高校に通う予定はなかったの」
「というと、私立高校に通うつもりだったとか?」
「……えぇ、中学でも優秀。学年トップクラスの成績で、私立高校もしくは、進学校で有名な偏差値の高い高校に通う予定だったらしいわ。実際に去年の夏まではすごく順調だったみたい。彼女に問題が起きたのは夏が終わった中学3年の秋よ」
その事件が起きたのは中学3年の秋、夏休みが終わった直後のことだったと言う。
彼女の人生を変えてしまう、ひとつの問題が起きた。
「彼女の母親が町議会の議員をしている話は言ったわよね。それ、少し違ったわ。正確に言うと両親ともに町議会の議員だったみたい。しかも、父親は議員でも上位の力のある議員さんだったの。そして、去年の夏、議会である事が起きた」
彼女が話すには去年の春頃から議会内で揉め事が起こっていた。
美浜町を観光地として推進する町長側の『改革派』と美浜町の自然を守る『保守派』。
過疎化を止めるために必要だと主張する改革派だが、その急激な変化で崩れていくものも少なくないため小さな衝突が起きていた。
自然や町の人々の感情、守りたいという保守派の意見もあるだろう。
二つの派閥の対立、町をどうするのかで揉めることはよくあることだ。
「運が悪いと言うか、タイミングが悪いと言うか、その改革派の中心が黒崎さんの父親。保守派の中心が黒崎さんの母親。意見が二つに分かれてしまって……結果的に夫婦の中も傷つけてしまった。ようするに離婚したのよ」
「それが原因で、ですか?」
「さぁ、どうかしら。夫婦仲と政治、意見の対立だけが離婚原因ではないでしょう。ああいうものは、長年の蓄積が原因だもの。あくまでその対立は致命的な亀裂を生んだきっかけでしかないのかも。とにかく、嫌な時期に両親が離婚してしまったのよ」
子供が受験で忙しいって時に両親の離婚か。
最悪のタイミングだな。
それが意図することは、容易に想像できた。
「……黒崎は、私立にも進学校にも進学することができなかった」
「当然でしょう?あんな時期にそれだけ大きな問題が起きれば、精神的にも環境的にも、対応が難しいわよ。結局、その私の先輩も悩んだみたいだけど、彼女にこの高校への進学を勧めたわ。本人は嫌がっていたけど、仕方なかったのよ」
両親の離婚のタイミングの悪さ。
私立高校や進学校を受験すら出来ず、嫌々ながらもここに来た。
それが彼女の不登校の原因なのだろか?
「黒崎さん、一流の大学に行きたかったみたいなの。ほら、この高校って就職する生徒がほとんどで、大学に行く生徒が少ないでしょう」
「進学率はほぼ2割くらいでしたっけ。それでも、学校としても進学する生徒にはそれなりの対応はするんでしょう?」
「それはするけど、進学しても3流大学がいい所よ。私もそうだったし。一流大学に行くにはやっぱり、学校の環境って大切だと思うの」
「私立高校や進学校を望んでいた黒崎にはここは退屈なのかもしれません」
高校に何を求めるか、と言うのは大きな問題だ。
学校選び、都会の高校なら違う高校に通うのは容易いが、あいにく田舎の高校には選択肢はほとんどない。
「将来の夢、未来……そう言うのを考えて高校を選ぶものじゃない。だから、今の自分の立場が不満なんじゃないのかな」
「……躓き(つまずき)の石、ですか」
人間って言うのは石という名の障害に、つまずいて転ぶと中々立ち上がれない。
そうなる前につまずくのを防ぐのが大切なのだ。
だが、もしも“つまずきの石”に転んでしまい、“挫折”と言う心の傷を背負ってしまうと、立ち上がるのは難しくなってくる。
特に思春期なんてものは一番敏感な時期だからな。
「本人に意思の確認はしておくべきですね」
「そうね。こんな話を聞いちゃったら、無視するわけにはいかないわ」
石につまずき転んでいる状態ならば、立ち上がらせるように手を差し伸べる必要がある。
本来、自分で立つのがベストだが、それが出来ないのなら周りの人達が助けてあげる。
それこそが、つまずきの石から救われる方法だ。
「……鳴海先生は挫折の経験ある?」
「何度もつまずきの石に転んできましたよ。あいにく、あまり理想的な人生を送っていないんで。でも、今、こうして教師をしている。転んでも、怪我しながらでも、俺は立ち上がろうとしている。多くの人の支えのおかげでですが」
「私はそういうの、深く考えないポジティブ思考だから、本当の意味でも挫折ってないのよね。何とかなる、そういう気楽な考えで生きてきたから」
常に前向きそうな村瀬先生らしい言葉だ。
彼女は「私に黒崎さんの相談に乗れるかしら」と苦笑を浮かべる。
「……まずは相手の話を聞いてみましょう」
「うん。それから始めましょうか」
話だけでも聞いてみよう、俺達はそう思っていたのだ。
だが、状況は俺たちが考えているよりも深刻だったのである。




