AIを使ったなろう小説との付き合い方を考えてみる
生成系AI(以降AI)と創作物の関係については既に多くの人が議論を行っており、それぞれがそれぞれの思考を書き連ねているところであるが、私も自分の考えを整理しておこうと思う。
初めに宣言しておきたいのが、私はAIを使った「なろう小説」が別段嫌いなわけではない。しかし好きなわけでもない。AIの書いた小説だからといって特別避けたり読みに行ったりしないよ、というスタンスである。
さて、本文章の本題はAIを利用した創作物とどのように付き合っていくべきかという話題である。AIを利用する作者の増加によって文章として「読める作品」の数は増加したような気がする。同時に著作権的な問題などからAIを忌避する読者も増加したであろう。
AIを利用した小説が苦手な方の感情は大いに理解できる。勝手に誰かの書いた文章が学習され、他人の創作物として利用されることに嫌な気分を覚えるのは当然だ。むしろ私のスタンスよりかはこちらのスタンスの方が自然かもしれない。
一方で私が考えているのは人間も他人が書いた文章を無意識にトレースしているということである。過去の文豪は更に昔の文豪の文章に影響を受けているだろうし、今の人間が過去の人間の集合知を利用していることは否定できない。結果的には私たちもAIの学習と同じように文章などを読んで、その内容を使って出力しているにすぎないのではないか、と考えてしまう。結局のところ、小説の本文だけを見てAIの出力結果なのか、人間の文章なのかを判断することは非常に難しいだろう。
そのため、最終的には人間とAIの境目はどこなのかという哲学的な問題に突入しうる。かつての哲学者は「共同体としての本性を持つ生物」であったり、「文化を創造する存在」であったりと定義したようである。勿論生物学的にゲノム等の特徴を用いて定義することも行われているが、今のまま遺伝子技術が発達してしまうと羽の生える人間のようなゲノムの異なる人間の誕生もすぐに可能になってしまうような気もする。
要するに、人間の肉体の脳のみを何らかの方法で完璧に人間の思考をトレースできるAIに置換するとき、それは人間と呼べやしないだろうか。そのAIが書いた文章は人間の書いた文章と何が違うのだろうか。この延長線上を考えるとき、AIと人間に境目はそもそも存在するのか、私は結論を出すことができずにいる。
その結果が冒頭に述べたような「AIの書いた小説だからといって特別避けたり読みに行ったりしないよ、というスタンス」である。
なろう小説読者の各々がAI小説にどういうスタンスを持っていたとしても、それを人に押し付けないことは大切だと私は思う。忌避感を感じる人が存在するのは当然であるし、効率的な観点や能力を補う観点から積極的に利用する作者がいるのもおかしくはない。
条件付きながらも規約でAIの利用は許可されている。したがってAIを利用した小説だからといって作者を攻撃をしてはいけない。前に述べた議論から、AIの利用を嫌う読者を攻撃するような言説も控えるのが自然であろう。
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ここまでが読者視点の話、ここからは作者視点の話をしようと思う。
一作者として、もし倫理的な問題をAIに感じないのであれば、AIの利用はとても良いものである。単純に自分のアイデアをより早く文章に出来るようになるし、もし収益を得ているのであれば単純に時給の向上につながる。
その一方で「AI小説だから読まない」選択をする人も存在する。そういった選択は当然尊重されるべきである。私が懸念しているのは読者が減ることを恐れてAIを利用しているのにも関わらず、AI利用関連のタグをつけていない作者が多いのではないかということだ。
その選択は「AI小説だから読まない」読者を馬鹿にしている。警察がいないから信号無視をするようなもので、大人の人間がすることではない。
AIを使うのであれば規約に則ってタグを付けるのは作者としての読者への最低限の敬意ではないだろうか。




