第4章:危険な女《断章1》
【SIDE:鳴海朔也】
鳴海朔也、22歳。
教師生活が本格始動するという日に、俺はある事に悩んでいた。
恋愛経験は人並み程度にあるし、これが初めてというわけではない。
「もう一度よく考えてみよう。思い出せ、俺」
別に今回の事は俺が悪いわけじゃないと思う。
なぜなら、俺には記憶がないし、それゆえに何かをしたとは到底思えない。
「酒に酔っていた、これは仕方ない。記憶に欠如もあるようだ」
だからと言ってこのようなイベントが発生した理由はさだかではないが。
そうだ、こんな今時、漫画でもないようなシチュエーションがあるはずない。
……ほら、よくあるじゃないか。
こんなシチュエーションだが、実は何もなかったぜ的なイベントだ。
そうに決まっている、ありえない、断じてそんなはずはない。
よし、心の準備はできた。
俺はゆっくりと目を開けて、もう一度、現状を確認する。
「んっ……すぅ……」
無防備に肌をさらしたかつての同級生が俺の横で寝ている。
何度見てもその現状は変わることなく、間違いなく現実だった。
「いや、間違いが起きた現実と言うべきか」
俺、誰がうまいことを言えと言った。
……とりあえず、今の俺に出来る事はひとつだ。
「――逃げよう」
想像すらしていない思わぬ展開に逃亡コマンドを選択する俺は自分でも、自分がこれほど弱い人間だと初めて知った。
逃げて解決する問題ではないし、逃亡する選択を選んだ人間はクズだ。
ごめんなさい、だって、マジでありえなくて。
「……ん? ふわっ……朔也クン?」
俺が身動きしたせいで、君島が目を覚ました。
彼女は寝起きがいいのか、俺の顔を見て微笑を浮かべる。
「おはよう。朔也クン」
「あ、いや、おはよう。あの……君島。昨日の事なんだが……」
酔い潰れた俺をここまで連れて帰ってくれた君島だが、俺と一緒に寝てしまった、と。
つまり、決して、見た目通りのことはなく、何一つやましい出来事は発生しなかった。
そんな言葉をぜひ俺は君島の口から聞きたかったのだが。
「昨日は、びっくりしたわ。ふふっ、朔也クンって意外と慣れているのね」
「……はい?」
「私は経験とか全然なかったけど、朔也クンのおかげで安心できたもの」
ちょっと待って、君島さん。
俺は今、あり得ない裏切り方をされている。
「……?」
違うんだ、こんなはずではなくて……。
「その、もしかして、もしかすると?」
「ん? どうかしたの、私、昨日、そんなに変だった?」
布団を身体に巻いて、頬を赤らめる彼女に俺は血の気が引く思いがした。
「私、初めてだから。もしかして、変だったかな?」
……ごめん、俺、やっちまったかも。
すぐに仕事があるので俺は急いでシャワーを浴びてスーツを着ていた。
さっきまでの二日酔い?
そんなものなんてとっく醒めてしまったぜ。
「……記憶がないので、俺が何をしたかと言われたら、申し訳ないと謝罪するしかないのです。本当にごめんなさい」
「あー。ほら、昨日はお互いにお酒も飲んで酔っていたから」
わざわざ、朝食まで作ってくれる君島に申し訳ない。
平謝りする俺に彼女は「気にしないで」と呟く。
「私も、そんなに覚えているわけじゃないし。お互いに覚えていないって事でいいじゃない。朔也クンも相当酔っていたものね?仕方ない事じゃない」
「だからって、起きた出来事がなかった事になるわけではなくて」
「……私はある意味、望んでいた事でもあるから。あっ、その、うん……恋人になってとか、別に言わないから。朔也クンも私も、良い大人だもの」
苦笑い気味に発言する君島の言葉。
その俺を気にしてくれる発言がキツイっす。
「私は今日は仕事は休みだけど、朔也クンは教師のお仕事があるでしょう?」
詳しい話をしたいのだが、残念ながら今は時間がない。
……こんな日にタイミング悪く入学式があるんだ。
俺にとっても本当の意味で仕事始めだというのに。
「お互いに、何も覚えていない。それでいいじゃない。私はそれでいいから」
彼女はそう言って出来上がったばかりの朝食を俺に差し出す。
美味そうな匂いのするスクランブルエッグと食パン。
「……いただきます」
罪悪感を抱きながらも俺は食事をする事にする。
味なんて味わってる場合じゃないが、何気に美味しい……。
見た目は美人で、料理までも上手とはやるじゃないか。
そんな彼女に俺がした事と言えば……何してんですか、俺。
はぁ、俺も村瀬先生を笑えなくなった。
人間、酔っ払いほど性質の悪いものはない。
「昨日も言ったけど、朔也クンと再会出来た事は嬉しかったよ」
「……俺も、再会まではよかったのだが」
それが初っ端からこんな展開では何と言っていいのやら。
「罪悪感とか抱いてる?」
「人並みにはな……君島の優しさが辛い」
「そう……。それじゃ、名前で呼んでくれない?」
君島は俺を責めるでもなく、そう言った。
「名前?いや、それくらいで……」
「私はそれでいい。うん、朔也クンに名前で呼ばれたいわ」
天使のような笑顔を浮かべられて、俺の罪悪感はさらに増す。
人間、責められるべき時に責められないもの辛いのだと初めて知った。
「……ち、千沙子?」
「はい。名前で呼ばれるのっていいよね」
彼女はそう言って、デザートのリンゴをむきだす。
慣れた手つきで包丁を動かす彼女。
その優しさはある意味、罪作りってやつだぜ、千沙子。
俺は自分のふがいなさを感じている。
「話は変わるけど、朔也クンって実家に戻ったわけじゃなかったのね?」
「俺が住んでたかつての実家は売り払って、すでに空き地になってるらしい。こんな家はひとりで住むには大きいけどな」
独り暮らしに大きい家はあまり必要ない。
だが、家賃的にはさほどしないのが田舎らしさでもある。
「リンゴ、むけたわ。どうぞ」
俺にフォークと一緒に差し出されたお皿にはウサギの形をしたリンゴが乗っている。
……こんなリンゴを食べるのは子供の時以来だ。
「ありがとう。これを食べたら行かなきゃな」
「そうだ、朔也クン。連絡先、教えてもらってもいい?」
携帯電話を俺に見せる彼女に頷いて俺も自分の携帯を彼女に渡す。
彼女と連絡先を交換し合うと、時間としてはそろそろ出かけなければいけない。
「朔也クン。後片付けは私がしておくから、学校の方へ行って? 時間もないんでしょ」
「え? いや、そこまでさせるのは悪いだろ」
「いいから。ここは任せて欲しいな」
俺も時間的に焦っていた事もあって、つい千沙子の言葉に甘えてしまった。
彼女との関係とかも話さなきゃいけない事はあるのだが。
「ホントに重ねてごめん。これ、合鍵だから。鍵閉めたらポストにでも入れておいて」
「分かったわ。後は私に任せて、いってらっしゃい」
「……千沙子、また時間は作るから。その時にゆっくり話そう」
「うん。楽しみに待っているわ」
小さく手を振って俺を送る彼女。
「でも、これくらいはさせてもらってもいいかな」
ふと、彼女は背伸びをしてそっと俺の頬に口づけた。
ちゅっという柔らかな唇の感触を頬に感じて俺は呆然とする。
「ち、ちさ、千沙子!?」
「ふふっ。いってらっしゃい」
何とも言えない気持ちになりながらも俺は急いで学校へ向かう。
「はぁ、千沙子とどんな顔をして向き合っていけばいいのか分からない」
俺はただ、頬に感じたキスの感触に戸惑うしかなかった。
そして、俺の教師生活が始まった。
……。
朔也が去った後の家に残った千沙子は笑いを押し殺せずに笑う。
「……あははっ。朔也クンは昔と性格は変わらないなぁ」
彼女はひとしきり笑い終わると、唇を軽く撫でながら、
「まぁ、このような展開になるのは予想外だったけれど。それにしても、朔也クン。東京ではずいぶん遊んでたみたい」
千沙子は今の状況を楽しんでいる素振りを見せる。
「戻ってきたからには絶対に逃がさない……逃がしてあげないよ」
彼女にとっての7年。
その年月はただ過ぎ去っただけの時間ではなかったのか。
「くすっ。楽しくなりそう。さぁて、後片付けしようっと」
まるで小悪魔なように妖艶な微笑を浮かべる。
彼女にとってもこの出会いは新しい始まりになる――。