第76話 老爷爷
目の前に立つ、魂を失った師の姿――その絶望的な光景を前に、宇軒の思考は、遠い過去の記憶へと引き戻されていた。
宇軒は、湖南省西部の貧しい農家に生まれた。祖父母と母との四人暮らしは決して豊かではなかったが、集落の人々の温かな支えの中で、穏やかな日々を過ごしていた。
その日常が崩れたのは、祖父が亡くなった日だった。
貧しいながらも、祖母と母はなんとか埋葬の形を整えた。だが、祖父の死を受け入れられなかった幼い宇軒は、寂しさに耐えきれなかった。夜更けに皆が眠った後、もう一度だけ会いたい一心で、そっと棺に近づき――その蓋に、小さな手をかけてしまったのだ。
――それが、取り返しのつかない過ちだった。
埋葬の手順を乱し、死者の安息を妨げたことで、祖父の亡骸は「理」の外へと堕ちてしまった。
明け方、祖母と母の悲鳴が響き渡り、宇軒は目を覚ました。家を襲ったのは、硬直した身体で跳ねる、殭屍と化した祖父だった。視界の端では、血まみれで動かぬ祖母と母の姿。迫り来る祖父に、幼い宇軒は恐怖で足がすくみ、動けなかった。
祖父だったものが、生気のない瞳で彼を捉え、鉤爪のような指をゆっくりと伸ばしてくる。
――もう駄目だ、と死を覚悟したその瞬間。
家の戸が蹴破られ、一人の老人が風のように飛び込んできた。その手にした拂塵が一閃すると、殭屍は見えない壁に弾かれたように吹き飛ばされる。老人は宇軒を背にかばうと、懐から取り出した護符を寸分違わず殭屍の額へと叩きつけた。
それから、祖父だけでなく、祖母と母までもを失い、天涯孤独となった宇軒を、陳老師は弟子として引き取った。
「すまない。殭屍が生み出されてしまったのは、ワシら道士の力が足りなかったからじゃ。お前の愛が、お前の家族を奪ったのではない」
そう言って頭を撫でてくれた師の温もりを、宇軒は今もはっきりと覚えている。
その日から彼は、誰にも自分と同じ悲しみを味わわせないため、そして二度と過ちを繰り返さないために、修行に明け暮れた。
力をつけるたびに、宇軒は、師の偉大さをより深く理解していった。
普段の飄々とした姿からは想像もできないが、老師はかつて武芸において無類の強さを誇り、若き日には各地の道場に試合を挑む、相当な荒くれ者だったという。数多の死線を超え、やがて敵対する道士一派「金闕派」との千年にわたる因縁に、ただ一人で終止符を打った。
その過酷な戦いの日々の中で、老師は三十代にして「到達者」――いわゆる《《レベル上限》》に達した。道士の歴史を遡っても、到達者は指で数えるほどしかおらず、しかもその速さにおいては類を見ない。
それでも、老師は鍛錬を止めなかった。
老齢を迎え、宇軒を弟子に取った後も、それは変わらず続けられていた。
ある朝、いつもの鍛錬を終えた後、宇軒はふと、陳老師に尋ねたことがある。
「老師。なぜ、到達者となられてもなお、厳しい鍛錬を続けられるのですか」
老師は孔子の言葉を引用して、静かに答えた。
「『学は及ばざるが如くせよ。猶之を失わんことを恐れよ』。……道とは、そういうものじゃよ、宇軒」
――常に道の先を歩き、その背中で道を切り開いてくれた師。
宇軒にとって、陳老師は第二の祖父であり、人生そのものだった。
その、絶対的な存在が、今、目の前に敵として立ちはだかっている。
現実に引き戻された宇軒は、血が滲むほどに己の拳を握りしめた。
師を失った。いや、目の前にいるというのに、その魂はすでに失われている。かつて祖父をキョンシーにしてしまった時と同じ、無力な自分を、再び目の当たりにしただけだ。何が変わったというのか――怒りが、腹の底からこみ上げてくる。
ふと、隣に立つ妹弟子の姿が目に入った。心玥は青ざめた顔で体を震わせ、静かに涙を流していた。
その姿を見て、宇軒は自らを叱咤する。
(違う。私はもう、無力な子供ではない。――私は道士だ。目の前にいるのは、もはや師ではない。陳老師の亡骸を弄ぶ、一体の殭屍。これを祓うことこそが、弟子である私に残された、最後の務めだ)
悲しみも、迷いも、全てを振り切るように。
宇軒は桃剣を構え直し、その思いを声にした。
かつて祖父にしてやれなかった後悔と、師への限りない敬意を込めて――
「今度は、間違えません。――老爷爷」
それは、彼が師を「第二の祖父」として慕っていた証であり、訣別の言葉だった。




