【5】岡崎の風に揺れる二つの志
■1【岡崎住民説明会 ~集いし人々の面持ち~】
明治二十六年(一八九三年)四月。
春の日差しがやわらかく差し込む午後。岡崎の町家にある橘早苗の実家、その奥座敷には、普段とは違う張り詰めた空気が満ちていた。庭からはほのかに茶の香が漂い、鹿威しの音が、ときおり静けさの中に時間の区切りを告げる。この地で進められている平安神宮創建計画について、設計の中心を担う片桐陽介、野々村拓海、そしてこの家の娘である早苗が、岡崎の住民代表たちと直接向き合う場が、ついに設けられたのだ。
床の間には簡素な春の花。香の残り香が、空気にやさしく混ざる。上座には京都実業協会の代表であり、この会合の調整役を担う中村栄助が、穏やかな顔をたたえ静かに座していた。その向かいには、代々農家を営む古老、寺の総代、地権者たち数名が畳に座し、腕を組んだり、目を細めたりしながら、訪れた設計者たちを見据えている。
ある者は未来への期待を眼差しに宿し、ある者は生活への不安からか眉間に皺を寄せ、またある者は「新しい京」を夢想するような表情すら浮かべていた。その誰もが、この土地と暮らしの行方に、計り知れない重みを感じていた。
(――この岡崎の地に、岩倉先生が夢見た歴史の再現を……その第一歩は、民との誠実な対話から始まる)
片桐の眼差しは、いつもの理知に加えて、緊張を帯びていた。
(……この庭が本当に“人々の心に安らぎを与える場”となるのか。その答えは、この人々の声の中にある)
野々村は、どこか緊張した面持ちで、背筋を伸ばしながらも、真剣に周囲を見渡した。
早苗は、片桐と故郷の人々の間に立ち、静かに深呼吸をする。
(岡崎への敬意とは何か……それをどう設計の言葉で伝えればよいのだろう)
彼女の胸の奥で、設計士としての誇りと、岡崎の娘としての葛藤がせめぎ合う。だがその両方を抱えたまま、彼女は一同を見つめ、凛とした瞳で心の中に強く願った――
この対話が、平安神宮と岡崎の未来にとって、真に実りあるものとなりますように、と。
■2【三様の構想、故郷への第一声 ~期待と不安の眼差しの中で~】
橘早苗の実家の一室。襖を閉めて再び静けさが戻ると、中村栄助の穏やかな促しで、ついに住民説明会が始まった。最初に口火を切ったのは、この場を設けることを提案した橘早苗だった。
彼女は、深く頭を下げ、集まった岡崎の住民代表たちへ、どこか震える声で語りかけた。
「皆様、本日はご多忙のところ誠にありがとうございます。私は、この岡崎で生まれ育ち、現在、片桐先生の設計事務所で働いております橘早苗と申します。この土地の湿った土の匂い、東山のなだらかな稜線、そして何よりここに暮らす皆様の笑顔が、私にとっての原点です。本日は、岡崎にて進められております『平安神宮』創建計画について、その概要をお話しさせていただくとともに、皆様の率直なご意見やご懸念を伺いたく、この場を設けました。この計画が、岡崎の未来にとって、より良きものとなりますよう、誠心誠意、お話し申し上げます」
続いて、社殿設計の責任者である片桐陽介が、大きな巻紙を広げた。描かれているのは、平安京の大内裏を模した壮麗な社殿群だった。
「こちらが、神宮の中心となる大極殿の構想です。私の信念であります『歴史的再現』の理念に基づき、桓武天皇の御代を象徴する朝堂院の様式を、可能な限り忠実に復元しております。それは単なる復古ではありません。明治の技術と精神を注ぎ、千年先に誇れる文化の核を築く――。その志のもと、私の主でもある岩倉具視先生が夢見た『京都文化首都構想』を実現するための中核となる神殿です」
片桐の声は力強く、だがその掌は無意識に巻紙の端を握っていた。緊張と責任の重みが、指先に滲んでいた。最後に、神苑の作庭を担う野々村拓海が、ゆっくりと立ち上がった。
「私がつくる神苑は、片桐先生の御社殿を包む、静かな緑の器です。琵琶湖疏水の水を引き入れ、岡崎の自然と東山の借景を活かし、日本の四季を映す庭となるよう設計しております。先日、息子が申しました――『お父ちゃんの庭は、人がニコニコするから好き』と。私はその言葉を、仕事の核心と感じております。神宮を訪れる誰もが、祈りと自然の息吹を感じ、微笑みを取り戻せる庭にしたいのです」
彼の声は低く、慎ましかったが、その中に揺るぎない意志が宿っていた。三者三様の構想――だが、共通していたのは「岡崎の未来」に懸ける熱であった。住民代表たちは息を詰め、その語りに耳を傾けていた。ある者は身じろぎもせず、ある者は静かに畳の目をなぞるように指を動かしていた。期待と不安、その狭間で揺れるまなざしが、次第に部屋を包み込んでいった。
■3【住民の声、三様の応答と葛藤 ~早苗、未来への萌芽を語る~】
片桐陽介、野々村拓海、そして橘早苗による平安神宮創建計画の概要説明が終わると、部屋には重い沈黙が落ちた。古老である畑中徳兵衛が、その沈黙を破るように、ゆっくりと手を挙げた。その皺深い顔には、期待と不安が複雑に交錯している。
「先生方のお話、ようわかりました。立派なお宮さんができるのは、この岡崎にとっても、いや京都にとっても、きっとええことなんやろと思います。じゃが…」
徳兵衛の声は、穏やかながらも切実な響きを帯びていた。
「わしらが先祖代々耕してきたこの畑は、お宮さんの敷地になるんでっしゃろか? この土で、わしらは何代も命を繋いできたんじゃ。もし立ち退きとなりますれば、わしらはこれからどこで、どうやって暮らしていけばええんでしょうか」
その言葉を皮切りに、それまで押し黙っていた住民代表たちの口から、堰を切ったように、不安の声が溢れ出した。
「今まで静かやった岡崎の環境も、人の流れも、すっかり変わってしまう!」
「村の鎮守様や、子供らが遊んどった小川は、どうなるんでっしゃろか!」
そして、壮年の男が、畳に拳を叩きつけるようにして、厳しい問いを放った。
「結局、このお宮さんは、お上や偉い商人さんたちのためのもんで、わてら庶民にとっては、ただ迷惑なだけと違うんか!」
その一つ一つの言葉が、まるで石つぶてのように、三人の胸に突き刺さる。
片桐は、思わず言葉に詰まった。用意していたはずの、国家的事業としての意義を説く言葉が、喉の奥で、空々しく響く。目の前にいるのは、歴史でも国家でもない。明日からの暮らしを、ただ、必死で守ろうとしている、一人の人間なのだ。
(この国の文化の力を示すといっても、…目の前のこの人々の暮らしは…どうなる?)
野々村は、自分の膝の上の、固く握りしめた拳を見つめていた。神苑がもたらすであろう自然との調和や、心の安らぎ。そんな、美しくも、まだ形のない言葉が、この生活の不安を訴える、悲痛な声の前で、いかに無力であるか。彼の心に深い葛藤が生まれていた。
(自然との調和…しかし、これほどの造成が、本当にこの土地の自然を傷つけずに済むのだろうか…)
「岡崎の自然を最大限に尊重し…」
そう繰り返す彼の声は、自分自身に言い聞かせているかのように、か細く震えていた。
その二人の男の、どうしようもない沈黙。
その沈黙を、切り裂いたのは橘早苗だった。彼女は意を決したように、すっと一歩前に出た。
「皆様のお気持ち、痛いほどよくわかります。私もこの岡崎で生まれ育った者ですから…」
彼女の言葉には、住民たちへの深い共感が込められていた。
「確かに、平安神宮様の創建は、この岡崎に大きな変化をもたらします。しかしそれは決して、皆様の暮らしや、この土地が育んできたものをないがしろにするものであってはならないと、私も、そしてここにいる片桐先生、野々村先生も、心の底から考えております」
そして、早苗は続けた。彼女の信念が、言葉となって溢れ出す。
「例えば、神宮様の周囲には、疏水の流れを活かした公園や、お子さんたちが安全に遊べる広場を設け、住民の皆様の憩いの場とすること。周辺には、地元の産物を扱うお店が並び、新たな賑わいを生み出すこと。そして何より、皆様が大切にされてきた鎮守の森や古くからの小径は、その記憶を尊重し、可能な限り保存し、新しい神宮と美しく調和する形で残していくこと……」
一呼吸置いて、早苗はにこやかに言い放った。
「そのような、神宮創建を岡崎全体の発展と、皆様の暮らしの向上に繋げるための『周辺の開発計画』も、今、片桐先生と共に検討を始めたところでございます」
傍らで聞いていた片桐陽介の目が一瞬、見開かれた。
(……聞いてないぞ、それは)
図面のどこにも描かれていない計画。それどころか、話し合いすらなされていない。だが、ここで否定すれば住民との信頼を損なう。それだけは避けねばならなかった。
片桐は小さく咳払いし、口を引き結んだまま、無言で頷いた。
それは、肯定でも否定でもない――だが、今は“うなずくしかない”という意思表示だった。
早苗の言葉は、彼女が密かに温めていた構想の、ほんの断片に過ぎなかった。しかし、その具体的な提案と、何より地元への誠実なまなざしは、住民たちの強張っていた表情に、ほんのわずかながらも、光を差し込ませた。
■4【古老の知恵、水と土の声 ~神苑、光明への一筋~】
住民たちの切実な声が、まだ部屋の空気に重く残っていた。野々村拓海は、畳の目をなぞるように俯き、彼らの言葉の一つ一つを、胸の中で反芻していた。七代目小川治兵衛(植治)から突き付けられた、あの厳しい問い。その答えは、まだ霞の中だ。
その時、会場の隅で静かに話を聞いていた白髪の老農夫、畑中徳兵衛が、中村栄助に促されるようにして、おもむろに口を開いた。その声は穏やかだが、長年この岡崎の土と共に生きてきた者だけが持つ、確かな響きがあった。
「野々村先生のおっしゃる、疏水の水を活かしたお庭ちゅうのは、わしらも楽しみにしとります。じゃが…」
徳兵衛は、窓の外に広がる岡崎の風景に目をやりながら、遠い昔を懐かしむように続けた。
「わしがまだ子供の頃はな、この辺りにはもっとようけ小川が流れとってな。今の疏水とは違う、山の水を集めた細い流れが、あちこちの田んぼを潤しとった。大雨が降っても、その水がうまいこと畑を避けて、大きな川へと流れていったもんじゃ。疏水ができて便利にはなったが、昔ながらの水の道が変わってしもうてな。…それにな、あそこの東山の麓の窪地には、昔から湿り気を好む特別な山野草が一面に咲いとって、春先にはそりゃあ見事なもんやった。ミズバショウやら、サギソウやら…それがまた、薬にもなったんじゃ。今はもう、すっかり見んようになってしもうたが…」
古老の、飾り気のない言葉。
その言葉が、野々村の耳に届いた瞬間、彼の身体に、まるで電気が走ったかのような、微かな震えが走った。
(…昔の、水の道…)
それは、単なる情報ではなかった。彼の脳裏に、土地の「記憶」が、生々しく浮かび上がる。
植治先生が言った「土地の声を聞け」という言葉。それは観念ではなかった。この徳兵衛さんの、皺の刻まれた手の中に、そして彼の記憶の中にこそその「声」はあったのだ。
琵琶湖疏水という新しい「力」を、この土地が本来持っていた古い「記憶」の器へと、もう一度、注ぎ込む。そうすれば水はただ流れるのではない。歌うのだ。かつての山野草が、再びその岸辺で花を咲かせるのだ。
「ありがとうございます、徳兵衛さん…!」
野々村は、思わず身を乗り出し、古老に深々と頭を下げた。彼の目には先ほどまでの不安の色は消え、まるで恋に落ちた少年のような、純粋な喜悦の光が宿っていた。
「今のお話、誠に…誠に、ありがとうございました…!」
古老の、飾り気のない言葉。それが、野々村の耳に届いた瞬間、まるで目の前の地面の皮が一枚、するりと剥がれたかのようだった。見える。疏水の流れの下に、かつてこの土地を潤した、細く、しかし確かな水脈の「幻」が、青白い光の筋となって浮かび上がるのが。あの窪地には、ミズバショウが再び咲き、風が昔と同じように、その葉を揺らしている。――これか。植治先生の言われた『土地の声』とは、これのことか。その頭の中に、まだ温かい、千年の記憶の感触があった
■5【民の声、建築家の魂に灯る光明の欠片】
野々村拓海が、岡崎の古老の言葉から光明を得て、その表情に活気が戻ったのを片桐陽介は横目で捉えていた。翻って自分はどうか。伊東忠太先生から突き付けられた「国家の威信を示す」という課題。その答えは、まだ見出せずにいた。
その時、羽振りの良さそうな商人風の男が、期待に満ちた声で発言した。
「片桐先生! どうせお造りになるなら、日本中から、いや、世界中から人が集まって、『これが日本の新しい都の顔か!』と、度肝を抜かれるような、パッとした華やかさと一目でわかる威容を、ぜひともお願いしたいもんだすなあ!」
その言葉に、会場の何人かが力強く頷いた。
続いて、若い書生風の男が、はっきりとした声で言った。
「先生方、創建される平安神宮は、平安の雅だけでなく、この明治という新しい時代の気概をも、堂々と示していただきたいのです!」
その横で、年のころ二十代前半の染物職人の息子らしき青年が、口を挟んだ。
「先生、なんやもう…めっちゃ楽しみですよ! 毎朝、あの大極殿を見ながら仕事行けたら、ちょっと背筋も伸びるっちゅうもんですわ。人がようけ来たら、うちの店も儲かって。ええがな、ええがな」
そう言って仲間と笑い合うその姿には、理屈ではない、未来への“高揚”があった。
さらに、初老の女性が、静かな声で付け加えた。
「岡崎ならではの、美しい自然や景色と一緒になって、もっともっと素晴らしい眺めとなりますように…」
一瞬の静寂のあと、やや離れた柱の陰から、小柄な老人が、抑えた声で口を開いた。
「わたしは、芸術をやっとる者です。あの静けさこそ、岡崎の宝やと思ってきました。人が増える、にぎわう、それがすべて『良いこと』とは限らんのです。どうか…騒がしさばかりが残りませんように」
その声音は、怒りではなく祈りに近かった。場の熱に冷や水をかけるような響きが、かえって印象深く、片桐の胸に小さな棘を残した。
その瞬間、片桐の脳裏で、何かが、弾けた。――華やかさ。威容。明治の気概。岡崎の景との調和。民の飾り気のない、しかし切実な言葉の数々。それが伊東先生のあの厳しい問いかけ――「この空間に立った時、人は何を感じるか」――と一つの像を結ぶ。
「その瞬間、片桐の脳裏で、何かが、弾けた。民の言葉が熱い槌となり、伊東の問いが冷たい鑿となって、彼の内にあった平安京の幻影を、容赦なく打ち砕いていく。そして、その瓦礫の中から、全く新しい「かたち」が、陽炎のように立ち昇り始めた。応天門はより高く、龍尾壇はより白く、そして大極殿は――燃えるような、血の通った丹色に染まっていた。彼は無意識にペンを握りしめ、図面の余白に『大極殿』と走り書きした。その文字は、もはや平安の写しではなく、紛れもなく『明治』の熱を帯びて、震えていた」
■6【対話の終わり、胸に灯る確信と未来への誓い】
岡崎の住民たちが去った後の集会所に、陽の光が長く静かに差し込んでいた。片桐陽介、野々村拓海、そして橘早苗の三人は、まるで嵐が過ぎ去ったかのように、言葉もなく、そこに佇んでいた。畳の匂い、冷えかけた茶の香り、そして部屋の隅々にまで染み込んだ、あの人々の切実な声の残り香。
(…民の誇り…か)
片桐の脳裏に、商人や若者が語った「華やかさ」や「新しい時代の気概」という、飾り気のない、しかし、だからこそ力強い言葉が何度も反響していた。伊東先生のあの厳しい問いかけへの答えが、そこにある。分かっている。だが同時に彼の心の奥底で建築家としての冷たい声が囁くのだ。
(――だが、それは、本当に美しいのか? 民の喝采に媚び、歴史の厳格さを、おろそかにしてはいないか? この手で後世に残すべきは、ただ受けの良いだけの見世物ではないはずだ…)
野々村もまた、古老の農夫が語った、昔の岡崎の小川の話を、胸の中で何度も反芻していた。
(土地の声を聞き、自然の理に従う…)
七代目小川治兵衛(植治)から突き付けられた難題への、光明がそこにあった。
それこそがこの庭にふさわしい答えなのだ。
――だが、今の自分の能力で、それができるだろうか。
あの植治先生の手にかかれば、土と水は自然に呼吸を始める。だが、自分はどうだ?
図面の上では描けても、それを生きた風景として立ち上げる力が、自分にあるのか。
橘早苗は、そんな二人の横顔を、静かな感動とそしてかすかな痛みと共に見ていた。故郷を思う心が、この、孤高の専門家たちの魂を、確かに揺さぶったのだ。
「先生方…」早苗が、ようやく、絞り出すように言った。
「本日は…ありがとうございました。私の故郷の声が…少しでも届きましたか?」
その言葉の中に、片桐と野々村は、全ての意味を聞き取った気がした。
二人は顔を見合わせた。そしてどちらからともなく、深く頷いた。
彼らがこの住民との対話の中から、それぞれ確かな解決の糸口を見つけ出したことは、間違いない。だが、それは同時に彼らがこれまで信じてきた、「美学」という名の聖域から、また自分の限界から一歩踏み出すことを意味していた。
三人は、もう何も言わなかった。ただ窓の外に広がる、夕陽に染まる岡崎の空をそれぞれの胸に、それぞれの葛藤とそして未来への、まだ名もなき誓いを抱きながら、見つめていた。