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玖話 孤独は常に人の性

 願いの残滓を平らげる神秘の樹。この異常な光景を前にして、なんとか少年は言葉を絞り出す。

「本来、これほどの聖域に余所者が踏み入って良いはずがないんだ。なのに……なんでだ?」

 世界中の願いの素が集まる神々しい空気に、思わず怖気が走る。

「鶴の一声でどうしてここまでできる?コルトは巫女姫より下なのに!?」

 一存の範囲があまりにも広くて深すぎる聖賢竜という未知に恐れひれ伏すでもなく、彼らカラフルが不服なく異議も申し立てず言いなりになっている事には、必ず理由がある。

 目の前の光景が凄い事に比例して、少年は聖賢竜コルトネリウスという存在にある種の恐怖すら抱いていた。

 するとリナは、遠くを眺めて少しした後、口を開いた。

「全滅してたんだ。コルトさんがいなければ……」

 細めたリナの瞳は遠い記憶を映し出しているのか、どこか憂いを帯びていた。

「呪鬼はね、前の神楽から生まれた(わざわ)い。無慈悲な虐殺、無力さの絶望――私達は、この世の理不尽を知った」

 願いの残滓たちの輝きに照らされたリナは、その表情に暗い影を落とす。

「でも、あれは失敗じゃないと言われて混乱した。でもコルトさんは続けた。大きな変化は小さく徐々に、しかし確実にやってくる。脅威が目に見えてから対策しても遅いって――だからせめて、犠牲は最小限にしたいんだよ」

 どんな悲劇にも光が差すと祈りを込めて、「ねぇ少年くん、なんで心は不幸を感じるんだろうね」見上げたリナの瞳の奥に、昏い希望が鈍く映った。


 丸くて白い円形状の大理石に似た物で作られた舞台に舞い降りた。

 この世界には基本的に石や土がない。しかし、ここには豊富にある。それだけでこの場所の特別さと希少性が知れた。 

 中央に(そび)え立つ光の結晶化したような無色透明な植物、世界樹の新芽。大きさからして、新芽が顔を出す程度だが、それでも数十メートルもの大樹で、カラフルに輝く植物は極めて独特で異様な神聖さと、同時に妙な不気味さも放っていた。


 リナは無言で感慨深く舞台を見つめていたが、やがて少年の隣に並んだ。


「少年くん、ここの事は他言無用だよ。いくらコルトさんの許可があっても、内心、あなたがここに来ることを……みんな――認めていないから」

 少年は人がいない事をいいことに、追って言及した。

「ふーん、じゃあ、みんなが認めたら……いいの?」

「それなら……いいと思うけど。私としては……あまり、話してほしくない……かな~」

「――ん。じゃあ言わないよ」

 ここに来てからリナは、らしくなかった。落ち着きがない事もそうだが、なにか、ひどく怯えているように見えた。

「ところで外縁の溝は何?客の侵入防止?」

 神楽の舞台をとり囲む客席との間にある謎の溝――立場や格式の違いを物理的に表現している様にしか、少年には見えなかった。

「あれは水路だよ。この一面に薄く水を引くとね、空を反射してこの世のものとは思えない絶景を映し出すの。わたしの一番好きな景色なんだ〜。見たことないけどね!」

「ないんかいっ!?なのに一番好きとは、これいかに?」

 少年の反応を面白おかしく笑うリナ。

「ある特別な日の下で行う神楽。巫女姫が踊り、聖なる灯から神が顕現して、ヒトガタっていう人の形を模した紙を捧げるの。その後は禍福のいずれかを賜るんだけど、前は悪い方を招き寄せてしまった。だから今度こそ」

 決意を新たにするリナに、少年は重ねて口を開く。

「なのにまたするの?犠牲を払っても懲りずに、まだ福が降りてくると信じる馬鹿がいるんだ?」

「うん。呪いの鬼がいたなら、救いの神さまだっていて欲しい。わたしは――そう思う」

 その眼差しは、遠い遥か彼方にあるモノを見た――少年にはそれがなんなのか、解らなかった。 


 するとリナは凛々しい姿から一変、頬を紅潮させ、モジモジと手を絡め始めた。

「だけど、あのね、ひとつ、問題があるの。神楽には神様役が必要なんだけど……えっとね、まだ、決まってないんだぁー」

 ここでやっと――あ〜、そうかなるほど。あの傀儡野郎め、拒否権すら与えないとは、食えん奴だ。と、少年はコルトの狙いを理解した。

「それでね、少年君に私の演舞を見て欲しいんだけど、神様役のイメージがどうしても欲しいの。教えるから、ちょこっとやってみてくれない……かな?」

 リナの嘆願を耳にして、笑みを浮かべる。

「いいよ。僕にできることなら任せとけっ!」


 少年の演舞は酷すぎた。

 飛んだり跳ねたりするだけでなく、宙に浮きながら舞を踊るのが筆舌に尽くし難いほど難しく、傍から見ればもだえ苦しんでいるようにしか見えなかった。

 飛扇にも乗れない男にとてもできるものじゃなく、その醜態を指導したリナが終始爆笑していた。

「はぁ……はぁ……あ~面白かった!こんなに笑ったのは久しぶりだよぉ~。クヒヒっ」

 なおも息絶え絶えなリナは、ニッコニコに笑いながら何とか言葉を絞り出していた。

「何にも面白くない!もう知らん――いますぐ帰るッ!」

 露骨に笑われたムカつきと不甲斐なさに、少年は子供みたいに拗ねてしまった。

「ごめん!でもまさかこんな下手っぴだとは……ブフっ!」

 ――……割とムカつく、少年が気分を害していじけていると、リナは息を整えて、両手でパンと顔を叩いた。

「よし……次はわたしの番だね!ありがと少年くん!休みながらよ〜く見ててね!」

 少年の無様な醜態でいつもの調子に戻ったリナは、舞台近くに備え付けられた世界樹の高台を登り始めた。


「いざ見ませい。奉納演舞――『神楽』」


 彼女の言葉が途絶えた途端――ピンと空気が張り詰める。

 瞬間、少年の湯立つ苛立ちが消え、あまねく全ての感情が唐突に囚われた。


 スッと――開かれたリナの視線に射抜かれ――ゾクッと心臓を掴まれたような切迫感を抱いた。

 リナは身を投げるように飛び降りると、床に衝突する寸前、落下速度を殺した。

 ゆっくりと落ちるこの葉が音もなく舞台へ着地して、まるでバレエのようなステップを刻み、片手で扇子を仰ぐと宙を舞い、その動きは生きる喜びを表現しているかのようで、この上ない自由を魅せつけた。

 愚者がのたうち回る無様さなど微塵もない。粗い動きの片鱗もこそぎ落とした精密さで指先の角度ひとつに気を配り、動静の切り替えが清廉された動きは、見惚れるほどの美しさだった。

 定められた形を正確になぞって足を捌き、飛んで回って手首を返し、不動のまま宙を舞う。

 時間が経つと舞いは更に苛烈を極めた。激しい動きをピタリと止めて、また動く。その所作の動静は静かに、かくて美しく、転じてこの世のものとは思えない、おどろおどろしい歪さを、情念の、震え上がる、強烈さを表した。

 しかし、そのままスッと消えてしまいそうな、言語化しきれない心細さを目の当たりにした。

 彼の目の前を通り過ぎる顔が、印象的で焼き付いた。


 泣いてる……


 リナの舞は完璧だった。それはずっと懸命に一人で頑張ってきた事の裏付けで、仕草の上手さだけで必死に訴えている気さえした。

 膨大な時間を捧げて成し遂げんとするリナの演舞を、カッと目を見開き、憑りつかれるように一瞬たりとも見逃さない少年。

 恐ろしいほど澄み切った清らかさ――純粋な心が見事に表現されている。

 糸で吊られるように少年の手が、人形師のリナを追ってひらり、所作に倣って返して上げて、また落とす。

 主人の意志を事細かに真似ていくと、何やら面白がって周囲に漂う魑魅魍魎が集まって、少年はさらに理念の深みへ誘われ覗き込む。


 きっと神楽をしたかったのだろう、犠牲者の御霊の鎮魂として――しなければならないのだろう、それが巫女姫に与えられた立場、使命として――ずっと、ひとり、ぼっち。

 かつて栄えた廃墟跡に祈る可憐な顔の影に、切ない寂しさがあった。

 みんなの生死を占う身に余る重責を背負っている巫女姫は、命を懸けて一心不乱に舞い踊り、その恐ろしい孤独に耐えている――醜さがあった。

 まるで焼き爛れるような思いだ。胸を潰すほどの虚しさだ。

 この無駄のない清廉された演技を支える孤独の深さは、悲しいほどに膨大だった。誰にも心から寄り添うことなく、普段の誰にでも優しい柔和な態度は、独りよがりな寂しさの裏返し。そんな彼女の生き方の結晶、努力の積み重ねが、

「美しい」

 口にした瞬間、胸の奥から苦いような鈍い感情がぶくぶくと沸いて出てくるようだった。


 リナの姿が少しずつ大きくなっていく。

 布の擦れる音、息遣いが耳に届く。

 いつの間にか、舞台に上がっていた忘我の少年は、没頭し夢中に舞い踊るリナと視線が交差する。

 驚いたリナは少し視線を揺らしたが、すぐに微笑を浮かべ、本番さながらに息を合わせて舞い踊る。

 漆黒の世界に靡く金色が織りなす情景が次第に同調し、二人の手が直に触れ合う温かな感触が、確かにここに居るという安心感へと変わり、二人はより強く思いを共有し通い合わせた。


 現か幻か、二人は舞台が遠くに感じた。それは雲よりもはるか天上の世界に――届くような――


 気がつくと、いつの間にか演舞は終わっていた。

 どれくらい長い沈黙だったか、荒々しい息が力尽きるように凪いだ頃、そっと添えられた手がようやく離れた。

 額の汗を拭うリナが隣にいて、とっても楽しそうな表情を浮かべていた。その瞳に、もう涙は残っていなかった。陶酔感を僅かに残して、弾むような笑い声がピッタリ重なった。

「見違えちゃうくらい上手かったね!すぐに合わせられるなんてビックリしちゃった!それで、どうだったかな?」

「うん!すごく良かった!勝手に体が動き出して、気づいたら踊り終わったくらいさ!」

 共感を分かち合う二人は同時に深く頷いた。汗だくで、自然に湧き上がる恍惚感に酔いしれて。

 

 艶やかに色香を放つリナは、扇子を仰ぎながらフェルネを肩に乗せた。

「汗かいちゃったね。ちょうどいいし少年くん、一緒に温泉入ろっか?」

「うん……うん?」

 ――今なんて言っ、いやこれはそういう意味では無いだろう……うん、問題ない。

 凝り固まった常識が足を引っ張ると学んでいた少年は、たかを括り、敢えて何もせずにいると、それを了承と受け取ったリナ。

「そうと決まれば!巫女姫専用のが下にあるんだ!ほんとはダメかもだけど、少年くんならいいでしょ」

「専用は~……ダメじゃね!?」

「わたしが良いと言ったらいいの!」

「職権濫用かよ!?」

 

 リナに手を引かれた少年は、世界樹の深層内部へと連行された。闇のような奈落の底へと続く通路は、ひとり歩ける程度の狭い細道で、上下の急勾配もあれば、足が滑りやすくなってしまうくらいに苔類がびっしり生えていた。

 そして外では珍しくはずの砂利や石ころが、幹の隙間や蔓の下の方に転がっていた。

「ここはやけに湿度が高いね。木の中に温泉があるのはなんで?」

「知らない〜。だってあるんだもん~」

 リナは少年の歩調を気にせずに慣れた足取りでささっと先へ進んだ。

「それにしても、中がすっからかんでよく生きていられるねぇ。この白い部分は死んで枯れているんだろう?」

 世界樹の最深部の中央は、巨大な空洞ができており、がらんどうだった。渓谷のような断崖絶壁が向かい側に見えて、コケが無い箇所は白い骨の様で表面はぺりぺりめくれるくらいに脆かった。

「形成に重要な部位は外側にあるから平気なんだ。この世界樹はね、生と死が共存してるの。神秘的だよね。積み重なった多くの死が朽ちて土台となり、また多くの生を支える。下を見てみて!」

 リナは白くなった木を、ただじっと見つめて撫でていた。

「なるほど。初代の黒い奴を苗床にしていたとはねェ~……ふ~ん」

 少年は身を乗り出して見下すと、暗闇からうっすらと白と対になる黒い世界樹が立っていた。カラフル達の住む巨大な世界樹は、死んだ初代の世界樹から萌芽した二代目だった。過去に咲き誇り栄華を極めた栄光も、あらゆる物を奪われて生命活動は終えているのに、死んだ黒い先代は、尚も少年へ向かって圧倒的な残り香を放っていた。


「あらぁ〜、本当に温泉があるとはねー」

「秘湯温泉ポイエイン。いいところでしょ~?」

 リナが小気味よく振り返った。

 大量の白い湯気がモクモクと立ち昇り、白濁色の温泉が湧いていた。足場は平らにされた世界樹の木材、周りは天然の岩で囲った露天風呂で、なんとも風情を感じさせた。

 天井に生えた光る苔と隅のキノコが二人の声に反応して、暖色系の明かりで照らす。

「こりゃあとてもいい穴場だね。湯加減もちょうどいい」 

「ここの温泉水はろ過して神楽の舞台を満たす時に使う神聖な水なんだ。さぁ、早速入りましょう」

「うん――で、男湯は?」

「そんなのないよ?」

「はェッ!?マジで混浴ぅ!?正気か!?一体何を考え――てない……のか」

 リナのきょとんとした様子から、間の抜けた疑いであることを少年は察した。

「急にどうしたの?早く入ろうよ!朝になる前に少しでも寝たいんだから」

「あの……えっと……ぐぅ……せ、せめて、脱衣所……は?」

「それはなんていう冗談なの?」

「ええええええェッ!?これ僕の頭がおかしいのか!?リナは恥ずかしくないのか!?」

「何か恥ずかしいの?」

「これが……異文化……交流!?」

 まさしくリナは対岸の火事。少年だけが命を懸けた最終決戦でもしているような空気だった。

「じゃあ少年くん!ここに立ってて下さい」

 リナは、何のためらいもなく前に出て、温泉の手前に来るように指した。

「え、あ〜もういい分かったから、せめて、自分のタイミングでさせてくれ!」

 心拍が急上昇して、手の震えを止めるので精一杯だった。この後どうすればいいのだろうか?これからどう接すればいいのだろうか?それは、その時の僕に任せようと現実逃避して、上着に手を掛けたその時である――。

「どりぁあぁっ!」

 迫り来る水面に、少年の間抜け面が浮かんだ。

 バッシャーン!

 跳ねる水飛沫。

 不意に息を吸い込んだおかげで、鼻と口に大量のお湯が入り、呑み込んだ少年が水面から飛び出した。

「ぶへぇァっ!?ごほっ……な、何をっ!?」

 そりゃ〜!!と、リナも続けて飛び込んできた。

「ぎゃあああ!?」

 ザッバァーン!

「あはははっ!湯加減はどうかな少年くん!ここはね、服を着たまま入るんだよ」

「えぇ!?……ぁ〜……ソウナンダー……」

 完全に虚をつかれた少年は、腑に落ちた後、急に冷静になったのち、とんでもない勘違いからの押し寄せる羞恥に言葉が固まった。

「んん?ん〜……んっ!?まさか……と思うけど少年くんさ、一糸まとわず、入ると思った?」

 挙動不審を訝しむリナの口撃を、しかし少年は華麗に躱わす――

「……イヤー……ソ、そンナわケな、なイじゃナイッすカー」

 ――……ことができたら、いいのになぁ〜と、少年は遠い目を向ける。

「あァっ~!?だからさっきから変な反応してたの!?んなわきゃないでしょ!?エッチ!スケベ!変態!」

 真相を知ったリナは、顔を真っ赤にして苛烈に貶め、大量のお湯をかけた。

「グぅッ、いやだって正確に言わないのが悪いんでしょうが!僕は悪くないぞ!」 

 遂に追い詰められた少年は、とうとう開き直った。

「そういうのはまた――別の話でしょ!?何考えてるのよ!?」

「リナが一緒に入ろうとしか言わないのがそもそもの間違いだろ!着衣で入るって最初に言えよ!誤解を招くとは考えなかったのか!ちゃんと相手の目線になって発言しないから、だからみんなに嫌われるんだよ!」

 明確な弱点を的確に指摘した口撃で、真っ赤になったリナもカンカンに怒鳴り声を上げる。

「あァ~ッ!!それは言っちゃいけないやつなのにィ~!?酷いよォ!そんな人だとは思わなかった!もう最悪ッ!こりゃ襲われたのも当然だよ!」

 リナは重力軽減でお湯の塊を投げつける。

「は?んだとぉッ!?リナって見かけによらず性根の腐った悪い子なんだねェ!」

 ひょいと避けつつ、少年は上着を脱いで投げつける。

「醜態と足を引っ張るだけが取り柄なんて、すごいね!君にしかできないよ!」

「あ〜こんなヤツだとは知らなかったわ~」

「お互い本性を知れてよかったねっ!」

「本当にね~」

 思いっきり叫び散らかす口喧嘩も収まり、お互い睨み合う二人。水滴が水面に落ちる音に混ざって、含み笑いが堪えられなくて、息が漏れる。

「……ぅ……ふふっ……ふふふふっ……」

「ぷ……あはははははっ!」

 何だか無性に可笑しくて、訳も分からず二人は馬鹿みたいに笑いあった。

「はあ〜……なんだかスッキリしちゃった!こんなに大きな声を人前で出したのも久しぶり~」

「そか。それは良かった……しかし気持ちいいな~ここ〜毎日来たいなぁ~」

「でしょ?叶うなら、みんなにも入ってほしいんだけどなぁ~」

 すっかり脱力したリナは、水面にぷかぷか浮いていた。

「あ、そうか。全身水浸しっていうのは、ここでは贅沢な嗜好品ってわけね。持って行けないのは戒律があるからか」

「そうだね。代々の巫女姫しか自由に使えない……けど、いつか変わってほしいな」


 それから温泉を満喫した後、二人は足湯みたいに並んで座った。

「ねえ少年くん……お願いがあるんだけど……神楽の……神様役……やってみない?」

 意を決したリナはようやく本題を打ち明けた。

「いいのか?余所者がそんな神聖な神事に紛れ込んでもさ」

「わたしの決定だから良いの!それにこの世界を作った神様もここ出身じゃないから、むしろ少年くんしかいないよ。このままじゃ……皆の期待に応えられない、だから――」

「お前はどうなんだ?」

 鋭利な口調に、一瞬だけ動揺の色が映り、リナは俯いた。水面に悲しそうな表情がゆらゆら揺れている。

 そして三角座りになって縮こまりながら、顔を隠した。

「わたしは……少年くんとが良い」

「分かった。やるよ!」

 顔を上げたリナは「やったァ!」と言って弾かれたように立ち上がると、また温泉の方へ向かった。

 ご機嫌なのだろう。重力軽減を使ってアメンボみたいに水面を飛び跳ねて、くるりと一回転していた。

 完全に自分の世界に入っているためか、少年の目など気にせず、腰を振りながら綺麗に踊るところを、少年は横目でちらりと盗み見ていた。

「――決めたァッ!」

 突然叫び声をあげたリナは、水面を滑ってくると、強引に少年の手を取った。

「うぉっ!?ななっなになァに!?どしたっ!?」


「エイン!――少年くんの名前だよ!」


 突如両目を輝かせ、突拍子無い事をこの娘は言い放つ――絶句する少年。

「えぇ……ちょっおま、急に、なんでどうしてそうなった!?」

「降りてきたの!これが良いって!」

「ポイはどしたの?」

「捨てたよ!」

「ポイ捨てよくない」

「いいの!言いやすいし、貴方の雰囲気にピッタリなんだもん!それに――」

 リナは、少年の手を引っ張り、共に水面に立ち上がった。

「それに……貴方のこと、いつまでも少年くんだなんて、無機質な名前で呼びたくないよ……」

 声に滲むリナの気持ちは、混ざり気のない本音だった。

「……ん〜、エイン――か……エインねェ」

「だめ?」

「いや、いいよ。わかった。……今から僕は――エインだ!よろしく!」


 事があろうがなかろうが、執拗に彼の名前を呼び続けたリナは、宿木の自宅に帰った途端に就寝した。

 新たにエインと名付けられた少年は、昨夜と同じく屋上のベンチに座り、名前の響きを確かめていた。

「エイン。意外と座りが良いけども……テトに負けたら二度と呼ばれなくなるんだよなぁ〜」

 今日一日について感慨に耽っていると、あの声が耳元で響いた。

「人類は二種類いるわ。家族も仲間も友も敵も味方も同じ。そんなに他人が大事かしら?エイン……だっけ?」

 天使であるユキちゃんが来るであろうことは予測済みで、エインは全く気にしなかった。

「リナはもう、他人じゃ無いよ。自分事だ」

 ユキは羽ばたきもせず飛び回り、目の前で静止した。

「あら?おかしな話、まるで彼女を理解していないのに?身の程知らずね」

「ん……それ、どういう意味?」

 前のめりになって聞くも、天使は避けるように飛び上がり、エインの手に届かない距離感でそっぽを向いた。

「さぁねェ〜?偽物には分からないわぁ」

「ゲげェっ!?ごめんなさい!悪気は無かったんですぅ!てかなんで知ってんの!?」

 躊躇いなく土下座して謝るエイン。

「聞こえるのよ、私への無礼はね。次はないから、気をつけなさい」

 このドエス堕天使と思いながら、エインは返事を返す。

「ははーっ本物の天使様!誠にありがとうございます〜!」

 平伏のポーズをしてご機嫌取りを行うと――首元に重量を感じた。

「孤独は常に人の(さが)。自分を完全に理解する他人なんていないわ。寂しいだなんて思っても言わないものよ。大人ならね」

「それは分かるよ。本気で困った時、頼れるのは自分だけだってことくらいさ」

「それにしても、道理というのは退屈ね。間違いもメリットがあれば推奨され、正しくとも不利益ならば捨てられる。正誤を気にするのは子供の発想、無垢な坊やにこの言葉を送りましょう。正しさで世界は回っていない」

 足を振る天使の踵が、首筋にツンツンと刺激を伝える。

「あの……意味が分からないんだけど……」

 天使の話は難しく、エインの頭では本筋がいまいち分からない。

「アンタは別にいいでしょうけどね、敗けたら娘はどうするつもりかしら?あの老婆の方が理解に務めているわね」

「――ッ!?」

 認識の甘さを痛感させられた。神前志合なんて負けても追い出されるだけだとしか考えていなかった。

「今から、出来ることはある?」

 瞬時に頭を切り替えたエインは、即座に聞いた。

「一人にしていないから役には立ってるわ。だけど、このままだと取り返しがつかなくなる。いい?夜の外出許可があるということは、宿木内のどこでも出入り自由という事よ。考えるべきは……何を正し何を間違うか――何を許せず何を許せるか……これでよくて?」

 軽い腰を上げたユキは、飛び上がると同時に姿をくらました。

「ユキちゃんありがとう!出かけてくるね!」

 エインはできるだけ音を立てずに階段を下りて、家の扉を静かに開けて外へ出た。

「負けられない、そっか!絶対に負けられなかったんだ!今、確実に起きてる人物は一人だけだ!先ず、兎にも角にも情報が足りない!今までの知識を総動員して勝算を立てなければ。僕の常識が通用しないなら逆も然りだ!手段など、選んでいる場合じゃない!」

 エインの胸をざわつかせる衝動もその身に背負う重圧もまた彼独りの物、ある場所に向かってただ一直線に走る少年は、真夜中の闇に消えていった。

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