第10章:名前を捨てて《断章2》
【SIDE:鳴海朔也】
交際3年を経て、ようやく雫さんと結婚する事になり、まずは彼女の両親に挨拶を改めてすることになった。
……のだが、こちらが思ってる以上に大歓迎を受けてしまった。
雫さんのお母さんは喜びながら笑顔で言う。
「よかったわぁ、本当によかった。雫が結婚するなんて嬉しい。朔也さん、ふつつかもの娘ですが、どうぞ末永くよろしくお願いします」
「い、いえ、こちらこそよろしくお願いします」
「あー、子供は早めに作ってね。この子ももうすぐ30歳になってしまうから。その辺は大丈夫かしら。ねぇ、雫」
「興奮しすぎ。ちょっとは大人しくしてください」
ここまで結婚を歓迎される、雫さんって……。
俺は同じように喜んでいる彼女のお父さんとも話をする。
「由愛の結婚が決まってホッとしていたが、まさか雫も結婚するとはなぁ。普通は娘を嫁に出す男親の気持ちといえば、娘は渡さんとか、そう言う類だろう。だが、僕は、“あの娘”と結婚してくれる男の人がいてくれる事が本当に喜ばしい」
「おーい。ふたりとも、私を問題児みたいな扱いにしないでくれる?」
頭を抱えながら雫さんが嘆いていた。
両親ともに彼女の性格にはずっと悩みがあったようです。
「お見合いすること十数回、全てを無駄にぶち壊してきた娘の将来が心配だったのよ。もうダメかと諦めていたのに。こんな日が来るなんて」
「母さん、感涙するな。僕まで泣きそうになるよ」
「両親そろって泣かないで!?」
雫さんは「相手の男が悪かっただけ」と自分の非は認めようとしなかった。
あはは……。
「正直、三十路までの結婚は諦めてたのに。ちゃんと、結婚できて嬉しいわ」
「嫌な親だぁ……。心配してるのか、バカにしてるのか、どっちだ!」
「両方よ」
「……ひどい人たちだわ」
雫さんはそう言いながらも嬉しそうである。
そんな感じで向こうのご両親には結婚の許可を無事にもらえたのだった。
その夜、俺は実家に電話をかけていた。
久々の電話で、少し緊張しながらも母親が電話に出る。
『朔也、久しぶりねぇ。元気にしてる?』
「あぁ。母さん。実は今週末にでもそっちに戻ろうかと思っているんだが」
『お盆前に帰省するってこと?』
「いや、その、お盆だから帰るんじゃなくてさ。何て言うか、あー、えっと、なんだ、言いにくいんだけどさぁ。実は……」
肝心な事を言えずにいると母さんは何となく察したようで、
『……まさか、どこかの娘さんに手を出して子供でも作ったの!?』
「違うわ!? どんな誤解だ。いや、誤解でもないんだけど」
「ならば、結婚詐欺ね!? なんてこと。親に片棒を担がせようなんて……」
「そんなことはしません!」
母さんからそう言われると、普段から俺がどう思われているのか嘆きたくなる。
真面目な話だっての。
「まだ子供はできてません。だけど、紹介したい女の人がいる。今週末に紹介したいと思ってるんだが、土日に親父はいるだろうか? 都合がつけば、そちらに行こうと思ってるんだけどさ」
『……』
無言の末に電話が切れた。
「……なぜだ!?」
俺は慌ててもう一度かけ直す。
すぐに繋がったのはいいのだが。
「母さん? 人の話を聞いてるか? いきなり切るな」
『びっくりして、思わず切ってしまったわ。朔也が結婚なんて。まさか本当に結婚詐欺でもしようって企んでるとか? 女性関係がひどいことは知ってたけども、そんなひどい真似をする子に育てた覚えはないわ!』
「自分の息子を少しは信じろ!? 本当に結婚したい人がいて、その紹介だっての」
俺の親も、雫さん同様にえらい言われようである。
少しは自分の子供を信じなさい。
俺は雫さんのことを簡単に説明する。
『結婚とか……朔也にそんな女性がいたなんて驚きだわ』
「驚くのはいいから。親父の都合はどう?」
『大丈夫だと思う。いつも休日は釣りばかりしてるし。帰ってきたら話してみるわ』
何とか報告終了。
電話を切ると、俺は雫さんのこの事を話す。
「今週末に会う予定になりました。東京の方ですが、一緒に来てくれますか?」
「えぇ。鳴海の両親はどういう方なの?」
「特別厳しいわけでもない普通の両親ですよ」
両親との仲も普通にいい。
こっちに戻ってくる時にはひと悶着あったが、今は別に何も言われてない。
「それより、俺の事を名前で呼んでくれるのはどうなってるんです?」
「……え? あ、うん。いざ呼ぶとなると恥ずかしくて」
「ほら、呼んでください?」
俺が雫さんに詰め寄ると彼女は照れくさそうに小さな声で、
「……さ、朔也」
「聞こえません。もっと大きな声で」
「わ、私をいじめて楽しい?」
「あははっ、楽しいです。ほら、俺の事を名前で呼んでくださいよ」
ぎゅっと抱きしめてあげると彼女はようやく俺の名前を口にしたのだ。
「……朔也……好きよ」
可愛い恋人にはキスをしておく。
「んっ、ちょっと、待って……ぁっ」
そのままの勢いで押し倒してしまった。
幸せの絶頂っていうのは今なんだろうな。
そんなわけで、ふたりで東京までやってきた。
隣の雫さんは普段よりも落ち着かない様子だ。
「……緊張してます?」
「その台詞、ついこの間にうちの両親と会った時のお前に言ってやりたい」
「ですねぇ。あれは歓迎してもらいましたが、緊張しました」
当然、緊張くらいはするだろう。
別に反対される事はないだろうけども。
久々の実家に帰ると、両親が出迎えてくれる。
「本当に相手を連れてくるなんて……びっくりだわ」
「びっくりするな。歓迎してくれ」
「……お嬢さん、結婚詐欺かもしれないので気を付けてくださいね」
「そして、真顔でそういう発言もやめてください」
何気に親に女性を紹介するのは初めてだ。
恋人を実家に連れていくことなんて滅多になかったからな。
「ただいま。えっと、こちらが俺の恋人の……」
「初めまして、星野雫と申します。朔也さんとは3年前からお付き合いさせてもらっています。本日はよろしくお願いします」
「とても上品なお嬢さんねぇ。いらっしゃい、中へどうぞ」
雫さんの雰囲気にうちの母も一目で気に入ってはくれたようだ。
親父の反応は……いまいちか?
「……出来ちゃった結婚じゃないのは確かだな、息子よ」
「おぅよ。その辺は心配せずともいい」
「ならばよし。お前の場合はそこからが心配だったんだ」
「ふんっ。散々、皆から言われてるからな。まったく」
リビングのソファーに座りながら俺は雫さんを改めて紹介した。
雫さんは親父の方を見てから頭を下げる。
「今日はお時間を取ってもらい、ありがとうございました」
「いや、いいよ。それにしても、本当に星野家の星野さんだったとは……」
「親父は星野家を知ってるのか?」
「美浜町に住んでいれば星野家を知らぬものはいないだろう? それに当時は仕事の付き合いもあったからな。名家のお嬢さんと朔也が交際していた事に驚きだ」
どうやら、親父は向こうの相手にも面識があるようだ。
俺たちは結婚についての話を始めることにした。
結婚に関しては反対はなし。
だが、名字が変わることについては、親父が顔をしかめた。
「朔也を星野家の婿養子にしたいと?」
「……はい、私は星野家の長女として、ぜひともそうして欲しいと考えています。こちらの方は既に朔也さんの婿取りには了承しております。けれども、長女長男の結婚ですから、そちらにも事情はおありでしょう」
雫さんの丁寧な説明に俺はいまひとつ分からない。
「それに何の問題があるんだ」
「……雫さん、うちのバカ息子とは違い、貴方はとてもしっかりした方だ。この話をする時、朔也は迷わず、名前を変える事を了承したでしょう」
「はい……。だからこそ、この場を持つ必要があると思いました」
雫さんがそう答えると親父は俺の額を軽くはたいた。
「このおバカ野郎」
「いたっ!? 何しやがる」
「お前はバカだなぁ。無知だ、無知。学校の先生のくせに無知すぎる」
「ひでぇ。何て事を言う」
「雫さん、申し訳ないが、少しだけ息子とふたりで話をさせてください」
彼女は頷くと、母さんと一緒に別の部屋と移動する。
残された俺はよく分からない状況に置いて行かれていた。
「なんだよ、人をバカ扱いして。前に言ってなかったか? 俺は別に鳴海の姓を継がなくていいって。婿養子になってもいいって言ってただろう?」
鳴海の姓はうちの親父の兄妹が既に継いでるので問題はないはずだ。
「あぁ、そのことに関しては良い。お前は本当に事情を分かって彼女の事を承諾したのか? 全然、気にしてないだろ」
「どういうこと?」
「はぁ……。あのなぁ、朔也。いわゆる婿養子ってのは……それはもう、大変だ。お前にそれができるとは思えないのだが。しかも、相手は星野家。旧家にして名家のお家柄。お前はどれほどの覚悟でそれを受け入れたのかが知りたい」
……名前を捨てると言う、単純な事ではないようだ。
少しくらいは俺だって考えてはいる。
「あれだろ。いわゆる、マスオさん状態になるってことだろ」
「……それがどれだけ大変なことになるのか、分かってるのか? 好きな人と結婚したい、ということで一番、障害になるのがそう言う問題だと言うことに気付け」
「もっと分かりやすく説明を求む」
「相手方が了承しているとはいえ、お前が婿養子として、星野家を継ぐってことなんだからな? 相手の家を継ぐ覚悟がお前にあるのかと聞いている」
あの星野家を継ぐ。
その意味を俺はちゃんと理解していなかったのである。
親父に言われて考えてみると想像以上にすごく大変そうだ。
「俺が星野家に婿入りするって、ただ名前が変わるだけじゃないんだな」
「ったく、そもそも、長男長女の結婚は家絡みで揉めやすい。幸い、うちはそう言うのを気にしないのでかまわないが、普通の場合は二つ返事ではいかない。そう言う問題だと言うことを改めて自覚して考えろ。いい嫁さんをもらった事は褒めるがな」
軽い気持ちで言ったけども、名前を捨てるのはすごい大変らしい。
それでも、俺は雫さんのために、名前を捨てる覚悟を決めたのだった。