第10章:名前を捨てて《断章1》
【SIDE:鳴海朔也】
雫さんとの交際が始まってから3年の月日が流れた。
交際はかなり順調で今は雫さんの家でふたりっきりで同棲してる。
というのも、茉莉は大学生になり東京へ行ってしまい、由愛ちゃんは去年の暮れにお見合い相手との婚約が決まり、今は相手の家で暮らしている。
お見合いと言っても、ほとんど恋愛結婚に近い、由愛ちゃんも幸せそうだ。
だが、兄として姉として、俺と雫さんは由愛ちゃんを取られた気持ちになったが。
そんな理由で静かになった星野家に俺が引っ越したのは今年の春の事だった。
一人暮らしをする寂しがりやな雫さんを放っておけなかった。
もちろん、彼女もオッケーしてくれたし、彼女の両親にも許可をもらった。
雫さんと交際していると言うことを告げるために、彼女の両親と初めて面会した時に、すっかりと俺は交際相手として気に入られた。
『雫と付き合える男性がいるなんて奇跡だと思うわ。素敵な縁があってよかったわね』
『……娘に対して失礼すぎると思わない?』
『だって、本気で心配してたもの。これで、私も安心できるわ。こんな素敵で奇跡の相手を逃すんじゃないわよ。雫、これがラストチャンスと思いなさい』
『娘の人生にちょっとは期待をもってほしいわ』
よほど彼女の母親は娘の相手に心配をしていた様子である。
そんなわけで、時折、両親にも会うけども良好な関係を築けている。
そんな日々を過ごして、季節はまた暑い夏がやってきた。
だが、事件は思いもしない形で起きたのだ。
「……鳴海、真面目な話があるわ」
夕食を終えて、俺が皿洗いを手伝っていると、雫さんがそう切り出した。
「真面目な話ですか?」
「そう。だから、そこに座りなさい」
俺はリビングの床に座ると彼女は俺に向き合う。
付き合い始めて3年経つのに雫さんは俺を未だに鳴海と呼ぶ。
名前で呼んでくれと言ったのだが、恥ずかしいから無理と言われてはや3年。
「もう付き合い始めて3年よね? そろそろ、鳴海を朔也と呼びたいと思うの」
「俺の事を名前で? いいじゃないっすか。名前で呼んでもらえるのは嬉しいですよ」
真面目な話と言われて緊張したが、そう言う話か。
ついに名前で呼んでくれる日が到来。
大いなる進歩だと喜ぶ俺に彼女はこれまで見せた事ないほどに真っ赤な顔をする。
「お、お前はまだ意味が分かってない」
「はい? 何でしょう?」
「私がそう呼ぶって事は……け、結婚して欲しいって言ってるのに」
「……え、えーっ?」
思いもよらぬ告白に俺はかなりの動揺をする。
けっこん……結婚!?
「はぁ? え? 名前で呼ぶだけなのに、そこまで重い意味があるんですか?」
「私がそう決めてたのっ。何よ、嫌なの? 私の覚悟をお前は全然感じてない」
「いや、さすがに名前で呼ぶ=結婚話だとは思ってませんでした」
雫さんからのまさかの逆プロポーズ。
俺だってこれだけの交際期間を経ていれば、結婚も意識する。
そのための資金の準備やら、いろいろとしている。
今回の同棲だってそのための一歩だ。
結婚に向けて、覚悟も準備も少しずつしてはいたのだが……。
「あの、まさかとは思いますが子供ができたとか?」
思い当たる節がないわけではない。
うん、俺の場合、そういう人生の追い込まれ方がリアルにありそうだ。
その発言に雫さんは慌てた様子で言うのだ。
「ち、違うっ! 子供なんてできてないし。そんな責任とってくれって意味じゃない。私なり考えての決意なの。お前と結婚したいと思ったから言ってるのよ」
「す、すみません」
思いっきり、怒られてしまった。
雫さんはテーブルを叩いて、「子供がいないと結婚できない?」と不安がる。
「そう言う意味ではないですよ? ただ、可能性の話ですから」
「……赤ちゃんはできていないけど、私も二十代後半だし。結婚したいと思う年頃になっただけよ。いいでしょ、別に」
彼女がそんな風に考えていたなんて思いもしなくて。
心を落ち着かせながら、彼女の想いを受け入れる。
ここは男として答えねばならない。
とりあえず、お茶でも飲ませてもらおう。
俺はテーブルの上の麦茶を一気に飲み干して心を落ち着かせる。
「……雫さん。俺も結婚は考えてましたよ? でも、できることなら俺からプロポーズがしたいと思っていたんですが。それを先にされてしまい戸惑ってる状況です」
「だって、鳴海は全然、そういう話してくれないじゃない。不安にもなる……」
俺がここに引っ越した時点で、もう覚悟だけは決まっていた。
本気で好きな相手だからこそ、守りたいと思ったのに。
「不安にさせるつもりはなかったんですが。その、星野家という家柄もありますし、結婚には慎重だったと言いますか」
「……分かってるわよ」
妹である由愛ちゃんの結婚が彼女の後押しになったのか。
結婚という意識をこんなにもしていたのには気付けなかった。
「私は鳴海が好き。お前と結婚して、お前の子供が欲しいって……この私が思えるようになったのよ」
雫さんの強い想いは素直に嬉しい。
この3年の月日で彼女に与えた大きな変化だ。
俺は彼女の手をとり、握りしめる。
「私には鳴海しかいない。惚れてる男に、嫌われたくない」
「……俺だって雫さんが大好きですよ」
「だったら、答えをください」
期待と不安の入り混じる表情を浮かべる彼女。
覚悟を決めろよ、俺。
「雫さん、俺も愛してます。だから、俺と結婚して下さい」
「……うん。ありがとう」
「子供は俺もほしいですね。貴方によく似た女の子とか」
「鳴海に似た男の子は危険な子になりそうだから教育をしっかりするわ」
嬉しそうに微笑む彼女。
俺は雫さんを強く抱きしめていた。
愛しい存在を愛しく思う、今の俺は人生最高の幸せを感じていた。
「よかった。ダメとか言われたらどうしようって思ってた」
「不安にさせてしまってごめんなさい。本来は俺からするべきなのに」
「……いい。答えをちゃんとくれたからいいの。でも、最初の話に戻るわ。鳴海を朔也と呼ぶ意味の事を。私は家を捨てられない。だから、貴方に名前を捨てて欲しいの」
「名前を捨てる……?」
つまりは俺に星野家に婿入りしろってことだ。
名字が変わる事に抵抗があるかないかってことか?
俺は別にかまわない。
それが好きな人との結婚条件ならば、名字を捨ててもいいと思う。
「俺はそれでもいいですよ、雫さん」
「はぁ? あのねぇ、鳴海。お前は本当に簡単に決めすぎ。そんなのお前ひとりで決めていい問題じゃないんだからっ。もっとよく考えて欲しいわ」
あっさりと決めたら、雫さんには困惑顔で責められる。
「……そんなものですか? 星野朔也。悪いとは思いませんけど」
「バカ。お前がよくても、貴方の親がどう思ってるかとかあるの。鳴海は長男でしょ! その辺のことを真剣に考えてみなさい」
「す、すみません。そこまで考えてませんでした」
「もうっ、しっかりしてよ。お前は普通の家だから、あんまり考えたことがないだけかもしれないけども……名前が変わるって大変な事なんだからね?」
雫さんは星野家の長女としてずっと考えてきた事でもあるんだろう。
家の名前か、鳴海の名字とかちゃんと考えた事もないなぁ。
「そう言うことなら、今度の土日にでも俺の両親に会います? 結婚するのなら、雫さんの事を紹介もしたいですし。いろいろと話もした方がいいですね」
「……えぇ、ぜひお願いするわ。私もご挨拶させてもらいたいもの」
こういうしっかりとした所を見ると、年上だなぁと思ったり。
名前を変えるということ。
その意味を俺はちゃんと理解できていないのかもしれない。
雫さんとの結婚に浮かれる前にするべき事があるようだ。




