壱話 人生は所詮死までの暇つぶし
陰鬱に閉ざされた闇を照らす、明るい光。
「うゥっ!?」
朦朧とする意識の中、靄がかりぼやけた視界が、じんわりと滲むように、鮮明に、映し出されていく。
「……えっ……?ちょ、マジでっ!?本気で言ってるっ!?」
辛うじて目にした光景は、少年を淡い希望を絶望に染めるには、十分過ぎるものだった。
「僕……死んだ」
見渡す限り――果てしない大空が広がっていた。
誰もよりつかない無限の蒼穹。紺碧の世界の他には、天上に弧を描く純白の円環があるだけで、遮るものは何一つなかった。
混濁する困惑の最中、感覚神経を起こすように全身を打つ強烈な風を受けながら、耳をつんざく爆音が轟いた。
もがく事もなく、物憂げにぼ〜っと景色を眺める少年は、理由は定かではないが、ともかくとして、自分が落下中である事を理解した。
「ん〜……なぜ空に?」
当然の疑問に取り憑かれていた少年は、逆巻く髪に手をやって途方に暮れた。寝起き同然の鈍る頭で思考を回そうと体温が熱を帯びる。
すると自然に、少年の視線の先に横たわる青い空間を白い帯のような、天の川を焦点に置いた。
「ところで……アレ、ナニ!?雲?川?星?」
宙に描かれた白亜の曲線は、空より高くて遠い場所に薄く広く伸ばされていた。あんなにもくっきりと映るものは、はたして雲なのだろうか?
妙な不自然さを感じ取り、見つめること数秒――これはどこかで、見覚えが……。
はっと、思い浮かぶ。
「いや違うもっと遠くだ。まさか、円環!?星の輪だっ!すげぇッ!初めて見たぁ!」
星の環は、氷や岩のかけらが、軌道上に集まってできる特徴的な現象の一つ。厚さは数百~数千メートル。幅は数十万キロ以上にも及ぶ。伸ばした長さは星を優に超える絶大な大きさとなるだろう。
その壮大なスケールは、自分という存在がいかにちっぽけなのかを思い知らせてくれるほどで、見慣れない絶景に歓喜する少年は、同時にある事実の認識を浮かび上がらせた。
「どうやら、未知の星のようだな」
ここは、不思議な未知の世界。
本来ならば存在しないはずの超自然、超常現象が木霊する森羅万象一切が不明の摩訶不思議な遥か上空。
そんな異物混入を許した虚空の下で、真剣かつ真顔のまま、少年はポツリと言う。
「いやだがしかし何にせよ、先ずは現状把握だ」
そんな絶対絶命の窮地にも顔色一つ変えず、即座に思考を切り替えた精悍な顔立ちの少年は、使えるものはないかと、唐突に自身の身体をまさぐり始めた。
長くはない黒髪、小柄な体格でスラっとした両手足。服装は白のシャツに黒いズボンとごく普通の凡庸な格好だった。靴下と靴にも特に違和感はなく、何の変哲もない始末だった。
ほんの僅かでもいいと繰り返し探ったポケットの中は、空っぽで、何も入っていなかった。
この体の理解を含めた情報は全くの期待外れの結果となるが、また別の疑問を少年に思い浮かばせた。
「なるほどここへ来たのは自力では無いな。落とされた?どこになぜ?何をして僕はここに……ん?俺?わたし?自分?……これ、誰だ?」
すぅーっと肝が冷えて、生きた心地が無くなっていく。
自分の中のがらんどうの空白が、未だ知り得なかった最も恐ろしい真実を見出してしまった。
なんと少年は、自分に関する記憶までもが、完全に欠落していたのである。
震える指で執拗に顔を触っても、馴染み深さは微塵もなく、まるで見知らぬ他人のような違和感の塊でしかなかった。
漠然とした不安が空洞の領域を暴き、張り詰めた恐怖がジリジリと心に滑り込み、胸の奥深くに刻まれた。
「おいおい何なんだよ、一体全体、何がどうなっているんだぁああああああッッ!!??」
心許ない絶叫は、自由落下の轟音にかき消され、大空の前では空しく響きもしなかった。
しかし、身に詰まる鬱憤を無理やり晴らした少年は、大自然の広さに当てられて、諦観にあと一歩の所で辛くも踏み止まる。
「いやいやっ!待て待て!こういう時は、自分会議だ!まず、僅かな常識を頼りとすると、この高所から落ちて死なぬ訳がない!どうせ、あと数分の命だ」
冷静、これを手放す事は、更なる事態の悪化を助長する行為に他ならない。
歴戦の古強者がするような判断を下す少年は、顎に手を当てて深く考える。
「自分が誰かなぞ……関係無い。限られた時間を楽しく過ごせば、良くないか?」
現時点において、これ以上の答えは望むべくもあるまい。
自身にそう言い聞かせるように数度頷き、少年は方針を定めた。
「吉っ!そうとなれば……状況はむしろ好都合!スカイダイビング、やってみたかったんだ!」
少年は笑った。決して抗えぬ運命を前にして、清々しいまでに開き直った。
何も考えず、ただ空中遊泳を楽しむ。
空気を裂く開放感を我が物にした少年は、上着を脱いで右腕に引っ掛け、両手を翼のように広げて限界近くまで息を吸い込み、大きく口を開けた。
「うぅおおおおおおおおおおおおぁぁああああああアアアアアアァァァァ〜〜〜〜ッ!」
耳元で唸る轟ッという爆音をもかき消す大声量。憚りなく声を吐き出すという無駄な行為だが、裸の少年は気にも留めなかった。
「なんて爽快感っ!まるで鳥になった気分だ!面白い!暇つぶしにはもってこいだなァっ!」
とめどない興奮で昂まり、少年の胸中は熱い滾りで溢れていた。
そんな弾むような歓喜の声を叫び終えた、途端だった。
「うわっ……熱!?クろッ、赤ァっ!?」
あまりの激痛で、目を開けていられなかった。刺さるような熱波をその身に受けて、少年の体は一気に強張る。
腕と瞼の隙間から覗く綺羅星のような光は、晴天から一変、夜のような黒い空間に舞い上がり充満する赤い火の粉が、散り散りに抜けていく様相を映していた。
「何だ此処は!?火山の噴火口か!?」
火花を咲かす星の輝きの綺麗さは、惑星が消滅する時のような灯火の美しさ、放散される流れ星の群れに似ていた。
この恒星を思わせる熱エネルギーの拡散があまりにも桁違い過ぎて、衣服の一部を焦がし、嫌な匂いが少年の鼻腔をくすぐった。
すると、目の前を血管のような網目状の光が一瞬で走り抜けた。
赤い雷。目にもとまらぬ速さのそれは、レッドスプライトと呼ばれる珍しい放電現象だ。 地上から遥か高みで観測されるはずの、神々しさ。そんなものがさも当たり前のように次々と彼の真隣を横切る。絶え間なく、鼓動するように張り巡らせていた。
数えきれない描かれた編み目模様は、それはまるで銀河の流れによって形成される宇宙の構造に酷似していた。
この世界を言葉で表すなら、赤黒い混沌。
その圧倒的な壮大さに反して、少年は繊細に何かを感じ取った。稲光が走る度に、その空間には、穏やかでは無い、特別な意志が充満している気がした。
「イカれてるぞ、この世界っ!?どうなってる!?ふざけやがって、いきなり全部変わったぞ!?」
空気が軽くて薄いような印象を受けたと思えば、腕に通した上着が、僅かに横向きに靡いていた。明らかに重力が軽減されて物の落下速度も変わっている。億年単位で時間でも飛び越えたのか、それとも星の質量が軽くなったのか?理由は定かではないが、間違いなく星の環境が激変していた。
「高さで何らかの性質が、ここまでの差を生み出す物なのか!?」
迸る赤雷を尻目に、そこで少年は、なぜか知識として持っている情報を言葉にした。
「成層圏とか大気圏とか、オゾン層みたいなもんか。気体の濃度か温度かなんかで地層みたいな大気の断層が折り重なって空間に仕切りがある。……次の瞬間、死亡しても不思議じゃ無いな」
古いものが沈殿して新しいものが上から踏みつぶすように、外側から順に変な空間が形成されている。
つまり、これから待ち受ける世界がより過酷で即死もありうる可能性に少年は思い至る。
しかし、少年は悩む時すら与えられなかった。
瞬く間に――少年の視界が、白一色に覆われてしまった。
「ぶぅっ、白!雲!?また、異変がっ……!?」
またもや景色が一転した。
更なる下層へと落ちたようで、今度は薄っぺらい雲を通って、視界は地表すら見えない蒼に戻った。
「普通の空に戻った。いや、もう、何が何だか分からんが……」
あまりに個性的な特徴の連続で疑念や不信感が芽生えるも、異変はまだ終わらなかった。
「月、デッカァッ!!!!いや、近いのか?そして、なぜ太陽が月越しに見えるんだ?」
最初の空とは打って変わって、とにかく巨大な月が空に打ち上がっていた。
でこぼこや、模様すら裸眼ではっきり見分けられるくらいにまじかに迫る衛星、恐らく、惑星との間にある距離的には、大体一万キロメートルくらい。
そして極め付けの異変は、太陽が月越しに見えていた事だ。信じられない話だが、この月には透光性があり、月の中を通って、少年は太陽光を浴びていた。
そして、さらに無視できないもう一つの変化。
「代わりに円環が消えた。これは、極めて重要な変化だ。世界の秘密か、成り立ちに深く関わるだろう。ま、未来のない僕には関係ないけど」
月の代わりに輪が消えた。見えなくなっただけかもしれないが、少年は思考を止めた。
世界の事はどうでもいいが、終わる瞬間くらいは知りたい少年は、目下を望み、そして、幻想的な光景に思わず目を見開いた。
「虹だ――虹の海だ」
いくつもの虹が空間に、突如として出現した。
それも通常の半円のアーチ状や真円の丸ではない。ファンタジー感あふれる虹の架け橋が、波打つように連続して並んであった。
潮騒でも聞こえてきそうな一面の曲線は、この世ならざる光景だった。
またもや怪異。いくつも連結されて繋がっている虹など、聞いた事がない。
そも、虹とは、古来より知られた現象であり、希望や幸運の象徴とされている。しかしその逆、怪現象、不幸、不吉、脅威、恐れ、不安のような不幸の象徴ともされていた。
果たして、少年が目にしたこの虹は、良いものなのかどうか?
にも関わらず少年は、虹を見下す、という特別な優越感に酔いしれていた。
「見上げていたものを見下ろす快感……ってのも悪くないね」
口元が綻び、ついボードに乗るように足を伸ばして触れると、虹に乗り加速した。
「へゲェっ!?乗れちった!?何コレ!?……あはっ!」
足というよりは体全体に指向性の慣性がかかり、虹の潮流によって流されていく。上り坂も関係なく縦横無尽に引っ張られる感覚、上下する虹の道の乗り心地は、催しの出し物みたいで楽しい!
少年は、まるで子供のようにはしゃいでいた。
特に、いつ途切れるのか?行き止まりや袋小路になるかもしれないといった先の展開が気になって仕方がない少年は、唐突に真顔になった。
「光に乗れるわけがない。つまり明らかに物理法則じゃない、未知の怪奇現象だ」
考えれば当然、これは不自然だと解る。蛇行したり直線状になり、物体に運動エネルギーを与えて干渉して影響を与えたりと、これを虹と認識してはいけないだろう。
虹の波乗りを楽しむが、向かう先が唐突にして、白い塊が立ちはだかる。
行き止まりの立ち入り禁止として現れたのは、山をも一飲みにできそうな入道雲の塊だった。
「おぉっ、でっかい雲だなぁ〜!入道雲みたいだが……誰しも思った事があるはず、あの中に飛び込んでみたいとっ!」
好奇心が疼き始めるや否や、少年は、何の躊躇も躊躇いもなく巨大な入道雲の中へ飛び込んだ。
恐れも知らずに突入すると、冷房の効いた部屋に入るような温度変化が身体の芯にまで澄み渡った。
「うわ~冷たい~!暗い!そして何もない!霧と同じだから当然か!それにしても気持ちいい〜な〜!」
分厚い雲の内部は、日光が遮られて薄暗く視界不良。光である虹の道は徐々に消えて、少年はまた自由落下を再開した。方向も距離感すら定かではなかった。前に進む程、雲の外が遠ざかっていく。
己を取り巻く環境が如何に悪い方へ傾いてゆくも――今が楽しければ良い!
空中一回転や側転などして遊ぶ少年は、景色が変わらないために得られる浮遊感を目一杯楽しんでいた。
――ふと、寒気がした。
身震いと鳥肌が襲いかかり、全身に突き刺すような痛みが伴い始めた。
「あれ?なんか、寒すぎじゃね?――……って、凍ってるゥ!?冷たっ!?イタタタタッ!?ちょっヤバ、出口ィ!デグチミィ〜!!」
身体中満遍なく霜が降りたような異変に激しく狼狽する少年。
その原因は、雲の中に滞留する水分だった。大きな雲を作る水蒸気の粒が少年の体表面に付着した衝撃で、瞬く間に凍てつき始めていた為である。
その正体は、過冷却と呼ばれている。本来ならば凍る温度でも、水として存在する状態のことで、少年に触れる衝撃で凍り付いたのだった。
「瞬きと呼吸が痛いッ!このままじゃ氷漬け、間近っ!?」
少年は、暗雲の中を無作為に切り込む、が、しかし、上下左右と目まぐるしく吹き飛ばされて、満足に落下する事もままならず、上へ下へと体がグルグル吹き飛ばされていた。
入道雲は、別名を積乱雲。鉛直方向に大きく積み上がり、モクモクとした形状をする巨大な雲だが、上昇気流と下降気流が入り乱れて乱気流が発生する。大気が非常に不安定になり、雲の中で暴風を竜巻が。
このままでは氷漬けて凍死する。
「高所から落とされ焼かれて氷漬けとか、ここは地獄か!?」
血眼で外の気配を求める少年を閉じ込めた巨大迷宮は、同じ灰色の光景を繰り返すのみだった。
手足をピタリと揃えて流線型、風を切き裂く唸りをあげると、指先の痛覚が徐々に失われていく。唇がひび割れて、瞼が凍てつき開けなくなるほど、更なる冷気が痛烈に襲いかかる。
みるみる事態が悪化するこの状況に、いよいよ最悪の事態が間近に迫ってきた矢先、少年の前に仄かな光明が映し出された。
「あァちダぁッ!?」
歯をガチガチと鳴らした少年は、羽虫よりも果敢に明るい方へ飛び込んだ。逸る気持ちが、凍り付く体を前へ前へと突き出させる。
先の見えない暗闇に灯る微かな希望は、薄暗かった白霧を一転させ、晴れやかな暖かさに包まれた。
そして――
「デたぁ〜っ!くぅ〜!沁み入る暖かさ!太陽の恵みは、どこだろうが有難いなぁ〜!」
白い迷宮からやっとのことで抜け出せた少年は、全身の氷を払いながら、日光のありがたみをかみしめた。
もう二度と入らない。強迫観念にも及ぶ教訓を忘れまいと誓いを立てる為、白亜の居城を振り返ると、燦然と輝く太陽に照らされて、雲に人影が映っていた。
しかし、何か、強烈な違和感を覚えた。
「な……んだ、人影に、虹の輪が?」
少年のシルエットは、虹色の大きな丸い円は、影の外縁をなぞり、新円を崩して纏わりついていた。
それはブロッケン現象と呼ばれ、背後から差し込む太陽光が、水滴や霧によって、影の周りに虹のような光の輪が現れることを言う。
少年は虹ばかり注意深く観察していると、緩やかに人の形をしていた昏みが、丸みを帯びてどんどんと膨らみ上がり、少年だった影が異形と化した。
また、明らかに、物理的現象から逸脱している。
少年以外に、それらしい物体はない。あるのは、雲と巨大な月越しの太陽だけだ。
にも関わらず、僅かな間に影がみるみる小さくなっていく。
苦々しい形相を浮かべる少年は、嫌な胸騒ぎがして冷や汗を流した。
これまで分かった事として、未知の現象も多々あるが、この世界は基本的に物理法則が適用されている。
そして光の当たり方が変わっていない。
つまり、影の性質上、考えられる原因は二つ。
光を遮る物体が極端に小さくなっている。そして、もう一つは嫌な予感がしている方だ。
その物体が、猛烈な勢いで接近している。
そして虹の輪が雲に映るなら、後ろから差し込む光が、既に少年に届いているという事。
――上ッ!
咄嗟の声に反応した少年は、両手で上着を広げて空気抵抗を強め、ほんの僅かながら落下速度を緩めた。
直後、少年の直下を何かが通り過ぎた。
一瞬の刹那――幸か不幸か、少年は、速くて霞む残影を見極め、恐るべき異様の正体を見破った。
整えられた強靭な羽根が生え揃う白銀の翼、
猛々しき鉤型に曲がった黄金の嘴、
生命を断つ鋭利な黒き凶爪、
威厳に満ち溢れた凛々しい頭部、
刃物を思わせる気高き眼光、
そして視界に入りきらない巨大な姿はまさしく――
「モウキンッ!?太陽から奇襲とは頭良いなっ!?てか今の誰!?何っ!?」
堂々たる空の王者の威風は、謎の声に対する疑問を優先して棚上げせざる終えない程の脅威だった。生態系の頂点に立つ猛禽は、強さや速さの象徴にもなり、空で勝てる生物は同種以外に存在しない。
そんな大気を震わせ、空を支配する強大さをも忘れさせる畏敬の念を、少年は抱いていた。その圧倒的な美しさは、光を通す透明な体表面に描かれた、七色の発色とグラデーション。
しかし、この凛々しさ溢れる猛禽の、何より特筆すべき点は、大きさだった。常軌を凌駕して余りある規格外の長さは、体高が目算で約五十メートル、翼長に至っては百メートル超えの化け物であった。
まさに怪獣と呼んでも差し支えない姿。
そう認識した次の瞬間、爆発音が後から駆け抜けた。
鼓膜が破れそうで耳を塞ぎながら、叫ぶ少年。
「マ!?……ハァ〜ッ!?なんだあの虹、反則じゃねっ!?」
音を置き去りにした怪鳥は、悠然と雲の様に虹を引きながら旋回し、こちらへと狙いを済ませていた。
そこら中にあるあの虹は、どうやらあの鳥が操る未知の特殊能力。
あれに触れると、音速以上にまで加速できるらしい。
この時、少年はあの架け橋を並べた虹の海が罠だった事を理解した。
あれは蜘蛛の巣のような、獲物を感知するセンサーだったのだ。
獲物を狩場へと誘導する為の網であり、標的を逃さず射抜く天の弓だ。ならば矢尻は、嘴と爪!
虹の加速装置の効果も獲物と使い手では影響力の差が凄まじく、少年が使っても音速にはなれず、同じ虹の道に乗られた瞬間、終わるだろう。
最高の飛翔力に、怪物並みの巨大さ、変幻自在の虹の超加速装置。
自由に舞い上がる巨躯の瞳が、落ちる矮躯を明確に捉えた時、じっと狙い澄ましたまま、不気味にこちらの動向を窺っていた。
喉元に突きつけられた凝視は、捕食者としての有能さと堅実な用心深さを物語り、殺気が滲んだ気迫の凄味が、少年の総身を震わせる。
紛れもなく、これは死の恐怖だ。
「いやちょ待てェっ!死ぬのは良いが、惨くて痛い鳥葬なんて死んでも嫌だ!是が非でも、落ちて死ぬぞぉッ!」
無意識のうちに死への拘りが強くなっていた少年は、猛り狂った。
生まれたら、必ず終わりが訪れる。死ぬのは吉!ただ、死ぬより痛い思いをするのは嫌だ!
決断した少年は、抗う意志が自然と湧き立ち、迫り来る最悪を拒絶すると誓うのだった。
頂点捕食者は、少年を正面に宙返りをして急上昇をした。
その拍子に抜けた四本の羽根が、目を疑うおかしな挙動を見せた。根本を先頭に、羽毛から雲の様に虹を引きながら、まるで意志を持つように飛んできた。
一直線に向かってくる物や、大きく弧を描いて先回りをするもの。いずれも縦横無尽でありながら、精密なコントロールで一糸乱れぬ正確な動きだった。
虹から逸脱した超常的存在ではあるが、光の特性である空気抵抗や重力を無視する変則的挙動は予測不能で、もはや手がつけられない。
統率された鳥が放つ虹は、極め付けに色別に分離して編隊を組み、少年の進路を塞ぐように拡張しながら展開された。
さらに羽根の付け根の先端は鋭く、刺し貫かれたら終わりだ。
――下!
謎の声を頼りに、流線型の体勢を作り、急降下する少年。
向かってくる羽根を何とか避けて、寸前で包囲網から抜けた少年は、安堵する暇も無かった。
――横逆く!
声が届くと同時に、少年は背骨をへし折る勢いで大きくのけぞり、体勢を真横にしながらくの字の形を取った。
肌を掠めながら、亜音速で風を切り裂き飛ぶ羽根の弾丸が投下されていた。
速さ、威力共に先程とは物が違う羽根だった。
その違いは正羽と綿羽。最初の四本は柔らかく、ふわふわした質感で保温や防水の役割がある綿のような形状。かたや正羽は、飛行の役割を持つ風切羽であり、圧倒的な飛翔能力を支える力強さを備えていた。
しかも、先程はほんの小手調べ。今度は十二本もの羽根を飛ばして、後続の虹が、弧を描かずにまっすぐ伸びてくる。
それはまるで虹の竜巻のように四方八方を完全に封じ込めて、檻のように少年を囲い込んで逃げ道を塞ぎにかかった。
下には風切羽が待ち構え、周りには先ほどの綿羽が虹の壁で包囲、上からは虹の竜巻で挟み撃ち。
虹の幻想的な光景によって退路を完全に立たれた瞳に、色鮮やかな光が差し込んで煌めいた。
袋の鼠と化した絶体絶命の少年は、その絶景に見惚れていた。
「うわぁ……万華鏡みたいだぁ〜」
――馬鹿言ってないでよくお聞き、一度きりよ。
無垢で無邪気な感想を打ちのめす、無情な突っ込みが入り、少年は我に返った。
「あ、ごめん!物覚えは良い方だ。……どうぞ」
謎の声への疑問も疑念も捨て去り、目の前の死を脱しようとする少年は、息をゆっくり吸い込んで指示を待つが――
――右から見て左からの右下の後ろの前の回れ右斜め左上の右よ!
「何言ってだァこいつはァッ!?」
無茶苦茶な難題に理解が及ばす、少年は不明瞭ながら遂行を目指したばかりに、珍妙で滑稽な動きを晒した。
だが小癪な陽動を歯牙にも掛けず、軽口に混じる動揺を見透かしたのか、猛禽の目の色が一変した。
翼一つの羽ばたきで速やかに巨躯を翻し、少年の直上の位置に移動した猛禽は、翼を畳んで体を小さくし、空気抵抗を減らして急降下、虹による音速を超える超高速で急加速、一瞬で彼に追いついた捕食者は、鋭爪を寸前まで向けていた。鷲掴みにされれば、人の原型すら留めまい。
あぁ、落下死が良かったなぁ〜。
そんな気の抜けた感想をぼやく少年は、直後、強い衝撃が全身に伝わり視界も暗転。
彼は死を、潔く迎え入れた。
――……あれ?と、疑問を抱いた。
暫くしても、少年は痛みはおろか、感覚一つも、何も感じられなかった。
――いま!
「え?ぁ……今だァッ!」
切迫した叫びに従って開眼すると、羽根が何本も抜け落ちて乱暴な飛び方をしていた猛禽が、遥か遠くの方で旋回していた。
瞬間、兎にも角にも少年は脱兎の如く急降下、その間に様々な思いが勢いよく吹き出る。
――逃げた!?何で!?何が起き、いや、逃げるっ!あの速さ相手に距離は無い!せめてフィールドだけは変えなきゃ勝負にならん!
何故だかは知らないが、彼を包囲していた虹の結界も消失した。
実は揺動、ブラフの線も考えてあの音速飛行で追撃するかと思いきや、なぜか気が動転しているらしく、虹を出すそぶりすらしてこない。
奴に足と口がある以上、足場と獲物がいることが証明された。つまり、この下には――
髪を逆立たせる少年は、ついに群青の宙を超え、一面に広がる緑を見た。
色彩や形状から見かけは普通の森であると断定した少年は、障害物や遮蔽物で逃げられると細やかな希望を手にした。
「あれ?」
安堵したのも束の間、接近するにつれて違和感が増大し、にじり寄って来た。
「でっ、デっカァ!デカいぞ!デカ過ぎる!?何がどうしてこうなったァ!?笑えないなぁ……ここでは奴も標準サイズか!?」
枝先にポツポツ実る新芽が数メートル、平べったく広がる葉は屋根かと見紛う大型看板サイズが重なり、樹幹は断崖絶壁、高さに至っては高層ビル真っ青の一キロメートル超えの巨木がずらりと並んだ超巨大な原生林だった。
光を求めて枝分かれする架け橋が織りなす緑が、たった一本で町程度の面積を占めている。
そんな巨大樹が横たわる様を見て、まるで虫にでもなったかのような錯覚を尻目に、少年は強烈な圧を察知して空を見下した。
「そりゃ追ってくるよな。だが、僕には助勢が付いてるんだ!誰だか存じ上げませんがありがとうございますっ!できればアレを何とかして欲しいのですが如何ございますでしょうかァ!?……アレ?」
状況判断を下した少年は、藁にもすがる思いで正体不明の声を頼りにした。
「先生ィ、次はどうすれば?……あれ?先生?先生ィ!?ちょ待ておい、これを自力で逃ろってェ!?」
千載一遇のいとまに、いとまごいと命乞いを慣行するが――聞こえるのは風を切る音だけで、返事は返ってこなかった。
「……ったく、仕方ないなぁ。どうせこれも暇つぶしだ……やってやるさァ!」
悩む暇など無く、あと数十秒後には鬱蒼とした未知の世界に突入するだろう。
猛々しい言葉とは裏腹に、少年は苦悶の表情を浮かべた。
あれは正真正銘の化け物だ。魔性の類いだとしても、かなり上位に位置するだろう強大さだった。
更に、知能が非常に高い。こちらの動向を逐一見てから対抗策を打ってくる。
――勝ち目無し!逃げる一択ッ!
息つく暇もなく、少年は、全神経を集中させて、全速力の逃避行を開始した。
活路は一つ、木々の隙間を掻い潜って逃げ切ること――
限りなく極小の希望に頼らざる負えない状況に、楽しげな笑みを浮かべた少年は、ついに空を脱して、大地のような命が燃え立つ樹海の最深部に飛び込んだ。
横に広がりを見せる大きな葉。いかに柔かく平べったいといっても、自由落下の速度で激突すれば、岩と変わらない衝撃となるだろう。だが、固定されている訳ではないので、少年の落下時の衝撃を緩和してしまえば即死できるかは不明。万が一にも生き残れば鳥葬が確定してしまう。
「ぬぉおおおおっ!!!!」
必死で決死の猛威を華麗に避ける。
風に揺れる葉の動きを読んで、曲がりくねった枝のその先を見据えて軌道修正を行いながら、立て続けに迫る危難の嵐を、矮躯な少年は必死の微調整で抜けていく。
無駄のない動きで最善のルートを選び取らなければ、安楽の可能性が潰える。
まさに秒刻みで数々の修羅場を越える度、痛い程の鼓動を胸に刻みながら、新緑の群勢を掻い潜る。
それは奇跡と呼ぶに相応しい神業だった。何度か避けきれない場面もあったが、奇跡的に風向きが変わったり、枝葉が不自然な挙動を見せたおかげで少年と接触しなかった。
少年はいくつもの刹那に奇妙な感覚を覚えた。まるで、枝葉の方から、避けてくれた気さえしていた。
だが、そんな奇怪な珍事を気にする余裕などない少年。
森林の上空から、音を置き去りにした証拠であるソニックブームの衝撃が雨の様に降ってきた。
後から追いかけてくる脅威を間近に感じる緊張からか、地上を一望できる壮大な景色から推し量れる絶望的な高さも、当初の目的であったはずの落下死も、既に少年の頭から抜け落ちていた。
いかに奴から逃げるか?それのみに全身全霊が侵食されていた。
むわっとした空気の暖かさに迎え入れられて、いよいよ舞台は地上に到達しようかという時だった。
急に。雲とは違った白くて丸い群集団が、彼の目の前に立ちはだかった。
一瞬で反応できなかった少年は、直後、ぽふん、とトランポリンで撥ねたような感覚に襲われた。
「撥ねた!?コレだっ!」
高速回転を始めた自身の体のせいで、上下左右が分からなくなってしまった。
その正体などお構い無しに反射的に手足を伸ばすと、みょんとしたしなる感触、きめ細やかな羽毛に似た棒状の束、そして白い物体の下に一本の糸が伸び、先端に塊がくっついているのが見えた――綿毛だと気付いた少年は、その次の物に手を伸ばして抱きついた。
少年が羽虫程度の寸法のおかげで落下せずに浮遊を維持できた綿毛。その奇妙な特徴が、綿毛の中心部にこれまた巨大なシャボン玉がついている事だ。きっとあれで風を受けて飛翔するのだろう。
人が落ちても跳ね返す程に大きく柔らかな綿毛達は、一気に落下の勢いを殺してくれただけでなく、隠れ家にもなった。
このまま猛禽をやり過ごす――なんて、不可能だった。
邪魔な枝葉をぶち撒けながら急降下する猛禽の追随を、横目で見た。
通り過ぎ様、殺意の籠った眼球だけがスッと動いて、焦点が少年をしかと見咎めた。
(バレたっ!?)
ギュッと心を掴まれた少年は、被食者の憂いを秒で捨て去り、緊迫した様子で次々と別の綿毛へ飛び移る。
目算は合っていた。しかし、猛禽が作った気流の乱れによって風に流されて少し遠くなった。
失敗――少年の足が空を切る、ちょうどの位置で、ちょうど良い巨大な枝が折れて足場になった。
あまりにもタイミングが良すぎて不気味さすら覚えたが、ためらう場合ではない。
まるで映画の様に劇的に生き延びる少年の後を、剛翼のひと振りで最速の転回をして見せた猛禽は、決して逃がさぬとでも言うように、再び羽根を飛ばして虹の結界を展開ながら、音速を超えた勢いで突進する。
すると、どんな偶然か。巨大な落葉がすべての羽根を完璧に撃ち落とし、虹の光を葉っぱが吸収して無力化してしまった。
なんだよこの森、明確な意志を感じる――僕を――守っている!?
少年を抱える綿毛が通り過ぎると、周りの花から大量の花粉が散布され、自然の煙幕が目の前の獲物との間に割り込んで、視界を覆い隠して遮断した。
視野を封じたかに思われたが、しかし、この猛禽の視力は尋常ではなかった。煙幕を目眩しにもならず、正確に少年を狙い定めていた。
自らの身体に光を通して、目の前に音速を超える虹の道を形成し、一気に少年を仕留めにかかる。
花粉の煙幕を蹴散らして、相対する猛禽と少年の交差する死線と眼差し――少年は腕を上に回して、広げられた綿毛を折りたたんだ。
――間一髪ッ!
綿毛から得ていた揚力を失った少年は、一気に自由落下することで、辛くも捕食者の強襲を回避した!
必殺を避けられた猛禽は、花粉の煙幕で隠れていた巨木の幹に、勢い余って正面から激突した!
伝う強大な衝撃波で周囲の空気が震撼し、耳をつんざく鋭い衝突音で大気を轟かせ、森が揺れた。
大質量同士の衝突は凄まじく、破壊された住宅より大きな木片が四方へ飛び散り、巨木に深く地割れのような亀裂が走る様が見てとれた。
煙が轟々とうねり、樹皮が空中で漂い、破片が重力を思い出して辺りに散らばり落ちる。
衝突した現場は、物々しい破壊の痕跡と暗がりを残すのみで、あの猛禽は、ついに姿が確認できない程に巨木の奥深くまでめり込んだらしい。
突然の急展開に茫然自失の少年は、脱力するあまり腕を下ろして、綿毛の束が再び開花した。
一拍おいて、ようやく憔悴した精神が安心に浸り、緩やかに飽和していく。
「え……あっ――これぞ飛ぶ鳥を落とす勢いってヤツだぜ!これだけの衝撃なら流石の奴も無事では済まないって……マァ!?」
どこかからメキメキと割れる木の悲鳴が届いた数秒後、反対側の木の幹から爆発を起こしたように破裂した。
そして、噴出する粉塵の中をドリル状の虹のベールを被った猛禽が、側転しながら巨大樹を抉り抜いて飛び出してきた。
「こいつ……虹を……纏っ――ッ」
あり得ない。その虹、そんな応用まで効くのかよ!?
理解の及ばぬ現象に思考を奪われた瞬間、迸る殺意が増大した。
呼応するかのように、何もなかった虚空に虹が出現するや否や、鳥と少年を繋げた。
視界が、虹色に染まる。
終わった――そう諦観せざるを得なかった。
壮大なる勇姿と絶大なる力を誇示しながら油断なく執拗に迫る猛禽を、しかし、壮麗な虹を纏う比類なき美しさに羨望の思いが小さく募る。
この世界にも少し興味が湧いてきたのにな。これで終わりか。でも、まぁいいか。こんなかっこいいのに殺されるなら、悪く無い。
万策尽きた少年は、少しの間を共にした綿毛と一緒に、潔く、運命を享受する気になった。
しかし、熾烈な加速で距離を殺した猛禽は、あと一歩の所で急停止、そして真上に急浮上した。
通常ではありえない変態軌道の飛行だったが、驚いたのはそれじゃない。
鋭利な爪で綿毛を掠め取っただけで、百戦錬磨の猛獣が無防備な獲物である少年をみすみす逃す愚行を犯した。
一秒にも満たない少年の動揺は、直ぐに吹き飛んだ。
雷に打たれたかのような、全身が砕けたとさえ思わせる衝撃が、痛烈に――
「ガッ――ハぁっ……!?痛っッッ!?一体っ、何がッ!?」
天と地を交互に回転させる小さな体は、水切りのように地面を跳ね回り、背中が急激に焼けた様に高熱を帯びる。
泣けなしの空気抵抗が慣性を衰えさせて、重力と摩擦が膨大な運動エネルギーをこそぎ落として削いでいく。
やがて減速し尽くして、はるか空の彼方から地上へと落下した少年は、平らな場所で這いつくばった。
周りでは石つぶてや木片が落ちて転がる音に埋もれながら、何とか這いずり、死に体ながらも辺りを確認する少年。
ぼやけた視界には、無色透明な硬い地面に、紫色の石柱の残骸が散らばっていた。
――あの……鉱物とぶつかったのか!?なのになぜ生きてる!?
背中を猛烈に強打して石柱を砕き破壊した衝撃が、全身に襲いかかり悶える少年は、痛みを忘れるほどに激昂した。
おいッ!前提を覆すなよッ!?あの高さから落ちたんだから死んどけ!……ってまだ!?鳥葬がッ!?
怒りに疑問と思うところは多々あるが、その他一切の思考を飲み込み、痙攣しながら猛禽の痕跡を探すも、満身創痍の少年には、奴の影も形も、羽ばたく音すら聞こえなかった。
風に揺れる葉擦れの音が頭上を満たして、部外者の浅はかをせせら笑う。
状況が指し示す、重く苦々しい解答に、絶望感に打ちひしがれる少年は臓腑が煮えくり返る心地だった。
ことここに至り、奴にとって森の中も空と同じ独壇場であると気づいた時には、遅かった。
幻獣が操る虹は、まるで蛇が纏わりつくように曲線を描き、主たる猛禽が少年の背後の大木から音も無く回り込み、死角から凶爪を繰り出してきた。
――ほんとに尽きたな。
空では落下速度で辛くも逃れられたが、地に落ちた人間には、もはやどうする事もできない。
手を尽くしてなお、死を目前にする少年は、乾ききった苦笑を漏らした。
あぁ、諦観はない、絶望もない。
あるのは、独りよがりな虚無感だけ。
――人生は、所詮、死までの暇つぶし。目的は達成された。もう十分なはずだ。
後悔……だってする間も無いくらい劇的だ。
短かったが、笑っていられたはずだ。
楽しかったはず。
なのに……どうして?
こんなに、悔しいんだろう――
――
――
――宙が落ちてきた
視野を埋め尽くす虚空の星々が、激流が如く荒々しさで突き抜ける。
星が流れる漆黒の天の川は、妖艶な輝きを魅せたのも束の間、夜が明けるように照りに透かされて消え去った。
事態を飲み込めず我を忘れる少年の身体に、安らかな風が吹く。
空気が大きく変化した。
殺伐とした雰囲気を一掃した星の奔流。
月を通した陽光が影を刺す。
空を覆っていた木々の枝葉が、バクンと無くなっていた。
辺りは厳かな静寂に包まれ、あの凶暴な猛禽の影も形もない。
解放された大気中にはきらきらと輝く微細な光の粒子が、まるで粉雪が舞い散るような幻想的な痕跡を残した。
夜空がこぼした涙の残滓と清廉さは、まるで白昼夢を見ているかのようで、事切れるように少年は腰を抜かした。
これは……夢か?現か?幻か?
すべてウソ偽りの方が楽だと思う間もなく、ふと、少年はある不自然さに気がついた。
自分の周りだけ、暗がりで満ちている。
二度目にもなるとすぐに理解した。
光を遮るは、ひとつの人影。
唐突に現れた頭上の暗闇は、やがて少年に重なり合うようにして、黒々と濃さを増していく。
あの鳥を追い払ったナニカが近づいて……来ている。
あれより強い奴を相手に、何をされても抵抗する術がない無防備同然の少年の心境は、刑の執行を待つ囚人に等しかった。
どうせなら、最後を見ておこう。
がむしゃら、やぶれかぶれ。何でもいいと無駄な警戒を解き、こびりつく恐怖を抱えながら振り返り、顔を見上げ――少年は見た。
まるで後光のように幻想的な、燦然と輝く七色の光輪が煌めいた壮麗な神秘を。
少しずつ舞い降りながら、太陽のような閃光が仄かに鎮まる兆しを見せて、本来の円の形の色鮮やかな輪の揺らめきから、厳かに覗かせた。
すらっとした綺麗な足先から伸びる白い脚、透明感のある雅で気品ある民族衣装に包まれた柔らかな体躯と細腰に、端麗な指先が儚げに現れる。
雫のような宝石をしつらえた豪奢な装飾に身を包む胸元、小柄で柔らかな体格を包む、きめ細やかな絹のローブが優美に靡く。
凛とした端正な顔立ち、艶のある肌、水晶のような絢爛な耳飾りが小さく揺れた。
清流の爽やかな浄気、清々しい風が吹いて。
しなやかな金色の前髪がふわりと浮かび上がり、氷のように透き通った青い左目を覗かせた。
それに輪をかけて異彩を放つ異質な右目。
それは歪なほど奇妙でいて、とても清澄な、七色を帯びた瞳と目が合った。
ドクンッ――
反射的で無意識だった
不意に生じた無性に叫び出したい感情の波動
酷く嗚咽してしまいそうな気持ちを抑えるので精一杯だった
鳴いた心
不自然なほど違和感もなく 陽炎のように 歪みが見える
彼は初めて、目が潤んでいる事に気がついた。
見目麗しい虹色の眼差しが、共に同じ視線を交差する。
重ね合わさる目線を望んで、惹きつけられた両者が互いに見つめ合う。
意思疎通が可能なのか?共有?
果たしてそれは、通じ合うと言えるのだろうか。
出会った人ならざるものを、鮮烈に魅入る。
宙に浮かぶ、人、いや、天使?何か特異な形をしている訳もない。
これは世界の記憶、埒外、始まりを告げる鐘、
頭が正常に働かないで迷走する少年は、総身に鳥肌が立ち小刻みに打ち震える。
過剰な高揚感で膨れ上がり、逆に、血の気が引く。立ちくらみに似た、平衡感覚が崩壊していく。
発露する魂の鼓動。
あまりの高揚で魂が焦がれていく。
鼓動する魂が高揚して、本能が蘇る。
命が収束して燃え上がり熱く焦がれていく
命が輝いている瞬間、世界の中心、
魂の根幹に衝動、信じられない、
虹色の目、
先ほどは不幸の前触れだった。
この虹は、幸か不幸か。
だが、違う、この目は無関係だ。
雷に撃たれたように、金縛りにでもなるように、身動き一つできない。
ただ焦点を彼女に合わせる事だけ。
あまりに衝撃的な印象は、神秘的とか、そんな言葉では語り尽くせない、感動、脳が沸騰するような、
枯れ果てた命が潤うように、世界の輪郭が、爆誕する感情によって、洗い流されていく。
伝わる情景の著しい影響で、目に映る情景以外の悉くが消失し、赤熱を帯びて脈動する血潮が、凍てつく身体を麻痺させていく。およそ言葉で表現しきれぬ暴威に少年は襲われた。
限りなく時間が圧縮されていく。まるで一瞬を永遠にまで引き伸ばされる感覚、または、全ての因果律が集約して丸く閉じていく狭心感が全身を駆け抜けた。
「な……ぁ……」
瞬きや呼吸も消えてなくなり、自分と彼女以外から色が失われ、世界から欠落したかのような静けさと虚無感、まるで二人だけの世界にまで狭まる。いや、自分という存在がまるで無いように。逆に、己の光のみ証明されている。ような気がしてならない。
我をも忘れて、見開いた眼は閉じられず、雷に打たれたような衝撃で脳裏を焼き焦がし、痙攣した肺からは掠れた声しか零れない。
この感覚はなんだ?
生き別れた大切な、遥か遠くからの邂逅。
そんな事はあり得ないのに、だ。
忘却された関心が彼女に宿るのだろうか?
それすら脳裏に過ぎるだけ。
言葉を無くす少年。
こころの源を、見つけた。
空っぽだった灰色に、沈む、静けさが、心が痛む、軋む、歯を食い縛り、意識が極まりを過ぎて砕けそうになる。
運命が傾きを帯びる 行く先を変えていく
思いが世界を創る 想いが人を形作る
思い出が世界に色付ける
今ここに世界が証明されている
失った光を、灯るように。心の拠り所が蘇ってくるようで。
激震する感情に揉まれながら、飛んでもない浮遊感に襲われて、少年は心を奪われた。
しなやかな髪を靡かせながら麗人の可憐な乙女が静かな着地を決めた。
悠然と歩み寄ってくる。じりじりと詰め寄ってくる。少年の方へとにじり寄ってくる。
重力を取り戻した髪のすだれに右目を隠した彼女は、見惚れる少年の方へと近づき、目の前まで来ると清らかな手を差し伸べてきた。
少年は驚きを隠せなかった。
「え、あ……」
考えるより先に、手を伸ばしていた事に。
二人の間で風が凪ぐ。
芳醇な香りが届く距離を詰めながら、彼女のきめ細やかな柔肌に触れた。
同時に、ブツッと鈍い音がした。
彼女の手首に糸で巻かれていた紐が、千切れて地に落ちた。
刹那の間に驚嘆する彼女の様子で察した少年は、我に返り、咄嗟に手を離そうとした。
だがしかし、彼女が強く握りしめたせいで、それは不可能だった。
「ぅわっ!?」
さらに、逆に彼女によって強引に引き寄せられた。
されるがままの少年の顔を、彼女は遠慮なく至近距離で覗き込んだ。
呼吸すれば息がかかり、少し動けば顔のどこかが触れてしまえる距離ともなると、流石に鼓動が高まった。
緊張が最高潮まで登り詰める。少年の逸る胸を早鐘が打つ。
近くで見ると、ことさら彼女はさらに美しかった。
美形、素敵、端整、いくら言葉を並べても表現しきれない端麗な顔立ちに、シミひとつない肌、黄金に煌めく長髪、絢爛な装飾品に勝る凛々しい佇まい。
そして一点の曇り無き眼差しこそは、澄み切り渡る一番星みたく美しかった。
その陽だまりのような可愛い笑顔で微笑んでくれるなら、きっと――
そのお淑やかで華やかな美貌に見惚れて没頭していた少年は、それはもう完全に油断していた。
ペロリ――
「ひゃあ!?な、なな、なななっ!?」
跳ねるように後ろに飛び上がり、勢いそのままに背中が障害物とぶつかった。
生暖かい湿り気を左頬に感じて、彼女に物理的に舐められたと理解した。
ピンク色の、艶めかしい舌を口内に収めた彼女は、恥じらう様子もなく、なおもじりじりと距離を詰められる。
退路を失い、完全に追い詰められた少年は、次は何をされるかと、緊張のボルテージが最大まで吊り上げられる。
そして彼女の口が小さく動くのを見た。
「あなたが…………殺してくれるの……?」
――空気が死んだ
透き通る素朴な声で――しかしあまりにも唐突で……
彼女の言葉はまるで意味が解らず、混迷を極めた少年が結果的に無反応を示したのは、無理からぬ事である。
それに対して彼女は、無表情のまま一歩後ろに退がり、そして踵を返して、振り返る事なく颯爽と立ち去ってしまった。
元の空気が息を吹き返すのに、十秒近く要した。
一輪の花とも言うべき、嬌や可愛らしさを持ちながら、母性とは違う温もりと儚さを見せた美女。
あまりにも苛烈な印象だけを残して、遠ざかり小さくなる華奢な背中を眺めながら、少年はひんやりとする頬を指でなぞる。
「……何が、どうして……こうなった?」
独り呟きながら、何はともあれ追うしか無いと即座に自解した少年は、複雑な感情を押し殺しながら、前を向いた。
そして、新たな一歩を踏み出した。