零話 愛は与えるもの
逢魔が時――黄昏の不気味な薄暗さが禍いを予感させるとして、古来より恐れられていた。
伸びた影。
沈むように黒く染まりゆく少年は、夕陽を背にして佇んでいた。
山の麓を駆け抜ける風が、戦慄くように草木を揺らす。
荒廃したかつての田園風景に取り残された小さく寂れた公園に、突如、金属の擦れる音が響き渡る。
少年はふと顔を向けると、音の正体が真紅の光で煌々と照らし出されていた。
「ねぇ!ウチの話しちゃんと聞いてる!?お兄ちゃはどうやったら笑って死ねるのぉ!?」
小柄な少女が褪せた赤錆びのシーソーの真ん中で、凛とした声を張り上げる。
「いや、いきなりそんなこと言われてもな~……」
兄と呼ばれた眉を顰める少年は、まるで追求から逃げるように、離れた場所にある箱型の大きなブランコへと腰掛けて、目線を明後日の方へと泳がせる。
男の子にしては小柄な体格で、椅子に深く座ると爪先が足場につかず、前後へふらふらしている。
直後、荒々しい断末魔と共に、破片を飛び散らしたシーソーが真っ二つに断たれた。支柱は直角に曲がり、金属の板が草むらに横たわる。
強く足を踏み付けた衝撃で、脆くてか弱い遊具を破壊した少女は、妖艶な黒い長髪を靡かせながら、口を鋭く尖らせた。
「じゃあ!お兄ちゃは何が好きで楽しいの?何が嫌いで許せないの?失いたくない行動はないの?……ねぇ〜てばっ!」
言葉遣いに幼さを残す少女は、感情に任せた容赦ない怒涛の問いかけをする度に、ずんずん距離を詰めてきた。
期待を押し付ける妹の気迫に追い詰められた少年は、期待外れの末路をちらりと見やる。見るも無惨な残骸、選択次第で同じ路を辿るとすれば、有耶無耶にするわけにもいかず、どうすべきかと迷う内に、視線を彼方へと送った。
移りゆく光、空、風、音、温度などが、時の流れに従い自然と表情を変えていく。それを情報として受け取る五つの感覚に呼吸、動悸と過剰な場合は痛みを伴い、身の内に宿る生命の存在を確かにしている。
生き物にとって、それは当たり前であり疑いもしない。それが常識だからだ。
しかし、少年はある疑問をずっと胸に秘めていた。
なぜ物を組み込むだけで命が生まれ、心という自我に目覚めるのかと――
――ぼくには なにもない
無意味で無価値な灰色で、自分の事すら他人事だった。
生きる理由もなかったが、死ぬ勇気もなかった。
それでもどこかに求めるナニカがきっとあると信じて、最初こそ知ろうと試して思い通りにならず怒り狂い、最後には諦めてしまった。
夢や希望がなくたって、辛苦痛なく、無難で平穏な暮らしであれば、それ以上の高望みをする必要があるのか?
――虚空を眺める迷い人は、物思いに耽るかのように、しばし無言を貫いた。
渇いた風が前髪を揺らす。
突如、少年は呻き声を上げた。
遊具に預けた体が大きく揺れて、思わず手足に力が入る。
思考が途絶えた少年は、何が起きたかをすぐに悟った。つまり、妹が沈黙を破り、ブランコへ飛び乗ったのだ。是非を示さない曖昧な態度にしびれを切らして――
「もうっ!この手の答えに正しいも間違いもないの!人それぞれなんだから、お兄ちゃの思ったことを言えば良いのぉっ!」
捲し立てて声を轟かせた少女は、華奢な身体に似合わぬ強烈な威圧感を醸し出して、少年の隣りにちょこんと座った。
「なら、分からないというのがボクの答えさ。悪しからず。ところで、何で急にそんな事を聞くのさ?」
設問をどこ吹く風と受け流して座り直す兄へ向かって、小指を左右に振りながらチッチッと舌を鳴らした少女は、寄り添いながら悪戯げに微笑んだ。
「そりゃもちろん!生まれ変わっても一緒になる為よ!世界神様にそうして貰う予定なの!」
何を当たり前なことを聞いてるの?とでも言いたげな表情で、自信満々に堂々と胸を張る妹。
対照的な兄は神妙な面持ちで思案を巡らせる。
「変化を司る創世神話のデザイアか。たしか悔恨ある死者を使って何かを作らせるとか――褒美をちらつかせた悪どいやり方でね」
世界神デザイアとは、世界を創造した神の名前だ。
デザイアは変化そのものであると考えられており、宇宙に物や生命、時間や思想に至るまでもが変化する存在――概念も含め、万物の全てがデザイアであると同時に、彼の創造による産物なのである。
そんな変化の化身たるデザイアは、ただ一つ、持っていない物がある。
「其の望みは、不変――永遠を以ってして、変わらない不滅――」
「だが残念な事に、現状、人類が確認している唯一無二の不変は、変化という頓知の利いた答えだって訳だ」
ため息混じりに兄は答えた。
「変化は絶えず定型を持たない。だから、永劫に変わる自身とは異なる二つ目を作り出そうとしているって訳。使者を介した実験は、その探究ではないか?と言われてるの」
「でも、その説は早くも否定されていたはずだ――作られた時点で、それは不変では無いからね。ったく、なんて意地の悪い代償だ。そんなファンタジーが、本当にあんのっ――クァッ!?」
急に息を吹き返した箱型ブランコが、勢いよく傾いた。
慣性により転げ落ちかけた少年は、咄嗟に手すりに掴まり、なんとか歯を食いしばって必死に耐えた。
「あるよ!死してなお変わらぬ願い!それだけが人の持てる不変。その心ある限り――決して世界は揺るがないッ!」
兄の知らぬ間に背もたれに飛び乗る妹は、軽やかに箱型ブランコから降りた。
「ちょっま、危ないって!?」
「だからとびきりの思いでなくちゃあお話にならないわ。ウチには完璧な構想があるけど、問題はお兄ちゃよ。ウチが何とかしたげるから、ちゃっちゃと答えてよ」
得意げに話し終えた妹は、兄のいる降り口の方へ回り込んだ。
それを見守る少年は、何を言おうかと考えようとして……すぐやめた。
これまでに失敗した数々の経験談から察するに、これは当たり障りのない事を唱えると、陳腐だと一蹴されるか豪雨の様な激しい追及が降り注ぐパターンだと判った。
せめてもの対抗策は話を逸らすぐらいのものだが。
「ちなみに、その計画ってのは何さ?」
しかし、少年から出たのはそんな言葉だった。
――しまった!?
言った本人も驚くほど、無意識のうちに本音を漏らしてしまった。
待ってましたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべながら「聞きたい?」と、妹は兄の手を強く引いて連れ出した。
されるがまま無抵抗の少年は、自分より小さな背中を、ただじっと見つめていた。それはまるで慈しむように、切なげに憐れむように。
遠のく金属音と入れ替わるように、地べたに這いつくばる砂を踏み潰す音と静かにそっと踏み進める足音が、公園を横断した。
二人の足が止まったのは、朽ち果てた事で羽ばたくかのように生い茂る雑草に満ちた砂場だった。
遊び場としてはもう使えないような空間で、振り返った妹は両手を広げて空を見上げた。
一番星みたいな綺麗に輝くような瞳で、声高々に天にも届けと吼えながら、少女は謳う。
「マイミソロジー!!お兄ちゃへの愛ッ!!!!」
少女が焦がれる幻想は、驚く兄が言葉を返す前に、大気に溶けて虚空に消えた。
「ボクゥ!?いやいや!無理だ!無謀だ!そりゃ駄目だ!もっと別の、偉人や天才のが絶対に良っ――てェッ!?」
愚劣で珍妙な戯言に卒倒しかけた少年は、直後に仰天し、文句が途絶えた。
「良くないッ!他人の評価なんて知ったこっちゃないわ!」
兄に猛烈な突進を繰り出して砂場へ押し倒した妹は、煮え立つような怒りを露わに叫んだ。
「本気で自分がしたいことに、他人が介在する余地はないんだからッ!!!!」
髪を乱しながら臆面もなく心中を吐き出す妹は、その後、兄に縋り付くように強く、全身を使って強く抱きつくと、じっと目を閉じた。
「お兄ちゃは、ウチの全て。死ぬ時を選べたら……いまここで終わってもいい。ほんとに、そう思うんだよ?」
頬から零れ落ちた、ひと雫。
美しく整った顔を擦り付けながら、震える両手を握りしめて離さない。そんな健気な妹に、兄は手を差し伸べて穏やかに微笑する。
「……そっか。それは……嬉しいなぁ」
この為の砂場への誘導と知り、感情を爆発させながらも抜け目ない妹の有能さ、そして理屈ではない動機の乖離さに、不思議と思いながらもほくそ笑み、兄は手を伸ばした。
「でもボクは大人になった姿も見たいから、困ったちゃんだなぁ〜」
そっと優しく涙を拭われた妹は、それまでがぜんぶ演技だったかのように「そうなの!」と表情を一変させて立ち上がった。
兄を置いてけぼりにして走り出す妹は、急勾配の滑り台を駆け上がり、一番上の更に上、手すりを足場にした規格外の高さまで、登り詰めた。
「だからウチらの本物の愛を見せつけてやるのっ!」
夕日に染まる桜花爛漫の散り様が、黒く長い髪を靡かせた妹を優雅に彩る。
「本物……ねェ。真偽なんてボクには分からないけど……」
「見て!あの犬と飼い主が模範解答の一つよ」
静観な視線の先、轍が通った遠くの山道を歩く犬と婆さんを指し示す。
「飼い主は無償で世話をして犬は別離するまで共に生きる。いい?愛とは与えるものなの!大人にもなってそんなことすら分からないなら、受精卵からやり直した方がいいわ!」
上から言い放つ妹の言葉に、胸を締め付ける後ろめたさを抱く兄が静かに立ち上がる。
「て……手厳しいな。それじゃあ何も与えられない僕は、頑張らないといけないね」
「なんで?お兄ちゃはウチにいっぱい与えてくれたじゃないの!誰にも否定なんかさせないよ?」
たとえ夜のとばりにその身が葬られようと、綻ぶような燦然と眩しい微笑みはーー
「それがお兄ちゃでも……ねっ!」
決して褪せることのない鮮やかな色を放つ。
だが、瞳の奥には、煮えたぎる執念を燃やしている。理想や悲願を抱き、本気で信念を貫く希望の灯火。
それは志高く、如何なる手段もどんな犠牲も厭わぬという昏い覚悟と、差し違えても、世界を滅ぼしても構わないという狂気を孕んでいた。
あまりに強く、目を閉じてしまいたくなる。
自分とは違う心の有り様に、少年は儚く焦がれる憧憬を見た。
かつて、反応すら示さなかった少女はどこまでも虚無で、少年の取り付く島もない程だった。
全てを拒絶する感情は、果てしなく深い底に沈殿して横たわっていたのに。それが今では這い上がって、瞬く間に追い越され、こんなにも豊かな表情を見せてくれる妹の変化が、もう、どうしようもなく嬉しかったのだ。
その変化は兄のせいだと彼女は言う。
彼は知っていた。妹は兄に嘘を言わない。
この身に余る誇りは、同時に地盤を高める重積の自負になっていた。
「それで、お兄ちゃは?」
滑り台から軽々飛び降りて、着地した拍子に捲り上がったシャツの下、下腹部にある縦に伸びた一筋の手術痕が露わになった。
細目で見つめる兄の葛藤など知る由もない妹は、夕日を背にして距離を詰める。
緋色に浮かぶ月の裏側のように、逆光から映る少女の表情は、兄にしか見せない顔で、ソレを訊ねた。
「なにを……ねがうの?」
ドクンッ――
後光が差し込む神々しい姿を見て、鋭い痛みが少年の心に深く突き刺さる。
願いなんて……こんな穢れた手で掴めるものなんて――
諦観に沈む少年は、ふと……言葉が浮かんだ。
「……ぁ……旅かなぁ〜」
絞り出した呻き声に、「えっ!?普通じゃん!?」と、驚きの声を上げた少女はいつものように噛み付いてきた。
「いろんな景色を見ながら食べ歩きしてさ、移動中ふたりしてウトウト寝過ごして手を繋いで来た道を戻るのも悪くないさ。ご不満?」
「ん~ん、それもいいけどぉ、違うのぉ!そういう事じゃないのぉ!まただよ!嘘じゃないけど本当の事も言わないお兄ちゃの悪い癖!一生に一度の願い事なの!もう、ちゃんと答えてよぉ!」
全身を揺さぶられながら笑って誤魔化す少年に一度は不貞腐れるものの、「ふぅ」と一息ついて切り替えが早い少女は颯爽と踵を返す。
「でもまっ、確かに悪くないわ。旅は人生と似てるもの。どこの誰でも生きた結果は死ぬしかない。大切なのはそこに至るまでの過程をいかに彩り、人生の終わりに納得するか」
妹はしゃがみ込むと、草葉の陰から何かを拾い上げて、こちらへ投げつけてきた。
「虚構主義の人類は、ふわっとしたカタチない物を希う傾向があるの。幸せもまた幻想のひとつ。ほら、机の上に置けないでしょう?」
コツンと少年に当たってぶつかり、力なく地べたに転がり落ちたそれは、かつて生きていた物だった。
「人は夢を見たいのよ。望みの形は色々あるけど、お兄ちゃは、何をして見たいの?」
また独特な軌道で投げてきたなぁと苦笑する少年は、動かなくなった物を見つめた――脱皮に失敗したのか、羽が折れて飛び立てず、成虫になれずに死んだ蝉。
その黄緑色の未熟さと、空を目指すも至れなかった結末を。
願いと聞けば、金持ちとか平穏な暮らし、華々しい偉業や幸せな人生、あるいは最強とか不老不死なんかを思い浮かべることだろう――即ち、満ち足りた人生を。
だが、いま求められている答えは具体的な方法手段なのだろうと理解していた少年は、逆に、何を失いたくないのか?と問いかけた。
すると、ごく自然に妹を見つめていた。
この小さくて尊い命の結末を知らずして終わるのは?あの遺骸と同じ運命を許せるのか?
ありえん。それだけは何がなんでも嫌だった。
そう思えた事に安堵すると、少年の心はざわつく奇妙な興奮を覚えた。
胸を焼く悔恨の埋み火で総身が震える、そのひとことを。
喉まで出かかったその言葉を、彼は反射的に飲み込んだ。
激痛が、亡骸を持つ手から走った。
すぐに幻覚だと少年は気づいたが、これが意味するのは警告か、それともこれから辿る運命の予兆か。
鈍い焦燥に駆られながらも、少年は、それでもと血の滲む思いで歯を食いしばる。
ここじゃない、どこか遠くへ旅立てば、何か変わるのかもしれない。
だけど、だとしても……ボクは……
「……ぁ……ぇ……」
――その時、無機質な電子音が短く鳴った。
少年のポケットから聞こえた震えに二人が意識を向けると、それはピタリと止んだ。
無情の着信が何を意味するかを知っている二人は、徐に……沈鬱に俯いた。
「……時間だ。戻ろ?」
死体を埋めた少年は、妹の前に寄り添うと、腰を落として少女と同じ目線になって語りかけた。
「ぃや……いやあ、ここがウチの帰る場所なの!」
俯いて表情は分からないが、頭を左右に勢いよく振った拍子の揺れる髪が、少女の頬を勢いよく打ち付ける。
「ほら、我がまま言わないで、行くよ!」
心を鬼にした少年は、拒絶する妹を置いて行こうと背を向けたが、妹は従わず兄の方へ両手を広げて静止した。
そのまま微動だにせず、頑として動こうとしない。
「……まだまだ、甘ちゃんだね」
観念して振り返った少年は、飛び跳ねて抱っこを催促する妹に破顔した。心に滲む恥ずかしさを押し殺し、少年は妹を優しく迎え入れた。
「よいっしょっ……ととっ!?」
抱きしめる少女は昔よりずっと重かった。
その確かな成長の証を喜ばしく思う少年は、直後、鋭い痛みが腹部に走り、不覚にも僅かに体勢を崩す。
抜け目ない少女は、その一瞬を見逃してくれることはなかった。
「……やっぱり降りる。降ろして!はやくっ!」
強引に降りると、すかさず少年の脇に滑り込み、無理矢理肩を貸し付けてきた。
「今日はこうやって、くっついて帰るのっ!」
「わかったよ」
二人は隙間を僅かでも埋めるように密着して、仲良しな兄妹は、小さな公園を後にした。
すっかり冷たくなった手を大事にぎゅっと握りしめながら抱えた妹は、「ねっ!」と言い、覗き込むように首を傾げた。
「なぁに?」と応じる兄は覗き込むように首を傾げる。
「大好きだよお兄ちゃ!死がウチらを繋いだら――また逢おうね!」
にっこりと、楽しく晴れやかな顔だった。
太陽と月がしだいに離れ離れになり、寄り添った影が、闇夜に染められ消えていく。
はやく来いと、忍び寄る日の終わり。
立ち止まりたい弱音を、引き返したい泣き言も飲み込んで、逆方向へ逃げ出したい気持ちを押し殺す苦しみの中で、生の実感を見る為に一歩、また一歩と踏み出す。
沈黙の中、桜並木の帰路に行く。
筆舌に尽くし難い沈痛な憂鬱をもたげて、戻らぬであろう道を、兄妹は歩き続けた。
いつの間に拾った小枝をぶんぶんと振り回し、楽しそうに笑う少女のもう一方の手を、ぎゅっと握りしめる少年は、もうずっと無表情のままだった。
応えぬまま聞き捨ててしまった斬鬼が、少年の心をじゅくじゅくかき乱す。
小さな肩から伝わる仄かな温もりは、優しくも燻る疑いを囁き、慈しみと共にこの身に熱く溶け込んでいく。
それはまるで、何かを必死に訴えているかのようで……いつまでも、焼き付いて離れなかった。