第6章:恋の始まり《断章3》
【SIDE:鳴海朔也】
天文部に新たなメンバーが増えて、無事に部として継続が決定した。
翌日、俺は気分よく書類を作成していた。
部活関係の書類で、名簿に名前を記載したのを確認し、教頭に提出すれば終了。
今年も無事に危機を乗り切れました、いぇーい。
そんな俺に放課後、人がまばらな職員室である事件が起きようとしていた。
「……っ……」
職員室にやってきた北沢先生がこちらを睨んでいる、ように見える。
「おや、北沢先生。どうしました?」
……な、なんだ、何でだ?
そんな怖い顔をされる理由が思い当たらずにびくつく。
「鳴海先生、お話があるの。今、時間はいいかしら?」
「あ、はい。いいですけど」
「――単刀直入に聞くわ。私の八尋に何をしたの?」
ゾクッとする低い声。
このお姉さんはこんなに怖い人だっただろうか?
忘れてた事がひとつある。
そうだった、八尋が恋をしている事実を俺はまだブラコンの彼女に伝えてない。
天文部に入部した事も八尋は伝えてるのだろうか?
「えっと、ですね。八尋は天文部に入部しましたよ?」
「えぇ、昨日、その話を聞いたわ。鳴海先生の紹介らしいわね」
「はい。俺の顧問する部活で、彼も星に興味があったようなので」
「別に天文部に入部する事はいいの。星が好きならそれでもいい。けれど、天文部って鳴海先生が顧問するだけあって“美少女”ばかりの部活だそうじゃない」
ものすごい偏見だ、それは!?
確かにうちは美少女揃いだが、ただの偶然にすぎない……ですよ?
ホントだよ?
「……八尋が色気づいて誰か女の子に興味でも持ったらどうするの?」
「そちらの心配ですか?」
「それ以外の何を心配するっていうのかしら?」
「少なくとも、一般的な姉と弟の心配する事柄ではありませんね」
この件に関しては人様の家庭事情でどうこう言うつもりはなかった。
俺には兄妹がいないからその感情を理解する事は難しい。
だが、あんまりにも過保護っぷりを見せるので、俺も一言、言わせてもらいたい。
「北沢先生。こー言う事はあんまり言いたくないんですけど、八尋にかまいすぎです」
「なっ。べ、別に自分の弟を心配して何が悪いの?」
「それが普通の範囲内なら問題はない。けれど、八尋だって一人の男だ。異性に興味を持つ事も、人を好きになる事もある」
「ないわよ。八尋は他の誰かを好きになったりしないの」
あんなに普段は優しくて魅力的な北沢先生を変えてしまう。
これがブラコンか。
おい、俺よ、他人の事情に踏み込んで痛い目みるのはやめておけ。
八尋には悪いが、北沢先生に嫌われるのも嫌だぜ。
「北沢先生がそう思うのならそれでいいです。家庭の事情もあるでしょう。ただひとつだけ、忠告させてもらうならば、八尋も貴方と同じ気持ちだとは限りませんよ」
なのに、言葉を止めれないのはどうしてなのかね?
彼女のやり方が気に入らない、それに尽きるのだ。
「……その台詞、聞き捨てならないわ。貴方に、八尋の何が分かるの?」
やばい、彼女の怒りの導火線に火を付けた。
「少なくとも、北沢先生よりは彼の気持ちは分かります。同じ男としてね」
俺も余計な事を言わなきゃいいのに。
彼女はムッとした表情をさせてしまう。
雰囲気が険悪なものになりつつあり、自然と職員室内の周囲の視線も集め始めた。
「どういう意味かしら?」
「貴方のしている事はただの過保護。可愛い弟の面倒みるだけならまだいいですが、姉に恋愛まで管理されちゃ八尋も可哀そうだと言っているんです」
「可哀想?」
「彼も高校生だ、自由に恋もする。貴方も気づいてるんでしょう。八尋には好きな子がいます。そして、その恋を応援するのが家族ではないですか?」
あのふたりは自分たちのペースで行けばきっと恋も成就できる。
どちらも惹かれあっているのが目に見えるからだ。
「なっ!? どういう意味?私は八尋のためを想って……」
「彼の恋愛の邪魔をしてあげないで欲しい。それに貴方は八尋には姉弟として苦手意識まで抱かれているようです。やりすぎなんですよ」
思い当たる節があったのか、彼女は唇をかみしめて反論する言葉を探す。
「男は過保護にされる必要はないんです。男は誰かに守られるより、誰かを守りたい生き物だから。貴方は姉として弟を可愛がっているだけかもしれない」
「そうよ、ずっと私はあの子のために……」
「だけどね、その一方的な気持ちが必ずしも弟の八尋に通じているかは別なんです」
空気が張り詰めていくのが分かる。
「大人の俺達は子供を見守る程度でいい、彼自身の成長の妨げにならないように」
彼女と喧嘩したいわけではないが、言うべき事言っておくべきだろう。
「……うるさい」
「え?」
はっきりとした声で彼女は俺に怒りを見せた。
ここが職員室だと言う事も忘れたように。
「うるさいわっ。分かってるわよ、私があの子に“嫌われてる”事くらいっ。でも、大事なんだもの。しょうがないじゃないっ!」
嫌われてるのではなく、苦手に思われているのが正しい。
ムキになって感情を露わにする北沢先生。
「鳴海先生は余計な事をしないでよ。あの子に変化なんて与えないで」
「それは貴方の身勝手な思いだ。決して、八尋のためじゃない。貴方のためでしょ」
「だから、何よ。あの子の事を一番想ってるのは私。私があの子にしてあげてる事は全て正しいのっ。間違ってなんていない。関係ない貴方に何かを言われたくなんてないっ」
今にも泣きそうな顔をしながら、怒りを見せる彼女。
ブラコンゆえなんだろうが、思い込みが激しい一面もあったのか。
「落ち着いてください、俺が言いすぎましたから」
「――くっ、鳴海先生なんて大嫌いっ!!」
俺は頬に平手で一撃をあびる。
思いっきり職員室に平手うちの音が響き渡る。
ちょ、超痛い……!?
涙目で俺を睨みつける彼女はそのまま逃げるように職員室から去っていた。
嵐が過ぎ去る職員室で俺は痛む頬を押さえた。
「……ふ、振られた? この俺が?」
怒らせるつもりはなかったのに、結果は最悪だ。
ショックが大きくて立ち直れないのに、周囲はさらにざわめく。
「え? 鳴海先生と北沢先生が喧嘩? どうして?」
「北沢先生泣いてたよね? もしかして、付き合ってたのに浮気されたとか?」
「ありえる。きっと、鳴海先生が村瀬先生と二股かけてたんだ。そうに違いない」
「……鳴海先生。愛する人を裏切ったのね。最低だよ」
おい待て、変な誤解をするんじゃない。
そんな話じゃなかっただろうが。
痛む頬を押さえ、がっくりとうなだれる俺は否定する気力もない。
教師も生徒も戸惑う微妙な空気の漂う職員室。
叩かれた場面だけを目撃したらしい村瀬先生が俺に声をかけた。
「……えっと、どうしたの? 痴情のもつれ?」
「違います。ただの家庭の事情に深入りしすぎました」
ブラコン姉に正論で責めてはいけない、今回の教訓だ。
「……終わった、俺の春が終わった。なんてこった!?」
「ほ、ほら、元気出して。よく分からないけど……そうだ、今日は飲みに行く?」
村瀬先生の励ましの誘いに俺は静かに「はい」と頷くのだった。
そして、放課後の学校には俺が二股をして北沢先生を泣かせたと言う噂だけが流れた。
北沢先生にフラれて、俺はショックで立ち直れずにいた。
居酒屋でビールを飲みながら、事の次第を村瀬さんに話をする。
本日はやけ酒決定です。
「うわぁ、マジで? 鳴海君、それはやっちゃいけない事だってば。先輩って普段はすごく穏やかで良い人だけど、弟の八尋君の事に関しては別人みたいになるから。しかも真正面から正論なんてそりゃ喧嘩になるね」
「こんなはずじゃなかった。それに、俺は悪いとは思ってませんよ」
「うん。鳴海君は悪くない。でも、結衣先輩が感情的になっちゃうのも仕方ないよ。それだけ大事に思ってるって事だから。それにしても、八尋君が恋かぁ。結衣先輩にとってはショックだろうし、鳴海先生を恨む気持ちもあるかも」
よかれと思ってしたことが大きなお世話で、こんな事になるとは……。
「ほらほら、お酒飲んで忘れちゃえ」
「……そーですね」
ほろ酔い気分になりながら俺はビールを飲み続ける。
こうなったら振られた記念に大いに飲むとしよう。
「でも、鳴海先生って意外と本気で結衣先輩の事を狙ってたんだ?」
「北沢先生みたいな美人なら当然でしょう。好意も抱きます。俺は軽い性格ですからね。あって10分で告白した経験も過去にあります」
「それは軽すぎ。風船なみの軽さね」
そして、破局するのも早かったけどな。
「……あははっ、残念だったねぇ。相手が悪かったんだよ」
彼女はなぜか表情を曇らせて、微苦笑をする。
なんか今日の彼女はどことなく優しすぎる気がするのは気のせいか?
「せっかくの恋の始まりだったのに、自分でチャンスをつぶしちゃったねぇ」
「俺の恋はまだ始まってもなかったんですが」
「気になる程度だったってこと?」
「そうかもしれません。ただ、運命ってのはどう変わるか分からないじゃないですか。誰とだって、どうにかなる可能性はあるわけで……。彼女もその可能性のひとりだった、と思います」
北沢先生も俺にとってはそう言う相手の一人だった。
「ちくしょー、俺の運命は姉弟の想いに負けた」
「うーん。結衣先輩の場合はむしろ、それが全てだからしょうがないような」
終始、今日の村瀬さんは優しく、ずっと俺を励ましてくれていた。
お店を出る頃にはすっかりと泥酔状態の俺がいた。
店の外に出ると涼しい風で頭を冷やす。
「ほらぁ、鳴海君。大丈夫? 歩ける? 気分は悪くない?」
「なんとか、歩けますよ。ゆっくりとならね」
俺は彼女に肩を借りながらふらつく足で家へと向かう。
酔いすぎて、ダメだ……意識がもうろうとしておる。
「いつもと立場が反対だなぁ。鳴海君を送る方になるなんて」
「……お世話になります」
「うん。たまには先輩らしい事もしておかないとね」
くすっと微笑む彼女、どことなく良い香りがする。
女性の香りに俺は身をゆだねる。
「ちょ、ちょっと……おーい、もう少しだから頑張って。聞いてる? 寝ちゃダメだよー……ホントに寝ないで。私、貴方の家まで送るの大変だから」
返事をするのも辛いほどの眠気にやられそうだ。
「……ねぇ、鳴海君。運命の相手ってさ、結衣先輩じゃなくてもいいんだよね? 私でも、可能性はあるんだってことだよね?」
何の話だ、村瀬さん。
酔い潰れ、目を瞑りかけている俺は彼女がどんな顔をしているのか分からない。
「ただの後輩のはずだったのに。いつのまにか、こんな風に思ってる自分がいるなんて……。いつもは強気なくせに、女の子に振られたくらいで弱くなったり。可愛い所もみせてずるいよ。そんな姿みてたら――になるじゃない」
わずかな瞬間、俺の唇に何かが触れた。
「……んっ……」
その感触が何なのか、意識が朦朧とする俺には分からない。
ただ、何だか優しくて温かな気持ちになった。
「……村瀬、さん?」
「ハッ、い、今のはなし!? えっと、あの……!?」
「……すぅ」
「え……? あれ? おーい、鳴海君!? ね、寝ちゃダメ、起きて! い、いや、やっぱり起きないで忘れて。あー、もうっ、自分でもワケが分からないよ。何やってるの、私!?」
困惑する村瀬さんの声だけが耳に聞こえる。
「……鳴海君のバカ」
混濁する意識の中、彼女が笑ってそう呟いたのだけは分かった。
その日の俺の記憶はそこで途切れた。
唇に残る感触と、優しい温もりに包まれて――。