第2章:決断を要す《断章3》
【SIDE:鳴海朔也】
由愛ちゃんを泊めた翌日。
『朔也さん、しばらく私をこの家に泊まらせてもらえませんか?』
星野家にいれば何も変わらない。
しばらく環境を変えたいと言う由愛ちゃんに、俺は「いいよ」と許可をした。
少しでも、外に出ることで彼女に変化が起きればいい。
この件はあとで雫さんにもこっそりと伝えておかないといけないな。
朝食を食べ終わった後、彼女と一緒に町を歩いていた。
昨日、自分にはやりたい事が分からないと、ショックを受けてしまって落ち込んでいるままなのだ。
「考えても、これがやりたいっていうのがないんです。私、何がしたいんでしょう。自分が何も考えずに生きてきたことに、ショックです」
由愛ちゃんは箱入り娘。
疑いもなく素直な心で、両親に言われるがままに生きてきたんだろう。
茉莉と違って我が侭なんて言った事もなさそうだ。
「……家出しても、何も変わりませんね」
「変えていけばいいんだよ。そうやって由愛ちゃんが自分に気付いた。今からでも変われるさ。何をしたいのか、何をやりたいのかを見つけられるはずだから」
「はい、頑張ってみます」
前向きに何か目標を見つけられたらいいんだけどな。
彼女と一緒に海辺の道を歩いていると、堤防で釣りをしてる老人とすれ違う。
「小山田のおじいさんですね」
「あぁ、いつも朝から釣りをしてるな。じいさん、元気にしてるか?」
小山田のじいさんは堤防沿いで毎朝のように釣りをしてる。
年は80過ぎで、昔は漁師として海に出てたらしい。
釣り好きゆえに情報力もあって、今、この美浜の海で一番旬なポイントはどこだとか、よく教えてもらったりするのだ。
「おぅ、鳴海先生か。おはようさん。そっちは星野のお嬢さんか。ふたりが一緒にいるのは初めて見る。また先生の悪い女癖か? ひひひ」
「ええい、嫌なにやけ顔をしないでくれ、じいさん」
俺はこの町の人々に先生と呼ばれる事が多い。
ただし、女好きと言うのも同時に知られているのでからかわれるのも多いのだ。
「おはようございます、小山田のおじいさん。腰の具合はどうですか?」
「ダメだなぁ。ここ最近は辛くてしょうがない。わしも年だから無理はできん」
「釣りも影響してるだろ。それでも、釣りはやめられないか?」
「わしが釣りをやめる時は死ぬ時だな。らいふわーくというやつじゃ」
一生海釣りを愛する、そういう生き方にはちょっと憧れたり。
じいさんは釣り糸を海に垂らしながら、あごひげを撫でる。
「相変わらず、星野の真ん中のお嬢さんは優しいのぉ」
「じいさん、星野家三姉妹の事を知ってるのか?」
「そりゃ、この辺りの子たちは皆、幼い頃から知っておるでな。星野の上のお嬢さんはしっかりしとるが、雰囲気が怖いの。挨拶されただけで、曲がった背骨がぴんっと伸びそうになるくらいじゃ」
「……雫さん、じいさん相手でも怖がられてるし」
悪い人じゃないのは皆が知ってるんだが、怖い物は怖いのです。
あらゆる意味で美浜町の魔女だな。
「そうだ、じいさん。最近、よく釣れる場所は……」
俺はいつものようにじいさんに釣りのポイントを訪ねてからその場所を去る。
隣を歩いてた由愛ちゃんが尋ねてくる。
「小山田のおじいさんと朔也さんはよくお話をされるんですか?」
「ん? まぁ、あのじいさんが釣り好きなのは有名だからさ。俺も釣り好きだから、いろんな話を聞かせてもらってるだけ。やっぱり、長年、この美浜の海を知ってる人間の情報ってのはすごいよね」
「そうでしたか。朔也さんは釣り好きなんですね」
「趣味のひとつかな。この町に帰ってきてから、俺の趣味は増えたよ。スキューバもするし、バイクも乗る。暇な時はそうやって、趣味を楽しむようにしてる。趣味を楽しめる仲間もいるからね」
スキューバの時は神奈と、バイクの時は村瀬さんと一緒に、と行く相手も違うが。
「スキューバダイビングは雫姉さんもよくしてますよ」
「そうなんだ?」
「はい、姉さんは高校時代、インターハイに出たことがある水泳選手だったので、泳ぐのが好きみたいです。私も泳ぎを教えてもらっていました」
へぇ、雫さんってそんなに泳ぎが上手だったんだ。
一度、スキューバに誘ってみてもいいかも。
「姉さんは夏場になると、よくひとりで、スキューバを楽しんでます」
「……えっと、おひとり様で?」
「はい。姉さんはひとりが好きですからね。ひとりで花火をしたり、ひとりでカラオケにいったり、ひとりで旅行したり、ひとりで……」
「も、もういいよ、由愛ちゃん。それ以上は聞いちゃいけない気がする」
やめてあげて、雫さんが同情したくなるくらいに寂しく思えてきたから。
おひとり様って言葉を使うのも可哀想な気がした。
「由愛ちゃんはスキューバとかしないの?」
「しませんね。実は私、あんまり泳げないんです。お魚を見るのは好きなんですけど」
「そっか。楽しんだけどなぁ。それじゃ、普通に海に遊びに行かない?海で泳ぐくらいならいいだろう?今日なんてすごく天気もいいし。気分転換にもなるよ」
俺がそう提案すると由愛ちゃんは笑いながら「はいっ」と頷いた。
水着を取りに戻る事になり、由愛ちゃんは家出したばかりの星野家に戻る。
しばらくは、由愛ちゃんは俺の家で過ごす事になる。
他に必要なものも取りに来る事にしたのだ。
「……こういう形で、あっさりと戻ることになるなんて思いませんでした」
ためらいながら、彼女はゆっくりと星野家の玄関をくぐりぬける。
「いいじゃないか。雫さんはお仕事でいないんだろ?」
「だと思うんですけど。ショコラの事も気になりますから。昨日はショコラのことまで考えずに家出をしてしまって……」
星野家にお邪魔すると、クーラーのきいたリビングで猫と遊ぶ茉莉がいた。
こちらに気付くと笑顔を浮かべて近寄ってくる。
「あっ、おかえりっ! お姉ちゃん、帰ってきたんだ?」
「ちょっと忘れ物を取りに来ただけです。家出はまだ継続中です」
「えー。早く帰って来てよ。雫お姉ちゃんとふたりは辛いの」
笑顔が一転、ちょっぴり涙目で嘆いてる。
本当に雫さんが苦手なのがよく分かるな。
「茉莉。雫さんってそんなにひどい人じゃないだろ」
「妹に平気で熊肉食べさせる姉は嫌いだよ。センセー、ひどいと思わない?あれは魔女だね、魔女。私はもう雫お姉ちゃんは信頼しませんっ」
不満そうに姉に文句を言う彼女。
先日、俺も含めて、騙されて熊肉を食べさせられた。
あれが決定的に姉妹の溝となり、拗ねているようだ。
しばらく茉莉の試練は続きそうだな。
これを機会に雫さんと姉妹仲が仲良くなればいいのに、と思う。
「茉莉ちゃん。ショコラのお世話を頼んでもいいですか?」
「大丈夫。しょこたんは私も大好きだから。お姉ちゃんがいない間に餌付けしまくって、私を一番大好きになってもらうの」
「ありがとう。ショコラもごめんなさい。私が面倒をみてあげられなくて」
そう言って、ショコラの頭を撫でると「にゃー」と寂しそうに鳴く。
そのまま、自室に荷物を取りに言った由愛ちゃん。
その間に茉莉は俺に尋ねてくる。
「由愛お姉ちゃん。センセーの所にずっといるつもりなの?」
「しばらくは星野家を出たいらしい。それが彼女を変えられるなら、と許可した」
「そっか。お姉ちゃんも反抗期ってやつだね」
「ちょっと違うような気もするが。誰だって自分を変えたいと思う時はあるさ。由愛ちゃんと同じようにお嬢様育ちなのに、茉莉は自分の夢も希望もあるよな」
同じ姉妹でも違うふたり。
「由愛ちゃんは自分が何をしたいのかも分からないのに」
「私は自由に自分の生きたいように生きてるだけ。由愛お姉ちゃんが自分のしたいことが見つけられないって言うのは、子供の頃から結婚する事が決まってたからだと思うの。どんなに自分で将来の夢を考えても諦めなくちゃいけないじゃない」
生きてきた環境、お嬢様としての立場。
由愛ちゃんは普通の子とは少し違う生き方をしてきた。
それゆえに、悩みもあるわけで。
「茉莉みたいにもうちょっと我が侭になるべきだろうに」
「私、我がままじゃないっ。自分の欲望に素直なだけだもん」
「同じ事だっての。でも、そうか。由愛ちゃんには欲望がないのかもしれない」
ああしたい、こうしたい。
誰だって欲はあるのに、由愛ちゃんにはそれがあまりない。
何でもある満たされた環境に育ち、自分の生き方を他人が決めてくれてきた。
我が侭も言わず、反対もせず、素直に生きていきた純粋な彼女。
「ちなみに聞くが、雫さんの時はどうだったんだ? 結婚話とかあったんだろ」
「雫お姉ちゃん? 昔から両親相手にもひるまずに、自分の考えを押し通す人だよ。『親の決めた人とお見合いはしません。好きな人じゃないと結婚しません。私は私の生きる道を自分で選んで生きていきます』。小学2年生の時の姉の宣言です」
「……か、彼女らしいね」
小2でそれだけはっきりとした事を言える彼女がすごい。
「未だに実現できてないけどな……ハッ、これ以上は俺が消される!?」
とにかく、雫さんのようになれとは言えないけど。
由愛ちゃんにも、そう言う自分の意思が必要だったんじゃないだろうか。
「お待たせしました、朔也さん」
「荷物は大丈夫?」
「足りなかったものは全部揃えました。ショコラ、茉莉ちゃん。しばらく、家には戻ってきませんけど、元気でいてください」
「うん。お姉ちゃんも元気でね。早く戻ってきて」
猫と妹に見送られて、由愛ちゃんはやんわりと微笑した。
次に星野家に戻るのは、少しでも変われたという実感を得てからになるだろう。
そんな由愛ちゃんの力になってあげたいと俺は思ったんだ――。