第77話 師弟対決
影がひとつ、門を飛び越えた。
月光を背に、しなやかな弧を描いて境内に降り立つ人影。
陳老師。だがその顔に人の温もりはなく、白く濁った瞳と蒼白な肌の殭屍だった。
踏み込む足は迷いなく、朱の柱と石畳を渡って本殿の中央へ進む。宇軒は一瞬、思考を巡らせる。
(門内には結界が張ってあるはずだ。まさか……)
脳裏に、ひとつの答えが浮かぶ。
——殭屍と化しても、老師はかつて道士としての資格を持っていた。その霊的な性質が、結界の侵入制限をすり抜けさせたのではないか。
老師殭屍がこちらへと向かってくる。今はそれ以上考えている場合ではなさそうだ。
宇軒は一歩前に出て、月光に照らされた師の姿をまっすぐに見据える。
「今度は、間違えません。――老爷爷」
宇軒は即座に頭の中で戦況を描く。
——道士としての純粋な実力差は、歴然。正面から斬り伏せることなど到底できない。ならば勝ち筋は一つ。殭屍である弱点を突き、額に札を貼って封じること。それしか、二人が生き残る道はない。
宇軒が覚悟を決め、思考をめぐらしている間も、心玥の涙は止まらなかった。
(老師……どうして……)
足が石畳に縫い付けられたように動かない。彼女の指先は札を握ったまま、わずかに震えていた。
「……構えるんだ、小心」
老師殭屍と対峙し、背中越しに宇軒が短くそう告げた——その瞬間、老師の身体が音もなく弾かれた矢のように動いた。
普通の殭屍のようなぎこちなさは微塵もない。流れるような踏み込み、腰の捻りから繰り出される功夫の突き。それは彼らが修行時代に幾度となく目にした——人としての頂点、陳老師の技。殭屍と化した今でも、速度も力も圧倒的だった。
(殭屍は目が見えていないというのに……さすがは老師です)
宇軒は桃剣を構え、迫る一撃を受け止める。
衝撃が腕から肩へ、そして骨の芯まで突き抜けた。
(……やはり、力も速さも別格。倒すことは叶わない——封印しかない)
背後の心玥はまだ一歩も動けずにいた。廟の軒先に吊るされた灯籠が揺れ、彼女の影だけが震えている。
老師殭屍の踏み込みは、獲物を狩る虎のそれだった。
その瞬間、空気が裂けるような音とともに、低い突きが宇軒の腹を狙う。
桃剣で受け流すが、力の重さに足元の石畳が軋み、背後の柱へと押し込まれる。
「くっ……!」
宇軒は即座に反撃、斜め上からの袈裟斬り。
だが老師はほんの半歩だけ引いて刃を躱し、逆に足首へ低い回し蹴りを放つ。
重い衝撃が脛を打ち、宇軒の視界が一瞬ぐらつく。
このままではまずい——。
宇軒は瞬時に判断し、背後の石灯籠を蹴って高く跳び上がった。
月明かりを踏みしめるように廟の屋根へ着地する。
その音に反応した老師殭屍も、しなやかな跳躍で屋根へと躍り上がってきた。
屋根へと上がろうと飛び上がったその頭上へ、宇軒合わせるように桃剣を斬り下ろす。
だが——その動きすら老師は見切っていた。片手で宇軒の袖を掴み、勢いを利用して弟子の身体を軸に回転。
空中で体勢を崩された宇軒の背へ、手刀を容赦なく叩き込む。
息を詰まらせる衝撃。
受け身を取る暇もなく、宇軒の身体は石畳へと叩きつけられた。
重い音とともに近くの大香炉が倒れ、線香の灰が宙に舞い上がる。
廟の屋根の上、月を背にした老師殭屍は、まだまだだと言わんばかりに、苦痛に顔を歪めながら立ち上がる宇軒を悠然と見下ろしていた。
宇軒が立ち上がるのに合わせて、老師殭屍はその胸元へと飛び込む。
(駄目だ、札を取り出す間合いがない……!)
宇軒は焦りを抑え、攻撃を受け流しながら僅かな間隙を探す。
しかし、老師の連撃は止まらない。拳打、肘打ち、掌底、足刀——どれも弟子の頃に幾度となく叩き込まれた型だ。だが今は、その速さも重さも倍加している。宇軒が弟子として離れた後も老師は研鑽を積み重ね、さらに殭屍となった肉体が、その力を極限まで引き出しているのだろう。
休まることのない連撃に宇軒は廟の塀際まで追い込まれるが、塀を蹴って宙返りし、その背後へ回り込む。
しかし老師は振り返らず、宇軒の攻撃に合わせるよう肘を突き出して迎撃。その肘が宇軒の顎をかすめ、頬に焼けるような痛みが走る。
「ユウ兄さん!」
心玥が叫ぶが、その足はまだ一歩も前へ出ていない。
目の前で繰り広げられる師と兄弟子の死闘——その迫力に、恐怖と迷いが交互に胸を締めつける。
老師は振り返ると間合いを詰め、渾身の掌打を宇軒の胸元に叩き込もうとする。
宇軒は辛うじて両腕で受け止めたが、その衝撃に膝が沈み、足元の石畳がひび割れた。
(——くっ、押し切られる!)
圧倒的な攻防の中で、封印を狙うどころか、一撃で沈められかねない状況。
師の技を知っているはずの宇軒ですら、一切の隙を作れないまま追い詰められていく——。
宇軒は、背中を柱に預けたまま浅く息を吐いた。
老師殭屍の掌打を受けた胸が、まだ熱く焼けている。
視界の端で、心玥は札を握ったまま立ち尽くしていた。
(動けない……どうして……)
足先から膝までが鉛のように重い。頭では助けなければと思うのに、身体が拒む。
——そのとき、不意に胸の奥に声が蘇った。
『札は紙だが、心を載せりゃ刃にも盾にもなる。紙を信じられんのなら、お前は道士じゃなく紙売りじゃ』
かつての修行の日々。札術がうまくいかず裏庭で落ち込んでいた所へ、老師が突然現れたかと思えば、次の瞬間には線香の煙で鼻をくすぐり、『ほれ、笑ってみい。笑顔の方が札は効くもんじゃぞ』と、子どもじみた笑みを浮かべていたあの日。
師はいつもふざけていた。
修行中、わざと札を取り違えて爆音札を貼らせ、驚く弟子たちの顔を見て「おお、元気が出たな」と笑った。
だが、その笑いの奥にはいつも、弟子を愛する揺るぎない温もりがあった。
(……そうだ。老師の教えは私の中で生きているんだ)
胸の奥で、迷いを焼き尽くすような熱が広がる。
「ユウ兄さん!」
心玥が声とともに、宇軒の横へと並び立つ。その瞳にはもう怯えはなかった。
「すみません……私も戦います!」
宇軒は構えたまま短く頷く。
「……私の方で隙を作ります。天元仙桃剣——秘技を使う」
その一言で、妹弟子は自分の役割を悟る。
秘技——霊力を一気に解放し、攻め込む宇軒の奥の手。
老師相手では、せいぜい一瞬の隙を作るのが限界だろう。しかも再び放つには時間がかかる、一度きりの勝負。
「……わかりました。その隙をついて——封印の札を、老師の額に貼ります」
心玥は札を構え、深く息を吸い込む。胸の奥に残る老師の笑顔と教えが、押し寄せる恐怖を静かに押し流していった。
廟の空気が張り詰めた。
宇軒は桃剣を肩口に構え、心玥は札を握りしめて低く腰を落とす。
中庭の石畳を、老師殭屍が無言で踏みしめ、一歩ずつ間合いを詰めてくる。
まず、宇軒が正面から踏み込む。
桃剣の斜め斬りを、老師は片腕で受け流し、即座に肘打ちで反撃。
その瞬間、宇軒と同時に動いた心玥が、背後の壁面を蹴って一気に老師の背後へ回り込む。
挟み込むように放った蹴り——だが、老師殭屍は宇軒に向けていた腕を微動だにさせぬまま、逆の手を振り返るように伸ばし、その蹴りを鮮やかに受け止めた。
「はっ!」
宇軒が低く跳び込み、足元を狙って横薙ぎに振るう。
老師は最小限の動きでそれをかわし、回し蹴りで二人まとめて反撃した。
受け流しながらも衝撃に押され、二人は庭の端まで後退する。
その勢いの中で、宇軒は足元の石畳の瓦礫を拾い、手にした瓦礫を老師と左手側の塀へ同時に投げ放った。
老師は自らに向かう瓦礫を即座に弾き飛ばす——だが、塀に叩きつけられた瓦礫の音が、視覚を持たぬ老師殭屍の感覚を鋭く引き寄せる。
——その一瞬を狙い、銭剣を構えた心玥が老師殭屍へと迫る。
足音を殺し、低く滑り込むように背後へ回り込む——しかし、老師はその気配を嗅ぎ取り、後ろ回し蹴りで迎え撃った。
心玥は即座に地を蹴って跳び上がり、庭の端の石灯籠を足場に回転。着地と同時に距離を取り直す。
「くっ……さすが老師……!」
宇軒は剣を構え直し、息を合わせるように合図を送る。
二人は同時に動き出した。
宇軒は正面から突きを連打し、心玥は梁を伝って上方へ回り込み、足刀で頭部を狙って急降下する。
老師は右腕で突きをさばきつつ、頭上からの蹴りを左手で受け止めた——だが、その瞬間、わずかに重心が後ろへ傾く。
「今!」
宇軒が渾身の踏み込みとともに桃剣を振り下ろす。
刃が老師の袖を裂き、梁を踏み砕くほどの衝撃が走った。
その一瞬の揺らぎを逃さず、心玥は交戦の最中に密かに仕掛けていた護札を起動させる。
——パアンッ。
破裂音とともに護札が光を放ち、老師の足元から淡い金色の陣が広がった。
陣の縁を走る文様が空気を震わせ、老師殭屍の動きが一瞬だけ鈍る。
踏み込んでいた足が半歩だけ止まり、腕の振りも僅かに遅れる。
その刹那、宇軒は低く息を吐き、足元から霊力を引き上げる。
「——天元仙桃剣・霊破ッ!」
振りかぶった桃剣の光が刃全体を駆け抜け、空気が唸りを上げる。
踏み込みと同時に、地を割るほどの衝撃を伴って斬撃が放たれた。
老師は真剣白刃取りのようにその刃を受け止める——だが、霊力の奔流が全身を包み込み、動きを封じる。
それは、弟子として何百回も見てきた構えの中には決して存在しなかった“空白”だった。
宇軒が剣を振り下ろす瞬間、老師の足元へと体を沈めていた心玥。
その指に挟んだ『勅命陏身保命』の札が、月明かりを受けて金色の光を帯びる。
——タンッ。
額に貼り付けた瞬間、札が乾いた音を立てて輝き、廟全体に低く重い振動が広がった。
老師の身体が、まるで刃を深々と受けたかのように硬直する。
もし、老師が師のままであったなら——この勝負に勝つことは叶わなかっただろう。だが、殭屍と化したことで生じたわずかな弱点を突き、封じることができた。
それは、老師が弟子たちに教え続けてきた「敵を知り、勝ち筋を見出せ」という教えの具現でもあった。
ゆえにこの勝利は、宇軒と心玥の二人だけのものではない。
師と弟子、三人で掴んだ——師弟最後の勝利だった。
封印された老師は、本殿手前の通路中央で、両手を前に突き出したまま静止していた。その額の札が淡く金色に光り、静まり返った廟内に線香の香りだけが漂っている。
桃剣を構えたまま、宇軒は真っ直ぐに師を見据える。
「……陳老師、今まで——ありがとうございました」
心玥も震える声で続ける。
「老師……教えてくれたこと、忘れません」
返事はない。
ただ、封印された老師は表情を変えず、静かにそこに立ち尽くすだけだった。
廟の中に、張り詰めていた霊気がふっと解けた。
線香の香りと、夜の風だけが残る。
宇軒は剣を下ろし、深く一礼した。
心玥も隣に並び、同じように頭を垂れる。
長年受けた教えと、弟子として過ごした日々——その重みが胸に溢れ、言葉にはならなかった。
やがて宇軒は、本殿脇に置かれていた古びた棺へと目を向けた。
漆は剥げ、装飾もところどころ欠けている。葬儀用に作られたものだが、何年も使われずに埃をかぶっていた。
ありあわせではあるが、今はこれしかない。
札のコントロール下にあるとはいえ、殭屍と化した老師をこのまま放置するわけにはいかない。
正しく埋葬の段取りを整えるまで安置するため——二人は本殿脇に置かれていた古びた棺を中央へと引きずり出した。
宇軒が妹弟子に短く告げる。
「……心玥、頼む」
心玥は頷き、印を組む。
指先が結ぶ印の形に呼応するように、老師殭屍の額の札が淡く輝いた。
札が貼られた老師殭屍は、操り人形のように跳ねながら棺の方へ進む。
ぎこちないながらも、まっすぐに近づき——ゆっくりと棺の中へ身体を収めた。
静かに横たわった老師の顔は覆わず、その額の札が誰の目にも見えるようにしておく。
宇軒と心玥は視線を交わし、同時に棺の蓋へ手をかけた。
「老師、安らかにお眠りください」
重い蓋が閉じられる音が本殿に響き、再び静寂が訪れる。
——そのとき、廟の隅に集まっていた市民たちが、恐る恐る顔を覗かせた。激しい戦いの音に耐えきれず、何人かが本殿の前まで来てしまったのだ。
「……あれ、お前たちの師匠じゃないのか」
「あの姿……やられちまったのか……?」
「おい、化け物をそのままにしておいて大丈夫なのかよ」
ざわめきが、湿った空気のように本殿全体に広がっていく。
結界の内側——しかも市民の避難所である本殿に、殭屍が棺に収められているという事実は、彼らの胸に冷たい棘のような不安を植えつけた。
宇軒と心玥は、封印してあることや、これは正しい埋葬のための一時的な安置であると説明する。
だが、市民たちの表情から不安が消えることはない。むしろその目には、じわじわと疑念と苛立ちが混じり始めていた。
——香港の夜明けは、まだ遠い。
第2部第1章はこれにて完結です。
ここから香港ではいくつかの展開がありますが、第2章は時間を第1部最終章まで進めて執筆する予定です。
引き続き、よろしくお願いいたします。




