第1章:箱入り娘の家出《断章1》
【SIDE:鳴海朔也】
由愛ちゃんの口から語られたのは意外な言葉だった。
「私は……町を出ていく理由がないからです。前にも言いましたよね。私には以前に婚約者がいたことを。彼の家はこの町ではないので、彼と結婚していればきっと私はこの町から出ていく事になっていたでしょう」
「それがなくなったら、もう出ていく事はない?」
「……少し違います。私は、自分で自分の事を決めた事がないんです」
「決めた事がない?」
彼女は少し恥じらうように語り始める。
「お恥ずかしい話ですけども、私は自分の人生で一度も自分で決断した事がありません。子供の頃からずっとです。高校を卒業すれば婚約者と結婚すると親が決めてくれた道を歩み、それがダメになれば姉さんがカフェで働く事を進めてくれました」
「それは由愛ちゃんが望んだ事ではないのか?」
「いえ、そんなことはありません。それが普通の事だと思っていたんです。当たり前のこと。当たり前過ぎて、私は自分で自分の事を決めた事がないと気付きませんでした」
箱入り娘、と呼ばれるくらいにお嬢様育ちの由愛ちゃんだ。
大事な事は全て周囲が決めていた。
その決められた道をただ、歩み続けてきた。
そこに疑問を抱かなかったとしても不思議ではない。
「小さな頃から、目指す目標もなかったんです。由愛と言う名前のなのに、私には何一つ、夢がありませんでした」
「……由愛ちゃん」
「それでもよかったんです。私は今の日常が好きですから。不満もありませんし」
他人が大事な事を決めてくれる。
人生において楽なことだけども、本当にそれでいいのか?
自分の夢も持たず、それでよかったのか?
「でも、朔也さんを見ていて、私は気付いたんです。自分で何かを決めた事が私にはなかったということに。朔也さんは、東京で暮らしていたのに、この町で教師になる事を自分で決めたんですよね?」
「……そうだな。いろいろとあったけど、自分で決めた事だよ。俺の夢はずっと教師になりたいってことだったんだ。この町の教師になるのは、後押しをしてくれる子がいたけども、俺自身の決断だ」
千歳の後押しもあり、この町に戻ろうと思った。
その決断は、誰の責任でもない、自分自身の責任だ。
自分の人生は自分が決めなきゃ、責任を誰かのせいにしてしまうから。
大事な選択をする事が人生にはいくつもあって。
あの時、ああすればよかったって文句を言う相手は他人じゃいけない。
大切な決断の時ならなおさらだ。
自分自身が決めなければ、上手くいかなければずっと他人のせいにしてしまう。
上手くいかないときは誰かのせいにしてしまいたくなる、当然のことだけども。
でも、自分が決めた事なら自分の責任だからと後悔しても納得できるじゃないか。
「綺麗な夕日ですね」
俺達は海辺の夕日を眺めながら立ち止まる。
蒼い海に煌めき反射する赤い太陽の光。
見てるだけで癒されるような美しい輝き。
「……私は自分自身の人生を決めるような、大事な決断を要すことを、今まで一度も自分で決断した事がないんですよ」
「周りが決めた事に反対したい?」
「いいえ。皆が私の事を考えて選んでくれた事ですから。結果として、今の私は幸せですし、それを不満には思いません」
それでも、由愛ちゃんが表情を曇らせた横顔を見せる。
「朔也さん。私は一度も恋すらしたことがないんです」
「……初恋もないんだ」
「まだ、ですね。恋愛をした事がない私は、自分で誰かを好きになると言う事さえ決めたことないんだって思うと、何だか寂しく思えました。いずれ、私は親が決めてくれた方と結婚する事になると思います。それでも、私は……」
箱入り娘の悩み。
「私は恋くらいは自分で決めたいと今は思ってるんです。私は何も決められない、子供じゃありません。そんな風に、考えるようになってきました」
由愛ちゃんだって20歳の大人なんだ。
もう子供じゃない。
自分で決めなければいけない事はこれからの人生でたくさんある。
例え、箱入り娘だとしても。
「こんな風に考えるようになったのは朔也さんに出会ってからなんですよ」
「そっか。いい傾向なんじゃないかな」
「将来的にはちゃんと自立したいなって。私みたいな世間知らずじゃ、無理ですか?」
「そんなことないさ。ゆっくりと考えればいいんだよ。例え、間違ってしまっても、それは一つの経験だ。次に活かせるようにしていけばいい。自分の決めた事が失敗してもそれを恐れず、前に進んでいけばいつかは成功するからさ」
今の彼女にはいろんな経験を積むことが大切なのではないか。
些細なことでも、外の世界を知るなりするのも大事なことだ。
人は経験を積むことで、自分の中にいろんな事が積み重なる。
自分で考えて行動する、その当たり前の事を、今、由愛ちゃんはしようとしている。
「俺でよければ、いつでも相談にも乗るし、協力もするよ」
「ホントですか? 世間知らずですが、いろんなこと、教えてもらえますか?」
「もちろん」
「ふふっ。すごく頼りにしてますよ、朔也さん」
にっこりと笑う彼女。
その笑みはいつもの由愛ちゃんだ。
俺の好きな、彼女の笑顔――。
こんな可愛い妹みたいな女の子に頼りにされたら嬉しくなるだろ。
兄心をくすぐられるって言うか。
由愛ちゃんに頼られたい、そんな自分がいた。
その夜、俺はいつものように『居酒屋 相坂』を訪れる。
「いらっしゃい、朔也君。神奈がいなくなっても常連のままで嬉しいわ」
出迎えてくれる店長の美帆さん。
神奈がロイヤルホテルの別館の和風レストランに転職してしまい、今はアルバイトの子と共に店を切り盛りしている。
「美帆さんの料理も好きですからね。……おや?」
「……なんだ、鳴海か。珍しい所で会うわね」
「し、雫さんじゃないですか。どうも、こんばんは」
お店のカウンター席でお酒を飲んでいたのは雫さんだった。
意外な場所で、と言うのも何だな。
ここは彼女の親友、美帆さんのお店で来ていてもおかしくない。
「この店で雫さんに会うのは初めてですね」
「私はこの店をたまに利用するけど、言われてみたら確かにそうかも」
彼女はそう言いながらチューハイを飲んでいた。
俺は彼女の隣の席に座ると、「ビールといつものお任せで」と注文する。
「朔也君は雫と仲が良いのかしら?」
「違うわよ、美帆。私は別にこの軟派なロリコン教師と親しくない」
「相変わらず言葉がトゲトゲしいですね。あと、俺は軟派であっても、ロリではないです。そこだけは否定させてください、ロリではありません」
今の時代、ロリと教師だけは結びつけられると本当に困るから勘弁してほしい。
「あっそ。美帆。私じゃなくて、妹達が懐いてるのよ。家にもたまに来るし」
「いつもお世話になっています」
「……鳴海みたいな男がうちの妹達に悪影響を与えるのは嫌だわ。迷惑ね」
「ひどっ。そんな事はしませんから。そうだ、今日、由愛ちゃんに会いましたよ」
俺はビールを飲みながら、美帆さんが作ってくれたカキフライを食べる。
「知ってる。さっき、由愛から聞いたわ。片倉神社に奉納品を持っていくのを手伝ったんでしょ。そこは褒めてあげるわ。私が忙しくなければ、あの子の代わりに行ったんだけど。由愛に何もしなかったでしょうね?」
そんな怖い顔をしないでもらいたい。
俺ってホントに信用がないな。
「何もしてません。そうだ、雫さん。由愛ちゃんって、自分で何も決めた事がないって言ってたんですがホントですか?」
「……何の話?」
俺は彼女が悩んでいる事を雫さんに話す事にした。
由愛ちゃんは自立したがっている。
普通の人が当たり前のように決断する事が、できるようになりたいと思ってる。
その話をすると、どこか雫さんは不機嫌そうに、
「由愛が自分で決める? また変な事を考え始めたものね」
「変な事ですか? 前向きな、いい傾向だと思いますよ?」
「はぁ。鳴海はあの子の事をまだ何も分かってない」
雫さんは姉として妹の由愛ちゃんを大事に想ってる。
それを良く知る俺には次の言葉は信じられなかった。
「いい? あの子はか弱い由愛には自立なんてまだまだ早い。ていうか、無理ね。世間知らずのあの子に、何ができるっていうの」
あまりにも厳しい言葉だ。
妹の由愛ちゃんにそんなキツイ言葉を言うなんて正直、驚いた。
「そこまで言いますか」
「箱入り娘の度合いが私や茉莉なんかと比べ物にならないくらい違うの。あの子は優しくて、誰にでも愛される子よ。それゆえに、皆があの子の事を可愛がってきた。そんな優しい世界で生きてきた子が、自立なんてできるわけがない」
「そんな事はないと思います。今からでも変わる事くらいできるはずです」
「私は別に意地悪でそう言ってるんじゃないの。私はあの子を生まれた時から見てきてる。何も決められないのは、何も決める必要がなかったから。あの年で、何も決められない子が、すぐに自立なんてできない。世間はそんなに甘くない」
美帆さんは苦笑いしながら「お姉ちゃんは厳しいねぇ」と言って、少し雰囲気が悪くなった場を和まそうとする。
その時の俺は何も言い返せずに、ビールを飲むことしかできなかった。
由愛ちゃんの悩みがあんな事件を引き起こすことになるなんて思いもしなかった――。