第78話 老師の手紙
中庭に吹き込む夜風が、戦いの熱を冷ますように肌を撫でていく。
線香の香りと血の匂いが混じる空気の中、宇軒は深く息を吐いた。
ふと、足元に小さな影があることに気付く。
石畳の上、月光に照らされているのは、古びた巾着袋だった。戦いの最中には気が付かなかったが、老師の懐から落ちたものだろう。
「……これは」
しゃがみ込み、そっと拾い上げる。手にした瞬間、ずしりとした重みが伝わってきた。
口紐を解くと、包み紙にくるまれた一通の手紙と、掌ほどの大きさの八角形のフレームに囲われた円形の鏡が現れる。
鏡の裏には八卦の文様が刻まれ、縁には細かい呪が彫り込まれていた。——宝具、八卦鏡。
宇軒は無言でそれを見つめる。隣にいた心玥も覗き込み、小さく息を呑んだ。
「……師匠のもの、ですよね」
うなずき、手紙を取り上げる。封はされておらず、今にも語りかけてくるように紙の端がわずかに揺れた。
宇軒は手紙を広げる。紙には達筆な文字が並び、その筆跡は見慣れた師のものだった。
「——この手紙を読んでおるということは、ワシはもう人の形をしておらんのじゃろうな。調査の結果と、この様になった経緯を書き記しておく」
冒頭の一行を目で追った瞬間、視界が揺らぎ、宇軒の意識は言葉の中へと引き込まれていく。
*
湿った岩肌を伝う水滴が、かすかな音を立てて落ちていく。灯した護札の光に照らされ、周囲の空間が浮かび上がる。
地牢第五層——切り立った岩の柱が果てしなく立ち並ぶ、小さな武陵源のような異様な景色。
その岩と岩の間を、陳老師は静かに進んでいた。
道を阻む気配が、前方から近づいてくる。——闇の中から一人の男が現れた。
背は高く、顔色は死人のように青白い。しかしその目には、かつて戦場で見た燃えるような光が宿っている。
烈 克碼——金闕派の筆頭道士であり、陳が若き日に全力で倒したはずの宿敵。
「……まさか、生きておったとはのう」
陳の声は低く、しかし驚きと警戒が入り混じっていた。
「生きてなどおらん。だが、死んでもおらん」
烈は薄く笑い、爪をゆっくりと見せつける。
「キサマへの怨念だけで復活を果たしたのだ。感謝しておるぞ」
かつての金闕派——政治家や軍人を殭屍化し、影から国を支配しようとした過激な集団。
若き陳の手でその野望は潰え、烈も命を落としたはずだった。
だが目の前の男は、死の間際に己へ術を施し、殭屍となった肉体をなお自らの道士術で操るという、常軌を逸した方法で蘇っていた。
地下深く、湿った空気の中で、二人の視線が絡み合う。
過去と現在が交錯し、次の瞬間には——烈の姿が霧のように掻き消えた。
視界の端から鋭い爪が閃き、陳老師は紙一重で身を捻ってかわす。
そのまま懐から取り出した札を投げ放つと、烈は爪でそれを切り裂き、嘲るように笑った。
「ほう……衰えておらぬな、陳」
「お主もな。……まさか屍と会話できるとは思わなんだぞ」
烈は地を蹴り、岩柱の側面を駆け上がる。
その爪は岩をも削り取り、破片が雨のように降り注ぐ。
陳は足場を変え、背後の岩から岩へと飛び移りながら、八卦の構えで迎え撃つ。
——札が空を舞う。
——烈の蹴りが岩を粉砕する。
紙と爪、法力と膂力が激しくぶつかり合い、岩の回廊に衝撃音が反響した。
烈はキョンシーの肉体を最大限に酷使し、限界を超えた動きを見せる。
さらに、生前鍛え上げた功夫の型がその動きに組み込まれ、獣と人との中間のような恐るべき戦闘力を生み出していた。
「ふはははは!! 老いるどころか——あの頃より更に力をつけておるか!!」
烈は斬撃を受け止めながら、歓喜に満ちた声を上げる。
しかし、陳老師の目は鋭く、その動きは一分の無駄もない。
戦いの合間、彼はわずかに懐から小袋を取り出し、足元に白い粒をばら撒いていた。
——もち米。キョンシーの動きを鈍らせる、古来よりの弱点。
烈が次の一歩を踏み出した瞬間、その足がもつれる。
その刹那、初手で烈に初手を組み交わした際に背後の岩壁に貼っておいた札が、陳の印に応じて光を放った。
光の鎖が烈の四肢を縛り、あと一歩で祓い終える——その段階まで追い詰める。
「これで終いじゃ、烈」
どこか寂しげに呟き、陳老師はゆっくりと歩み寄った。その瞬間だった。
「いや!!! こないで……! 誰か、助けて……!」
張り詰めた空気を破るように、甲高い少女の悲鳴が岩柱の谷間に響き渡った。
陳老師の動きが、反射的に止まる。
声の方向に目を向ければ、岩の陰に若い娘が背を押し付け、怯えた瞳でこちらを見つめていた。
その前には、数体の殭屍が爪を振り上げて迫っている。
——ここは地牢だ。偶然一般人が迷い込むなど、常識的にはあり得ない。
それでも、道士として培ってきた正義感と習性が、陳の体を動かしていた。
烈を祓う寸前だった足を止め、陳は少女の方へと振り返る。
その瞬間、背後で空気が裂ける音が響いた。
ブスリ、と鈍い感触が背を貫く。
烈の長く鋭い爪が、陳の背中から胸へと突き抜けていた。
「はははは!! キサマは老いても女には弱いのう! ジン、イザベル、協力感謝するぞ」
烈が勝ち誇った笑みを浮かべ、爪を引き抜く。
陳はよろめきつつも距離を取った。とっさに急所を外し、傷は見た目よりは浅いが——殭屍の爪で刻まれた一撃は、ゆっくりと体を蝕んでいく毒を孕んでいる。
烈の背後、切り立った岩の上に人影が現れる。
薄笑いを浮かべた長身の男——ジン。
「キャハハハハ! マジ鼻の下伸ばしてキモいんですけど?」
さきほどまで襲われていたはずの少女が、今度は涼しい顔で笑っていた。
「安心せい。お嬢ちゃんはワシの守備範囲外じゃ」
陳は背筋を伸ばし、少女——イザベルを頭から爪先まで眺める。
「ふむ……少なくとも、あと五年はかかるかのう?」
「はァ!? どこ見てんだよジジイ! マジキモい!!」
イザベルの罵倒にも、陳は口元を緩める。
「ほっほっほ。……お嬢ちゃん。あまり無理をするでないぞ」
「!?」
一瞬、イザベルの笑顔が硬直する。
何かを見透かされたかのような感覚が、彼女の胸をわずかにざわつかせた。
その間に、陳は烈へと向き直る。
「烈よ。……認めよう。ワシの負けじゃ」
「——だが、お主の思い通りにはならんぞ」
陳老師はそう言い放つと、懐から一枚の札を取り出し、烈の顔目掛けて投げつけた。
烈が反射的に腕をかざすと同時に、札が炸裂し、閃光と衝撃波が岩場を包む。
その一瞬の目くらましを利用し、陳は身を翻して岩柱の影へと駆け込んだ。
「ふはははは!! 無駄だ、無駄だよ、陳! もって数時間だ! その間で何がなせる!?」
背後から響く烈の嘲笑が、暗い谷間に木霊する。
息を整えながら、陳は岩陰を伝って進む。
背の痛みはまだ鈍いが、爪の毒がじわじわと広がり、手足の感覚を奪っていくのが分かる。
後方からは、烈の仲間であろうジンとイザベルの気配が、距離を保ちながらついてきていた。
(……おそらく、ワシがキョンシーと化す瞬間を見届けるつもりじゃろうな)
脳裏に弟子たちの顔が浮かぶ。
このままでは、自分は間違いなく彼らの前に現れることになる——敵として。
陳は小さく息を吐き、腰の巾着を探る。そこには、書きかけの手紙と八卦鏡が入っていた。
*
「宇軒、心玥。
この手紙を読んでいるということは、見事ワシを討ち果たしたのじゃな。さすがはワシの弟子たちじゃ。
よくやった。
これから各地で反撃に出ておる者たちもおるじゃろう。連携し、奴らの野望を阻止するのじゃ。
大丈夫じゃ。お主たちなら、必ずどんな困難にも打ち勝てる。
最後に、小心。
免許皆伝の祝として、この八卦鏡を渡すつもりでおった。これからの戦いに役立つであろう。
小心。何事も、楽しんでやりなさい。楽しむことで、思わぬ力が発揮されるものじゃ」
筆跡は、そこで途切れていた。
宇軒は、ゆっくりと手紙をたたみ、膝の上で両手を組んだ。
その横顔を、心玥は黙って見つめている。
月明かりに照らされた八卦鏡が、二人の間で静かに光を返していた。
「……師匠は、最後まで師匠のままだった」
宇軒の声は、低く、しかし揺るぎなかった。
八卦鏡を手に取った心玥は、頷き唇を引き結ぶ。
「……師匠も、一緒に戦ってくれてたんだと思います」
心玥は八卦鏡を両手で包み込み、目を閉じた。
二人は立ち上がり、納棺された師が眠る本殿の方へ向き直る。
「師よ——託されたこの鏡と教え、必ず未来へ繋ぎます」
第77話で第1章は終わりと書いていましたが、エピローグを忘れてました。
こちらで終わりです。
引き続きよろしくお願いします。




