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【6】手のひらに握る未来の鍵

■1【古老の知恵、水脈を拓く ~神苑、生命いのちの設計図~】

岡崎の住民説明会から数日が過ぎた、明治二十六年(一八九三年)晩秋。京の町にかかる朝霧が、静かに季節の移ろいを告げていた。

野々村拓海の仕事部屋には、どこか岡崎の湿り気が残っていた。たしかに土を持ち帰ったわけでもない。ただ、その匂いや気配が、彼の身に染みついて離れなかった。繰り返し足を運んだ神苑予定地──その広大な土地の感触、足裏に残るぬかるみの重さ、木々をすり抜けてくる風の鳴り。東山の稜線が朝靄に溶けゆくさまを思い返すたび、それらすべてが五感の底に沈殿していた。机の上には、広げられた神苑の設計図と、あの説明会で必死に書き留めた古老・畑中徳兵衛の言葉を記した手控え。

「昔の水の道」 「土地の水はけ」 「窪地に自生していた特別な山野草」

七代目小川治兵衛(植治)から突きつけられたのは、「琵琶湖疏水の水利計画と生態系への配慮不足」という難題だった。だが、その答えは思わぬところに転がっていたのかもしれない。徳兵衛の、素朴な、だが揺るぎない言葉の中に。

(力任せに疏水の水を引き込むだけでは、岡崎の土地が悲鳴を上げる。かつての自然の水脈……それを読み解き、神苑の中で再び息を吹き込むのだ。疏水の水は、いにしえの水路を潤す“今の恵み”として生かすべきだ。あの窪地には、沢瀉や杜若を植えよう。徳兵衛さんが語った風景を、今に甦らせるんだ)

そのとき拓海の脳裏には、雨が降っても自然と水が畑を避けて流れたという、かつての岡崎の姿がありありと浮かんでいた。それは人が自然をねじ伏せるのではなく、ことわりに寄り添い、共に生きるための知恵だった。近代の土木技術では測れない、土地と人のあいだに長く育まれた対話だった。

「拓海さん、精が出ますなあ。お夜食、おむすびでも握りましょか?」

背後から、妻・弥生の声がふんわりと届いた。振り向くと、ランプの灯りがやわらかく部屋を包んでいた。

「おお、弥生か。ありがとう。いや、今、ちょっと面白い着想があってな。徳兵衛さんの話を聞いてから、頭の中がざわついてる」

拓海は、地図に視線を戻したまま、ゆっくりと語り出す。

「疏水の水をただ溜めるんやなくて、苑内に自然な流れを生み出す。小川のように、やわらかく。段差を活かして水を動かし、水生植物に浄化を任せる。そして、あの土地に元々あった草花を、もう一度この庭で咲かせるんや」

弥生は、穏やかに微笑んだ。 「それ、ええですねぇ。岡崎の土地そのものが、生まれ変わって笑うようなお庭になりそうや」

「……そうなればええな」

そのとき、奥の部屋から小さな足音が近づいてきた。

「お父ちゃん、お庭の絵、できたん?」

眠そうな目をこすりながら、息子の匠真が姿を見せた。手には、花と小川と笑顔の動物たちが描かれた、にぎやかな絵。拓海はふと笑みを漏らし、匠真の描いた絵を覗き込んだ。

「もうすぐできるぞ。お前が描いたみたいな庭や。魚も小鳥も、いっぱいおるで」

そう言いながら、彼は一本の線を、設計図の上にすっと引いた。

それはまだかすかな線だった。けれど岡崎の土と声を聞いた男が、その記憶と向き合いながら描いた、確かな“生”の道だった。植治の投げかけた問いへの答えが少しずつ形になりつつあった。


■2【民の声、師の教え、壮麗なる「明治の平安」への道】

野々村拓海が岡崎の古老の知恵から神苑構想の光明を見出した数日後、片桐陽介の設計事務所の空気は、まるで熱病に浮かされたかのように、張り詰めていた。

「…違う。これじゃない」

片桐は、描きかけた図面を、くしゃりと丸めて投げ捨てた。床には同じような紙の骸が、いくつも転がっている。向かいの席で、橘早苗が息を詰めて、その主の姿を見守っていた。

先日の住民説明会。あの岡崎の民から突きつけられた飾り気のない、しかしだからこそ力強い言葉の数々。「華やかさ」「威容」「明治の気概」。

そして伊東忠太先生のあの問い。「君の大極殿は、何を語るのかね?」

答えは分かっている。

歴史の再現だけでは足りない。この明治という時代の魂を、そして民の願いを、この設計図に叩き込まねばならんのだ。

「早苗君」片桐が顔を上げた。その目は熱に浮かされ、赤く充血している。

「応天門から、大極殿へ至る、あの空間。あれを単なる『参道』にしてはならん。あれは、『舞台装置』だ。訪れる者の心を揺さぶり、砕き、高揚させるための巨大な劇場なのだ」

彼は新しい紙の上に、まるで狂人のように線を走らせ始めた。

「門をくぐった者を、まず広大な白砂利の海で、一度突き放す。己の小ささを思い知らせる。そして、その先に少しずつ、少しずつ、あの燃えるような丹塗りの大極殿の、威容を見せていくのだ」

その声には、もはや、いつもの冷静な建築家の理知はない。それは自らの才能の全てを、この一枚の紙の上に叩きつけようとする、芸術家の剥き出しの「欲望」だった。

(…先生…)早苗は、その姿に畏怖と、そしてかすかな恐ろしささえ感じていた。

主・岩倉具視の遺志。民の願い。それらは確かにこの設計の源泉ではある。だが、今この男を突き動かしているのは、それだけではない。

(――この手で、歴史を創り変えたい。後世に己の名を刻みつけたい)

そのあまりに人間的な、そしてだからこそ危ういほどの輝きを放つ野心が、彼の指先から図面の上へと流れ込んでいる。

「…先生。その色彩計画では、予算を大幅に…」早苗が、ようやく絞り出すように言った。

片桐はその言葉が聞こえぬかのように、ただ線を引き続けていた。


■3【試練への回答、未来を託す設計図】

中村栄助と佐野常民から「宿題」を課せられてより一週間。

約束の日、片桐陽介と野々村拓海は、京都商工会議所の一室に、再び参上した。部屋には、中村と佐野が静かに待ち受けており、その眼差しには前回とは違う、厳粛な光が宿っていた。橘早苗も片桐の補佐として、固唾をのんで後ろに控えている。

「…持参いたしました」

片桐が、まず口火を切り、汗でわずかに湿る手で、丁寧に仕上げられた数枚の設計図と説明書を、差し出した。その巻紙の、ずしりとした重みが、彼のこれまでの苦悩の全てを物語っているようだった。

続いて野々村も、自身の神苑に関する図面と所見を、震える指を抑えながら差し出した。

彼の顔には、古老の知恵から光明を見出した手応えと、しかしそれを大家たちがどう判断するかという、拭いきれぬ不安が滲んでいた。

中村と佐野は、無言でそれらを受け取ると、部屋の中央にある大きな机の上に、ゆっくりと広げた。部屋に響くのは、上質な和紙がするすると解けていく、乾いた音だけ。

二人の重鎮は、そこに描かれた線の一本一本、書き込まれた文字の一字一句を、まるで値踏みするように厳しい、そしてどこか探るような目で、食い入るように見つめている。

その沈黙が片桐と野々村の、喉をカラカラに乾かしていく。

ややあって、中村が静かに顔を上げた。

「…うむ。確かに預かった」その声には、何の感情も乗ってはいなかった。

「これより、伊東先生、木子棟梁、そして植治さんにも改めてご意見を伺い、慎重に審議させていただく。結果は…今しばらく、待ってもらいたい」

その言葉に片桐と野々村は、ただ深く、そして長く頭を下げることしかできなかった。


■4【運命の設計図、審議の座に ~秋の京、二人の挑戦~】

明治二十六年(一八九三年)十一月、晩秋。

京都商工会議所の一室。障子窓の向こうからは、遠く市電の走る音と、物売りの声が聞こえてくる。だがこの部屋の中だけは、まるで時間が止まったかのように、重い沈黙に支配されていた。部屋の中央に据えられた大きな長机の上には、二人の男が、それぞれの魂を込めて描き上げた設計図の束が、静かに広げられている。部屋に響くのは、分厚い和紙が擦れる、乾いた音だけだ。伊東忠太が、片桐の図面の一点を、鋭い目つきで指でなぞる。

七代目小川治兵衛が、野々村の描いた植栽図を前に、ふっと息を漏らした。

その設計図を囲むのは、中村栄助、佐野常民をはじめ、当代きっての専門家たち。その誰もが言葉を発せず、ただ厳しい、しかし真剣な眼差しを目の前の紙の束に注いでいた。

末席で片桐陽介と野々村拓海は、背筋を伸ばし息を詰めていた。

片桐は、自分の心臓の音が、隣に座る野々村にまで聞こえてしまうのではないかと、本気で思った。この重厚な沈黙が、まるで自らの運命を告げる鐘の音の前触れのようにも感じられた。京都の未来を左右し、彼ら自身の人生を賭けた「テスト」の審議が、今まさに、その重い幕を開けようとしていた。


■5【水脈への回答、試される庭師の初手 ~植治のまなざし~】

京都商工会議所の広間。中村栄助らが居並ぶ前で、庭師の野々村拓海が、指名を受けた。

彼は、震える手を押さえながら、ゆっくりと立ち上がると魂を込めて描き上げた神苑の修正案の前に立った。部屋に響くのは、上質な和紙が、するすると解けていく、乾いた音だけ。

「…私が、たどり着いた答えは」

野々村は、一度、言葉を切り、集まった全員、そしてその奥に座す七代目小川治兵衛(植治)の、全てを見透かすような目を、まっすぐに見つめ返した。

「先達て植治先生よりご指摘いただきました、神苑における琵琶湖疏水の水利計画、並びに岡崎の生態系への配慮につきまして、私なりの解決策をまとめ、持参いたしました。畑中徳兵衛様から伺った岡崎の古の水脈の記憶を辿り、疏水の水をただ溜めるのではなく、苑内に細流として巡らせ、自然の浄化作用を促す!」

「つまり…新しい庭を創るのではない。この岡崎の土地に眠る古い『水の記憶』を呼び覚ますことでした」

その静かで、しかし確信に満ちた言葉。そして彼が図面を指し示しながら語る、古の小川を疏水で再生させ、土地固有の生態系を育むという、その大胆かつ繊細な構想に中村栄助と佐野常民は、感嘆の息を漏らした。

「野々村君、見事だ! 民の知恵をこれほどまでに…!」

だが七代目小川治兵衛(植治)は、腕を組んだまま、微動だにしなかった。

全ての評価は、この男の一言にかかっている。部屋の空気が、再びぴんと張り詰める。

その沈黙が野々村の額の汗を滲ませた。ややあって、植治が静かに口を開いた。

「…野々村君。土地の声を聞こうという、その心根の素直さ。ようやった。それは庭師として何より、尊いもんじゃ」

その予期せぬ優しい言葉。野々村の強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。

「じゃがな」植治の声が一転、鋼のような厳しさを帯びた。

「水利と生態系への配慮は、庭造りのほんの入り口に過ぎん。お前はまだ、その門を叩いただけだ」

植治は立ち上がると、野々村の図面のその中心を指差した。

「その先に、この広大な神苑全体を貫くべき『魂』を、どう宿らせるか。それこそがお前の真の試練となる。…その答えが今のお前の図面からは、まだ聞こえてこん」


■6【国家の顔への回答、巨匠たちの激励と警鐘】

野々村拓海の神苑構想への評価が一段落し、会議室の全ての視線が、再び片桐陽介へと突き刺さった。伊東忠太の全てを見透かすような学者の目。木子清敬の、木の年輪を読み解くような、職人の目。その、あまりに重い沈黙の中で、片桐は、ゆっくりと立ち上がった。

彼は修正を加えた平安神宮社殿群の設計図を、長机の上に広げた。

そして語り始めた。その声は、熱に浮かされているかのように、わずかに震えていた。

「…私の答えは?」彼は一度、言葉を切り、集まった全員の顔を見渡した。

「…『歴史の再現』という私の信念。それを捨てることでした」

部屋の空気が、ぴんと張り詰める。

「いや…正確には、違います。私がこの手で創り上げるのは、もはや単なる平安の都の、美しい『写し』ではない。岡崎の民が求め、そして伊東先生が問われたこの明治という時代の『魂』を、その写しの上に叩きつける。いわば、『明治の平安』を、この岡崎の地に、創造するのです!」

彼は、図面の一点を指差した。

「応天門から、大極殿へ至るこの空間。これは、訪れる者の心を、一度、砕きそして高揚させるための、巨大な『舞台装置』です。燃えるような丹塗りの柱、天を突く鴟尾、そして東山の借景。その全てが、見る者を圧倒し、この国が、今新しい力に満ちていることを、言葉なくして悟らせるための!」

その声にはもはや、いつもの冷静な建築家の理知はない。それは自らの才能の全てを、この一枚の紙の上に叩きつけようとする、芸術家の、剥き出しの「欲望」だった。

中村栄助と佐野常民が、その気迫に、息をのむ。

その沈黙を、破ったのは、建築史家・伊東忠太だった。

「…片桐君」その声は、静かだったが、刃物のように鋭い。

「それは果たして、平安京の魂かね?それとも君自身の魂かね?」

宮大工棟梁の木子清敬もまた、腕を組んだまま、重々しく付け加えた。

「…その、燃えるような丹塗りは、よほど腕の立つ職人を使わんと、ただの下品な見世物になる。…そのあけは下手をすれば泣くぞ」

二人の大家の言葉は、片桐の熱狂に冷や水を浴びせかけた。だが、それは否定ではなかった。

彼の才能を認めた上で、その才能がこれからどれほど険しい道を歩むことになるか。その厳しくも、愛情に満ちた「警鐘」であった。片桐は、その二つの問いを胸に突き刺されたまま、ただ深く頭を下げることしかできなかった。


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