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【7】不完全な信頼と完全な意志

■1【条件付きの信頼、巨匠との協奏】中村栄助・佐野常民の決断

明治二十六年(一八九三年)初冬。

京都商工会議所の広間は、張り詰めた沈黙に支配されていた。片桐陽介と野々村拓海は、ただじっと、議長席の中村栄助と、その隣に座す佐野常民の、次の言葉を待っていた。

中村が、まず、穏やかな口調で、口火を切った。

「片桐君、野々村君。君たちの才能とこの大事業にかける真摯な思いには、伊東先生方も深く感銘を受けておられた。それは間違いない」

その言葉に片桐と野々村の強張っていた表情が、ほんのわずかに緩む。

佐野常民もまた温和な眼差しで二人を見つめ、力強く頷いた。

「まさしく君たちの案には、故・岩倉具視様が夢見られた『京都文化首都構想』の魂の片鱗が、宿っていると感じた」

だが、佐野はそこで一度、言葉を切った。部屋の空気が、再びぴんと張り詰める。

「――だがな。この平安神宮創建は、国家百年の計だ。いささかの妥協も失敗も許されん。君たちの才能は疑いようもない。しかしその全てを今の君たち二人だけに、委ねることの難しさも、また事実としてある」

その言葉は、まるで冷たい刃のように二人の胸に突き刺さった。

片桐の顔から、血の気が引いた。野々村は、思わず膝の上で拳を強く握りしめた。

その二人の反応を見届け、中村が決然とした口調で、続けた。

「そこで我々は決断した。片桐君には社殿建築の主任設計士として、野々村君には神苑作庭の主任庭師として、それぞれの部門の中心的な責任を担ってもらう!」

その言葉に二人の顔に、驚きとそしてかすかな安堵の色が浮かんだ。

その瞬間、伊東が口を開いた。

「片桐くん、君は失敗するかもしれん。それは、我々もわかっている。だがその失敗すらも、我々が受け止める。それほどの可能性が君の設計にはある」

木子も続けた。

「片桐先生の図面は、まだ未熟や。けど、わしがまだ見たことがないもんがそこにありそうや。見たいんや。片桐先生が最後に辿り着く“形”を」

植治も一言、ぽつりと呟いた。

「拓海が神苑を描けるかどうかは、まだわからん。けど…わしとは違う場所が、君には見えとる気がする」

「――そこでだ」中村の声が、さらに、力を込めた。

「絶対的な条件付きを付ける。この事業を盤石なものとし、必ずや最高の形で成功に導くため、伊東忠太先生、木子清敬棟梁、そして七代目小川治兵衛殿には、それぞれの専門分野における『特別相談役』として正式に就任いただき、君たちには彼ら大家の指導と助言を真摯に仰ぎ、重要な局面――例えば、基本設計の最終承認や、現場での重大な設計変更、あるいは予算の大きな見直しといった場合――においては必ずその承認を得ながら、緊密に連携して仕事を進めてもらう。いわば、君たちが主旋律を奏で、巨匠たちがそれを支え、より豊かな『協奏』を創り上げる。これが我々が出した結論であり、君たちへの信頼の証だ」

そのあまりに重い、しかし光栄な決定。

片桐と野々村は、ただ黙ってその言葉の本当の意味を噛み締めていた。

(…主任設計士。その響きは甘美だ。主・岩倉様の遺志をこの手で。これ以上の名誉はない。…だが、同時に伊東先生と木子棟梁という、二つの巨大な山が、常に俺の背後からその仕事ぶりを、見下ろしているということか…)

片桐の胸に誇りという光と、そして肌を焼くような新たなプレッシャーという影が同時に、宿った。

(植治先生のご指導を…?あの雲の上の人から、直接、技を盗めるというのか。これほどの栄誉はない。…だがあのお方の前で、半端な仕事は断じてできんぞ…)

野々村の心にもまた、庭師としての無上の喜びという光と、巨匠の影に対する身の引き締まるような畏怖という影が、同時に存在していた。

それは、二人が単独で全てを統括するという当初の野心とは異なる形であった。

しかし、それぞれの部門の「主任」という中心的な役割を任され、かつ当代随一の大家たちから直接指導を受け、共に創造の現場に立てるという、またとない成長の機会でもあった。

彼らにとって、この「テスト」の結果は、栄誉とそしてそれと同等の重圧に満ちた未来への扉を開くものであった。

片桐と野々村は、その決定の重みを改めて互いの目の中に見出すのであった。


■2【新たなる船出、巨匠との協奏、そして未来への誓い】

しばしの沈黙の後、まず片桐陽介が顔を上げ、中村と佐野、そして審査にあたった伊東忠太、木子清敬、七代目小川治兵衛に、深く頭を下げた。

「中村会長、佐野様、そして伊東先生、木子棟梁、植治様。この片桐陽介、未熟者ではございますが、皆様から賜りましたこの信頼と、そして『特別相談役』として伊東先生、木子棟梁という大家にご指導を賜るという身に余る光栄を胸に、平安神宮社殿建築の主任設計士として、必ずやご期待を超えるものを創り上げる覚悟でございます。何卒、今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」

その声には、かつての岩倉の影に揺れていた迷いは消え、建築家としての新たな、そしてより謙虚な決意が漲っていた。傍らでは、橘早苗もまた片桐の言葉に静かに頷き、その横顔を尊敬と安堵の入り混じった表情で見つめている。

(先生なら、きっと…この新しい体制の中でこそ、真の力が発揮されるはずだわ。私も全力でお支えしなければ…岡崎の未来のためにも!)

早苗の心にも、新たな決意が灯る。

続いて、野々村拓海もまた深く一礼した。

「私もまた、植治様という雲の上の存在に『特別相談役』としてご指導を賜りながら、神苑作庭の主任庭師という大役を拝命いたしますこと、身に余る光栄に存じます。野々村拓海の名に恥じぬ、魂のこもった神苑をこの岡崎の地に現出させることを、ここにお誓い申し上げます」

彼の言葉にも、七代目の大きな影に苦しんでいた頃の自信のなさはなく、自らの信じる庭を、巨匠の教えを吸収しながら創り上げようという、澄み切った覚悟が感じられた。

中村栄助は、その二人の言葉と決意に満ちた表情に、満足げに大きく頷いた。

「うむ、頼もしい限りだ。これで平安神宮創建の主要な設計・建設チームが、ここに正式に発足したと言えよう!片桐君が伊東先生、木子棟梁の指導のもと社殿を、野々村君が植治殿の指導のもと神苑を、それぞれ中心となって進めていく。そして橘早苗君には片桐君の右腕として、また岡崎の専門家として、その力を存分に発揮してもらいたい。もちろんこの中村栄助、そして京都実業協会、さらには東京の平安遷都記念協賛会も、総力を挙げて君たちを支えることを、改めて約束しよう!」

佐野常民もまたその言葉に力強く頷き、二人の才能に温かい眼差しを送った。

「岩倉様が夢見た『京都文化首都構想』の実現へ、我々は今日、大きな、そして確かな一歩を踏み出したのだ。道のりは決して平坦ではあるまい。しかしこの布陣なれば、必ずやいかなる困難も乗り越えられると信じているぞ」

伊東忠太、木子清敬、七代目小川治兵衛の三人もまた、それぞれ片桐と野々村へ、厳しくも愛情ある指導を約束する言葉をかけた。

伊東は「片桐君、歴史の魂は細部に宿る。だが大局を見失ってはならん。その均衡を共に探ろう」と。

木子は「設計は君に任せる。じゃが、木は生きとる。その声を無視した仕事は許さんぞ」と。

そして植治は「拓海、お前の『笑顔になる庭』その心は良い。だが真の安らぎは小手先の美しさだけでは生まれん。自然の厳しさと優しさ、その両方と向き合う覚悟が必要だ」と。

中村栄助が、改めて二人の顔を見据えた。

「誤解してはならん。現場の采配はあくまで主任である君たち二人に一任する。伊東先生方が、毎日、現場に立つわけではない」

その言葉に、二人の表情がわずかに緩む。

その一方で、この場に居並ぶ三人の巨匠たちには、あえて語らなかった想いがある。二人の不器用な構想の奥に、自らがかつて抱いた“渇き”のようなものを、確かに見出していた。


伊東忠太は見ていた――片桐の図面の上に浮かび上がる、いびつで危うく、しかし誰よりも純粋な「再現への執念」を。あれは、かつて自分が歴史を学び始めた頃、心を灼いた原点の炎に酷似していた。若き日の自分に重なるその姿が、どうしても他人事には思えなかった。

そして今、自分が果たすべきは、その炎が迷わぬよう、風の向きを整える役目――そう静かに、心を定めていた。

木子清敬は、腕を組んだまま図面から目を離した。

(片桐先生の図面は、よう描けとる。上手い。せやけどな、そんなん山ほど見てきたわ。見事な図面を引いても、いざ現場に来たら、木の癖も、職人の段取りもわからんまま、口ばっか動かすやつが、ようけおった。――せやけど、この男は違うと思た。口先だけじゃのうて、腹の底から、あの図面を生きた建物にする覚悟がある。まだ未熟なとこもある。けど、その胆力だけは、信じてええ。木を殺さん設計は理屈ちゃう。腹括った奴しか描けん。その覚悟があるなら、あとはこっちが叩き上げればええことや)

植治は、野々村拓海の語った“笑顔になる庭”という言葉を、何度も心の中で繰り返していた。(拓海の手は震えていた。足元はおぼつかなかった。だがそれでも、あの目だけは、一途に未来を見ていた。わしの知らん庭を、きっといつか創る)

そう思わされてしまった自分に、少し照れくさくなっていた。


「巨匠三人の方々が現場に立つわけではないが」と中村は言葉に力を込めた。

「その代わり、君たちには、定期的に先生方のもとへ、進捗を報告し、重要な判断については、必ずその薫陶くんとうを受ける義務がある。そのことをゆめ忘れるな」

それは、単なる上下関係ではない。同じ夢を共有し、後世に遺るものを創り上げようとする、男たちの厳しくも、熱い魂の結束であった。

こうして平安神宮創建という、千年の都の未来を賭けた壮大な事業は、2つの才能と経験豊かな巨匠たち、そしてそれを支える京都の官民の熱意が一つとなり、新たな出発点を迎えた。片桐陽介と野々村拓海。二人の建築家と庭師は、それぞれの胸に岩倉具視の遺志と自らの夢を抱き、これから始まるであろう数多の困難と創造の喜びに満ちた日々へと、固い友情の萌芽と共に、今、力強く歩み出そうとしていた。

三人の巨匠たちは、席に深く腰を沈めたまま、片桐と野々村の顔をじっと見つめていた。

その眼差しには、安堵と、そしてわずかに名残惜しさが混じっていた。

伊東がぽつりと呟いた。

「この神宮は、君らの夢だけやない。我々にとっても大きな仕事だ。…頼んだぞ」

二人は、ぐっと拳を握り、黙って深く頭を下げた。その瞬間、巨匠と二人の間に、世代を超えたあるたすきが、確かに渡されたのだった。

会議室の窓から差し込む初冬の柔らかな陽光が、彼らの決意に満ちた横顔と、これから彼らが描き出すであろう京都の新しい未来を、静かに、そして暖かく照らし出していた。


■3【空っぽの土地に、三つの祈り】

明治二十六年(一八九三年)初冬。

岡崎のまだ手つかずの広大な土地に、片桐陽介、野々村拓海、そして橘早苗の三人は立っていた。吐く息は白く、空気は凛と澄み渡っている。だが、その静寂を遠くで続く疏水の工事の、鈍い槌音と、職人たちの怒鳴り声が、時折、切り裂いていた。

「ここが…大極殿が建つ、中心地となる」

片桐が、測量図と目の前の風景を交互に見比べながら、まるで、そこにもう壮麗な社殿が建っているかのように、言った。その声には、この、ただの荒れ地を己の設計図で支配し尽くさんとする、建築家の揺るぎない意志があった。

一方、野々村は、その言葉を聞かず、黙って足元の霜柱が立つ土を掴んだ。

その冷たく湿った感触。指の間から、こぼれ落ちていく黒い土の匂い。

(…この土はまだ何も語ってはいない…)

「野々村君」片桐が、少し苛立ったように言った。

「君の神苑は、この私の社殿をどう引き立てるのだ?」

その問い。そのあまりに無邪気な問い。

野々村はゆっくりと顔を上げた。

「…神苑は。社殿を引き立てるためのものではありません。この岡崎の土が千年の間、聞いてきた風の音、水の流れ、そして人々の声なき声。それを形にする。ただそれだけです」

以前の鋭い対立が、嘘のように静かな、しかし決して交わることのない二つの魂。

その間に、橘早苗が、まるで凍てつく風の中に身を置くかのように立った。

「…あちらに見える小さな森」早苗が震える指で言った。

「あそこは村の鎮守様です。私の祖父が幼い私を連れて、よく手を合わせに…」

彼女の言葉は、そこで途切れた。

その途切れた言葉の中に、片桐も野々村も、全ての意味を聞き取った気がした。

自分たちが、これからこの土地に刻み込もうとしている壮大な設計図。

その下に、どれほどの名もなき人々の小さな祈りが埋もれていくことになるのか。

「…土地の記憶か」片桐が呟いた。

「…ええ。魂はそこにしか宿りません」野々村が深く頷いた。

初冬の陽光の下、三人はもう何も言わなかった。

ただ、目の前に広がる広大な空っぽの土地を、それぞれの胸にそれぞれの痛みと、そして未来への、まだ名もなき誓いを抱きながら見つめていただけだった。


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