序章:海に誘われて
一色千歳ルート、完結編です。
【SIDE:鳴海朔也】
千歳の笑顔を今でも思い出す事がある。
自分が愛していた女の子が笑ってみせてくれた可愛らしいあの顔を……。
千歳が俺の元を立ち去ってから2年。
この月日の流れは早く感じた気がする。
時間の流れは、そこで立ち止まる人がいてもおかいまなく進んでいくものだ。
今年もまた暑い夏がやってきた。
その夜はいつものように神奈の店でお酒を飲んでいた。
カウンター席で、神奈と話していると意外な話を彼女はしてきた。
「そうだ。朔也、ちょっといい?」
「んー。どうした、神奈?」
「私、もうすぐこのお店やめちゃうんだ。多分、8月にはもういないから」
「え? どういう心境の変化だよ」
俺は思わず手に持っていたコップからビールをこぼしそうになる。
神奈の思いもしない発言に戸惑う。
この店を大事にしている彼女の言葉とは思えなかったからだ。
「……まさか、結婚するとか?」
「ふーん。フォークで刺されたい?」
「包丁じゃないところがリアルで怖いっす」
こら、フォークを手に持つな、危ないでしょ。
「俺に向けるな。冗談でもやめてください」
「どうせ、私には結婚なんて縁はありませんよ。誰のせいだ」
「いたっ!? チクチクと地味に痛いから本当にさすな」
「ふんっ。乙女心を傷つけるから当然のむくいよ」
不満そうな彼女は唇を尖らせながら拗ねた。
俺はフォークでつつかれた手を撫でながら、
「悪かったよ。それで、何があったんだ?美帆さんと喧嘩でもして出ていくとか?」
「全然違う。今、美浜ロイヤルホテルが工事中なのは知っているでしょ?」
「あぁ、前から建設してた別館がもうすぐ完成するって話は聞いてる」
全国的にホテルが潰れてるこの時代なのに良く頑張ってます。
リゾートホテルとしても人気があるようだ。
ホテル効果もあり、順調にこの町の景気も少しずつあがってる。
町の活性化のための観光地化も進んでいるのは良い事なのかもしれない。
「その別館内に新しい飲食店が増えるんだけど、そこのお店で働く事になったの。居酒屋じゃなくて和風レストランみたいな感じだけどね」
「マジで? そんな話があったのか?」
それって料理人として、神奈の腕が認められたと言うことだろう。
何気にすごい事ではないだろうか。
「お前はこんな居酒屋でおさまる器ではないと思っていたよ」
「なんで上から目線? なんかムカつく。こんなお店で悪かったわね」
「怒るなって。でも、お前って将来的には自分のお店を持ちたいって言ったよな。小料理屋とかしたいって。そのためにもいい経験にはなるんじゃないか」
「うん。私も料理人として頑張ることになるのは良いんだけど、この話を誘ってきたのは千沙子なんだよ。あの子、それなりに出世してるみたい」
千沙子と神奈の仲の悪さは相変わらずだが、少しは改善もしているようだ。
「千沙子は元々、優秀な子だからな。責任感もあるし、上の人間に気にいられるのも当然だろう。その分、立場があがれば仕事は大変そうだけどな」
「そういうわけで、私がいなくなっても、ちゃんとご飯を食べるんだよ?」
「お前は俺のお母さんか。心配するな」
神奈も千沙子も、今の仕事をしっかりと頑張ってる。
俺も教師としての仕事を頑張るとしよう。
お酒を飲みながら、のんびりと神奈と雑談していた。
「そう言えば、朔也ってまだ千歳さんのことを引きずってたりするの」
「……神奈さん。キミはいきなり、人の触れて欲しくない所をえぐってくるね」
「気になるじゃない。私とか千沙子とかフッておいてさ。それで他の子に手を出すわけでもないし、やっぱり、まだ好きなのかなって思ったの」
「千歳か……」
この1年半、いろいろとあったが、未だに俺は恋人を作っていない。
はっきり言えば千歳との別れを引きずっている。
確かにその通りなんだろう。
だが、それは昔の暗い意味ではなくて、前向きには進めているつもりだ。
「心の整理はちゃんとつけたつもりだ。だけどな、どうしても忘れられない事っていうのもあるだろう」
「……千歳さんと連絡は取れないの?」
「前に一度だけ電話をくれただけだ。それっきり連絡もないし、こっちからの連絡手段もないよ」
忘れられない存在。
千歳は今は手の届かない遠い存在に思える。
いつかは会いたい。
けれども、そのいつかは訪れる日が来るのだろうか。
「千歳さんの気持ちはどうなんだろう? まだ朔也が好きなのかな?」
「さぁ、それこそ分からないよ。俺はフラれてるんだぞ」
「浮気してたせいでしょ? 留学中に他の子と半同棲とかありえないから。浮気男は刺されて当然だと思うの」
「……耳が痛い」
「あと浮気相手だった子も可哀想。こんな女の敵に弄ばれるなんて」
「ホントですね……あはは……」
いつもよりも手厳しい神奈に苦笑いしかできない。
「千歳か」
アイツが気にならないと言えば嘘になる。
千歳は事故のせいで足に障害が残り、俺の前から姿を消した。
俺が最後に会ったのは、病院に入院していた頃だ。
あれから俺達はちゃんとした決別もつけずにいる。
「……きっと、千歳さんもまだ朔也が好きだと思うよ。だから、諦めないで想っていればまた会える日もくるんじゃないかな」
神奈に励まされながら俺はどこか照れくさい気持ちになる。
「お前ってホントに良い奴だよな」
「私は朔也の“妹”だからね」
そう言って、神奈は微笑んでみせた。
神奈の言う通り、諦めなければ想いは届くかもしれない。
これから先に千歳とやり直せる機会があるとすれば、まだ今の俺はやり直せる。
それでも、時間が経てば経つほどに人の想いは忘却されていく。
いつか俺も彼女の事を忘れて、他の誰かに想いを抱くようになるのだろう。
……その前に、もう一度だけでもいいから、千歳とちゃんと話せたらいい。
「何か、お前のせいで、忘れかけていた気持ちを思い出してしまったではないか」
「いいことじゃない。変に誤魔化さないで、まだ千歳さんが好きだって認めたら?」
「……認めたら、余計に辛くなるんだけど? 会えない人を思うのは辛いぜ」
千歳がどこで何をしているのかが気になる。
神奈はそんな俺の気持ちを察してか、明るい口調で言うのだ。
「そろそろ、追加注文はどう? お店の売上に貢献しなさい」
「待てい。少しは人の財布の心配をしてくれ」
「大丈夫。私は知ってるんだ。夏のボーナス出てるでしょ?」
「……くっ」
出てますけどね、公務員だからこのご時世でもしっかりもらえておりますよ。
「ええいっ。そこまで言うなら……冷奴ひとつ追加してください」
「えーっ。そんな単価の安いの? 奮発しようよ? あんなに励ましてあげたのに」
「……分かったよ。お任せで適当に。今日は飲むぞー」
どうせ明日は休日なのだ、思いっきり飲むことにしよう。
「それじゃ、お任せお刺身盛り追加と言うことで」
「お店で一番高い値段のものを追加しないで!?」
「いいじゃない。生ビールも追加! 私の分もね」
「やりたい放題だな!?」
俺のお財布に優しいお店でいてください。
千歳を思い出す、そんな俺に、今年の夏は“奇跡”を与えようとしていた。