序章:お嬢様の悩み
星野家三姉妹編。星野由愛編です。
【SIDE:鳴海朔也】
夏の美浜町は一年で最も賑やかになる。
綺麗な美浜海岸に訪れる観光客も多いし、温泉目当ての客もいる。
美浜町もリゾート開発にも力をいれているので、海側はずいぶんと発展してきた。
ただし、それはやはり夏限定の観光効果と言わざるを得ない。
夏が過ぎれば客も減り、また寂しい田舎町に逆戻りというわけだ。
そんなワケで、田舎町が賑やかになる夏が今年もやってきた。
「せっかくの休日もやることがないってのは……」
俺は海沿いの道を散歩がてらに歩いていた。
今日は快晴、どこまでも続く青空と海を眺めながら、
「暇だな」
言葉に出すのも悲しいが、俺はかなり暇なのである。
教師の仕事は夏休みになると研修が多くなり、有給休暇の消化やらと休みも取れる。
そんなわけで、溜まっていた有給を使い、俺もしばらくお休みが続くわけだが、遊び相手もいない。
神奈も千沙子も、最近は本業が忙しいのだ。
何でも、美浜ロイヤルホテルの別館ができる事になり、神奈もそこで働くようになった。
千沙子もホテルが夏の時期の忙しさもあり、しばらく会えていない。
俺の仕事が休みでも、友人達が休みと言うわけでもなく。
こうして、ひとり、海を眺めていると言うわけだ。
「やばいくらい寂しい奴だと思われたらどうしよう」
ちくしょう、こうなったら、観光客の女の子でもナンパでもしようか。
そう考えながら歩いていると、坂道を下りてくる一人の女の子と出会う。
ワンピース姿の少女はこちらに気付いて、片手を挙げた。
「あら、朔也さん。こんにちは」
「よぅ、由愛ちゃんか。今日はひとり?」
星野由愛(ほしの ゆめ)。
この町では絶大な力を持つと言われる名家、星野家のご令嬢。
可憐な容姿と優しく穏やかな性格の天使。
星野家と俺とは多少の縁があり、それなりに仲良くしてる相手だ。
「父のおつかいです。これから片倉神社の方に行く予定なんです」
「片倉神社?」
片倉の神社はこの町で一番大きい神社だ。
先月には夏祭りも行われて、青年会の俺もお手伝いに行ったものだ。
彼女は何やら袋を重そうに抱えている。
「荷物持ちでもしようか? 何か重そうだし」
「いいんですか?」
「いいよ。俺も暇してるからさ。神社ならここから歩いて時間もかからない」
「すみません。お願いします」
由愛ちゃんに微笑まれると大抵の男は虜になると思う。
思わず魅了されてしまう天使の微笑。
笑顔一つで他人を幸せにできる力が彼女にはあるのだ。
彼女の姉、雫さんは睨み一つで他人を恐怖のどん底に落とす力があるけどな。
いまだにあの魔王のお姉さんと由愛ちゃんみたいな天使が姉妹だと思えない。
「……この袋の中身はお酒か?」
「はい。地酒だと思います。私の父と片倉神社の宮司は古い知り合いだそうで。よくこう言う贈り物をしているんです」
「個人的な贈り物と言うよりも、いわゆる、奉納ってやつかな」
星野家みたいな名家なら神社などの地域との繋がりもあるだろう。
俺達は片倉神社に向けて一緒に歩き出す。
「それに、人魚の祭祀も近いですから」
「……何それ?」
初耳だな。
片倉神社の祭りと言えば、7月の夏祭り以外、俺は知らない。
「知りませんか? この町には古くから伝わる伝説があるんです」
彼女は防波堤の向こうの海を指さすと、その先には小さな島がある。
「朔也さんはあの島をご存知ですよね?」
「黒重島だっけ? さすがに島の名前くらいは知ってるよ。無人島だよな」
あの島は泳いで渡るにはさすがに遠いから行った事はない。
周囲の波が荒く、容易に近づけない無人島だ。
渡るには船を使うのだと聞いているくらい。
「一般的にはそう呼ばれていますけど、こういう呼び名もあるんです」
由愛ちゃんは人差し指を軽く口元につけて語る。
「――人魚の島」
人魚?
「あの身体が半分魚って言う、あの人魚か? マーメイドと呼ばれるトップレスなお姉さんを想像してしまうアレ?」
「はい。かつて、人魚伝説があった島らしくて、今でも年に一度は人魚祭りと言う、お祭りをするんです。地元住民くらいしか集まらない小さなお祭りですけど。片倉神社の宮司が代々、あの島の所有者で管理を任されているんです」
地元住民でも知らない事はあるものだ。
そんな話を聞かされて俺は「人魚伝説なんてあったんだ」と驚いていた。
普通に人魚と言われれば綺麗なお姉さんがトップレスなんて妄想をしてしまいそうになるのは男だけだろうか。
「ただ伝承があるだけで、観光などにはいかせてません。知名度も低いです」
「住民である俺も知らないからな」
確かに、伝承なんてものを利用するのは観光の基本だ。
どんな些細な伝承も、大きく扱えば観光地になる。
「どんな話なんだ?」
「ある嵐の夜に漁師が船を転覆させてしまいます。溺れてたどり着いたのがあの人魚の島でした。そこで彼は美しい人魚に出会い、彼女と共に嵐が過ぎ去るのを待つんです。そして、ふたりで綺麗な朝焼けを見たというお話です」
「……オチはそれだけ? それで2人は恋に落ちたとか?」
「残念ながら、そういうお話ではないみたいです」
人魚と共にみた朝日か。
伝承としてはありがちなようで、ちょっとオチが弱いような。
「人魚伝説って言うのはどこの綺麗な海にでもありますからね。特別に珍しいものではありません。それでも、人魚と一緒に見た朝焼けってどんな綺麗なものだったんだろう、と興味はありますけど。朔也さんはどうですか?」
「俺か? そうだな」
人魚はトップレスだったか、そこが問題だ。
と、さすがに由愛ちゃん相手に言えるわけもなく。
「その人魚って由愛ちゃんみたいに可愛いかったのかな?」
「またそう言う事を言って」
「本音だよ?」
「くすっ。朔也さんは本当に女の子を褒めるのがお上手ですね」
少し照れた彼女が可愛く感じる。
互いに笑いあいながら、俺達は片倉神社にたどり着いた。
ちょうど、宮司さんが境内の掃除をしていたので声をかける。
「こんにちは、倉岡さん」
「おや、星野のお嬢さんじゃないか。こんにちは」
「父のお使いで来ました。こちらのお酒を、と」
「あぁ、いつもすまないね。ありがとう。隣は、鳴海の先生じゃないか」
宮司さんとは俺も何度か祭りの手伝いをした時に話した事があるので、顔を覚えてもらっていたようだ。
「先生とお嬢さんは仲がいい様子だね」
「私にとってはお兄さんのような人なんですよ」
「そうだったのか。いや、鳴海先生にはお祭りの時にお世話になってね。まぁ、どうぞ。この熱い中を来て下さったんだ。お茶でも飲んで行ってくれ」
宮司の厚意に甘えて、俺達二人は社務所で冷たいお茶をもらう事になった。
話を終えて、夕暮れの道をふたりで歩く。
「人魚伝説、意外と面白かったな」
「そうですね。詳しいお話を聞かせてもらえてよかったです」
宮司に例の人魚伝説の話を聞いて、盛り上がっていたらこんな時間だった。
地元にそんな伝説があるなんて知らなかったから興味深く思えた。
「長年住んでいても、自分の町の事を知らない事って案外あるものだな」
「はい。私はこの町の事をもっと良く知らないといけません。まだまだです」
「……由愛ちゃん?」
その何気ない言葉にはどこか俺は引っかかるものを感じた。
「あ、変な事を言ってしまいましたか?」
「いや、そうじゃなくて。由愛ちゃんはこの町の事を本当に好きなんだなって」
都会でもない、ただの海が綺麗なだけの田舎町。
彼女はこの町からあまり出る事もなく、世間を知らないと前に言っていた。
「私の人生はこの町で始まり、この町で終わります。外に出ていく事はないでしょうから、もっと好きになりたいんです」
その言葉に俺はどこか違和感をある。
単純に地元を愛してる、という想いではない気がした。
行動範囲の狭さ、と言う意味でそれは正しいのか。
世の中に出る事はいろんな勉強にもなる。
俺だって東京で暮らしの経験はいい経験になったし。
閉鎖的になるよりも自分の世界を広げると言う事は良い事だと思う。
「この町以外に行こうとは思わないのか?」
「……はい。思いません」
「どうして?」
「逆にそういう質問をされると困ってしまいます」
夕焼けに照らされた彼女の表情はどこか寂しそうに見えた。
どうして、そんな顔をするんだよ、由愛ちゃん?
「私は……町を出ていく理由がないからです」
「理由がない?」
「前にも言いましたよね。私には以前に婚約者がいたことを。彼の家はこの町ではないので、彼と結婚していればきっと私はこの町から出ていく事になっていたでしょう」
婚約者の話なら聞いたことがある。
彼の方が別の女性を好きになり、破談となったらしい。
「それがなくなったら、もう出ていく事はない?」
「……少し違います。私は、自分で自分の事を決めた事がないんです」
「決めた事がない?」
由愛ちゃんが語るのは意外な悩みだった。
箱入りお嬢様の悩み。
それは彼女にとって後に大きな影響を与える事になる。