第2節:栄誉の証と最後の静寂
地下講堂へ足を踏み入れると、ひんやりとした無機質な空気が肌を刺した。
無数の過酷な教練とスクイーズを刻み込んできた磨き抜かれた木調のフローリングと、荒々しいコンクリート打ちっぱなしの壁面。過酷な3年間を象徴するその空間には、すでに入場を完了した第A班から第D班までの生存者30名が、班ごとに整然とパイプ椅子に着席していた。
膝の上に置かれた両手、垂直に伸びた背筋、寸分のブレもない眼光。30名が放つ静寂の圧力は、講堂全体の空気を鋭利に研ぎ澄ましていた。
その直後、保護者たちが教官の案内で講堂の後方へと足を踏み入れた。
3年前の入学式においては、200名もの候補生とその親たちで溢れかえり、保護者は講堂に入りきらず別室のモニター観覧を余儀なくされていた。だが今、地獄の淘汰を経て残されたのはわずか30名。空いた広大な後方スペースには整列されたパイプ椅子が用意され、生き残った学生たちの保護者全員が、同じ空間で式典を見守ることが可能となっていた。
だが、誰一人として声をあげる保護者はいない。目の前に並ぶ我が子たちの、首元に纏った漆黒のスカーフと、微動だにしない鉄の背中。そこから漂う圧倒的な異質さとプロフェッショナルとしての冷厳な覇気に圧倒され、息を殺して指定の席に着くのが精一杯であった。
ステージ右端の来賓席には、重厚な威厳を放つ面々が居並んでいた。
一糸乱れぬ教官陣を率いるクロサキ教官らの横には、不気味なほどの冷徹な眼光を湛えたタツガミIALRT日本管轄最高責任者の姿があった。
その隣には、公的な来賓として本来出席予定であった長野県知事・アベ・シュウイチ(阿部 守一)の代理として長野県副知事のセキ・ケンイチロウ(関 健一郎)が、そして松本市長・ガウン・ヨシナオ(臥雲 義尚)の代理として松本市副市長のフジモト・ユウジ(藤本 裕司)が着席していた。
気候変動が加速度的に激甚化し、いつどこで突発的な自然災害やインフラ損壊が起きてもおかしくない2040年代の現状において、自治体の首長である知事や市長は、常時運用される総合防災本部での警戒指揮や緊急公務に追われていた。現実の一般的な教育機関の式典においても首長本人の出席は限られ、副手による代理出席が慣例となっているが、タイムリミットが迫るこの時代においては、その職務の重みはより一層リアルな切迫感を帯びていた。
公的な代理として臨んだ関副知事と藤本副市長は、首長からの祝意を携えて参列していたものの、目の前に鎮座する30名の「感情を削ぎ落とした生き残りの精鋭たち」と、IALRT幹部陣が発する異様な緊張感に気圧され、終始硬い表情で口を結んでいた。
正面ステージの演説台左側には、式典用の鮮やかな生け花が静かに飾られていた。
その背後には、中央に「日の丸」、右側に「日本長野本校の校章」、左側に全国4校を束ねる「国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT)日本養成学校統合校章」の三つの大旗が横一列に掲げられている。
そして、その頭上には一字の乱れもなく誇らしげな看板が掲げ出されていた。
『第⚪︎期生 国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT)日本養成学校 日本長野本校 卒業認定授与式』
華やかな花飾りが添えられているにもかかわらず、講堂を支配しているのは祝いの熱気などではなく、息を吸うことすら躊躇われるほどの厳格で冷酷な「最後の緊張感」であった。
地下講堂へ一歩を踏み入れた瞬間、肌を突き刺すのは、冷え切ったコンクリートと研ぎ澄まされた殺気だ。 無数の過酷な教練を刻み込んできた磨き抜かれたフローリングの上には、第A班から第D班までの生存者30名が、すでに完璧な静寂の中に収まっていた。膝に揃えられた両手、垂直に突き立てられた背筋、瞬きひとつない眼光。全員の関節がひとつの油圧シリンダーであるかのように、講堂の空気そのものが凍りついている。
後方のドアが開き、保護者たちが教官の誘導で足を踏み入れた。 3年前の入学式では200名の群れであふれかえり、親たちは別室のモニターへ押しやられていた。だが、地獄の淘汰を生き残った者が30名となった今、彼らは我が子のすぐ背後に用意されたパイプ椅子へと着席する。 しかし、誰ひとりとして声を漏らす者はない。目の前に並ぶ我が子たちの首元に揺れる漆黒のスカーフと、異様なまでの無機質な鉄の背中。そこから漂う圧倒的なプレッシャーに気圧され、親たちは呼吸の音すらかき消すように、ただ震えながら席に沈み込んだ。
ステージ右端の来賓席。クロサキ教官ら鬼教官陣の脇に、タツガミIALRT日本管轄最高責任者が冷徹な彫像の如く座している。 その隣には、本来出席するはずだった長野県知事・阿部守一の代理として長野県副知事の関 健一郎が、松本市長・臥雲義尚の代理として松本市副市長の藤本 裕司が着席していた。激甚化する気候変動やインフラ崩壊の危機に際し、常に防災の最前線に縛られる首長たちに代わり、公的な代理として参列した両名だったが、目前に鎮座する30名の「感情を削ぎ落とした生き残りの精鋭たち」が放つ尋常ならざる覇気に呑まれ、冷や汗を拭うことも忘れて硬く口を結んでいた。
正面壇上の演説台左には鮮やかな生け花が飾られているが、その背後に掲げられた「日の丸」「長野本校校章」「IALRT統合校章」の三つの旗、そして頭上の『第⚪︎期生 国際総合新鋭救命救助部隊(ALRT/アイアラート)日本養成学校 日本長野本校 卒業認定授与式』の看板が映し出すのは、祝いの熱気ではなく、息を吸うことすら許さない極限の冷厳さだった。
ヤマタニ教頭がステージ右端のマイク前へ滑るように進み出る。
「――これより、第⚪︎期生 国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)日本養成学校 日本長野本校 卒業認定授与式を執り行う。開式に先立ち、真壁校長より訓示」
重々しい足取りで演説台に立った真壁厳の眼光が、30名の頭上を冷ややかに撫でた。
「諸君。すべての筆記、実技、極限シミュレーションを突破し、今日この場に立ったことは認めよう。だが、勘違いするな。バッジを手にするこの最終局面であっても、油断は一切許されない」
コンクリートの壁面を響き渡る声には、一切の妥協がなかった。
「これまで同様、本校の最高ルールは式典終了の瞬間まで継続する。どれほど優秀な成績を収めた者であれ、この授与や整列のタイミングで『同調ミス』や『わずかな気の緩み』を見せた場合、我々は容赦なくその場で『卒業資格認定の即時取り消し・保留』を申し渡す。現場において、コンマ数秒の連携ミスや慢心は、自らの死と救うべき命の喪失に直結するからだ。最後の最後まで、完璧な機能を維持せよ」
真壁が演説台を降り、ヤマタニ教頭の隣へと戻る。 理不尽とも思えるその鉄の戒律こそが、超高度な生命維持システムを扱う自分たちの命綱であることを、全員が骨身にしみて理解していた。
「――一同、起立! 学生、脱帽!」
ヤマタニ教頭の短い号令が飛んだ瞬間、ガタリと全席が一斉に立ち上がる。 30名の学生の手が寸分の狂いもなしに同時に動き、帽子を脱いで胸に当てた。衣擦れの音すら完全に一つに重なる、異様なまでの同期。荘厳な国歌の旋律が講堂を包み込む中、全員が彫像のように直立不動を貫く。
「――全員、着席! 学生、着帽!」
音楽の終息と同時に、学生たちは一糸乱れぬ所作で帽子をかぶり、微動だにせず椅子へと身を沈めた。
「――卒業認定証書、並びに隊員認定資格証の授与」
再び演説台に立った真壁校長から、一人ひとりの呼名が始まる。
「第A班 学生番号20番、スガノ・ノリアキ」
「はい!」
一際鋭い返事が響き、スガノが厳格な足取りでステージへと踏み出した。 真壁校長の手から授与されたのは、紺色地に金色のIALRT統合校章が刻まれた絵本型の重厚な「卒業認定証書」であった。
『卒業認定証書――隊員認定資格証明書。第A班 学生番号20番、スガノ・ノリアキ殿。貴方は、本学で3年間過酷で厳格な養成訓練課程を修得し、国際総合新鋭救命救助部隊(ALRT/アイアラート)の隊員認定資格を授与する。204X年3月25日。国際総合新鋭救命救助部隊(ALRT/アイアラート)日本養成学校 日本長野本校 校長、真壁 厳』
読み上げられたこの証書は、単なる卒業証書にとどまらず、最先端のAGBスーツを運用も含め、現場で救命活動を行うための最高峰の国家ライセンスそのものであった。さらに真壁から、金色に鈍輝く金属製の隊員紋章バッジが手渡される。 スガノは怒号も私語もない完璧な静寂の中でそれらを受け取り、寸分違わぬ礼をして整然と自席へ戻った。
淀みない精度で流れていくその一連の動作のなかで、次の名が告げられた。
「――第A班、学生番号42番、シムラ・レン」
「はい!」
迷いのない返事とともに、シムラは一直線にステージへ歩み出た。 真壁校長の前に立ち、深々と礼を捧げる。手渡された紺色の証書の確かな重み、そして真壁校長から胸元に授与された、金色に鈍く輝く隊員紋章バッジの冷たい金属の質感。その瞬間、3年間の地獄のような淘汰を耐え抜き、ついにプロフェッショナルの境界線を越えたのだという静かな実感が、シムラの全身の神経を駆け抜けた。
後方の保護者席では、両親が息を殺してシムラを見つめていた。 北アルプスの雪崩事故で命を救われた父親が、かつての救助隊と同じ重厚な金のバッジを胸に受ける息子の姿に、目頭を熱くし、震える口元を必死に抑え込んでいる。華奢だった少年が、大勢の命を背負う本物の修羅として立つ姿に、言葉にならない圧倒的な誇りと切なさが滲んでいた。
シムラは証書とバッジを抱き、寸分の狂いもない礼を捧げて自席へと戻り、再び冷厳な姿勢で着席した。
30名全員への授与が完了し、ヤマタニ教頭の司会を受けて真壁校長が再び前へ進み出る。
「――学校長、お祝いの言葉」
「卒業生諸君、おめでとう。諸君が3年前、この門をくぐった際の倍率は実に約300倍という極限の難関であった。全国から選り抜かれた200名が、この過酷な訓練と淘汰を経て、本日この場に残ったのはわずか30名だ。血と汗の滲む努力を重ね、人間としての感情すら制御し遂げたその成長を、私は心から誇りに思う」
真壁のトーンが、さらに一段低く、鋭さを増す。
「――だが、忘れるな。これまでの3年間は、まだ広大な現場へ立つための『予行演習』に過ぎない。これから赴く最前線には、現実の命と社会の存続がかかっている。どれほど凄惨な地獄や理不尽な環境が待ち受けていようとも、決して怯むことなく、冷徹に、迅速に、自らの機能を遂行せよ。誇り高き(IALRT/アイアラート)隊員として、進め」
校長の演説が終わると、ヤマタニ教頭が次の式順へと移った。
「――続きまして、各班優秀成績者授与式」
ヤマタニ教頭の静粛な声が、緊張の走る講堂に響いた。
「本学での3年間において、学業・実技・生存訓練の全項目で特に卓越した成果を収めた学生を表彰する。……第A班、シムラ・レン。第B班、オオイタ・テツジ。第C班、ヤゴ・レンタ。第D班、アカヤマ・ミズキ」
「「「「はい!!」」」」
呼名と同時に、4名の鋭い返事が完全に一つに重なって講堂を突き抜けた。 ガタリ、と寸分のズレもなく同時に起立するシムラ、オオイタ、ヤゴ、アカヤマの4名。その隙のない直立姿勢に、演説台の真壁校長が鋭い視線を送る。
「――シムラ以外の3名は、着席」
真壁の短い合図とともに、オオイタ、ヤゴ、アカヤマの3名が、まるで一筋の影のように無音で同時に椅子へと身を沈めた。 残されたシムラは、背筋を垂直に伸ばしたまま、整然とした足取りで単身ステージ中央の演説台へと歩み出た。各班の頂点に立つ4名を代表し、一人で賞状を受け取るためだ。
「成績優秀賞。第A班、シムラ・レン殿。貴方は3年間にわたる過酷で厳格な訓練を耐え抜き、優秀な成績を収めたことを証する。204X年3月25日。国際総合新鋭救命救助部隊(ALRT/アイアラート)日本養成学校 日本長野本校 校長、真壁 厳」
賞状を授与されるシムラの指先には、微細な震えすら存在しなかった。 四人分の栄誉をその両手に重々しく受け止め、寸分の狂いもない深々とした礼を捧げる。 ガタッ、と後方の保護者席から、誰からともなく抑えきれない拍手が湧き起こった。我が子の到達した人知を超えた高みに対する、誇りと畏怖の混じった拍手。シムラは一切目線を動かすことなく、研ぎ澄まされた行進で自席へと戻り、完璧な同期で着席した。
ヤマタニ教頭が再びマイクの前へと進み出る。
「――続きまして、祝辞。(IALRT/アイアラート)日本管轄最高責任者、タツガミ・テルオ閣下」
ヤマタニの紹介を受け、来賓席から静かに立ち上がったのは、不気味なほどの威厳を纏うタツガミであった。 一歩踏み出すごとに、講堂内の空気が物理的に重さを増していくような錯覚を覚える。演説台に立ったタツガミは、マイクの前に立つと、感情の失われた氷のような眼光で30名の卒業生を見下ろした。
「諸君、生き残りを祝おう」
抑揚のない、低く冷ややかな声が講堂を支配した。温かみなど微塵もない、まるで高性能な機械の動作テストを検収するプログラマーのような冷酷なトーンであった。
「だが、勘違いするな。諸君が今日手にしたのは、称賛されるべき『栄誉』などではない。破滅へと向かう地球のタイムリミットに抗うための、『冷徹な機能』としての資格だ」
タツガミの言葉に、後方の保護者たちが息を呑む気配が伝わってくる。
「救命とは、情や感情ではない。コンマ一秒の正確な計算と、命の選別すら辞さない絶対の規律だ。長野の30名を含め、全国4拠点・総勢135名の精鋭たる諸君は、もはや単なる人間ではない。これより始まる不可避の破滅から、人類の種を繋ぎ止めるための『不可欠な歯車』だ。自らの機能を過酷に遂行せよ。期待している」
一切の温もりを排除した冷酷な祝辞を終えると、タツガミは一礼すらすることなく、静かに来賓席へと戻った。その異質な威厳に、講堂内は静まり返っていた。
ヤマタニ教頭が淀みなくマイクへ音声を乗せ、静寂の圧力を緩やかに変える。
「――続きまして、来賓祝辞。長野県知事・阿部守一様代理、長野県副知事、関 健一郎様」
促された関副知事が、幾分硬い表情のまま登壇した。手にした祝辞の紙を広げると、マイクに向かって深々と頭を下げた。彼ら自治体の首長たちは、組織の奥底に蠢く恐ろしい真実など知る由もない。「人類を救う国家最重要プロジェクト」としての純粋な敬意と誇りを胸に、スピーチを始めた。
「……本日、ここに第〇期生の卒業認定授与式が盛大に執り行われますことを、長野県を代表して心よりお祝い申し上げます」
関副知事は、目の前に並ぶ30名の隙のない佇まいに感嘆の息を漏らしながら言葉を継いだ。
「気候変動の激甚化が進み、環境のタイムリミットが叫ばれる過酷な現代において、入学倍率約300倍という狭き門をくぐり抜けた200名から、この長野の峻険な山々で極限の試練を打ち破り、本日生き残られた30名の諸君。……諸君は、まさに長野県のみならず、日本、そして世界が誇る『希望の砦』であります。これまで諸君を支えてこられたご家族や教官陣への感謝を胸に、どうぞ世界の最前線へ、誇り高く羽ばたいてください」
広域災害の最前線に立つ精鋭たちへの力強いエール。深々と一礼して降壇する関副知事に、温かい拍手が送られた。
ヤマタニ教頭が間髪を入れずに進行する。
「――続きまして、松本市長・臥雲義尚様代理、松本市副市長、藤本 裕司様」
続いて登壇した藤本副市長は、胸を張り、地元・松本市の安曇・上高地の地で育まれた精鋭たちへ、親しみと情のこもった視線を向けた。
「卒業生の皆さん、誠におめでとうございます。ご家族の皆様にも、心よりお慶びを申し上げます」
藤本副市長は、残雪の残る険しい山々に視線の向けるように言葉を重ねた。
「ここ安曇・上高地の過酷な風雪と険しい地形に耐え抜いた諸君の勇姿は、地元松本市民にとっても大きな誇りです。……これから現場へ赴く諸君が向き合うのは、突発的な災害の恐怖に震える、生きている一人ひとりの人間です。極限の状況であればこそ、高度な救命技術とともに、その冷徹な制服の下に秘めた『人間らしい熱い志』をどうか忘れないでください。人々を暗闇から救い出す温かい光となってくださることを、切に願っております」
『冷徹な制服の下に秘めた、熱い情と人間性』――。 市長代理のその純粋で温かな言葉は、すでに人間的な感情を殺し、冷徹な「機能体」として完成されたシムラたち30名の圧倒的な静寂と、皮肉なまでの鮮烈なコントラストを描き出していた。
藤本副市長が礼を終えて自席へ戻ると、講堂内には再び、一切の隙もない静まり返った空気が戻ってきた。
――式典は、いよいよ後半のクライマックスとなる「送辞」と「答辞」の刻へと向かっていた。
「――続きまして、在校生送辞」
ヤマタニ教頭の粛々とした司会が響いた。
「在校生代表、第2学年第B班、ヤマザキ・ユウト」
「はい!」
鋭く乾いた返事とともに、一人の学生が立ち上がった。 次期優秀候補と目されるヤマザキ・ユウトである。まだ進級式を経ていない彼の首元には、最高学年の象徴である漆黒ではなく、地獄の2年目を耐え抜いた証である「灰色のスカーフ」が巻かれている。 ヤマザキの足取りには、1秒の停滞も迷いもなかった。寸分のブレもない直線的な行進でステージ中央へと進み出ると、演説台の前で深々と礼を捧げ、携えてきた送辞の用紙を開いた。その眼差しは、2年生の段階ですでに「修羅」の冷酷さを宿していた。
「――送辞。残雪を渡る山風に鋭い春の訪れを感じる本日、過酷な3年間の課程を完遂され、晴れて卒業を迎えられる先輩方に、在校生を代表して心よりお祝いを申し上げます」
ヤマザキの声には、若い特有の甘さなど微塵も存在しなかった。コンクリートの講堂に、透明な氷のごとき冷徹な声が響き渡る。
「振り返れば2年前、期待と恐怖の中でこの長野本校の門をくぐった私たちを出迎えたのは、容赦ない淘汰の嵐でした。日々の教練で打ちのめされ、己の不甲斐なさに潰されかけたとき、常に私たちの先頭を走っていたのは、首元に漆黒のスカーフを纏った先輩方の圧倒的な背中でした。コンマ一秒の判断遅れも許されない極限環境の中、私語ひとつなく、感情を削ぎ落として完璧な同調を見せるその姿こそが、私たちが目指すべきプロフェッショナルの到達点でした」
ヤマザキの視線が、最前列に並ぶ30名の黒スカーフ――とりわけ、その筆頭であるシムラの背中に向けられた。
「先輩方が築き上げられた鉄の規律と絶対の同調性を、私たちは決して途絶えさせません。明日より始まる進級訓練において、私たちは血を吐く思いでその背中を追い、必ずや本校の伝統を継承いたします。世界中の養成学校に掲げられた共通教訓――『地獄の淵に立て。暗闇に怯えよ、されど退くな。己の死を恐れず、光なき暗闇やどん底より、最後の息吹を刻んで他者の生を奪還せよ』。この教訓を胸に刻み、絶望の暗闇から命を奪還する不可欠な歯車となることをここに誓います。……最前線へと旅立たれる先輩方の冷徹なるご活躍とご武運を、心よりお祈り申し上げます。――在校生代表、ヤマザキ・ユウト」
ヤマザキは一糸乱れぬ正確な動作で用紙をたたむと、寸分の隙もない礼を捧げ、研ぎ澄まされた足取りで自席へと戻った。灰色のスカーフを揺らすその佇まいに、教官陣も静かに頷いていた。
ヤマタニ教頭が間髪を入れずにマイクへと音声を乗せる。
「――続きまして、卒業生答辞。卒業生代表、第A班、シムラ・レン」
「はい!」
空間を切り裂く返事とともに、シムラが静かに起立した。 パイプ椅子を鳴らす音すら立てず、シムラはステージへと一直線に歩み出た。1年前の進級式で見せた立ち姿すら遥かに凌駕する、圧倒的な存在感。無駄な脂肪も感情もそぎ落とされ、冷徹な救命機能体として完成された佇まいに、会場全体の空気が物理的に緊迫する。
演説台に立ち、真壁校長、タツガミ最高責任者、関副知事、藤本副市長、そして教官陣と保護者席へと順に眼光を向けた。シムラは胸元に金色に輝く隊員紋章バッジを抱くように、澄み渡る声で答辞を読み始めた。
「――答辞。残雪の白さと冷気が身を締めつける本日、真壁校長先生をはじめとする教職員の皆様、タツガミ最高責任者閣下、ご来賓の皆様、そしてご多忙の中足をお運びいただいた保護者の皆様に、卒業生三十名(男子二十名、女子十名)を代表し、心より御礼申し上げます」
シムラは一度言葉を切り、過酷な日々の記憶を静かに手繰り寄せた。
「3年前、全国約300倍という狭き門をくぐり、この地に集った二百名の私たちは、ただ憧れと不安を抱いた未熟な存在に過ぎませんでした。長期休暇も外界との接触も一切断たれた地下寮での生活、連日のように仲間が脱落し消えていく苛烈なスクイーズ。日々の実習で叩き込まれたのは、情や涙ではなく『コンマ一秒のミスが死に直結する』という冷酷な現実でした。……だが、私たちは怯むことなく感情をねじ伏せ、互いの同期精度を究極まで研ぎ澄ますことで、この地獄を生き抜き、本日三十名の精鋭として立つことができました」
シムラは、右袖に居並ぶクロサキ教官たち鬼教官陣、そして真壁校長へと真っ直ぐな視線を向けた。
「容赦ない怒号と厳格な指導で私たちを死の淵から引き揚げ、プロとしての機能を叩き込んでくださった教官の皆様、真壁校長先生に深く感謝申し上げます。また、本日後ろで見守ってくれている保護者の皆様。3年間、一切連絡を絶ち、心配をかけ続けて申し訳ありませんでした。ですが、皆様が無言で寄せてくださった信頼があったからこそ、私たちは誇り高きIALRT隊員としてこの場に立つことができています」
後方の保護者席では、シムラの母親が口元を押し当て、溢れ出る涙を必死に堪えていた。 北アルプスの雪崩事故で救われ、我が子をこの道へと送り出した父親は、震える膝の上に拳を握りしめ、溢れ出る涙を拭おうともせず、凛と立つ息子の背中を見つめていた。
「レン……お前はもう、誰かの命を繋ぐ本物のプロだ。誇りに思うぞ……」
親たちの胸に消えることのない温かな情愛が溢れるなかで、シムラは一切動揺することなく、静かに後輩のヤマザキたちへと向き直った。
「――在校生の諸君。諸君が追う私たちの背中に、甘えや隙は微塵も存在しない。明日からの過酷な教練において、自らの限界を疑い、感情を殺し、ただ救命という機能に特化せよ。諸君が無事に黒いスカーフを手にし、最前線で私たちの隣に立つ日を待っている」
講堂の全空気が、シムラの最後の宣言に向けて収縮していく。
「本日、私たちは本校を巣立ちます。だが、これまでの3年間はまだ予行演習に過ぎず、これから足を踏み入れる現実こそが本当の地獄であることを、私たちは理解しています。本校で学んだすべてを胸に、世界中の養成学校に掲げられた共通教訓――『地獄の淵に立て。暗闇に怯えよ、されど退くな。己の死を恐れず、光なき暗闇やどん底より、最後の息吹を刻んで他者の生を奪還せよ』。この教訓を一生の鉄則とし、不可避の破滅から人々の生を奪還する誇り高きIALRT隊員として、自らの機能を完遂することをここに宣言いたします。――卒業生代表、第A班、シムラ・レン」
シムラは答辞を読み終えると、寸分の乱れもない深々とした礼を捧げた。
その声音には、恐怖も迷いもなかった。 ただ、任務を遂行する一人のプロフェッショナルとしての冷徹な覚悟だけが宿っていた。シムラ自身、この言葉を発しながら、自らの胸に刻まれた金色のバッジが重く冷たく脈打つのを感じていた。ここから始まる 現実の最前線こそが、本当の『地獄の淵』なのだと。
完璧な所作で自席へと戻り、直立不動の姿勢で着席するシムラ。 静まり返る講堂には、言葉を超えた凄みと重圧が、重く漂い続けていた。
「――続きまして、校歌斉唱」
ヤマタニ教頭の静粛なアナウンスが響いた。
「――一同起立! 学生、脱帽!」
ヤマタニ教頭の鋭い号令が飛んだ瞬間、ガタリと講堂全体の人間が一斉に立ち上がった。 30名の学生たちの手が寸分の狂いもなく同時に動き、整然と帽子を脱いで胸に添える。30組の関節が奏でる衣擦れの音すら完全に一つに重なる、異様なまでの同調美。
世界4拠点のIALRT養成学校において、それぞれの母国語で歌い継がれる世界共通校歌――『命脈の奪還』の重厚な旋律が、地下講堂のスピーカーから響き渡った。
ヤマタニ教頭の指線に合わせ、30名の学生たちの唇が一斉に開いた。
『極限の地へ 踏み出す足跡 幾多の試練に 鍛えし鉄の身 迫る破滅の タイムリミット 地獄の淵に立て 暗闇に怯えよ されど退くな 己の死を恐れず 光なき暗闇やどん底より 最後の息吹を刻んで 他者の生を奪還せよ』
個人としての歌唱の癖や感情の揺らぎは一切削ぎ落とされていた。 30名の声が一つの巨大な「鉄の合唱」となって重なり合い、コンクリートの壁面と木調の床を物理的に激しく振動させる。感情ではなく規律によって放たれるその圧倒的な音圧に、後方の保護者たちは息を呑み、金縛りに遭ったかのようにその場に立ちすくんでいた。
間髪を入れず、重厚な旋律とともに2番のフレーズへと歌声が重なっていく。
『感情を削ぎて 規律を刻み ただ一筋の 機能を果たさん たとえこの身が 砕け散るとも 冷徹なる手に 誓いを込めて 絶望の暗闇 貫き進み たたえよ 我らが IALRT養成学校』
『感情を削ぎて』『たとえこの身が砕け散るとも』――。 我が子の口から一糸乱れぬ声で放たれるその言葉は、もはや親の知る「子供」の歌声ではなかった。 後方の保護者席で見守る父親は、溢れ出そうになる涙を必死に手で拭い、息を殺してその横顔を凝視していた。3年前、怯えと幼さを残したままこの地下門を潜った少年は今、自分の手から遠く離れ、人類の破滅と無数の他者の命をその肩に背負う「揺るぎない鉄の人間」へと変貌を遂げている。 我が子が遠い領域へ到達したことへの誇りと、二度と普通の日常には戻れない過酷な運命へ踏み出していく切なさ。複雑に入り混じる感情に胸を締め付けられながらも、父親は震える拳を握りしめ、プロとして立つ息息の雄姿をただその目に焼き付けていた。
曲の終息とともに、ピタリと完璧に残響が断ち切られた。
「――学生、着帽! 学生以外は、着席!」
ヤマタニ教頭の号令のもと、学生たちは一糸乱れぬ所作で帽子をかぶり直して直立を維持し、来賓と保護者たちが静かに席に着いた。
演説台へ進み出た真壁校長が、彫像のように固まる30名の頭上を見据え、重々しく口を開いた。
「――これより、第〇期生 国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT)日本養成学校 日本長野本校 卒業認定授与式を執り終える。……一同、礼」
真壁の合図に合わせ、教官陣、来賓、学生、そして保護者までの全員が、完璧な同調で深々と頭を下げた。
頭を上げた真壁校長が、最後の冷厳な言葉を告げる。
「――卒業生、退場! 第A班より順に、地上のグラウンドへ集合せよ。グラウンド到着後、保護者との面会を許可する。……ただし、言うまでもなく、これまで同様に気を緩めて浮かれ、軽挙妄動を働いた者は、その場で資格を取り消す!」
「――卒業生、退場!」
ヤマタニ教頭の最終アナウンスが響く。
先頭に立つシムラのいる第A班が、鋭く「歩調、進め!」と声を発する間もなく、30名の足取りが同時に動いた。 ザッ、ザッ、ザッ、と整然と床を刻む重厚な靴音。 筆頭であるシムラを先頭に、第A班から第D班までの30名が、軍隊以上の整然とした行進で地下講堂の通路を突き進んでいく。誰ひとりとして後ろを振り返る者はなく、脇の保護者席に目線を送る者もいない。
「面会許可」が出た直後であっても、地上に到達する最後の1秒まで「資格取り消しの罠」が張り巡らされていることを、彼らは身をもって理解していた。
静寂のなか、一糸乱れぬ鉄の歩調だけを講堂に残し、30名の精鋭たちは残雪の光が差し込む地上グラウンドへと向かって行進していった。
宝塚音楽学校の卒業式を思わせる、一切の隙もない隙のない美しさと異様なまでの緊張感に包まれたこの式典の模様は、のちにニュースを通じて全国へ放映され、見る者に言葉もない圧倒的な衝撃を与えることとなる。




