第1章:けじめの旅《断章1》
【SIDE:一色千歳】
大好きな人の事を今でも想う。
今でも目をつむれば思い出すのは元恋人の浮かべた笑顔。
私の大好きだった人。
私が傷つけてしまった人。
朔也ちゃんの事を思い出すと、今でも胸が締め付けられる辛い気持ちになる。
忘れようと思ってもできなかった。
彼と別れてからの2年間、今も私は彼の事が好きなんだ。
アメリカでの手術を終えて、私は再び日本に戻ってきていた。
今は一色家の別荘でひとりで暮らしている。
とはいっても、身の回りの世話は家政婦さんに任せっきり。
今は翻訳家としてのお仕事をしながら、ゆっくりとした日常を過ごしていた。
それは7月の下旬のことだった。
「こんにちは、ちーちゃん」
「……お姉ちゃん! 来てくれたんだ」
私の姉である百合お姉ちゃんは定期的にこの家にやってきたの。
姉はお父さんの経営する会社で働いている。
たまにでも、こうして、私に会いに来てくれるのは嬉しい。
「んー、ここはやっぱり夏でも涼しいわね」
「うん。過ごしやすくて私も好きだよ」
「……元気そうね。調子はどう?」
「普通に生活するくらいなら、今は問題はないよ」
悲しい過去が私にはある。
飛行機事故で両足を負傷し、私は自力で立てなくなるほどの障害を負った。
あれから2年、車いすの生活は続いてるけども、手術のおかげで、少しくらいならば立てるようになり、自力での生活ができるようにはなっていた。
今もリハビリの状態が続いている。
「紅茶を淹れるわ。ちーちゃんの好きな奴を買ってきたの」
「ありがとう。お姉ちゃんの淹れてくれるお茶は大好き♪」
「その笑顔が見たかったの。ちーちゃんの笑顔は可愛いもの」
お姉ちゃんはもうすぐ結婚すると言う話をお父さんから聞いている。
そうなると、もうこんな頻度では来てくれなくなるだろう。
会えなくなるのは寂しいけども、姉の幸せを今は祝いたい。
私も人並みに自立したいと思っている。
「ねぇ、ちーちゃん。貴方、家に戻ってくるつもりはない?」
「お姉ちゃん?」
紅茶を飲みながら、彼女は私にある提案をする。
アメリカから帰ってきた私は実家を避けるように、この場所をで暮らし始めた。
それは家族に迷惑をかけたくなかったからだ。
人並みに自分で生活できるレベルになってきたとはいえ、初めの頃には家族に大きな負担をかけた記憶がよみがえる。
「ちーちゃんが気にしてる事も分かるし、私達の気持ちも分かってくれているとは思う。それでも、やっぱり心配なのよ」
「ごめんね。私が我がままなんだ。ひとりで暮らしていたいの」
未だに身の回りの事もほとんど自分ではできないくせに。
一人暮らしがしたいなんて、我が侭にもほどがある。
カップを持つ手がわずかに震える。
お姉ちゃんは私に問いかけるんだ。
「……ひとりだと寂しくない?」
「寂しいけど、皆が心配してくれる気持ちが嬉しいからこそ、負担になる事もあるんだって分かって欲しいんだ。ごめんね」
私は自分の我が侭な気持ちを申し訳なく思う。
家族は皆、この足の事を心配してくれる。
でも、私にはそれが負担になったりする。
「優しくされ過ぎると逆に辛い。私は我が侭だよ、同情されたくないって思っちゃう。私はバカだね……本当に」
「……ちーちゃん」
私はすごく弱くて、いつも甘い考えばかりしている。
けれども、このまま人に甘え続けたら本当にもうダメになってしまう。
それが嫌だから、無理にでも自立したいと思えるんだ。
「そう。ちーちゃんがそう決めているのなら無理には言わない。でも、これだけは覚えていて。貴方は私達の家族なんだからいつでも甘えていいし、頼ってくれてもいい。それが家族なんだから……」
「うん。ありがとう」
優しい家族がいてくれるのは嬉しかった。
しばらくは他愛のない雑談を交わしていたけど、お姉ちゃんはある話題を切りだす。
「……鳴海さんの事は振り切れた?」
「え?」
「写真を大事にしているんだなって。今でも会いたい?」
お姉ちゃんが指さす先、テーブルの上に置かれているフォトフレーム。
そこには一枚の写真がある。
私と朔也ちゃんが笑って写る写真だ。
この写真は私の宝物。
恋人だった幸せな日々を思い出せるから。
「吹っ切れてはないかな。でも、私は自分で決めた事だもの。私はたくさん彼を傷つけた。だから、二度と会えなくてもいい」
「嘘つき……あの頃と違ってもう2年も経つじゃない。ちーちゃんの気持ちの整理はできたんでしょう? 別れた事を後悔しているんじゃないの」
「その言い方はずるいよ、お姉ちゃん」
別れる事になった原因は私の心の弱さ。
彼に嫌われたくない、彼の枷になりたくはないと思い、恋心を諦めてしまった。
あの日から2年、私は前に進めたけども、隣に彼がいない日々は辛い。
「朔也ちゃん、どうしてるんだろうね。今頃、新しい恋人と楽しくやってるかも」
「……確かめに行けばどう?」
「無理だよ。今さら、会えるわけがない」
私は彼の前から自分で姿を消したんだもの。
心の傷が癒えたから会いましょう、では都合がよすぎる。
それに朔也ちゃんは女の子にモテるから、きっと今頃は素敵な恋人もいるはずだ。
……なおさら、私なんかが会いに行く気にはなれなかった。
「ちーちゃんは翻訳家になりたいと言う夢を叶えた。その事を報告するだけでもいいじゃない。理由なんて何でもいい。彼に恋人がいるかどうかも、分からないんだし。昔のけじめとして会いに行くのはどう?」
「会いに行く……?」
「そう。復縁できるかどうかはまず、置いておいて。会って話してみる所から始めてみればいいじゃない。今の貴方達の関係を修復する事ができればいいと思う」
お姉ちゃんは飲み終えた紅茶のカップをそっとテーブルに置く。
「2年前の事、何も話せなかったから、ちーちゃんは後悔してるんでしょ。彼に黙っていなくなった事も、手紙一枚で別れを告げた事も」
「だけど、私は……」
「悪いと思ってるのなら会って話して、許してもらえばいい。もちろん、そのまま復縁できたら最高なんでしょうけど、そんなに上手くはいかないかもしれない。けれど、ちーちゃんがずっと苦しい想いをし続けるよりはマシだと思わない?」
彼女は子供の頃のようにそっと私を抱きしめながら言った。
「後悔は納得に変わらないとずっと続くものだもの」
「……うん」
「会いに行くのに勇気がいるのは分かるよ。でも、ちーちゃんには後悔だけはし続けて生きて欲しくないな。私はそう思う」
私は2年前の選択を悔いている、あんな別れ方をしてしまった事を……。
そう思えるようになったのは時間の流れで心が落ち着いた事もある。
今なら、朔也ちゃんにもう一度だけ会える気がしたんだ。