第7章:気付いた気持ち《断章3》
【SIDE:鳴海朔也】
カリカリとチョークで黒板に文字を書く音だけが響く。
授業中、俺は教科書をチェックしながら、
「それじゃ、ここはテストにでる、かもしれないし、でないかもしれない」
「えーっ。どっちですか?」
「よく、ここテストにでまーす、とか先生は言うだろう。だが、実際にフェイクで出ない場合もあるじゃん? 俺は正直だからはっきり言おう。テストに出ると言った所を、テストを作る時に俺が忘れてる可能性もある。だから、分からん」
「ぶっちゃけすぎです、先生!?」
これ、よくある話です。
教師ってのはいかに生徒を勉強させるのが仕事だ。
国語なんて暗記系、テスト前にちょろっと覚えるだけの子が多。
俺としてはしっかりと学んでほしいんだけどな。
再びチョークを手にして黒板に向き合ってると、
「ねぇ、鳴海先生。北沢先生と村瀬先生、どっちが本命なんですか?」
バキッと音を立ててチョークを折ってしまう。
「なっ。どっちが本命って……?」
「噂じゃないですかぁ。鳴海先生が二股してるって話、有名ですよ」
誰が流した噂か知らないが、こっちにとってはいい迷惑である。
クラスの皆が噂話について騒ぎ出す。
「お前らが妙な噂を流すから、俺が困ってるんだ。変な噂を流すな、事実無根だ」
「でも、私、北沢先生が鳴海先生にフラれて泣いてる所をみたよ」
「私も見たぁ。その後に村瀬先生に慰められてたよね」
「すべて、誤解だ。あれは、その……まぁ、大人になると色々とあるんだよ」
大人にならなくても、いろいろとあるものだが。
ただの家庭の事情、生徒たちに説明する事でもない。
「でも、村瀬先生は確実に鳴海先生の事、惚れてるよねぇ」
誰かが言った言葉に俺は「は?」と尋ね返してしまった。
村瀬先生が俺に惚れてる?
いくら俺がモテるからっても、彼女にそんな素振りはないぜ。
「あー、私もそう思ってたんだ。最近、村瀬先生が鳴海先生を見る目が怪しい。あれは完全に恋してる女の子の目だもん」
「……あのなぁ、お前ら。そんな根も葉もない噂を言ってたら先生に怒られるぞ」
「嘘じゃないし。ホントだってば。鳴海先生のこと、目で追いかけたり」
「悩ましげに先生の名前を呟いてたりしてましたよ。あれはラブですね、ラブ」
複数の生徒からの目撃談という名の噂話。
俺はそれを信じていないが、本当だったら嬉しいね。
「はいはい。俺が今も昔もモテまくるという事実はおいといて、授業に集中」
「……先生って、嫌な奴ってよく言われません?」
「よく言われますよ」
モテるから男子からは羨望と嫉妬で。
女の子には意地悪し過ぎちゃって……。
職員室で教頭先生に今学期何度目かのお説教を受けていた。
内容は単純である。
「妙な噂が流れる真似はいい加減にやめなさい」
……俺のせいじゃねーよ!?
というのは、教頭も分かっているようだ。
問題が起きると注意せねばならんのが管理職らしい。
「また教頭先生に怒られたの? お疲れさま」
デスクに戻ると、村瀬先生が同情するように軽く肩を叩いた。
「北沢先生の件で、どうにも今の俺は噂の的ですから」
「……結衣先輩。まだ許してくれてないんだ」
「八尋が本格的に要に恋を始めた様子ですからねぇ。もう無理でしょう」
もはや、彼の恋は動き出して、俺には止められぬ。
という事は必然的にその恋を応援した俺は北沢先生に嫌われる運命なのだ。
「ここの所、挨拶もろくにしてないんですよ。会話なんてゼロです、はぁ」
「……多分だけど、結衣先輩も分かってはいると思うの。八尋君も姉離れして自分の恋をする現実を受け入れるのが無理なだけ。鳴海先生はただのとばっちりだもの」
八尋の恋の成就は姉にとっては複雑だろう。
となると、それをおぜん立てした俺は彼女の敵のままだ。
同じ職場の美人に嫌われ続けるのは精神的に辛い。
「結衣先輩に嫌われたこと、引きずってる?」
「多少は復活しましたが。できれば、仲良くしたいじゃないですか」
「……まだ先輩の事、狙ってたりするの?」
「さすがの俺もこんな好感度マイナスからの恋はする勇気もないんで。でも、もしかしたら、いきなり好感度アップなんてイベントでも起きて逆転勝利って奇跡があれば話は別ですけど。そんな可能性は低そうです」
そんな奇跡はどうにもなさそうだけどな。
八尋の恋を応援した時点で、この結果は仕方ない。
「……だったら、もう狙うのはやめておきなよ」
「え? 何か言いました、先生?」
あまりにも小さな声で彼女が呟いた言葉。
「……しつこい男って嫌われるわよね」
「うぐっ」
「ストーカーとかこういう些細な所から始まるとか」
「俺はそんな真似はしませんよ?」
過去を引きずっても、相手に押し付ける真似はしない。
「あははっ。冗談だってば。先輩も時間が経てば機嫌が少しは治るかもね」
「その可能性がわずかでもあればいいんですが。でも、気になる事がひとつ。こんな状況になっても北沢先生は八尋と要の仲を直接邪魔するような感じは全然しないんですよ。なぜでしょう?」
八尋と要は同じ部活の先輩と後輩としての関係を深めつつある。
最近は休憩時間も、会えば雑談する程度の仲だ。
そして、それを遠目から監視する複雑な心境のお姉さんの姿も見る。
だが、彼女は直接的な邪魔をする気配はなかった。
普通なら邪魔しても当然と思ってたので意外だ。
「あぁ、それは八尋君に嫌われたくないからでしょ」
「無理やり邪魔するとばかり思ってました」
「昔の彼女なら当然してただろうけど。今の彼女は八尋君にこれ以上、嫌われたくないだけ。最近、自分がかまいすぎて嫌われ始めてるのを自覚し始めているみたい」
「あー、なるほど」
「好感度、ゼロに近くなって、これ以上姉弟の溝が広がったら彼女が泣くわ」
恋愛相手と仲良くするのが気にいらなくても、邪魔する勇気はない。
……それもまた、辛いな、あらゆる意味で。
「私からも質問があるの。鳴海先生はどうして、そんなに八尋君に肩入れするの? 知り合ってそんなに間があるわけじゃないのに。恋の仲立ちまでしてあげるなんて、優しい所もあるじゃない。結衣先輩に嫌われるの、分かってたでしょ」
「まぁ、ある程度、嫌われるのは覚悟気味でしたよ」
「そこまでしてあげるなんて気になったの。ただの生徒思いの優しい先生?」
「八尋と話をして思ったんですよ。こいつは姉から卒業したがってるんだなぁって。話を聞いていて同じ男として応援してやりたくなった。それだけです」
だけど、こんな状況になるのは想像はしていなかった。
ここまで深刻に北沢先生に嫌われてしまうなんてな。
「鳴海先生って昔から皆に頼りにされてたんだろうなぁ。やっぱり、カッコいい」
「……は?」
「くすっ……ううん。何でもないよ」
笑顔の村瀬先生に俺はいまいちよく分からないまま、愛想笑いを返す。
今日の彼女は機嫌がいいみたいだな。
「ひそひそ……ついにあの村瀬先生がデレはじめてるよ」
「あのふたり、もう確実にできてるよねぇ? 村瀬先生の目が乙女モードだわ」
「それに気づいてない、鳴海先生ってどうなの? わざとだったらドsだわ」
「あの人、意外に自分に向けられる行為には疎いと言うか。鈍感だよね」
さらに、噂が知らない所で広がっていく……。
その日の夜は学生時代の懐かしい連中と神奈の店で飲んでいた。
急用で来れなくなって斎藤は不在だが、親しい友人達と飲むお酒は楽しい。
「そういえば、鳴海。お前、この前、綺麗な女の人と一緒にお酒飲んでただろ」
「……何で皆川が知ってるんだよ?」
「同じ飲み屋に俺たちもいたんだよ。お前、珍しく泥酔してたみたいだから、声はかけなかったけどな。恋人か?」
友人達に言われて、俺は先日の村瀬さんとの飲み会を思い出した。
思い出すけだでも情けない、女にフラれて慰められるなんてな。
「あれは先輩。ちょっと前に女絡みでトラブルになってさ。彼女に愚痴とか言ってたら、親身になってくれて慰められてた」
「お前、女にフラれた事を別の女に慰めてもらうてってどうよ」
友人達にも呆れられてしまった。
けれど、あの日の村瀬さんは優しかったよな。
泥酔しきってた俺でも、彼女の優しさだけは覚えている。
「俺の持論は恋の傷は新しい恋でしか癒せない、だし」
「おーい、相坂。こんな女の敵はどう思う?」
「……ふふっ、サクッとやっちゃいたい気分になったわ」
「ほ、包丁を持って言うな、マジで怖い。こっちに刃先を向けるな、近寄るなっ!?」
彼女は「冗談よ」と包丁で魚を調理しながら言うのだ。
「朔也がどこの女の子と恋人になってもいいけどね。アンタっていつもフラフラしすぎ。そーいう所、相手の子にとっては不安でしかないんだからそろそろしっかりしなさい」
「同じ事を斎藤にも言われたな」
「……幼馴染に心配されてどーするんのよ」
呆れる神奈を横目に友人達が小声で話す。
「おいおい、相坂とはどうなんだよ? 昔までは良い仲だったのに」
「……神奈か。まぁ、いろいろとあってな。ついに恋愛面では見限られたようだ」
今年の桜が咲く前にひとつの恋は終わっている。
『私はずっと鳴海朔也の妹だから。妹ならずっと一緒にいられるもの』
幼馴染として関係を維持し続けていく。
何も変わらない、変えようとしない。
斎藤の言う通り、もう遊んでいる年齢でもないってことだな。
「鳴海って、女にモテるけど、女の扱いって下手なんじゃねぇ?」
「どちらも否定はできないな」
「前者もひっくるめて否定しないってのはお前らしいわ」
友人達にも笑われてしまう。
俺も情けないながらにも笑って見せた。
料理を持ってきて、不思議そうな顔をしている“妹”に俺は言ってやった。
「神奈みたいに、俺の事を心配してくれる可愛い妹がいてくれて嬉しいよ」
すると、神奈は「こんな女にだらしないお兄ちゃんは嫌だなぁ」と皮肉交じりに笑って言った。
兄と妹、これが今の俺達の関係だった。